たとえばこの無機質な精密機器同士がつながって、電子の波によって伝わるものが互いの声だけでなく、心の内までも含まれるとしたら、きっと今のわたしたちはとんでもなく大きなその声を互いに聞いて、動揺して、言葉に詰まって、持て余していることだろう。
 普段彼の内側に存在する声は、実際の肉声と寸分違わず穏やかで、高くも低くもなく、ただ静かにそこに在るだけのような気がするのだけれど、いざとなれば違うのかもしれない。どういう原理かなんて考えたこともない電波というものがその仮想の声をお互いへ届けたとして、動揺し、言葉に詰まり、二人してそれらを持て余したときに、静かに激しさを増すのかもしれない。

 耳に当てたスマートフォンが沈黙という名のモラトリアムを生み出す中で、半ば現実逃避のようにそんなことを考えた。

 音声を伴わない心の内などではなくとも、気配や雰囲気といったものであれば、この不可思議な精密機器は余すところなく伝えてくれるし、当然同じように向こうへ伝わってもいるはずだ。沈黙の時間の中にゆったりと流れる彼の呼吸の気配と、二度ほどこくりと喉を鳴らす音。唇を舐める気配もあるように思えた。穏やかで、静かで、でもどこか雄弁でもあるその『声』。
 息を吸う音、吐く音、飲む音、舌先で上顎と下唇を撫でる気配、ひょっとしたらぎゅうと目を閉じる気配さえ、彼よりもずっとうるさいわたしの『声』は、きっともう筒抜けなのだろう。それでも、それじゃ足りない満足できないと言わんばかりに、彼は口を開かずに、ただ待っている。わたしのほうからきちんとした言葉で以て、唇を震わせて、明確な音の羅列である声を、二人をつなぐ電子の波にのせるのを、ただじっと待っている。

 またこくりと喉を鳴らす気配がした。
 わたしは口を開き、乾いた空気をその奥へと取り込む。

 ──ああ、息をするのが、苦しくてたまらない。



 平日の、それも金曜日の夕方だから、電車内は混んでいた。
 ひしめき合ってはいるけれど身動きが取れないほどでもない車内の人波の隙間を縫い、奥の扉へと寄りかかって鞄を足元に置く。がたごとと音を立てて動き出した景色を窓から眺めながら、わたしは三年前のことを思い出していた。あのときは平日の昼間で、旅行鞄を携えて、空席の目立つ電車の中に独りぼっちで座っていた。手放すものを想って静かに泣いて、それでもきっと後悔はしないだろうと、悲しみに暮れながらも確かにつよくそう思っていた。それは今でも変わらない。わたしはあのときのことを悔やんではいないし、後悔しているから今こうしてまた同じように電車に乗っているわけでもない。
 それでも、あのときよりも一回り小さな旅行鞄に着替えとか洗面用具を詰め込んで、あの日とおんなじように電車に揺られているのは、たぶんきっととても特別で、ひどく儀式めいた、感慨深いような何かを思わせた。

 混み合う車内は入れ替わり立ち替わりひとが乗り降りして、やがて大きな駅に着くと、どっと降りていくひとが増えた。その人波に押されるようにして、わたしも降りる。足早に階段を駆け上がっていくひとたちは誰も、周りにいて同じような動きをしている他人のことを気にかけてはいない。こんなにも大勢いるのにと、ぼんやり不思議な気持ちになるけれど、それはわたしには心地好い空気だった。

 新幹線の切符売り場の窓口はとても混み合っていた。事前に買っておいて良かったと、ほっとする。ただでさえ時間を要するのだから、少しでも短縮しておきたい。そんな思いからだった。
 指定席の窓際のシートに座り、背もたれを倒すこともせず、しばらくまんじりと無為の時間を過ごしてから、おもむろにスマートフォンを取り出す。待ち受けにしたばかりの猫と少女の画像を微笑ましい気持ちで眺めているうちに新幹線が動き出したので、慌ててメッセージアプリを開いた。なんにも迷うことなどない、単純な報告としての一文。それを送るのにやたらと時間がかかるのは、もう一種の病気と言ってもいいのかもしれない。

【今、新幹線に乗りました】

 驚くほど早く既読が付いて、これも驚くほど早く返事が返ってくる。わたしがひとつ画面をタップするのにも不自然な間が空いてしまうことを、まるでやさしく揶揄っているみたいに。

【改札口で待っています】
【できたら降りるときに、また連絡をください】

 いま了承の返事をしたほうがいいのか、それとも次の連絡は彼が言うように到着したときでいいのか、また間を空けながらおかしなことで悩んでいるうちに、今度は少し時間をおいて次のメッセージがぽん、と表示される。

【早く会いたいです】

 ──返信は、あとにした。携帯で口元を隠して俯くわたしを、隣に座っていたスーツ姿の若い男性が怪訝そうに窺うのがわかったが、咳払いをして誤魔化した。それを誤魔化しと呼べるのかは、きっと百人に訊いたところでわたしの満足する答えは得られないのだろうけど。

 スマートフォンを上着のポケットへと戻し、窓枠に頬杖をついて目を閉じた。脳は冴え渡っているし、思考もクリアで、眠気なんてない。でも瞼を下ろしてじっとしているだけで、眠れなくても身体は休まるのだと聞いたことがある。そういうものだろうか。
 三年前もこんなふうに、ただ目を閉じて過ぎ行く時間をやり過ごしていた。あのときは無聊を慰めるようなものを何も持っていなくてそうするしかなかったのだけれど、今はそうではなく携帯電話もあるし、読みかけの小説なんかも持ってきたのに、どちらも取り出す気にはなれなかった。過去をなぞる行為に、たぶん意味なんかない。それでもわたしにとっては、きっと意味以上のものがそこにあるのだろうと、まるで他人事のように思う。

 二時間弱の新幹線の旅は、あっという間に終わりを告げた。以前は時間をどう感じていただろう。長くもあったし、短くもあった気がする。実際に長いようで短く、近いようで遠い距離だ。頻繁に行き来できるような距離でないことは確かだけれど。
 もうすぐ到着の旨を知らせるアナウンスが聞こえてきたところで、再び携帯を出して例のメッセージアプリを開く。

【あと少しで着きます】

 なんの面白みもない文章だが、それを憂えている暇はない。身の回りのもの──といっても手に提げた旅行鞄と小さなショルダーバッグだけだが、忘れ物がないか確認して、新幹線を降りる。彼は、改札口で待っていると言った。歩きながらスマートフォンを弄る気にはなれないから、もし見つからない場合はどこかで立ち止まってまたメッセージを送ればいい。

 日はもうとっくに暮れて、時刻は二十時半になろうとしていた。夜だけれど週末だからか、やっぱりひとが多い気がして。ぶつからないよう気をつけながら、改札に切符を通し、視線を彷徨わせる。見つかるだろうか。見つけて、もらえるだろうか。

「……あ、」

 春空が、視界に飛び込んできた。

 どうしてだろう。彼以外のひとが皆モノトーンで構成されているわけでもないのに、むしろ、髪ではないにしろ彼より目立つ色を身につけたひとはたくさんいるのに、何故かそこだけ空を切り取って貼り付けたかのように、彼の色はわたしの視界を一息に奪って埋めていく。髪だけでなく、肌も、瞳の色も。こんなに距離が開いていても、そうなのだ。まるで、彼を構成する色しか、わたしは知らないみたいに。

 反射的に踏み出した足は、遅れて認識した彼以外の情報を捉え、これまた反射的に後ろへと下がった。
 柱を背に立つ彼の前には女性が二人いて、熱心に何かを彼に話しかけていた。道を尋ねるとかそんなことではなく、たぶんキャッチセールスでもないだろう。首を傾げながら、手を後ろで組みながら、しきりに彼に向けているその熱の正体は、この距離でも充分に理解できるものだった。言ってしまえば、逆ナンパというものだ。ああ、と思う。だってそんなことは昔から彼にとっては日常茶飯事だし、わたしだってそれを知っている。子どもの頃から、ずっと。その場を目撃してしまったのだって、これが初めてじゃない。

 ──ああ、それなのにどうして。頭のてっぺんから足の爪先まで奔るような衝撃と痛みを、わたしは感じてしまっているのだろう。

 困ったように曖昧に微笑む彼がふいに視線をこちらへ寄越した。目が合った瞬間、わたしは思いきり視線を逸らして一歩後ろへ下がっていた。

「あっ」
「おっ……と」

 まずい、と思ったときにはもう遅い。周囲にひとが多いことをすっかり忘れてしまっていたこの迂闊な身体は、お約束とも言うべき展開で後ろを通ろうとしていたひととぶつかってしまった。バランスを崩し、たたらを踏みかけたところで、がしっと腕を掴まれ、背中を支えられる。誰がと思う暇もなく、少し鼻にかかったような男性の声がわたしの耳をくすぐった。

「失礼。大丈夫ですか?」
「は、はい……いえ、あの、どうもすみません……」

 視界に入る、仕立ての良さそうなベージュグレーのスーツ。目線を上げれば恐ろしく整った顔立ちと、濃い砂色の髪、薄い藤色の瞳。どこかシニカルっぽさを湛えた口元の笑みはやや冷たい印象を与えるものの、そのひとの魅力を少しも損なってはいなかった。むしろ、それ自体が魅力のひとつと言えるのかもしれない。

 ぶつかってしまったことを再度詫びれば、首をわずかに傾けるしぐさだけでそれに応え、お気をつけてとスマートに微笑んで、そのひとはわたしの背中と腕から手を離し去っていった。エリート商社マンか官公庁勤めの公務員といったような風貌だったけれど、現代に執事がいたらあんな感じだろうかと、とんちんかんな所感が脳内をよぎっていく。

 突然ぐいっと腕を引かれ、身体がくるりと反転する。視界いっぱいに広がる、彼という器を構成する色。髪、肌、瞳。遠くから眺めていたときよりも一層つよく、一等速く、わたしという器を満たしていく。

「……」

 いつの間に傍へ来ていたのか。彼はわたしの腕を離さないまま眉根を寄せて、何か言いたげにそのかたちの良い唇を開くけれど、何も告げないままそこを閉じる。琥珀色の瞳は熱を湛えて、不満そうに不安そうにこちらを見つめていた。なんとなく、わかる。わかって顔が熱くなる。顔と言わず、全身かもしれない。つまり──彼は見ず知らずの男性が不可抗力とはいえわたしに触れたのを見て──つまり、そういうことなんだろう。

 ちらりと彼の肩越しに、彼が先ほどまで立っていた柱の前を見る。女性二人は人波に紛れてどこかへ行ってしまったらしく、もう姿は見えなかった。わたしの視線の意味を正確に理解した彼が、今度は眉をハの字に下げて、ひどく申し訳なさそうに言葉を紡いだ。

「その、すみません、すぐに出迎えられなくて……思ったより手間取ってしまって」
「……別に、大丈夫。気にしてないし……」

 どの口がそれを言うんだと自分で突っ込みたくなる声だった。気にしてない、なんてまるきり嘘だろうとわかる沈んだ声を悔やむことしかできず、視線を彼の足元へ落とす。珍しくスニーカーなんて履いていた。裾の絞られた白のパンツ、薄いグレーのシンプルなTシャツに、フード付きの黒いジップパーカー。こういうカジュアルな恰好を外で見るのは彼が大学生のとき以来かもしれない。

 何も言われないのを不思議に思っておそるおそる目線を上げれば、彼はわたしの腕を掴んでいないほうの手の甲で口元を覆い隠して頬を上気させ、目元を緩ませていた。どう見たって可愛らしくないわたしの態度に嫌な気分になっているかと思ったのに、まったくもってそうとは見えない。思わず「なんで……」と呟くと、緩んだ琥珀色がちらりとこちらを窺って、手の甲と唇の隙間から堪えきれないとでも言いたげに吐息がこぼれ出た。

「いえ、なんというか本当に……私だけではなく、あなたもそういう気持ちになるのだなと思って」
「……」
「不快にさせたらすみません。でも、嬉しいです」

 口元から手を離し、彼は見るひとが見たらあまりの甘ったるさに発狂するのではないかというくらい蕩けきった笑みを浮かべた。──実際にそれを目にしたわたしは羞恥で今にも死ねそうだ。
 何が彼だけではなく、そういう気持ちとはどんな気持ちのことか。敢えて問おうという気にもならない。

 わたしの肘の辺りを掴んでいた手のひらがするすると下へ移動していき、ごつごつした指先が手首と手の甲を撫で、きゅ、と指を握る。引きずったままの羞恥心から手を引っ込めようとしても許されず、それどころかもう一方の手のひらまでもがわたしをやさしく追い詰めるように眼前に差し出された。

「疲れたでしょう。鞄を持ちます」
「……平気」
「いいから」

 ね、と囁く甘さたっぷりの声。決して高圧的ではなく、けれど有無を言わせない口調で彼は差し出した手をそのままに、握ったほうの手を軽く揺らしてわたしを促す。小さな子どもにするようなしぐさで、でもその実、彼から向けられる視線も熱も想いも子どもに対するものとはまったく違うことを知っているわたしは、もう無条件降伏をするしかない。
 無理やり奪うのではない、けれどそれとほぼ同等のやり方でわたしから旅行鞄を受け取った彼は満足そうに微笑むと、こっち、とわたしの手を取ったまま歩き出した。

「空いているコインパーキングが離れたところにしかなかったので、少し歩きますね」

 駅の構内を抜け、ロータリーに出る。手はつながれたままなので、道行く人々──おもに女性たちからちらちらと送られる視線がいたたまれなくて仕方ない。わたしたちは一体どういう関係に見えているのだろう。十年前だったら、たとえまったく同じ状況でも兄妹で押し通せるのにと、その頃から変わらない彼の春空に似た髪がさらさらと流れるのを眺めながら思う。

 十分ほど歩いて駐車場に着くと、彼はわたしの鞄を車の後部座席に置いてから助手席のドアを開け、その外側に佇んだ。ひとりで乗れるからと躊躇しても、いいからと先ほどとまったく同じように促される。不承不承乗り込んだあと、当然の如くドアは自分で閉めさせてはもらえなかった。

「そういえば言い忘れていたんですが」

 運転席に乗り込んだ彼がシートベルトを締めながら言う。何か粗相があっただろうかとおそるおそる窺えば、べっこう飴をどろどろに溶かしたみたいな琥珀色がこちらを見ていて、これは危険だと、学習しないわたしの脳が遅すぎる警報をけたたましく鳴らすけれど、まったく役に立っていないことは確かだった。

「とても、会いたかったです」

 新幹線の中で送られてきたメッセージを意趣しているのだということは、わかった。
 耐えられなくなってふいっと顔を窓のほうへ逸らすのは今度こそ可愛らしくない態度に違いなかったが、空気が嫌な感じになることはなかった。それでも、それはやさしい彼に甘えているだけで、わたし自身が振る舞いを改めなくていいという理由にはならない。

 息を吸う。息を吐く。ああ、彼は、一期は、いつだってわたしの胸を苦しくさせる。

「……わたしも」

 会いたかった、までは言葉にできなかったけれど、一期には充分伝わったようだった。今は夜で外が暗いから、窓ガラス越しに彼がハンドルの上に突っ伏す姿がよく見えた。右耳から入る衣擦れの音と、どこか呆れたようにも聞こえる悩ましげな溜息が、左耳から出ていく頃にはわたしの頭の中を好き勝手に掻き回して爪痕を残していた。

「シートベルトをしていて、良かった」

 ──そうでなかったら今すぐあなたを引き寄せて、意に沿わないことをするところでした。

 耳からわたしをおかしくさせる、彼の吐息、言葉、声。きっとまともに視界に入れてしまったら、彼の表情や視線やしぐさが眼からもわたしをおかしくさせていくから、窓ガラスにごつんと側頭部をくっつけて、目線を釘付けにしたそこから逸らせない。
 意に沿わないこととは具体的にどんなことか、やっぱり敢えて問おうという気にはならなかった。

 やがてハンドルから上半身を起こした一期がキーを回し、エンジンをかける。左手がレバーを掴む直前にふいにこちらへと伸び、わたしの髪の端に一瞬だけ触れたあと、空中にさらさらと軌跡を残して離れていった。

 車は静かに走り出す。
 わたしは窓に額を押しつけたまま目をぎゅうと閉じて、神経が通わないはずの髪に触れた指の感触を噛みしめる。



『金曜日に、うちへ泊まりませんか』

 耳に当てたスマートフォンの向こうで、一期は確かにそう言った。
 わたしが咄嗟に何も返せなかったのは、それまで話していた内容が内容なだけに、彼の言う『うち』が一体どちらを指しているのかわからなかったからだ。でもそこはわたしをよく理解している彼のことで、すぐにこちらの意図を汲んで言い直してくれた。

『……うちというのは、私のマンションのことですが』

 直されても、わたしが反応を返せないことに変わりはなかったけれど。
 彼がわたしに会いに来てくれた日、その翌日から数えて何度目の電話になるだろう。両の指で数えても足りなくなっていることは確かだと思う。何度回数を重ねても、あまり慣れたとは言えない。少し籠って聞こえる彼の穏やかなうつくしい声は、電話だとダイレクトに鼓膜に響いていけない。

 直接顔を合わせたのは、もちろん電話に比べれば頻度は少ないけれど、それでも片手の指では間に合わないだろう。そしてそのすべてが一期のほうからわたしの元へ足を運んでくれているもので、さらに言えば泊まったのはあの忘れもしない最初の日だけ。
 泊まる、という言葉からこの半年間のことをつらつらと考えているうちに、電話の向こうの気配が居心地悪そうに咳払いした。

『あの、あなたが心配しているような、そういう疚しいことをするつもりは一切ありませんので』
「……」
『下心がない、とは、言い切れませんが……』

 本当に、少しでも長く一緒にいたいだけです、と。続けられる声は段々と蚊の鳴くようなものになっていく。
 おかしな話かもしれないが、彼がそういう話題を先回りして出し、牽制と確認をするまで、わたしはいつもその可能性に気がつかない。彼にもきちんとそういう欲があることをわたしは嫌というほど知っているはずなのに。それとも、それゆえに無意識に避けているのだろうか。

 わたしの沈黙を一期は完全にマイナスの方向へと捉えたようで、小さな声はその小ささに反して悲痛さが増していた。

『なんでもいいので何か言ってください。嫌とか無理とか最低とか』

 何故否定的な選択肢しかないものと考えているんだろう。それも嫌とか無理とかはともかく、最低なんて言葉は、彼に語りかけるものの中でわたしが決して持ち得ない語彙なのに。
 こちらが息を吸えば、あちらは息を飲む気配。わたしが言葉を紡ぐ前に、彼はもう答えを用意しているのかもしれない。

 たとえばこの無機質な精密機器同士がつながって、電子の波によって伝わるものが互いの声だけでなく、心の内までも含まれるとしたら、きっと今のわたしたちはとんでもなく大きなその声を互いに聞いて、動揺して、言葉に詰まって、持て余していることだろう。
 普段彼の内側に存在する声は、実際の肉声と寸分違わず穏やかで、高くも低くもなく、ただ静かにそこに在るだけのような気がするのだけれど、いざとなれば違うのかもしれない。どういう原理かなんて考えたこともない電波というものがその仮想の声をお互いへ届けたとして、動揺し、言葉に詰まり、二人してそれらを持て余したときに、静かに激しさを増すのかもしれない。

 耳に当てたスマートフォンが沈黙という名のモラトリアムを生み出す中で、半ば現実逃避のようにそんなことを考えた。

 音声を伴わない心の内などではなくとも、気配や雰囲気といったものであれば、この不可思議な精密機器は余すところなく伝えてくれるし、当然同じように向こうへ伝わってもいるはずだ。沈黙の時間の中にゆったりと流れる彼の呼吸の気配と、二度ほどこくりと喉を鳴らす音。唇を舐める気配もあるように思えた。穏やかで、静かで、でもどこか雄弁でもあるその『声』。
 息を吸う音、吐く音、飲む音、舌先で上顎と下唇を撫でる気配、ひょっとしたらぎゅうと目を閉じる気配さえ、彼よりもずっとうるさいわたしの『声』は、きっともう筒抜けなのだろう。それでも、それじゃ足りない満足できないと言わんばかりに、彼は口を開かずに、ただ待っている。わたしのほうからきちんとした言葉で以て、唇を震わせて、明確な音の羅列である声を、二人をつなぐ電子の波にのせるのを、ただじっと待っている。

 またこくりと喉を鳴らす気配がした。
 わたしは口を開き、乾いた空気をその奥へと取り込む。

 ──ああ、息をするのが、本当に。

「……仕事があるから、夜からじゃないと会えないけど」

 それでもいいなら、と続ける最中でガタッと大きな音が電話の向こうから聞こえてきた。思わずびくりと肩が跳ねる。
 いち兄? と呼びかければ、しばらくの間を置いて、はいと返される声。そのあとも足かどこかをそのへんにぶつけたのか、またガタンという音と、いてっという彼らしくない乱暴な罵り文句が電波を通して耳に入る。

「だ、大丈夫……?」
『……平気です、なんでもありません。いえ、それより、ええと』

 良いんですか、と。そう尋ねる声はどこか不安そうに上擦っていた。本当に、断られる可能性しか考えていなかったのだろうか。そう考えるとほんの少しだけ寂しくなるけれど、たぶん全面的にわたしが悪いに違いないので何も言えない。
 うん、と返事をすれば、は……と一期は短く息を吐き、また喉を鳴らした。静かで穏やかだと思っていた彼の『声』が、徐々に色と動きをつけて鮮やかさを増していく。

「仕事終わって、電車と新幹線に乗るから、着くのは八時半くらいかな」
『迎えに行きます。あと、あなたさえ良ければ夕飯を用意しておくので一緒に食べましょう』

 間髪入れずに一期は続けた。夕飯を用意するという部分に、今度はわたしの喉が無意識に嚥下していた。
 粟田口家は兄弟が多い上に両親は共働きだったから、週に何回かはお手伝いさんが来て家事をしてくれていたが、一定の年齢以上の子たちは得手不得手はあれど、自分で料理や洗濯や掃除をこなすことができた。お手伝いさんが来ない日は、みんなで一緒になって夕食を作ることもあった。一期は鯰尾や薬研や信濃や乱に比べれば、決して料理が上手いというわけではなかったけど、彼の作る食事はやさしくてあたたかい味がして、弟たちはみんな大好きだったし、わたしも、とても好きだった。
 彼が一人暮らしを始めてからは手料理を食べる機会なんてなくなってしまったから、いつ振りのことになるだろう。また知らず喉が動き、頬が緩むのがわかった。

「……楽しみに、してる」

 今度は耳からスマートフォンを少し離してしまうほどの大きな物音と短い叫びが聞こえてきたけれど──たぶん、これは、わたしは悪くないはずだ、と思う。



 チン、と軽やかな音が鳴って、エレベーターが到着する。先に一期が乗って、階数ボタンと開閉ボタンを押し、わたしが乗り込んだあと扉が閉まって動き出した。
 わたしの鞄は相変わらず一期が持っている。車から降りたときに、自分で持つのはもう諦めた。まるでそうするのが当然と言わんばかりに、恭しく、彼は見た目通りの王子様のような振る舞いをしてくれている。まるで自分がお姫様になったかのような錯覚をしてしまうので、少し、いやだいぶ恥ずかしい。

 エレベーターは六階で止まり、目的の部屋は降りてすぐ傍にあった。黒塗りの洒落た扉の前で彼がパーカーのポケットを探り、鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。

 ──この部屋に足を踏み入れるのは、初めてだ。

「……お邪魔します」
「どうぞ」

 入ってすぐのところに備え付けの靴箱、細い廊下、左右にお風呂場とお手洗いらしき扉、正面にガラス戸。わたしの鞄を持ったまま一期はそこを開けて中へと進んでいく。部屋の明かりがつけられて、パッと視界が明るくなる。広い部屋だった。右手にキッチンへと続くらしい空間があって、間取りはわたしの部屋と同じ一Kだと思うが、たぶん家賃が全然違うのだろう。

 机と椅子、ローテーブル、ベッド、小さな収納箪笥、本棚、テレビ。何もかもあの家の、あの部屋にあったものと同じだった。床に置かれたクッションまでもが、わたしの記憶をずるずると刺激して、少しだけ身体が緊張を訴える。
 ほんの些細な、わずかばかりのその変化を一期は決して見逃さなかった。鞄をローテーブルの脇の床の上に置いて、こちらを振り返った彼はわたしを見るなり眉をハの字に下げた。その申し訳なさそうな顔に、わたしの身はますます固くなる。

「──怖い?」

 恐怖とは、またたぶん違う。そう思ったから首を横に振ったけれど、一期の表情が晴れることはない。

「信用できないかもしれませんが、ここではあなたに指一本触れるつもりはありません」
「ち、違うの、本当にそういうんじゃなくて……」
「少しでも何かおかしな真似をしたら、すぐ誰かに電話してくれれば……」
「あの、ほんとに気にしてないから!」

 彼が驚愕にその身を塗り固めたのは、おそらくわたしが叫んだからではなく、勢いのままに伸ばした手で彼の指を引っ掴んだからだろう。
 細長いけれど決して繊細ではない、男のひとのごつごつした指先。一度触れてしまったら、もう引っ込みがつかなくて、ままよとばかりに力を込めると、手のひらの中でわずかに跳ねた。お互いにしばらく無言が続く。

 顔に集まる熱を持て余し、おそるおそる視線を持ち上げれば、おんなじように顔を熱で真っ赤に染め上げた一期と目が合った。すぐに逸らした視線の持って行き場がわからない。外ではあれほど自然に、なんでもないような顔をしてわたしの手を取っていたのに、家の中で何故こうも変わるのか。
 やがて、わたしが掴んでいた以上の力で指がぎゅっと握り返される。一期はそのままぐっとわたしを引き寄せかけて、でも途中で思いとどまったかのように反対側の手でわたしの肩を掴んだ。

「……いきなり前言を撤回することになるんですが」
「……」
「抱きしめさせてください……」

 吐いた息が言葉どころか声になるかならないかという返事ともつかない返事ののちに、途中で止まっていた腕が動いて、中途半端に空いていた身体と身体の隙間が埋められた。前面にかかる体重、髪に差し込まれる手、耳元でこぼされる吐息。心臓がこの上なくどきどきするし、顔の熱はますます上がっていくし、今にも死にそうなほど恥ずかしくて苦しいのに、どこか懐かしくて安心できるから、不思議で仕方ない。彼に触れることは痛くて怖いと以前は思っていたのに。

 わたしを抱きしめている間、一期は何も言わなかった。わたしも何も言わなかった。半年前のあのときは本当に隙間なんてなくなるほど、つよい力でわたしを締めつけていたけれど、今はただやさしく、どこか怖々としながら彼はわたしを腕の中に収めている。

 何秒経ったのか、それとも何分だったろうか。一期はわたしの両肩に手のひらを置いて、ぐいと身体を離し、また隙間をつくり直した。俯けて逸らした顔はまだ真っ赤に染まったままで、彼に対してたびたび思うようになっている「可愛い」という言葉が喉元まで出かかるけれど、ひどい抗議を受けることはもう体験済みなので、息と一緒に無理やり飲み込んだ。

「夕飯、を、食べましょう」

 顔を横に逸らしたまま、ぎこちなくそう言った一期はいつになく乱雑にわたしの頭をくしゃくしゃと撫でて、キッチンへと入っていく。
 斜め掛けにしたショルダーバッグの紐を両手でぎゅうっと握りしめて、わたしはその場に立ち尽くすしかなかった。


 手伝おうとしたけれど当然のように却下されてしまったので、おとなしくローテーブルの前で座って、彼が温め直した夕食を運んでくるのを待った。時刻は二十一時過ぎ。「先に食べてても良かったのに」と言えば「何か意味があるんですか、それは」と真顔で返され、言葉に詰まって何も言えなくなり、もういっそ何も話しかけないほうがいいのではなんて思い始める。

 メニューはハンバーグとシーザーサラダ、ミネストローネだった。彼も今日は仕事があっただろうに、どれくらいの時間でつくったのだろうと不思議に思っていたら、わたしの言いたいことをなんでもわかっている彼に「今日は半休を取ったので」とさらりと告げられた。それでまた、何も言えなくなる。
 わたしは、わたしが思う以上に一期に大切に想われていることをもっと自覚すべきなのかもしれない。でも、臆病なわたしはそんなに自惚れてしまったらいつか後悔する日が来るのではないかと面倒くさいことを考えてしまうから、たぶんそういうところがだめなんだろう。わかっていてもすぐに直せるわけもなく、また悶々と考え込んでいたら、少し慌てた様子の一期に「私が好きでしたことですから気にしないで」と言われ、重ねて気を遣わせてしまったことに、わたしの口はますます閉ざされていく。

 ハンバーグはかたちがやや歪で、表面もほんの少し焦げていたが、味はとても良かった。あの家で食べていた彼の少しだけ不器用な料理を思い出しながら「おいしい」と呟いたら、彼はまるで周りに花びらでも舞わせているんじゃないかと錯覚するほど顔を綻ばせてわたしを見た。しばらくその視線を受けながら食事をするといういたたまれない状況に、わたしの声も言葉も、視線も熱も何もかも、馬鹿になったみたいに機能を失っていった。

 食事が済んだあとの洗い物は、以前一期がわたしの部屋に泊まったときに倣って、わたしがすると申し出た。それが終わると、彼が「風呂の準備も済ませてあるので先にどうぞ」と声をかけてくれる。タオルを受け取るときに顔がまた少し赤かったのは、たぶんわたしも同じだろうと思われるので、もう気にしないことにした。現実逃避とも言う。

 お風呂から出たら、一期が申し訳なさそうに少しだけ仕事をしなければいけないと言うので、パソコンに向かう彼の背中を時折横目で見ながら、新幹線の中で結局開くことのなかった小説を読んだ。何を読んでいるのかと、こちらを振り返らないままの彼に問われ、推理小説だと答えれば「あなたは昔から好きでしたね」とやさしい声だけが降ってきて、わたしの中に染み渡る。昔、彼が時々買ってくれた本はぜんぶあの家に置いてきた。きっともう、残ってはいないだろう。

 思い返してほんの少し、文字を追う速度が落ちた。


「布団を、買っておきました」

 日付が変わる少し前。パソコンを閉じ、お風呂を使った一期がわたしの隣に来て、二人でテレビを見ながらちょっとだけ雑談をしたあと。立ち上がってクローゼットを開けて彼はそう言った。部屋の広さに比例した大きな収納から取り出した真新しい敷布団と掛布団を軽々と持ち上げ、いったん下ろし、ローテーブルを脇へよけてからベッドの横にそれを持ってくる。手伝おうと立ち上がりかけたら、はい、と枕を渡されてしまい、叶わなくなったので座り直す。
 布団なんて決して安い買い物じゃない。今日一日のためだけに買わせてしまったのかと思うと、ひどく申し訳なくなった。

「わざわざ買わなくても……」
「……それだと、あなたは私と同じところで寝ることになりますが」
「……」
「嘘です。固まらんでください」

 一瞬言葉に詰まっただけで別に固まったわけではないのだけど、一期はそうは思わなかったようだ。照れ隠しのようにふいっと顔をそむけて布団を敷き始める。わたしは枕をぎゅっと腕に抱いて、それをただ見ていた。

「あなたの部屋にも客用布団があるでしょう。あの子のためにわざわざ買ったんですか?」
「あれは、鶯丸さんが買ってくれたものだから……」
「……へえ?」

 少しだけ空気の温度が下がった気がして、こく、と喉が鳴った。枕を抱く腕に力を込める。でも身を切り裂くようなその冷たさはほんの少し尾を引きながらもすぐになくなって、おそるおそる一期を見やれば彼は拳を額に当てて、はーっと溜息をついていた。

「また、やってしまった」
「……えっと」
「忘れて。もう病気みたいなもんなんです、これは」

 こういうのは、もう何度目になるだろう。繰り返すたびに一期は似たような反応をし、そしてわたしはいつまで経ってもそれに慣れないでいる。
 彼が病気と称するそれは、わたしの中にも確かに存在するものだから、不快になったり引くなんてことはもちろんないけれど、相手がそう思ってしまうかもしれないという恐怖もよくわかるから、わたしと一期は変なところで似ているのかもしれない。

 枕を抱えてにじり寄り、布団の上にぽすんと腰を下ろせば、一期はそそくさと自分のベッドに上がって布団にもぐり込んでしまった。既視感、というものを感じる。半年前のあのときは布団の中に隠れようとしていたのはわたしのほうで、彼は──手を握ってくれたっけ。

「あの……」
「……はい」
「そういうの、嫌とは思ってないし……むしろ、わたしと同じで、ほっとしてるから……」

 手を握らせてほしいと言い出す勇気はなくて、声をかけた。掛布団から目元だけを覗かせた一期が、またゆっくりと息を吐く。

「──これ以上私を有頂天にさせて、あとで後悔しても知りませんよ」

 明かりを、消します。そう続けられ、わたしもまた彼と同じように布団にもぐり込んだ。新品の布団は一度干しておいてくれたのか、ぽかぽかとして気持ちがよかった。

「おやすみなさい」
「……おやすみ」

 瞼を閉じる。ただそれだけで、ふわふわとした意識は夢のまほろばへといざなわれていく。



 夢を見ている。
 一期が、すぐそこにいる。

 いつか見たような、甘やかであたたかな夢でないことはすぐにわかった。とても、冷たい。身を切るような寒さで、芯から凍えていく感じがする。何も履いてない足の上をひたひたと水が這っていく。わずかな恐怖を感じて足を持ち上げても、辺り一面がもう覆われている。

 一期を呼ぼうとした。呼ぼうとして、ぎくりと喉が震えた。
 こちらに背中を向けている彼の隣にはわたしの知らない女性がいて、二人は仲睦まじく手をつなぎながら笑い合い、段々と遠ざかっていく。まるで見えない壁に遮られているみたいに、足元を濡らす水はこちら側にしかない。彼と彼女はわたしの存在になどまるで気付かないまま、ただ幸せそうに談笑している。途中で身を屈めた彼の、春空色をした髪がさらりと彼女のほうへ傾き流れ落ちるのを、わたしは瞬きもせず眺めている。

(──待って)

 制止の声は、この冷たい空気の中へ放り出されることはなかった。夢とはいえ、決して見たくはない光景を目の当たりにしているのに、わたしの瞼は閉じることを忘れてしまったようだった。
 夢──いや、これは本当に夢なのだろうか。もしかして、こちらが現実なのではないだろうか。今までわたしが現実だと思っていたほうが夢ではないのか。半年前、一期がわたしを見つけてくれたのも、未だわたしを想ってくれていたことも。触れたり抱きしめたりするのも、やさしくしたり嫉妬に駆られるのも、本当はわたしに対してではなく、今そこにいるような、別の誰かに向けたものなのでは?

 突然、足を覆っていただけの水が急激に胸の辺りまで嵩を増し、引き攣った叫びが喉奥からこぼれ出た。
 恐怖で足がもつれそうになるのを必死に堪え、息を弾ませて縋るようにもう一度、一期のほうへ視線を向ける。一期と彼女は、もうそこにはいなかった。代わりに、水を遮る壁の向こうに立つ見知った姿が、じっとこちらを見つめていた。女の子のように華奢な身体、後ろでひとつに括った飴色の長い髪、透き通った海に似た青い瞳。ああ、ああ、忘れようもない。いつだって彼は、わたしを本当の姉のように慕ってくれた。

(乱──たすけて、乱)

 声は出ない。水嵩はどんどん増していく。必死に伸ばした腕でばしゃっと水面を掻き、壁のほうへ近づこうとするけれど、うまくいかない。涙がこぼれた。乱を見る。彼はじっと立ったまま、そこから動かない。表情も静かなまま、眉ひとつ動かした形跡はなかった。泣きたくなるが、すでにもう泣いていた。なんとか彼のもとへ行きたくて、ただもがいているうちに、水が顎の下まで迫る。乱を見た。その透き通った海に似た青い瞳は、今わたしを追い詰めているこの水よりも、ずっとずっと冷たい色をしていた。

 ──ああ、ああ、いやだ。あの昏くて寂しい水底には、戻りたくない。
 とぷん、と音を立てて、わたしは飲み込まれ、そして沈んでいく。


「……っ、は……」

 吸い込んだのか吐き出したのかよくわからない、自分の呼吸の気配で目が覚めた。
 そのわずかな糸口のような呼吸を皮切りに、身体が思いきり酸素を求めて息を吸う。勢いをつけすぎたのか、ごほっと咳き込んで噎せた。背中を丸めてひゅうひゅうと息を取り込み、喉を撫で上げるそれをまた送り出す。まだ水の中にいる気がして、両の指で外側からも喉元を撫でる。吸って吐いてのサイクルを数回繰り返して、やっと落ち着いてきたけれど、今度は涙が大量に溢れ、こぼれて枕へと流れていった。

「……ぅ……」

 漏れ出そうになる嗚咽を堪え、喉に当てていた手で口を覆った。無意識にしたその行動のあとに、ここが自分の部屋ではなく一期の部屋だということを思い出す。また数回深呼吸を繰り返し、ようやく大丈夫かと思われる頃に、シーツに手をついて上半身を起こす。キッチンへ行って水をもらおう。そう思った矢先のことだった。

「……どうしました?」

 小雨のようにさらさらと降る、やさしい声。そのやさしさに反比例して、わたしの身体はびくりと跳ね、ぎゅうと縮こまる。一期が枕元の電気スタンドを点けたので、慌てて手のひらで顔をごしごしと擦った。

「ああ、擦っちゃだめです……今タオルを持ってきますから」
「だい、じょうぶ、なんでも、なんでもないから……」
「もっと説得力のある言い分が出ないうちは、大丈夫とは言えませんよ」

 やんわりと、でもぴしゃりと窘められ、ぐうの音も出ない。そこにいてください、と告げた一期がベッドから下り、キッチンへと入っていくのを見送ったあと、ぼんやり電気スタンドの脇に置いてある時計に目をやった。時刻は三時半過ぎで、こんな丑三つ時も過ぎてしまった時間に彼を起こしてしまったことをひどく申し訳なく思う。

 やがて戻ってきた彼の両手には濡れタオルと、水の入ったコップがあって、欲しいとは一言も言わなかったのに何故彼にはわかってしまうのだろうと、せっかく止まったはずの涙がまた溢れそうになり、心臓がきしきしと痛みを訴えた。

「……怖い夢を?」

 濡れタオルを受け取って頬と目元を押さえるように拭ったあと、一期がわたしの手に指を添えながらコップを持たせてくれる。訊かれて頷き、水を一口飲むと、渇いた喉はもっともっととそれを欲して、ごくごくと貪るように渇きを癒した。

 水をぜんぶ飲んでしまうと、一期はわたしの手からコップを抜き取って傍のローテーブルの上に置いた。伸びてきた手がわたしの頭を撫でようとして、けれど髪に触れるか触れないかというところでその指は躊躇い、離れていく。

「眠れそうですか?」

 掛布団のシーツを両手できゅっと握る。視線は上げられず、床に座り込んだ彼のスウェットの裾ばかりを食い入るように見つめる。思い出すのは、不安をそのまま具現化したような、見たくはなかった夢。わたしではない女性を選び、わたしではない女性に笑いかけ、わたしではない女性に触れる一期。その光景を脳裏に描くだけで、わたしの心は悲鳴を上げ、酸素を血液にのせて全身へと送り出すことを怠っているのではないかと思うほど息が苦しくなる。

 だめだと思うのに、不安に裏打ちされた欲望はもう心の内にはとどめておけなかった。

「お願いが、あるんだけど……」
「はい」
「……そっちに、行ってもいい?」

 一期がひゅっと息を飲むのがわかり、わたしの心はいたたまれなさに縮んでいった。
 自分がとても最低なことを言っている自覚はある。彼は決してそういった行為を示唆することのないよう気を遣って、紳士的な振る舞いを心がけてくれているのに、わたしはそれをすべて踏みつけて自分だけの欲に忠実なのだ。彼のやさしさの上に胡坐をかいて、この曖昧な関係に終止符を打つ勇気もまだないくせに、勝手に不安に陥って彼をどうにか自分の傍につなぎ止めておこうとしている。本当にどこまでも臆病で、愚かで、浅ましい。

「……考えてものを言ってますか」

 喉元に刃を当てられたような、ひやりとする声。一期は怒っている。当然だろう。それだけ最低なことを、わたしは言っている。
 そしてさらに最低なことに、わたしは一期が本当に望むなら今この場で身体をつなげてもいいと思っているし、その上で、どんな状況になろうとも彼が決してそれをしないことを、本当はもうわかっている。

 はあ、と一期が溜息をついた。怒っているような、呆れているような、でもわたしを許してくれているような。最後のは自分に都合のいい思い込みというか、ただの願望だったけれど。

「あなたは高を括っているんでしょうが、絶対に何もしないとは言い切れませんよ。最後まではしなくても、触るとか、キスをするとか」
「……うん」
「ここは私の部屋です、周囲にあなたを助けてくれるひとはいない。呼んだって鶯丸さんは来てくれない」
「うん」
「ああもう……」

 ──どうして、そう。彼はそう言い、足を崩し、立てた片膝に肘をついて前髪をくしゃりと乱す。それから、またはーっと長い溜息をついて、ふるふると首を横に振った。

「何も、しませんよ。そんな今にも死にそうな顔をしているあなたに手を出したら、私はただの下衆野郎です」
「……げす……」
「もういいから。来てください」

 上品な見た目にそぐわない、彼らしからぬ乱暴な言葉に思わず目を見開いている間に、一期は再びベッドへともぐり込んだ。掛布団の端をきちんと持ち上げて、わたしを招いてくれる。自分の枕だけを手にしたわたしがおそるおそる身体をそこに滑り込ませると、スタンドの明かりを消して、暗い中でまた息をつく。その息の距離が近くて少しだけわたしの身は固くなるけれど、安心感のほうがずっと強かった。

「……どんな夢を見たんですか?」

 しばらくして、一期が囁くように尋ねる。あなたが違う女性を選ぶ夢だったとは言えず、瞼を閉じて半分だけ切り取った夢の話をした。

「乱が、出てきたの」
「……」
「すごく、冷たい目でわたしを見てた……もうわたしのことなんか好きでも嫌いでもなくて、ただ無関心で」
「……あくまで夢でしょう。現実はまったく違いますよ」
「……そうなのかな」
「皆、あなたを待っています」

 至近距離で囁かれる、高くも低くもない心地好い声。ふわりと子守歌のようにわたしの耳をくすぐっては、わたしの涙腺をも、ゆるゆると刺激する。誤魔化すように枕に顔を埋め、空気に溶けて粒子と混ざり合ったその声の名残を追っては惜しむ。

「お布団、せっかく買ってくれたのに、ごめんなさい」

 本当に謝りたいことはほかにたくさんあったが、そのどれも彼を怒らせることにしかならなさそうで、臆病なわたしは彼が決して怒りそうにないその事柄だけ、許しを請う。
 しばらく一期は黙っていたけれど、やがて掛布団の中で身体をちょっとだけ浮かせた。肘をつき、ゆっくりとわたしの顔を覗き込む。横目でそれを見ていたわたしの視界に、彼のうつくしい首筋と鎖骨が飛び込んできて、鼓動が一息に跳ねた。

「では、布団代をください」

 あ、と思う頃には一期の唇がわたしの額に触れ、すぐに離れていった。本当に一瞬のことだったので、布団代とはお金を払えということだろうかなんて完全に出遅れた思考が脳裏をよぎっていく。
 ぽすんとうつ伏せに身を投げ出し、一期は沈黙している。ええと、と言葉を選ぶけれど、結局あまり意味はなかった。

「……」
「……」
「そ、そんなのでいいの……?」
「……そんなのとはなんですか。お願いだから、それ以上迂闊なことは言わんでください」

 ──もう寝て。ごそごそとこちらに背を向けた彼にそう続けられ、わたしは時間差で熱くなってきた顔を持て余し、こんな状態で眠れるだろうかと心配になる。でもそれはまったくの杞憂で、再び瞼を閉じれば心地好い温もりも手伝って、すぐに眠気は訪れた。

 瞼の裏に、乱の姿が浮かんだ。底冷えのするような、青い瞳。あの冷たい視線を、わたしは明日──日付が変わったからもう今日になるが──受けることにはならないだろうか。彼は、みんなは、本当にわたしを待っていてくれてるのだろうか。
 不安で押しつぶされそうになる心をまるで見透かしたみたいに、こちらを振り返った一期が無言で手を伸ばし、頭を撫でてくれた。さっきは触れそうで触れなかったその指の感触に、わたしの胸は痛みと苦しさを伴いながらも、彼に触れられるじんわりとした心地好さを覚えてしまっている。

 目が覚めたらわたしは、三年振りにあの家へと帰ることになる。
 もう夢は、見なかった。



 大きな水槽の中で、群れを成した何羽ものペンギンたちがよちよちと岩の上を歩き、次々と水の中に飛び込んでいく。水中を切るように泳ぐペンギンをガラス越しに間近で眺める数人の子どもたちが、手すりから身を乗り出しながら歓声を上げているのを、わたしは後方に設置された大きな椅子に座りながらぼんやりと眺めていた。

 ペンギンというのは足が短く見えるけれど、実際はお腹の皮下脂肪の内側に長い足があるのだと聞いたことがある。でも、足の長いペンギンを見たいかと聞かれれば今そこではしゃいでいる子どもたちはノーと答えるのだろうし、わたしもそう聞かれたら答えはノーだった。あの短く見える足でよちよち歩いているから可愛いのだ。
 ──と思ったけれど、好奇心旺盛な子どもは足の長いペンギンというのも知りたがるかもしれないなあと、可愛らしくはしゃぐ声を聞きながら思い直す。

 陸でのたどたどしい動きとは打って変わって、水の中のペンギンたちはとても鋭敏だった。空を飛ぶことができない代わりに、泳ぐことに長けているんだろう。可愛い、すごいと水槽の前でまた歓声が飛ぶ。土曜だから家族連れが多かったけれど、わたしと同じように椅子に座っているのはカップルばかりだった。ちょっとだけいたたまれなくなって、俯いて左右の靴を擦り合わせたところで、まるで見計らったかのように横から声がかかる。

「こんなところに、いたんですか」

 誰かなんて見なくてもわかった。それでもわたしの視線は吸い寄せられるようにして彼を見上げた。一期は少し眉根を寄せ、唇を引き結んでわたしを見下ろしている。怒っているというよりは、寂しそうとか悲しそうだった。

「手洗いからなかなか戻って来ないと思えば……どうして一声かけてくれなかったのです」
「……だって、お楽しみ中みたいだったし」
「はい?」

 ほんの五分ほど席を外し、トイレから戻ってみれば、一期はまたも女性二人に声をかけられていた。昨日は、すぐに彼がこちらへと気付いてくれていたけど、今日は位置が悪くてそれも叶わなかった。しばらくその光景を眺めたあと、わたしは踵を返して足の赴くままに歩き出し、このペンギン水槽へと辿り着いていた。

 一期は悪くない。彼に話しかけていた女性たちも悪くない。悪いのは、臆病なわたしだ。三人の間に割り込んでいく勇気が出なかった。わたしは一期の恋人ではない。妹でもない。わたしとの曖昧な関係を彼がなんと説明するのか、それを彼女たちがどう受け取ってどんな反応を示すのか、知るのが怖かった。
 どこまでも面倒で、可愛くない。一期だって、わたしと同じような気持ちになるということはもう何度も体験して知っているけれど、それでもやっぱり自分自身のこととなると許容し難くなるのは確かだった。

「怒っているんですか……?」
「……怒ってません」

 悲しげに問われて心が揺れる。ふいと逸らした視線をまた水槽のほうへ向けて返事をすると、丁寧語で返されたのが堪えたのか一期の纏う空気がますます悲壮なものに変わった。
 隣に腰掛けた彼が膝に置かれていたわたしの手を取った。ゆるゆると親指で爪を撫でられて、力を込められているわけでもないのに、そこはどんどん逃げ場を失っていく。

「どうしたら機嫌を直してくれますか」
「だから、べつに、その……そう、ただペンギンが見たかったの。ペンギンが可愛かったから見に来ただけ」
「……はあ」

 苦しい言い訳をすると、途端に一期の返事が気の抜けたものになる。自分でも何を言ってるんだろうという自覚はあった。でももう取り消すことなんかできないから、ただひたすらに水槽に視線を固定した。その中で泳ぐ肝心のペンギンの動向はまったく頭の中には入ってこなかったけれど。
 隣で一期が同じように視線を水槽へとやるのがわかる。さぞかし呆れるか、笑うかするだろうと思ったのに、返ってきた答えは至極真面目なトーンだった。

「そんなに可愛いですか」
「……うん」
「なるほど、いいですねペンギンは。可愛いってだけで、あなたの視線を独り占めできて」

 少しかさついた指の先が、いっそうやさしげに、けどどこか投げやりに、熱を持ってわたしの肌を撫で上げていく。
 思わず一期のほうを見れば、彼はものすごくばつの悪そうな表情をしていたが、わたしが視線をあちこち転々とさせながら戸惑っていると、ふはっと噴き出して反対側の手で頬杖をつき、首を傾けてわたしを見た。

「どうやら私は鳥に嫉妬する運命にあるようですね。鶯しかり、ペンギンしかり」
「……」
「鶴も鳥だな、そういえば」

 水槽の中がよく見えるように照明の絞られたこちら側で、一期は微笑む。──やっとこちらを見てくれましたね、と。
 再び俯くわたしの手を取ったまま、彼は立ち上がった。

「そろそろお昼ですから、昼食を食べて──うちへ帰りましょう」

 うちへ、帰る。その言葉に、わたしの心臓は否応なしに音を立てて鼓動を速める。
 朝、帰る前に水族館へ行こうと言ったのは一期だった。たぶん彼は半年前のことを覚えていて、まだ気にしてくれていたのだろう。ここがそのとき家族で訪れた場所だとは言わなかったが、きっとそうに違いないと思った。わたしは──わたしはまだ『家族』なのだろうか。彼にとっても、ほかの皆にとっても。

 手を引かれたまま、大きな水槽の前を通り過ぎる。空を飛べないペンギンは、水の中をすいすいと自在に泳いでいた。
 わたしは、昏くて寂しいあの水底へ、戻らなくても済むだろうか。

 一期が苦しさにのたうちながら何度も教えてくれた呼吸の仕方を、手放さなくてもいいんだろうか。


 レストランで食事をとり、お土産屋さんを少しだけ覗いて、小さなイルカの置物を買った。お隣のあの子にあげるのだと言えば、一期は本当に姉妹のようですねと笑う。

 水族館を後にして、再び一期の運転する車に乗る。初めはぽつぽつとあった会話も、辺りの景色が段々と見慣れたものになるにつれ、徐々にお互いの口数が減っていく。
 車が静かに徐行して、完全にエンジンが止まったとき、わたしの心臓は痛いくらいに跳ね上がって、まるで全身の血液が沸騰したみたいになっていた。

 耳の裏で感じるどくどくとした鼓動がうるさくてたまらない。頭がくらくらする。息が苦しい。手が震える。指の先の感覚がない。暑いのか寒いのかもわからない。喉がからからに渇く。鼻の奥がつんとする。目の前が暗くなる。怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い!

「大丈夫」

 隣から伸びてきた手が、感覚をなくしたわたしの指を握ってくれる。

「絶対、大丈夫だから」

 耳朶を撫でる穏やかな響きのうつくしい声は、確かにわたしに息をさせてくれた。

 一向に車から降りることのできないわたしの手を、ぐるりと外から助手席側にまわった一期がやさしく引き寄せて地面に立たせた。わたしの旅行鞄は相も変わらず一期が持っている。受け取ろうと手を伸ばしても、やっぱり彼はそれを許してはくれず、後ろへと隠してしまう。
 降り立ったそこから、眼前を見上げた。屋根が陽射しを遮って、地面に木漏れ日のような影をつくり出している。相変わらず大きな家だった。三年前と変わらない。十一年前とも、変わらない。
 十一年前、小さな子どもだったわたしはおそるおそるこの家の門をくぐり、そして三年前、大人になったわたしはただ静かに息をひそめながら、この家を出た。

 一期に手を引かれ、玄関の扉の前に立つ。わたしにとってはもはや麻薬にも似た、心地好い声が催促をする。

「鍵を開けて」

 促されるままに、ショルダーバッグからわたしの部屋のものではない鍵を取り出した。ちゃり、と音が鳴る。デフォルメされた白猫のキーホルダー。わたしの、何にも代え難い宝物。
 これを与えられたばかりの頃はただ嬉しくて、それを見透かしていた一期が何度も何度も、今この瞬間のときのように使う機会を与えてくれたっけ。
 すっと鍵穴に鍵を差し込む。ほとんど条件反射のように、慣れた手つきでそれをまわしていた。

 かちゃり。

 鍵を抜き、それを鞄にしまい、また手を下げた。今度は一期は無理に促したりはせず、自ら手を伸ばして取っ手を掴み、扉を開けて中へと入った。

「……」

 家の中は、しんとしていた。誰も、いないのだろうか。玄関に出ている靴の数は、わたしが記憶している日常よりもずっと少ない。白い壁、長い廊下。すぐ左手にある靴箱の上に飾ってあるものは、わたしの記憶とは違い、何かの賞状となっていた。誰のものだろう。名前をきちんと確認する前に、隣で一期が家の奥に向かって声を上げる。

「ただいま、帰りました」

 がちゃ、ばたん! 途端に音が響く。一階のリビングじゃない。二階。いちばん奥の広い子ども部屋。とたたた、という軽い足音。とんとんとん、階段を下りてくる音。玄関の、すぐ目の前にある階段だ。途中で折れたそこを曲がって、ぱっと誰かが姿を現す。
 誰か、じゃない。わたしはこの足音の主を知っている。誰かなんて、見なくてもわかる。ほんの幼い頃から──彼が二歳の頃から、ずっと、知っている。

「いち兄! おかえりなさ……」

 ──ああ、と溜息がこぼれ落ちるのと、彼が、秋田が、ぴたっとその動きを止めるのと、どちらが先だったろう。
 薄紅色をしたふわふわの髪、色白の肌、大きな蒼い瞳。面影はあった。けれど、わたしの記憶の中の彼とはまるで違っていた。当たり前だ、とぼんやり考える。この家で、この子と最後に別れたとき、彼は十歳だった。もう三年が経つ。十三歳。子どもが劇的に変化する年頃だと言っていいだろう。もう中学生なんだ。初めて会った頃は、まだよちよち歩きで、わたしの後ろをとことことついてまわっていたのに。

 一期が隣で何かを言った気がしたが、わたしの耳には入ってこなかった。秋田の耳にも、きっと入ってはいなかっただろう。くしゃっと彼の顔が歪んで、あ、と思ったその次には、ばたばたという足音と泣き叫ぶ声がわたしの脳を芯から揺らしていた。
 勢いよく抱きつかれ、身体が思いきり後ろへ倒れそうになったところを咄嗟に一期が支えてくれる。靴も履かずに三和土へ降りて、泣きながらぎゅうぎゅうとわたしを抱きしめる秋田はずいぶんと背が伸びていた。以前はわたしの肩くらいまでだったのが今ではもうほとんど同じ、違っても二、三センチほどしか変わらないようだった。わたしの肩口に顔を埋め、彼は嗚咽を漏らしている。わたしを支えながら、一期が弟の髪をやさしく撫でてやっていた。

「……っひ、うぅ、おね、おねえちゃっ……お姉ちゃん……」

 わたしを呼び続ける秋田の背にゆっくりと腕をまわし、一期がしているように撫でた。おんなじように肩口に額を寄せると、自然と涙が溢れ、こぼれ落ち、嗚咽となって秋田の服に染み込んでいく。

 ──ごめんね、ごめんなさい。

 何度も彼の耳元で囁きかけた。秋田はそのたびに頷いて、またわたしを呼ぶ。
 途中から一期はわたしの頭も撫でてくれていた。大きな手のひらの感触はただとても心地好く、ただとても、苦しかった。


 家にいたのは秋田のほかに、平野、薬研、後藤、骨喰、そして──乱だった。ほかのみんなは部活だったり、仕事やバイトだったりして、夕方か夜まで戻らないのだという。
 秋田はぐすぐすと鼻をすすりながら、わたしの右腕に抱きついて離れようとしない。それを薬研がなだめてやりながら、元気そうで何よりだとわたしに笑いかけた。いつも飄々として頭が良く、周りをよく見ているこの子にわたしは勝てたためしがなかった。その後ろに立つ後藤は涙目になりながら、決して視線を合わせようとはしてくれない。人一倍寂しがりやな子だった。いつも身長を気にしていたから、少し伸びたんじゃないかと話しかけたら、ますます俯いた彼が小さくぶっきらぼうに、少しじゃないと返す。

 骨喰がわたしの目の前に来て、ただ何も言わず頭を撫でる。このひとは、言うなればわたしの『同志』だった。波長が合っていたのだと思う。今は鯰尾と共に家を出たと聞くから、その片割れはどうしたのかと問えば、涼しい顔で休日出勤だと言った。少し意外だったのが、平野だった。彼は年少組の弟たちの中ではかなりしっかりした子で、泣いているところなんかほぼまったく見たことがなかったが、わたしを目にした瞬間、秋田とまったく同じ行動を取った。今はわたしの左腕から離れようとせず、一期に頭を撫でられている。

 そして、わたしがもっとも気にしてやまない彼は──乱は、先ほどからじっと黙って俯いたまま、リビングの真ん中に立つわたしたちからは大きく距離を取って、部屋のドアの前から動こうとしなかった。

「乱、こちらへ来なさい」

 ちらちらと視線を送ってしまうわたしを見かねてか、一期が声をかけるけれど、やっぱり動く様子はない。ずきずきとわたしの胸が痛む。昨夜見た夢が脳裏をよぎる。底冷えのするような、青い瞳。好意ではなく、嫌悪でもない、ただただ無関心を貫いた、冷たい視線。
 薬研が近寄り、乱の腕を取ってこちらへと来る。乱はされるがままだった。ほれ、と言ってひとつ違いの弟の背中を押し、薬研はわたしの左腕にくっついていた平野をやさしく引き寄せる。おんなじように、右腕に抱きついていた秋田は骨喰が引き取った。自由になった両腕で、わたしは何をしたらいいのだろうかと不安になる。

 目の前に立つ乱は、秋田ほどではないが少し背が伸びていた。三年前はわたしとほとんど変わらなかったはずだけれど、今は少し見上げなければならない。きゅっと引き結ばれた唇も、細い顎のラインも、薄い肩も、中性的な感じがだいぶ抜けて男の子らしくなっていた。飴色の髪に隠された瞳は、今は窺い知ることができない。どんな色を湛えているのだろう。

 彼は、幾つになったのだったか。わたしとは三つ違いだから、ちょうど二十歳のはずだ。この家を出たあのときのわたしと、同じ歳。

「……きらい」

 引き結ばれた唇が震え、ぽつりと言葉が吐き出される。ひゅっと飲み込んだ自分の息の音を、どこか他人事のように自分の耳が拾う。

「きらい、だいっきらい、お姉ちゃんなんか嫌いだ、今まで、ボクらがどんな……」
「……」
「……っ、どんな、思いで……、ひどい、ばか、ばかばかばか、だいっきらい……!」

 わたしの隣に立つ一期が何か言おうとするのを、袖を引いて押しとどめた。許されるはずがないとわかっていながら、あれほど恐怖のどん底に叩き落とされていたのに、今わたしを切りつけようと放たれる言葉の数々はただの一欠片もわたしを傷つけはしない。何故なら、その鋭利な言葉に切りつけられているのは、わたしでもほかの誰でもなく乱自身だとわかったから。

 乱が顔を上げて、わたしを見る。整った面立ちはくしゃくしゃに崩れ、海よりも深い色をした瞳は濡れて色を濃くしていた。夢の中の、冷たい瞳とは違う。軽蔑するかのようにわたしを見据えていた、あの冷たい視線とは違う。

 手持ち無沙汰となっていた両腕が自然と持ち上がっていた。ゆっくりと目の前に差し出せば、乱が顔をますますくしゃくしゃにして、ひくっと大きく嗚咽を漏らす。飴色の髪を揺らし、彼は大きく一歩を踏み出した。次の瞬間には、もう、華奢なようでいてしっかりと骨格のある、男の子の腕の中にわたしは収められていた。
 わたしの肩にぎゅうと顔を押しつけ、乱は身を震わせて泣いている。背中をあやすように撫で、彼の自慢の飴色の髪に指を絡めた。

「……うそ、うそだからっ……きらいなんてうそ、ごめんなさい、お姉ちゃん、嘘だから、嫌わないで……」
「嫌いになんて、なるわけないでしょう……わたしこそ、ごめんなさい、乱、本当にごめんね」

 うん、うん、と肩口で頷き、整えるようにして息を吸い、吐く。そうして彼はゆっくりと、空気中に張った糸の上へそっとのせるように、わたしが心から待ち焦がれていた言葉を紡いでくれた。

「……おかえりなさい……」

 わたしを抱きしめる腕に力が籠り、まるでその力に押し出されるようにして、わたしの両目からも雫が溢れ出す。それはわたしをこの上なく息苦しくさせるけれど、夢の中の冷たい水に飲み込まれて沈んでいく感じとはまったく違っていた。

「……ただいま」

 ただ、ただ、きっとこれが、わたしが何年もの間ずっと追い求めながら、決して自分自身の器に受け入れることができなかったものなんだろう。
 ──幸せと、いうものなのだろう。



 入室して、用意されていた座布団には座らず、その横に正座して畳に額を擦りつけようとしたわたしを、彼女は「やめなさい」とぴしゃりと叱った。
 その一言で、わたしの身体は硬直し、何もできなくなる。この家に置いてもらっていた八年の間に、彼女はわたしを強制的に従わせるような真似はただの一度もしなかった。それでも、そんなふうに叱られるだけで、まるで身についたもののようにわたしは頭を垂れ、囚人のように沙汰を待つ。
 彼女としては、きっとわたしのそんな態度は本意ではないのだろう。呆れたような、悲しげな溜息がこぼれ落ちたかと思うと、今度はゆるりと柔らかな声が降ってくる。

「そんなところにいないで、ちゃんと座ってちょうだい」
「……でも……」
「いいから、座って。ね?」

 懇願するように言われれば、従うほかはない。躊躇いながら、ゆっくりと座布団の上に移動すると、今度は満足そうな息がこぼされる。
 和室には彼女──粟田口の小母さまだけだった。さっきまで一緒に部屋の外にいた一期が言うには、小父さまはお仕事らしい。一期はわたしと一緒に部屋へ入りたがったけれど、小母さまに「あっちへ行ってなさい」と一蹴され、ぐっと不満を露わにしながら弟たちのところへ戻っていった。いつも弟たちの模範たる兄である優秀な一期が親の前で不貞腐れた態度を見せるのは珍しく、少しだけ新鮮で微笑ましく思ってしまったのは正直否めない。
 膝の上で手を握りしめて俯いていると「顔を見せて」と声がかかる。おそるおそる首を擡げれば、じっとこちらへ視線を注ぐ双眸がそこにあった。

 小母さまは、少しやつれたようだった。半年前に一期と再会したとき、彼も痩せたと感じたが、それよりもずっと顕著に表に出ている気がした。わたしのせいだろうかと、自意識に満ち満ちた思考がよぎっていく。でもそんなふうに考えてしまうほどには、わたしはこの家にいた間、彼女たち夫妻に可愛がられていたという自負があった。

「……見たところ、身体は元気そうね」
「……」
「一人でやっていけてるの? 何か困ったことや、辛いことは?」

 ──ああ、ああ、このひとは、どうして、こうなのだろう。十一年前から、何も変わっていない。孤独だった小さなわたしに手を差し伸べてくれたあのときと、まったく同じ。わたしはあんなちっぽけでそっけない手紙ただひとつを残して、受けた恩を盛大に仇で返したというのに。
 前者には頷き、後者には大きく首を横に振る。自分の顔が、先ほどの乱のようにくしゃくしゃに崩れていくのがわかる。手のひらに爪が食い込むほど握った拳を、すっと伸びてきた細い手がやさしく握る。十一年前と同じようで、でも骨ばったその手の甲は確実に、老いという名の年月の経過を表していた。

「……申し訳、ありませんでした」

 絞り出すように謝罪を述べる。そんな薄っぺらな言葉だけで許してもらえるとは到底思わなかったが、指を握る手のひらの感触は、やさしいままだった。

「別に、責めてるんじゃないのよ。あなたの人生はあなたのものなんだから、好きに生きてくれたらいい」
「……」
「でも、できることならあんなことをする前に、相談してほしかった」
「……はい」

 すみません、と続ければ、彼女も「それから」と続けた。離れていった手が文机の上に置かれていたものを取り、わたしの前の畳の上にすっと差し出す。茶封筒だった。手紙にしては少し厚いそれの中身を予想して、またわたしの顔が歪む。

「これは、返します」
「……」
「今までもこれからも、あなたからお金を受け取るつもりは一切ありません」

 凛とした声音で言われ、恥ずかしさで身体が熱くなる。このひとたちがわたしのために使ってくれたお金の総額を思えば、この封筒の中身など、はした金に違いない。矜持を踏みにじってしまっただろうかと、びくびくしながら封筒に手を伸ばして受け取れば、諭すような、戒めるような、それでいて労わるようなやさしい声が耳朶を撫でた。

「籍が違っても、あなたはうちの子です。親が子供の成長のために使ったお金を、わざわざ返そうとなんてしなくていいのよ」

 羞恥で火照った身体に別の熱がじわりと奔り、染み込み、溶けて混ざり合っていく。掴んだ封筒が手のひらの中でくしゃりと音を立てる。
 独りぼっちのわたしを昏くて寂しい水底からすくい上げてくれたのは、一期だけじゃない。この家の全員がそうだった。子どもだったわたしは、自身が子どもだというその事実に抗うことなどできず、大人の力無くして生きていくことはできなかった。そういう意味に限定するなら、わたしを救ってくれたのは間違いなく粟田口夫妻だった。

 じわり、また熱が浮かぶ。一期も、秋田も、乱も、小母さまも、きっとほかのみんなも。あんなひどい仕打ちをしたわたしを、まだ『家族』だと言ってくれる。

 俯いて唇を噛みしめていると「聞きたいことがあるのだけど」と言われ、目線だけを上げた。小母さまはなんとなく困ったような、どうしたものかといったふうな思案顔でわたしを見ていた。

「一期と、付き合っているの?」

 びく、と身体が跳ねる。また視線を落とし、ほとほとと左右に彷徨わせる。
 付き合っているか、いないかと問われれば、間違いなく後者だろう。一期は変わらず声で、言葉で、手のひらで、全身でわたしを好きだと伝えてくれるけど、わたしはまだ彼に同じだけのものを返す用意がない。一期はたぶん……わたしの想いには気付いていることだろうと思うが、わたしに会いに来てくれたあの日にゆっくりでいいと言ってくれたとおり、急かすような真似は決してしなかった。

 再び目線だけを上げる。小母さまは、今度は少し面白がるような視線をこちらへ向けていた。

「いえ……」
「そう。じゃあ、まだあの子の片想いなのね」

 やっぱり知られているのかとか、片想いというのも少し違う気がするとか、言えそうで言えず口を開いたり閉じたりしているうちに、彼女は息をつき、瞼をそっと伏せた。

「一期で考えていたわけじゃないけど、そうなってくれたらいいなと思うことは確かにあったの」
「え?」
「あなたを養子にすることは叶わなかったし、うちは男の子ばかりでしょう。あなたより年下の子たちはみんなまとめて弟みたいなものだったでしょうけど……鯰尾や骨喰なら似合いの年頃だし、二人ともあなたをよく気に入ってるみたいだったから」

 ──いつか、名実ともにあなたを娘だと言える日が来るんじゃないかって、期待してた。

「でも一期だとは、思わなかった」
「……」
「歳が少し離れているから妹のようなものだとばっかり思ってたけれど、よくよく考えたらうちであの子だけが、あなたを姉妹扱いしてなかったのね」

 やさしく苦く笑われ、どう返したらいいかわからなくなる。そんなわたしを揶揄うように、促すように、彼女は問いを投げかけた。それは、扉を開ける行為に似ていた。

「一期のことが好き?」

 少しの間だけ逡巡してから、わたしは開けられた扉にそっと手を伸ばす。口を開き、乾いた空気をその奥へと取り込む。どうか呼吸を、息を、息を息を息を。

 ああ、なんて。息が、くるしい。



 かちゃ、とドアを開けた先は、とても見慣れた光景だった。

 机と椅子、ベッド、本棚、カーペット。クローゼット、箪笥、その上に置かれたぬいぐるみ。昔、鯰尾がクレーンゲームで取って、わたしにくれたものだ。陽射しが差し込む窓の両脇に掛かったカーテンすらも覚えのある柄で、陽の光によるものではない眩しさに目を細める。
 ぱたんとドアを閉めて、一期がわたしの横に立った。何かの拍子に落ちたのか、床に転がっていたボールペンを拾い上げ、机の上のペン立てへと戻す。そのボールペンも、わたしが昔よく使っていたものだった。

「全員で話し合って、あなたの部屋はそのままにしておこうと決まったんです」
「……」
「平野と前田が、ときどき掃除をしてくれているようですよ」

 ぎゅう、と心臓を掴まれたみたいに、胸が苦しくなる。真綿で締めつけられるような緩やかな痛みは、じわりと染み込む熱さと、ひやりと撫でていく冷たさを同時にもたらした。

 一期、鯰尾、骨喰が家を出ても、兄弟たちのほとんどがまだ相部屋だろう。平野や前田を始めとした下の弟たちだって一人部屋を欲しがる年頃だろうに、聞き分けのいいあの子たちは、この部屋をそのまま残すことに文句など一つも言わなかったのだろう。戻るとも知れない部屋の主を気遣って。

 本棚の前に足を運ぶ。ハードカバー、文庫、ノベルス、参考書。一期がときどき買ってくれたものも、きちんと残されていた。背表紙を指でなぞる。残っているわけがないと思っていた。わたしはもう二度と、この部屋に足を踏み入れることはないと思っていた。

「……ありがとう」

 誰に向けるでもなく、呟いた。それはたぶん、この部屋そのものに対しての呟きだった。
 一期のほうへ視線を向ける。彼は先ほどのわたしと同じように目を細めて、眩しそうにこちらを見ていた。何を思っているのだろう。彼はわたしを見て、何を思ってくれているのだろう。

 ただ、ただ、知りたいと思った。そして、伝えたいと思った。あの寒い冬の日に彼が想いを吐露してくれた、その瞬間から今日に至るまでの長い月日。彼が抱えてきたもの、わたしが抱えてきたもの。確かなようでいてあやふやで、当然の如くそこに在り、それでいて見えず、長い時間をかけて育んできたもの。胸を打ち、視界を彩り、音を歪ませ、わたしたちの息を奪うもの。

 恋と呼ぶにも愛と呼ぶにも、きっと正確には当てはまらない、それは今この瞬間も漂い、そこに在りながら目には決して映らない空気のようなものなんだろう。

「あのね」
「はい」

 言葉にすれば、一期は答えてくれる。手を掴んで、引っ張り上げてくれる。十一年前から、ずっとだ。

「今日、ここに帰って来れてよかった」
「……はい」
「みんなに会えて嬉しかった」
「うん」
「だから、わたしを見つけてくれてありがとう──一期」

 それから、と続けようとすれば、目を大きく見開いた一期に待って、と制止をかけられる。おとなしく口を噤めば、彼は何度も口を開けたり閉じたりしながら、信じられないものでも見るかのような顔でわたしを見ていたけれど、やがてこくりと喉を鳴らし、切なげに眉根を寄せて苦しそうに告げた。彼はわたしといると、いつも苦しそうだった。わたしも彼といると、いつも苦しかった。

「私から、言わせてもらえませんか」

 ごそごそとポケットを探った彼が取り出したものを見て、今度はわたしがゆるゆると目を見開く番だった。手のひらにのせられた、見覚えのある紺のベロア生地のケース。過去を思い出し、ずきりと知らず痛みが奔る。
 あの冬の日の記憶は、わたしにとってほとんど恐怖だった。今はたぶん、もう少し違う。五年半もの間それを手放さずにいてくれた一期に、わたしはどれだけのものを返せるだろう。そう考えることもある意味、恐怖だけれど。

「今すぐじゃなくていい。数ヶ月先でも、数年先でも。いつかでいいんです」

 もう散々待たせてしまったのに、まだ彼は待てると言う。苦しさに喘ぎ、痛みに耐えながら、それでも彼はわたしに触れようとする。

「ここはあなたの家で、私たちは家族ですけど」
「……うん」
「いつか、違うかたちであなたと家族になりたいです」

 きゅうう、と心臓が縮こまり、視界が歪み、急速に呼吸が奪われていく。
 触れようとぎこちなく伸ばした手は、どこにやればいいのかわからず、しばらく彷徨ってから一期の袖を掴んだ。彼が息を飲む音がする。熱を湛えた灯火のような琥珀色が、じっと瞬きもせずにわたしを見つめている。口を開いて乾いた空気を取り込むと、もっともっとと言わんばかりに喉が渇きを訴える。

 それはきっと、扉を開ける行為に似ていた。わたしはもうずっと長い間、その扉の前に立ち、悩み、迷い、幾度も手を伸ばしかけながら、臆病がゆえに何度もその手を下ろしては諦めた。

 今ならもう、迷うことは、ない。

「……散々逃げてきたわたしに、まだそれを受け取る資格があるのなら」

 扉を開けた先にあるのは痛くて苦しいことかもしれないけれど、一期が手をつないでいてくれるなら、もう怖くはなかった。

「ください、ぜんぶ。わたしも、あなたのことが好きだから……そういう意味での、家族になりたい」

 こぼれ出た息が、すぐそこに在る空気を揺らす。
 一瞬の間をおいて、掴んでいた袖を振り払われた。びくりと身体が硬直し、頭が真っ白になりかけるも、すぐに身体を覆う乱暴なほどの熱と力に、拒否されたのかという思考は霧散して消えていった。

 ぽとりと床に、指輪のケースが落ちる。わたしはそれを気にして身を捩ろうとしたけれど、一期はそんなことはどうでもいいようだった。常にないほどの乱暴さでぎゅうぎゅうと押し込めるようにしてわたしを抱きしめる彼が、耳元で熱い息をこぼす。苦しそうに、ただ苦しそうに。
 肩に額を預けてその熱を噛みしめるわたしに、彼は手を、と囁いた。二拍ほどおいて、また言い直す。

「手を、握っても良いですか」

 手を握るどころか今抱きしめている状態で何故、と思うことはなかった。過去をなぞる行為に、一期が意味を見出しているかはわからない。でも、きっと彼にとってもわたしにとっても、意味以上のものが、そこにあるに違いなかった。
 うん、と頷けば、どこか名残惜しそうに身体を離した一期がわたしの左手をそっと掴んだ。ゆるゆると指の腹で手の甲を撫で、手首をなぞり、血管の浮いた薄い皮膚の上を爪で掻く。くすぐったくて恥ずかしくて、ほんの少しだけ変な気持ちになるけれど、恐ろしく思うことはもうなかった。わたしはもう何もかも拒み、ただ背伸びだけをしている子どもではなかった。

 ぐい、とやさしく手を引かれ、指の先にちゅ、と口付けられる。瞼を伏せる一期は、あのときと変わらずうつくしかった。やがて、わたしの指に唇を寄せたまま、そっとこちらを窺う彼の琥珀色の瞳には熱と、わずかな恐怖に似たものが浮かんでいて、小さな罪悪感が頭の中をよぎっていく。

「……怖くない?」
「平気」
「気持ち悪くは……」
「あるわけない、ずっと」

 わたしは、一期がなんでもわかってくれるからといって言葉を空気に触れさせるのを怠ってはならないし、彼はそれとは逆に、もっとずっと、言葉に頼らなくてもいいのにと思う。

「キスを……してもいいですか」

 思った傍から彼が言葉を紡いでいくから、握られた手を軽く揺らして、わたしも言葉を紡ぎ返した。

「もう聞いてくれなくても、大丈夫」

 頬に大きな手のひらが触れる。親指が眦の下をそっと撫でていく。さすがに少し恥ずかしいから目をぎゅうっと閉じた。震える睫毛の上に、熱い息がかかる。その息が、目的の、肝心な場所へと触れるまでの数秒間。そのわずかな時間が過ぎるまでの間に、これまでわたしたちが培ってきた膨大な時間がまるで圧縮されたみたいに押し込められて、苦しくて泣きたくて、仕方なくなる。

 指先に口付けたときと同様にちゅ、と小さく音を立て、すぐにそれは離れていった。もういいのかと瞼を持ち上げるのもそこそこに、またわたしの身体に熱と力が覆い被さる。額に押し当てられる肩は、震えていた。加減など忘れてしまったみたいに、一期は両腕の囲いをきりきりと縮めていった。
 少し苦しくなって、名前を呼んだ。いち兄、と自然に口から出ていて、あ、と思う。

「慣れないから、ついいち兄って呼んじゃう」
「それでいいです」

 肩も、腕も、声も、息も、震えている。髪に差し込まれる手も、耳に触れる唇も、信じられないほど熱くて、でもきっとそれは、わたし自身の体温が信じられないほど上がっているからなんだろう。

「なんでもいいんです、呼び方なんて」

 一期がそう言ってくれて、わたしは十一年前初めて彼をいち兄と呼んだときのことを思い出した。やさしく微笑んで、好きなように呼んでくれたらいいという言葉に、独りぼっちのわたしがどれほど救われたか。あのとき初めて、彼はわたしに息をさせてくれた。

 一期は呼吸ができているだろうか。苦しくはないだろうか。苦しくても、わたしが息を吹き込むことはできるだろうか。わたしが彼の手を取って、昏くて寂しい水底から引っ張り上げるなんてことも、ひょっとしたらあるのかもしれない。
 彼がわたしにくれたものを、わたしが彼から奪ってしまったものを、これから先、今まで遠回りした分のさらに何倍もの時間をかけて、返すことができるようになればいいと思う。

 腕の力を少し緩めてくれた一期がなんだか言いにくそうに口ごもっているから、気になって促せば、やっぱりもう一度キスをしてもいいですかと返ってきて、さっき聞かなくても大丈夫だと言ったばかりなのにまた律儀に許可を求める彼を、そんな彼をわたしはとても愛おしいと思った。

 返事の代わりに一期の指を掴み、目を閉じる。こくりと間近で喉を鳴らす音。瞼の上を撫でる息が場所を移し、鼻先を掠め、肝心なところへと触れるまでのわずかな時間。何をするでもなくただそこに在る、空気にも似た、わたしたちをつなぐもの。

 さっきよりも少し長く呼吸が唇へと触れて、混ざり合った。

 ──もう、苦しくは、ない。


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