熾火(2年春)

熾火(2年春)

一目ぼれって信じてなくて。ビビッとくるなんて都市伝説だろうと思ってる。
だってそれってその人の第一印象だけで判断しているじゃない?
圧倒的な顔のパーツとうわべだけの気遣い。雰囲気なんて所詮おまけだ。
それだけでどうして自分と合うなんて思うのだろう。
付き合う事は、時間を割く事。好きになる事は、自分を見せる事。
だからどうしたって慎重にならざるを得ないと思っていた。


「俺はみょうじ」


ドアに掛けた手が止まった。
横にスライドする教室のドア。手をかけて力を入れて、少し開いたその隙間。
誰もいないはずの放課後の教室から聞こえた声と、隙間から見えたその姿に文字通り、硬直した。


「みょうじってこのクラスのみょうじなまえ?」
「お前なんか交流あったっけ?」
「うんにゃ、そういうわけじゃないんだけど」


数人の男子が窓際に固まって話をしている。
クラスメイトの姿は見えるけれど、知らない人も何人かいて。だけど特徴のある癖っ毛、その喋り方でひとりの見当はついてしまった。
校内でも屈指の有名人、クラスが違ってもすぐにわかる。


菊丸英二。ここ青春学園男子テニス部。
そのルックスと人懐っこいオーラは女の子の的、同い年だけじゃなくて先輩からも後輩からも人気がある。
クラスも委員会も勿論部活も違う私が菊丸英二というひとを知っているのは彼がひとえに有名だからに他ならない。
だからこそ、私は彼を知っていてもその逆なんてありっこない。なのに聞こえたのは確かに私の名前。
名前を知られていたことにも驚きなのに、そのあとの男子の言葉に固まった。




「菊丸ってああいうのが好みなんだな」



……好みって、なんだっけ?
フリーズした思考回路に、忘れ物を取りに来たはずの足が完全に止まった。
ドアを閉めよう。そしてまたあとで教室に戻ってくればいい。図書室でも部室でもどこでもいいから早く立ち去ろう。
どんな話の流れかわからないけれど、これじゃあ盗み聞きだ。



「別に悪くないとは思うけど…お前ならもっと上狙えるんじゃねーの?」
「っつか菊丸この間、先輩に告られてたじゃん、あれどうしたんだよ」
「あー…断った」
「もったいねえ!なんでだよ!」
「俺、もう決めてんだ」
「何を!」


もう一度手を扉に伸ばして静かにスライドさせる。
幸いこっちに気づいてない。だから知らなかったフリ。聞かなかったことにしてしまおう。
ゆっくりゆっくり動かしたドア。


……そのまま閉めれば何もなかったかもしれない。
私は彼にとって本当にただの同じ学校の女子Aで在ったかもしれない。
だけど。
閉まる直前、ふっと視線をあげたのに特別な意図なんてない。無意識に、本当に。


スローモーションのように瞬きして上げた視線。
びりびりと音が鳴りそうなほど絡まって離れない。
アーモンド形の瞳がじっと捉えて。
息がとまる。


はじめてこんなに真正面から菊丸をみたかもしれない。
目があったのも初めてで、菊丸英二というひとをこんな風に見つめたのも初めて。
窓を背に机に座るそのひとは視線をそのままに言う。



「みょうじがいい。というより、あの子じゃないとイヤだ」


心臓が鷲掴みにされたように大きく音を立てた。
勢いよく身を引いて扉から遠ざかる。
音を立ててしまった。だけど、ほとんど閉まったドアから私がここにいたことはきっとわからない。
菊丸以外は、誰にもわからない。





菊丸が視界から見えなくなって、声も聞こえなくなる。だけど、走るのはやめなかった。
どくどく心臓が音を立てる。
顔が熱い。
目を閉じて大きく深呼吸しても、消えない、あの目が消えない。