日録Blog

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今の方が映像辛い

[ 2021/03/11 21時 雑記 ]

 あの日私は自室のベッドの上で、携帯(ガラケー)いじってた。
 6弱だか5強の揺れにビビりすぎて、布団被って丸くなってた。「早く終われ早く終われ!」「俺つぶれて死ぬのかな? それとも薪ストーブあるから焼け死ぬのかな? 焼けるのは苦しそうだな」って考えてた。外でばあちゃんが「〇〇(私の名前)ちゃん! 〇〇ちゃん!」ってずっと叫んでた。

追記は長い。


 一番大きな揺れがおさまった時、ようやく2階から降りれた。もし家が潰れて全焼だと笑えないので、必死に薪ストーブの空気孔閉めようとしたんだけど、ネジ式のヤツがギッチリ開けられていて、全然閉まらんのね。やっている間ずっと揺れてた。

 そうこうしているうちにまた揺れが大きくなってきて、慌てて家から出た。電線ビュンビュン聞こえるし、地面が気持ち悪いぐらい動くんだよね。2回目の大きな揺れの後は、ずっと震度5弱以下みたいなのが断続的に続いた感じだった。休む暇がない感じ。頑張って薪ストーブの空気孔閉めた後は、俺は震えて家に入れなかった。

 母が当番から慌てて帰ってきて「あっ、酒粕!」って、ひっくり返っていた作ったばかりの酒粕を片付けていた。
 もうそんときの自分の行動力のなさが恨めしかった。今なら慣れた?ので動けるけど、あの時はラジオ抱えて丸くなって座ってただけだった。

 もちろん停電で、情報の頼りはラジオだけ。石油ストーブがあったので寒さはまだ大丈夫だった。
 夜はキャンドルナイト! 両親が当時結婚式でもらった、1メートルくらいの馬鹿デカイロウソクつけてました。揺れるたびに消すんだけどな! 食料も米ならある(キリッ)、最終奥義は発電機(混合油)なので、1週間は頑張れるってな。そういう覚悟してました。まあ東北電力さんが超絶頑張ったんですけど(3日で復旧) ありがてぇ…、

 これで分かる通り、沿岸の情報が全くと言っていいほどなかった。テレビ中継観ていた人の方が詳しいと思う。ラジオで「〇〇市壊滅」って流れて、実感がわかなかった。
「高田(陸前高田)はやべぇだろうな」「釜石はどうなっただろう」「真冬や夏じゃなくて良かったね」って会話したのを覚えている。

 あと1週間、免許筆記試験受けるの遅かったら、私も津波にあっていたんだろう。ドライブついでに乗せてくれていた両親もどうなってたか分からなかったんだろうなって。

 10年前より今の方が辛く感じる。映像は見れない訳じゃないけど、あまり見たくない。でも海は好き。泳げないけど(小声)
 思い出や命が消えていくのは本当に辛い。やっぱ年やな。

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(2017.5が最古)