食み行く月蝕(3年秋)
「もう、だめかもしれない」
眉を下げたアンタをずっと待ってたと口に出したらこの人は軽蔑するだろうか。
無理に笑おうとしているその姿を、震える肩を、今度は俺が支えてもいいだろうか。
「どうしてこんなにうまくいかないんだろう」
立てた膝と乗せた肘、その上の頬、夕陽に染まって流れる髪。
その表情は歪んでいて、目の端には涙だって見えるけれど、それと正反対。
テニスの時とは違う。それでもそれに負けず劣らずの高揚感が全身を巡る。
「やっぱり住む世界が違ったみたい」
「世界」
「そう。凡人には眩しすぎるんだよ。あの人も…越前も。」
立つ俺と座る先輩。位置上、見上げる姿は意図せずとも上目づかい。
この人は、俺が今何を考えているか知らない。
いい相談相手?生意気な後輩?そんなの意味がない。
それ以上の、何よりも誰よりも、空気みたいな。いないと生きていけないような。
もっともっと大切な存在になりたい。
「俺?」
「越前も。私なんかが近付いちゃいけない世界の人なんだ」
「なんで」
折れそうな手首を掴んだ。
片手でもあまるその細さにぞくっとした。
「なんでって…」
デカイ目。涙の膜が張って潤んでるそれが大きく見開かれる。
この人本当に俺より上?疑わしくなるほどのその保護欲に、俺の腕は勝手に反応した。
背の高さは俺と変わらなくて悔しいけど、それでもこの年になれば圧倒的に力の差の優劣は出る。
少し力を入れて引っ張れば、体勢を崩した先輩は簡単に俺のほうへと体勢を崩す。
「な…に」
「アンタはさ」
いかにも『緊張してます』の態度に少しだけ驚いた。
英二先輩はこんなに強引じゃなかった?
ああ、あの人は抱き寄せるよりも抱きつく側か。
「アンタは俺を何だと思ってるわけ?」
英二先輩と同じ?遠い?
何が?
「何って…英二の、」
「俺、ただの後輩でいるつもりないけど」
「それってどういう」
なんて鈍いのか、それともそういう振りをしているのか、わからないけれど。
ここまで待った。ずっとまった。
アンタに触れる英二先輩をずっと見てきたから。
だから、今、今このチャンスを逃さずしていつ勝負を仕掛ける?
触れた唇は塩の味がした。
そう言えばさっきまで泣いてたんだっけ、と思ってゆっくり唇を離す。
「こういう意味」
「……っ!」
勢いよく俺の胸を押す両手を逆に引き寄せて。
腰を引き寄せてもっともっと距離を近付けると、先輩の髪が頬に触れた。
シャンプーの匂いがする。
「離して」
「ヤダ」
「っ離して、越前!」
顰められた眉。
少し赤い頬。
涙目で睨んで、誰がこの手を離す?
ずっと待ったんだ。
氷帝の誰かじゃないけれど、英二先輩相手に正当法で奪えるような人じゃない。
隙ができたらなんて悠長な事は言わない。どうやって隙を作るか。俺がどう入り込むか。
今を逃していつこの人を手に入れる?
「住む世界が違うとか、何それ」
「……越前にはわかんない」
「だから何が」
「普通じゃない人に普通の人の気持ちなんて分かんない!」
どん、と。
先程より強く押されて、腕が離れた。
「私、最低でしょ?」
泣きながら笑おうとする。
その唇が震えていて、ただ触れたいと思う。
「英二の事も、越前の事も、羨ましくて仕方ないの」
「羨ましい?」
「私には何もないから。テニスの才能も、人目を引く容姿も、人を引き付けるものが、なにもない」
勝手に羨んで、勝手に妬んで、最低。
そう言いながら涙を落とすアンタだから。誰かが見ていないと危なくて仕方ない気がして。
「へえ、じゃあ、アンタに惹かれた俺は何?」
世話を焼くタイプじゃない。寧ろ焼かれるほうが似合ってる。
依存されるのは好きじゃない。束縛されるのは辟易する。
だけど、この人になら。
俺だけをその目に映して、俺だけの声を聞けばいい。
捕まえたら絶対に離さない。
「そういう冗談、今はやめて」
「冗談?アンタは冗談で人とキスしたいと思うわけ?」
回りくどいやり方は嫌いだ。面倒くさい。
だからいつでもストレートで行くけど、それでも勝機のない戦いはしない。
「違うよね?」
「そんなの、」
信じられない、と続けた唇をまた塞いだら、今度は受け入れてくれるだろうか。