「まあ、丸く収まったようで何よりだ」

 ずず、と茶をすすりながら、そのひとはどこまでも飄々と言ってのけた。


 ピーッと薬缶が沸騰を知らせる音が鳴り響いた。
 たっと軽い足音をフローリングの床に響かせて、少女がキッチンへ向かい、コンロの火を止める。薬缶を持ち上げて用意してあった湯呑に湯を注ぎ、温めている間に茶葉の缶を開け、中身をスプーンで掬って急須の中に入れる。そのあと湯呑の湯を急須にゆっくりとあけ、しばらく待ったあと、二つの湯呑に茶を均等に注ぎまわし、それを盆にのせた。
 小さな子どもが熱湯を扱う様子をはらはらしながら、失礼に当たらない程度に見守っていたが、少女は手慣れたもので心配など杞憂のようだった。小さな、と言っても、もう小学五年生だと聞いているから、それほど幼くはないか。そういえば、うちで一番手先の器用な薬研は幼稚園の頃からよく料理の手伝いをしていた。その横で、中学生の私は危なっかしいからと台所を追い出されていたっけ。
 つらつらと少し苦い思い出に浸っているうちに、少女が盆を抱えたまま器用に床に膝をつき、湯呑を私の前のテーブルに置いた。

「どうぞ」
「ありがとうございます」

 微笑んで礼を言えば、彼女は微笑み返してくれるということはないけれども、軽く首を傾げて会釈をするように応えてくれる。半年前の、警戒心を露わにして毛を逆立てた子猫のような様子を思えば、格段の進歩だった。あのときは、父親に促されなければ挨拶も返してくれなかったのだ。
 その父親は、愛娘が手ずから淹れた茶に満足そうに口をつけると、私の顔を見て面白がるように松葉色の瞳を細めた。

「それで、鍵だったな。ちゃんと預かっている」

 自分の顔が苦々しく歪んでいくのが、わかる。

 とある土曜日の昼下がり。事前に伺いを立て、ここを訪れた私を鶯丸氏は相も変わらずゆったりとした態度で出迎えてくれた。茶が好物であるということは聞いていたので、専門店で少し奮発して買った茶葉を土産に持参したら、彼はその凄絶な美貌に見合わない、うきうきとした子どもっぽい表情で早速淹れてもいいかと尋ねてきたが、私がどうぞお好きにと言う間もないうちに横から伸びてきた小さな手にそれを取り上げられ、一転して絶望の表情を浮かべていた。今開けてるお茶が終わるまでだめ。淡々とそう述べる娘さんに、彼はどこまでも頭が上がらないようだった。私には娘も、女きょうだいもいないが、この歳になっても母には決して敵わないので、なんとなく共感はできた。同情はしなかったけれど。
 鶯丸さんの好物を私に教えてくれた、ここの隣室に居を構える『彼女』とは今日会う予定だったが、急に仕事の出勤日が変わったとかで会社へと行ってしまっている。夜には帰るからと昨夜電話で言われ、仕方ないと思いつつも落ち込んだ私の不満を彼女は感じ取ったのだろう。少し躊躇ったのち、もし早めに来れるんだったらわたしの部屋に入って待っててほしい、と告げた。その控えめな恥ずかしげな声音に私が有頂天になっていられたのは一瞬で、すぐあとに続けられた言葉は私を持ち上げて落とすにはうってつけの現実だった。

 ──鶯丸さんがご在宅だったら、合鍵を預けておくから貰いに行ってくれる?


「そんな顔をしていると、色男が台無しだぞ」

 湯呑を置き、彼は懐から取り出したものをことりとテーブルの上にのせた。キーホルダーも何も付けられていない、小さな鍵。手を伸ばし、隠すようにしてそれを自分のポケットに仕舞い込んだ。そんな私の態度を咎めるでもなく、ただ悠然と微笑むその姿に、私のちっぽけな心はますますちっぽけになっていく。
 色男だと言われても、彼のほうがよほどそれだ。ただし、厭味だとは感じないのが彼の不思議なところだった。

「……重ね重ね、彼女がお世話になっているようで、ありがとうございます」

 私のほうがよほど厭味っぽい言い方になってしまうが、彼は余裕綽々と微笑んでいるだけだ。くそ、と悪態をつきたくなる。ポケットの中に収めた彼女の部屋の合鍵、それを預けるに彼は信頼に足る人物なのだと、あの子がそう認識しているというだけで腸が煮えくり返る思いだが、それ以上にそんな余裕のない自分に一番腹が立つ。
 くすりと息をこぼして鶯丸さんが笑うので、目線を上げてぶっきらぼうに何かと問えば、彼は気を悪くしたならすまないと断って、再び湯呑に手を伸ばした。

「いやなに、もう『妹が』とは言わないのだなと思っただけだ」
「……」

 その理由を彼はとっくに知っているだろうに、いや、最初から気がついていただろうに。本当にどこまでも食えないひとだ。

「……あの子とは家族ですが、妹だと思ったことは一度もありません」
「ああ、そうだろうとも」

 私と彼女が共有した時間をこのひとが知るはずもないのに、知ったようなことを、とは思わないのが繰り返しになるが本当に不思議だった。ときどき感じる既視感のようなこの感覚はなんなのだろうかとふいに思うけれど、それはいつも私の中の奥深くに入り込んで根を張る前に、まるで考えるなとでも言いたげにぱっと霧散して消えていく。それをおかしいと思う思考ごと、すべて。
 ずず、と茶をすすりながら、そのひとはどこまでも飄々と言ってのけた。

「まあ、丸く収まったようで何よりだ」

 まるで保護者のような口ぶりに、私の機嫌はさらに急降下していく。彼は私のもともと狭い心をますます狭めさせていくという、どうでもいい且つくだらない事柄にかけては天才的なのではないかと思う。

「今日は隣に泊まっていくのか?」
「……そのつもりです」
「着替えが必要なら、また貸し出すが」
「結構です。持参しております」
「そうか。うちの子は多感な年頃でな、できれば夜のほうは控えめに頼む」

 はい、と返事をしかけて、その内容を噛み砕き、目を剥いた。思わず視線を彷徨わせ、娘さんの姿を探す。少女は部屋の壁際に置かれたローテーブルの前にちょこんと座り、広げたノートに何やら書き込んでいた。宿題でもしているのだろうか。集中しているようで、こちらの会話が聞こえていた様子はない。その場所は彼女の空間らしく、すぐ傍にある小さな箪笥の上に置かれた見覚えのあるイルカのぬいぐるみと置物に、粟立った心が少しだけ和んだ。
 鶯丸さんに視線を戻すと、彼はやっぱりどこまでも飄々と、まるで悪びれなく、うつくしい顔にうつくしい笑みを湛えて、もうこれより下はないだろうと思っていた場所からさらに私を突き落とした。

「冗談だ。若い二人に控えろと言うのはあまりにも酷だからな。存分に励んでくれ」

 ──くそ、やっぱり苦手だ、この男。

 そんなことを思いながら、その夜彼女の部屋で一緒に夕飯を食べているときに、預かった合鍵をそのまま持っていてほしいと恥ずかしそうに告げられて、奈落の底から天にも昇る心地になった私は、どこまでもちょろい男だと言うほかはなかった。



 ──どきどきする。
 いつ言おう、いつ言い出そうと悶々と悩み、口を開きかけては閉じ、何度も機会を逸しているうちに、もう夕飯の準備が整ってしまった。わたしが帰ってきてから、部屋で待ってくれていた彼と二人で、そんなに手間もかけずに作ったものだから時間はたいしてかかっていないけれど、帰宅途中からずっと考えていたことなのに、むしろ仕事中からだったのに、未だに言葉にできずにいる自分が歯痒くて仕方ない。

 ──緊張する。
 食事を始めるけれど、わたしの箸の進みは遅かった。彼が先に食べ終えて、食器を流し台へ片付けにいく。そのあと戻ってきてまたわたしの前に座る彼の表情は気遣わしげで、ぼんやりと咀嚼していたスピードを慌てて上げ、飲み込んだ。

「食欲がありませんか」
「ううん……そうじゃないの、大丈夫」

 わたしの言う「大丈夫」を彼が信じてくれることは少ない。今もわたしの言い分をまったく意に介した様子はなく、眉はハの字に下がったままだ。口ほどにものを言う視線を受けながら、やっと食事を終えて箸を置くと、彼は待ち構えていたかのようにポケットを探り、取り出したものをことりとローテーブルの上に置いた。

「預かっていた鍵、返しておきますね」

 ああ、来てしまった。このときが。
 こうなってしまえば、わたしは腹をくくるしかない。覚悟を決めるしかない。ずっと考え、どのように切り出そうかと悩み、恥ずかしくていたたまれなくて、ほんの少しだけ怖くて、先延ばしにしていた。そのモラトリアムの時間は、ほかの誰でもない彼自身の手によってあっけなく終わってしまった。彼は別にわざとそうしたわけではないだろうけれど、ちょっとだけ、恨めしい。
 息を吸う。息を吐く。この鍵がこうして白日の下──というのは大げさかもしれないが──に晒されてしまった今、もうわたしの取る行動は二つに一つだ。すなわち受け取るか、受け取らないか。
 キーホルダーも何も付けていない鍵に指で触れ、一瞬だけ躊躇ったあと、えいっと覚悟を決めて彼のほうへ押し返した。

「返さなくて、いい」
「……は、」
「……そのまま、持っててくれたら、嬉しいというか……嬉しい、です」

 ああ変な日本語を話しているなあと思うけれど、何もかも後の祭りだ。
 鍵から離して引っ込めようとした手を、突然がっと掴まれる。びく、と跳ねた身体をそのままに目線を上げると、目の前で顔を真っ赤に染めた一期がじっと瞬きもせず、わたしを見つめていた。琥珀色の視線は熱を持ち、今にもわたしの身を焼き切りそうで、恥ずかしくていたたまれなくて怖くて、でもちょっとだけ、気持ちよくて、わたしの頭は一息におかしくなっていく。
 閉じ込めるように指を覆う手のひらとは反対の手が伸び、わたしの頬を包んだ。少しだけ力の込められたそれがわずかに顎を上げさせて、上向いたそこにぐっと彼の顔が寄せられた。瞼を閉じることも忘れてしまったわたしに触れる直前、頬を包んだその手があともう少し角度を変えれば触れてしまいそうなぎりぎりの距離で、はたと思いとどまったかのように一期は動きを止めた。あまりに至近距離で彼の表情は逆にわからないけど、交差した鼻先が触れ合っているのが、なんというかとてつもなく恥ずかしい。

「……キスをしても、いいですか」

 この距離で今それを聞くのかという思考も、そもそももう聞いてくれなくてもいいのにという思考も、何もかもぜんぶとっちらかってわけがわからなくなって、熱くて、苦しくて、息をしているはずなのに息がしたくなって、口をわずかに開けて代わりに瞼をぎゅっと閉じた。

「キスだけです。それ以上のことは、しません」
 ──今は、まだ。

 囁いた息が唇をそっと撫でていったかと思えば、こちらの返事を待たずに一期はわたしの呼吸をすべて飲み込んで、ゆっくりとやさしく噛みつくように口付けた。


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