自宅や学校からもっとも近いのは「楠早原(くすさわら)」という駅だったが、そこから各駅停車に乗ると、五分ほどで二駅離れた坂瑞口(さかみずぐち)駅へいくことができる。 徒歩では遠いが電車では近すぎる──そんな微妙な距離感の街が、この「坂瑞口(さかみずぐち)」という場所だった。 坂瑞口(さかみずぐち)に着くと、あかりは買ったばかりの切符を改札に入れ、周囲を歩くお年寄りや中高生にまじって、駅前のバスロータリーへと歩いた。 駅周辺の様子は、地元の「楠早原(くすさわら)」とたいして変わらなかった。古びた小規模のショッピングモールにバスロータリー、いくつかのクリニックや塾があり、少し遠くには住宅街がみえる。右をみても、左をみても、家はある。それこそ、めまいがしそうなくらいにたくさんある。 あかりは少し考えて、ひとまず友人のナミの家とは逆方向をめざした。少なくとも、彼女の家の近所ということはないだろう。 そうして地図もなく、手がかりもないまま、あかりは二十分ほど知らない街をうろついた。だが、当然ながら神崎の家はみつけられなかった。 自分は何をやっているんだろう、とあかりは虚しくなった。母に黙って遠出して、ルリを共犯に巻きこんでまで、いったい何をしようとしているのだろう。神崎遠也とは顔見知りになっただけで、別に友達でもなんでもないのに。 もう帰ろう。そう思い、もときた道を戻ろうとしたそのときだった。 「この看板、はげてきたね」 「古いからねえ。こんなに薄いんじゃ、読めやしないよ」 何気なく声のするほうに視線をやると、すぐそばを歩いていた老夫婦が、古びた住宅地図の看板を指さして会話していた。老夫婦が去ったあと、あかりはその地図に近づき、そこに記された名前をみてみた。 「神、崎……」 そこには「神崎」の二文字があった。しかも、現在地のすぐそばだった。地図のとおりに歩いてみると、そこにはたしかに、同じ名前の表札をだした家があった。クリーム色の壁に黄土色の切妻屋根がのっている、二階建ての家だった。門のそばから玄関まで、色とりどりのポピーやガーベラ、チューリップなどの花が植えられている。 あかりは、門の前に立ち、しばし考えをめぐらせた。ここが神崎遠也の家である保証はない。しかし、ほかにそれらしき家はみつかっていない。いちかばちか、ここに紙を投函しておこうか。しかし、もしこれがよその家だった場合、あかりはただの不審者になってしまう。だが、ここまできて手ぶらで帰るのも悔しい。どうすべきだろうか…… 「うちになんか用?」 いきなり背後から声がしたので、あかりは飛びあがった。ふりかえると、そこには前びらきの学ランを着た男性がいた。背丈や声の低さからして、高校生くらいだろう。きっと、この家の主に違いない。 「ごめんなさい、違うんです、あの」 あかりは怯えながらも、なんとかその場を取り繕おうと努めた。ところが、相手はあかりの姿をじろじろ観察すると、急に合点がいったように顔をほころばせた。 「ああ。もしかして、遠也(とおや)の友達?」 「えっ!?」 その言葉から、あかりはこの家が正解であったことを直感した。が、質問にはどう答えていいかわからなかった。どうしようもなく曖昧に言葉を濁すと、男性はそれを肯定と受けとったようで、勝手に話を進めはじめた。 「めずらしいなあ、遠也を訪ねてくる子がいるなんて。けど、残念だな。あいつ、今は……」 そのとき、暴力的な轟音とともに玄関のドアがひらき、血相を変えた女性が門まで勢いよく駆けてきた。 「遥(はるか)、帰ったの!? あの子はみつかった?」 「いや。帰る途中に探してみたけど、いなかった」 「どうしましょう。やっぱり警察を呼ぶべきかしら」 「まだ早いだろ。それに、もう熱はひいたんだろ? きっと、遊びたくて外へでたんだよ」 「だめよ、外遊びなんて。あの子は弱いから、すぐにまた身体を壊しちゃうわ」 「大丈夫だろ。母さんはいちいち心配しすぎなんだよ」 「でも!」 女性はしばらく高校生といいあらそっていたが、やがてあかりの存在に気がつくと、ぴたりと喋るのをやめ、いぶかしげにあかりの顔をまじまじとみた。 「あなたは?」 「遠也の友達だってさ」 「ええっ! わざわざお見舞いにきてくれたの?」 男性から「友達」という言葉がでるやいなや、女性はぱっと顔を輝かせ、すばやく体当たりで門をあけると、こちらへきて、うやうやしくあかりの両手をとった。その笑顔は、不気味なほど優しかった。 「嬉しいわ! あの子は人見知りだから、あまりお友達がいないのよ。でも、とても優しい、いい子なの。どうか、遠也となかよくしてね」 その口ぶりからして、この人物は神崎の母なのだろう。あかりはぞっとしてあとずさった。自分は単なるクラスメイトだ。勝手にそんな重荷を背負わされてはたまらない。そういうやっかいごとは、ルリひとりだけで充分だった。しかし、神崎の母はがっしりとあかりの右手を握って離さず、名前、学年、クラス、その他いろいろな個人情報について矢継ぎ早に質問してきた。あかりがひきつった笑顔でそれらに答えると、彼女はようやく手を離し、そして、申し訳なさそうに眉尻をさげた。 「せっかくきてくれたのに、ごめんなさいね。じつは今、遠也はいないのよ」 「あいつ、またいなくなったんだ。目を離すとすぐ逃げるんだよ」 横から男性が口を挟んできた。彼はいったい何者なのだろう。あかりが困惑ぎみにそれを尋ねると、男性は「ああ」と思いだしたように笑って、次のように自己紹介をした。 「俺は遥(はるか)。遠也の兄貴だよ。せっかくきてくれたのにごめんな」 「いえ、大丈夫です。たいした用事じゃないですし」 いいながら、あかりの足はすでに逃げる準備をはじめていた。とにかく、こんな息苦しい場所に拘束されつづけるのには我慢ならなかった。 「待って、少しあがっていかない? 遠也ならすぐ連れてくるから」 遠ざかろうとするあかりの動きを察知したのか、神崎の母はふたたびあかりを捕まえようとした。あかりは俊敏な動きでその手をよけて距離をとり、なんとか笑顔を保ったまま、嫌味のない明るさでこう答え、一目散に逃げだした。 「急いでいるので大丈夫です。お邪魔しました」 もう二度とこの場所にはこないでおこう。あかりは心の中でそう誓いながら、全速力で駅めがけて走った。 ところが、あまりに急いでいたために、どこかで道を間違えていたらしい。気づくと、あかりは知らない道の、知らない公園の入口に立っていた。 このあたりの道はそれほど複雑ではない。きた道をもどっていけば、問題なく帰宅はできるだろう。しかし、あかりはそうしなかった。公園の人影の中に、ある人物をみつけたからだ。 「あれって、もしかして」 ボール遊びや縄跳びをする子供たちの奥で、誰かがベンチに腰かけていた。その顔は間違いなく、昨日まで教室でみていた、神崎遠也の横顔だった。その手には、小型のゲーム機が握られている。家を留守にしていた彼は、こんなところで油を売っていたのだ。 声をかけるべきなのだろうか。あかりは迷った。声をかけたところで、何になるのだろう。そもそも、勝手に家まで押しかけたうえ、学校の外で突然話しかけるなんて、いくらなんでも不審者じみている。おそらく、このまま知らんぷりをして帰ったほうが賢明なのだろう。だが、そうすると、これまでの頑張りはすべて水の泡となってしまう。 長い間思案したあげく、あかりは思いきってベンチへと歩を進めた。 近づいてくる気配を察知したのか、神崎はすぐに顔をあげた。そして、あかりの顔をみると、目をまるくして、無言のまま、眼前の光景をたしかめるかのように、なんどもまばたきをくりかえした。 「『片町さん』?」 これは、あかりへの呼びかけではない。どちらかというと、ここにいる人物が「片町燈(あかり)」であることの確認に近かった。 あかりが黙ってうなずくと、神崎はぎりっと眉をつりあげ、こちらを睨みあげてきた。それは、明らかに警戒を示していた。 「何の用」 「神崎くんを探していたの」 あかりは覚悟を決め、できるだけ平静を装って口火を切った。ここまできたら、もう最後までやりきるしかない。 「今日、休みだったでしょ。だから、明日のことを伝えておこうと思って」 あかりは神崎のこわばった顔から目をそらしつつ、なんとか明日のサプライズの件を手短に伝えた。そのままその場を去ろうとすると、神崎は「待って」と声をあげ、ベンチから立ちあがった。あいかわらず表情は厳しかったが、さっきまでとは違い、その瞳には困惑の色が浮かんでいた。 「それ、僕に伝えにきたの? どうしてわざわざ?」 「別に。知らなかったら、きっと明日大変だろうと思ったから」 あかりはもう、気まずさと恥ずかしさで顔から火がでそうだった。そして、そのまま神崎が呼びとめるのも聞かず、公園の外へと走りだしてしまった。