『一期、おまえさんの“妹”を見つけたぞ』

 高校時代の先輩であり、今や新進気鋭のデザイナーでもある鶴丸国永から電話でそう言われたとき、私の胸に去来したものは驚きよりも嬉しさよりも、まず恐怖だった。
 驚愕も歓喜もまったくなかったわけではない。ただ、それらを一息に飛び越えて私の中は恐ろしさでいっぱいになった。それが何故なのかを私は自分でよくわかっていたし、恐ろしいからといって鶴丸さんの話を聞かないなどという選択を取れるはずもなかった。私は、喉から手が出るほど彼女の消息を欲していた。

 どこでですか、と尋ねる私の声は、きっと電話越しでもわかるほどに震えていたと思う。その震えを鶴丸さんが驚愕ととったか歓喜ととったか、或いは恐怖からだと見抜いたか。私にはわからない。

『光忠の話はしたことあったか? 俺の幼馴染でシェフをしているんだが──そいつの経営するレストランでだ。俺の顔を見てひどく慌てていた。こっちは素知らぬふりを通したが、あの警戒っぷりからするとばれていたかもしれん』

 鶴丸さんがうちへ遊びに来ていたのはもう七、八年も前になるだろうか。あの子はまだ中学生かそこらだったはずだ。彼によく懐いていたほかの弟たちとは違い、人見知りをする彼女は挨拶くらいしかしたことがなかったはずだが、成長した姿を見てもわかるほどに彼の記憶には残っていたということなのか。
 鶴丸さんには私が彼女に恋をしていると告げたことはなかった。同じ家に住む家族、『妹』としての紹介しかしていなかった。両親があの子を家に迎え入れたとき私は高校三年生で、すでに鶴丸さんとは旧知の仲だったから、よそから引き取った子だということは話してあったが、それだけだった。でも彼はたぶん、気がついていたのだろう。あとに続けられた言葉がいつになく躊躇いがちだったので。

『それとな──男と一緒だった』

 どくり、と。心臓が嫌な音を立てた気がした。
 私が感じていた恐怖は、まさしくこれだったのだ。

 同じ屋根の下に住んでいても、五つの歳の差がある私は彼女の学校での様子を窺い知る機会などはあまりなく、歳の近い鯰尾や骨喰、薬研、厚、後藤や信濃から伝え聞くばかりだったが、それでもあの子が恋愛どころか交友関係にすらほとんど心を砕いていないことを知っていた。彼女はどこまでも自分の立場と境遇に敏感で、誰の特別にもならず、それでいて誰にとっても好ましく思われるよう振る舞っていた。
 そんな彼女にとって、『家族』である私から向けられる好意はおそらく文字通り青天の霹靂だったのだろう。私を受け入れることは決してなかったが、完全に拒むこともまた、なかった。それが私を調子づかせていたことは間違いない。彼女に迫り、追い詰め、怖がらせ、困らせて、泣かせていた私には、自分なら彼女の特別になれるのではという仄暗い自負があった。拒絶という手段すら使われることなく埒外へと追いやられているその他大勢の男たちとは違うのだと思っていた。
 今にして思えばひどく愚かで、哀れな道化だったとしか言いようがない。彼女のやさしさにつけ込んで下心を隠しもせずその肌に触れておきながら、本格的に拒まれるのが恐ろしくてこちらから突き放したり、己の手前勝手な言動がどれほどあの子を傷つけていたのかを、道化の私はあの日にすべて思い知ったのだ。あの、彼女が何もかも完璧に清算して私たちの前から姿をくらました日に。

 私は血眼になって彼女の行方を追ったが、なんの手がかりも得ることはできなかった。彼女は八年の間に築き上げたものすべてを、何ひとつ持ち去ることなく置いていった。中学時代、高校時代、短大時代それぞれの数少ない友人たちの誰も、あの子の消息を知る者はいなかった。少しずつ時が経つにつれ、私は焦りとともに恐ろしさを感じるようになっていた。

 一年が過ぎる頃、家の口座に彼女からの送金があったと知らされたとき、その恐怖はさらに増した。こんなことをしてほしくて引き取ったわけじゃないとついに泣き出してしまった母を前に私はまたも突っ立っていることしかできず、慰める役を鯰尾と薬研に押しつけて、ただただ自分のことばかり考えていた。

 彼女が誰からの好意も受け取らず、誰の特別にもならなかったのは、自身を『子ども』だとしていたからだ。早く大人になりたかった彼女にとっては枷でしかなかったからだ。そして、私という存在がいたせいだ。私のことを受け入れるか拒むかどちらかしないうちには、彼女は何もできなかった。そして、それを私はわかっていた。
 家を出たあの子に、もう枷はない。歳だって大人だといえる。何より傍に私がいない。それが何を意味するのか。私は空恐ろしくなった。彼女の隣に並び立つ者がいるのかもしれないという恐怖。傍で彼女を支える存在が現れたのではないかという恐怖。
 今度は私が、拒絶という手段すら使われることなく埒外へと追いやられている立場なのでは、と。

 鶴丸さんの話の続きを聞くのが怖かった。それでも、彼女を求める心と天秤にかけてみれば、どちらがより重いかは火を見るより明らかだった。

『そいつも俺の友人なんだが、どうも家が隣同士らしい。ただそれだけの関係だと本人からは申告されたが実際どうなのかは俺にもわからなかった。まあどちらにせよ、若い娘を誑かして食いもんにするような男じゃないことは保証するぜ。そいつにも十歳になる娘がいるんだ』

 娘がいるということは既婚者なのかと、私の心は少し晴れた。自分を厳しく律するあの子は不倫は決してすまいと思ったからだ。
 もっとも、このときの私は鶴丸国永という人物がたびたび持ち上げて落とすという行為を好むことを失念していたわけだが。

『まあ、男やもめなんだけどな』

 しばしの沈黙ののち、意地が悪いですなと返せば、彼は心外だとでも言うように軽く笑って、住所を言うからメモを取れと言った。図らずも他人の個人情報を知ってしまうことに罪悪感と少しの抵抗を覚えたが、誘惑には勝てなかったし、鶴丸さんが誰にでもこういうことをするわけではなく私を信用してくれているからだというのがわかっていたので、私はメモ用紙とペンを引き寄せた。滔々と紡がれる情報を書き写す手は少し震えていたように思う。この文字の向こうに求めてやまなかった彼女がいるのだと思うと、気が逸る一方で恐ろしくてたまらなかった。

『おまえさんの思うままに行動すればいいさ』

 ありがとうございましたと礼を述べて電話を切る間際、そう言った鶴丸さんはやはり私の気持ちなどお見通しだったのだろう。その低く落ち着いた声は恐ろしさを幾らか和らげてくれた。普段は年上とは思えないほど子どもじみた真似などして周りを驚かせたりするくせに、肝心なときにはこうして余裕たっぷりにこちらが欲しいと思う言葉をくれるからたちが悪いし、敵わない。

 通話を終えたスマートフォンを行儀悪くも寝台へと放り投げ、椅子の背もたれに体重をかけて天井を仰ぎ息をついたあと、私は机の一番上の引き出しを開けて中からそれを取り出した。ちゃり、という音は二年半の間に散々聞き慣れたものだ。小さな鍵と、小さなキーホルダー。無聊を慰めるために時々こうして引っ張り出しては眺めることを繰り返しているから、白い猫のキーホルダーはだいぶくたびれてしまった。もっとも、これを購入したのは十年も前の話だから、それも当然のことかもしれないが。

 同じ屋根の下で暮らした六年半。二人きりで話すこともなくなった一年半。私の前から彼女が姿を消して二年半。
 十年という歳月は、決して短いものではなかった。

 白いメモ用紙の上に鍵とキーホルダーを置いた。記された場所は遠いようで近く、また近いようで遠くも感じた。会いに行けるのは休日、最短でも三日後だろう。別に、有休を使えば明日にだって行けると思うが、私の中の意気地のない部分が躊躇いを伴って顔を覗かせた。やはり、怖い。どうしたってそれは拭えない。
 あの子は私からの圧力に耐えられなくなって、答えを出す前に逃げたのだ。私を受け入れることも拒むことも選ばず──いや、ある意味では最大の拒絶をして、私の目の前から消えてみせたのだ。いつか戻ろうなどという軽い気持ちで出て行ったのではないだろうし、私との再会など望むこともなく、きっと考えてすらいないだろう。
 だから、怖くてたまらない。突然私を目の前にしたら、彼女はきっと逃げ出すに違いない。手紙の短い一文などではなく、今度こそ声で、言葉で、手足で、全身で、私を拒絶するに違いない。音も温度も伴わない文字の羅列だけで、あれほどどん底に叩き落とされた私がそれに耐えられようとは到底思えなかった。

 怖い。恐ろしい。でも、それでも。
 どれほど臆病な自分が恐怖を主張しようと、会いに行かないという選択肢はこのとき一切浮上しなかった。

 行けば私は見たくないものを見るかもしれない。聞きたくないことを聞くのかもしれない。知りたくはなかった事実を知ってしまって、後悔にのたうち回るのかも。それでも、それでもだ。会いたいと、そう思った。顔が見たかった。声を聞きたかった。私を絶望の淵へと突き落とすような言葉がその口から直接紡がれたって構わない。たとえそうなっても、話をしたかった。
 私の傍にいることが苦痛だというなら、帰ってきてくれなくてもいい。私を見てほしいと、以前のようにはもう望まない。ただ、許されるなら、もう一度触れたかった。触れて、あのぬるま湯にゆっくりと沈められていくような息苦しさを思い出して、ただ、ただ、そう。

 ──私はあなたにも、苦しいと言ってほしかった。



 夢と現の狭間にある海で、ふと意識が引っ張られる。
 自分は今眠っているんだな、これから目覚めるのだなということがわかる、境界線の曖昧な世界。その水底を蹴って、上へ上へと意識を浮上させる。緩やかな覚醒は、水面から顔を覗かせる感覚に似ていた。大きく息を吸って肺に空気を取り込むと同時、うっすらと開いた瞼が視覚情報を求め始める。無意識にびくりと身体が跳ね、それで自分がどんな恰好をして寝入っていたのかが知れた。床に座り込んで立てた片膝の上に腕を置き、そこへ額をつけていたものらしい。動くことで耳に入る衣擦れの音が、覚醒をよりはっきりしたものへとさせていく。

 とん、とん、と一拍ずつリズムを刻むように視線を移動させると、まずなだらかな肩が視界に入った。次いで髪、細い首元、シーツの上で丸まった手。横向きに寝そべっているから、ぺたりと頬を布団につけたその顔は置かれた手に遮られて口元が見えない。それでも耳をそばだてれば微かに寝息が聞こえたし、肩と腕はわずかに上下しているのが見てとれた。なんとなくほっとして、軽く息をつく。

(……今何時だろう)

 明かりのついていない部屋の中は薄暗く、腕時計の文字盤を読み取ることはできなかった。羽織ったままのジャケットのポケットからスマートフォンを取り出して確認すると、デジタルの数字は十九時台を示していて、三時間近くも寝入っていたことになる。昨夜は緊張してあまり眠れなかったから、張り詰めていたものがほどけると同時に疲れた身体を支えていた糸も切れてしまったものらしい。体勢がさほど良くなかったので身体の疲れは取れているとは言い難いが、頭はずいぶんとすっきりしていた。でも、それはたぶん別のことがおもな理由だった。

 スマートフォンをポケットへと戻し、ほんのしばらく無為の時間を過ごしてから、床に手をついて布団の傍へとにじり寄る。きしり、とわずかに音を立てたフローリングの床が彼女の眠りを妨げることはないようだった。寝息の感覚は変わらず、呻き声が聞こえることもない。

 よく、眠っている。
 たまらない気持ちになって、シーツの上で丸められた小さな手に指を伸ばした。するりと指先で手の甲に触れ、少しだけ力を込めて全体を包み込む。あたたかくて柔らかで、滑らかな手指。こうして彼女の手に触れるのは何年ぶりのことだろう。知らず、熱い吐息が口からこぼれ出た。

 カーテンの引かれていない窓の外からぼんやりと差し込む街灯の明かりが控えめに彼女の姿を浮かび上がらせていた。赤く泣き腫らした目元が見え、そこに口付けたくなって顔を寄せそうになるのをぐっと堪える。口付ける、という行為に関して私は以前大きな失敗をしているし、何より寝込みを襲うような真似はしたくなかった。
 それに、そんなに性急に事を運ばなくたってもう良かった。彼女は今日ようやく、ようやく私を受け入れ始めてくれたのだから。
 先ほど玄関先で聞いた言葉を、浅はかな私が己に都合良く解釈しているのでなければ。

 別の人間に恋などしないというその言葉は彼女にとって精一杯の告白だったのだろう。臆病な私はつい、それがあとで一時の気の迷いだったと言われても良いように先回りして保険をかけるような物言いをしてしまったが、嬉しくないわけがなかった。彼女のほうから私に触れてくれたことも、そうだ。以前私はつまらない自尊心からその手を振り払ってしまったのに、彼女だってそれを忘れてはいないだろうに、また手を伸ばしてくれた。怖かったろうに。苦しかったろうに。私を受け入れることは苦痛でしかなかっただろうに、彼女はぜんぶ飲み込んで、私が欲しいと思ったその一言をくれたのだ。──苦しい、と。

 傍にいられなくても良い、私以外の男を選んだって構わない。そう思っていたのは確かに本心だったはずなのに、今となっては詭弁でしかなかったと思い知る。傍にいたい。隣に並び立つ権利を誰にも渡したくない。臆病なくせに欲しがりな私は、ずっと求めていたものを今手に入れかけて、有頂天になっている。

 ほかの誰でもなく私の腕の中で、ずるずると床に座り込んだ状態になるまで彼女はひとしきり泣きじゃくったあと、いつの間にか眠りに落ちていた。張り詰めていたものがほどけ、糸の切れた人形のようになっていたのは彼女も同じことだったのだろう。想像や夢の中でしか抱きしめることなんて叶わなかったその身体を引き離すのは忍びなかったが、ずっとそのままの体勢でいるわけにもいかず、私は勝手をする旨を小さく詫びてから靴を脱がせた彼女の身体を抱き上げて部屋の中へと足を踏み入れた。あまり物の置かれていない七帖ほどの部屋の隅にマットレスに敷かれた布団があったので、そこへ彼女を寝かせ、皺にならないよう上着を脱がせた。脱がせるときに邪な気持ちは一切芽生えなかったと言えば嘘になるが、意識のない女性に無体を働こうなどとは露ほども思っていないと誰が聞いているわけでもないのに弁明をし、さすがに上着と靴以外を脱がせる気は起こらなかったのでそのまま掛布団を被せて、少し離れた場所へ下がって息をついた。布団の傍に置かれていたかごの中身からは全力で目線と意識を逸らした。同じ家で六年以上暮らしていたのだから洗濯物など見慣れているだろうと言われればそうなのだが、恋心を自覚してからは私は常に誘惑と戦わなければならなかったのだ。また誰に聞かせるでもない弁明をするならば、私はその誘惑に決して屈しはしなかった。……完全に打ち勝っていたかというと、怪しい案件が二、三あることは確かだが。

 少し後ろめたいことを思い出してしまい、触れているのが心苦しくなって指を離す。相変わらず寝息が乱れることはなく、身じろぎすることもない。本当によく眠っていた。後ろめたさが下心を上回っていたのは束の間のことで、手を離していると今度はやっぱり口付けたくなった。手の甲、指先、首筋、髪、額、頬、唇。いつか触れることを許される日は来るだろうか。
 ずっと眺めていると本当に変な気を起こしそうになるので、ふと思い立って立ち上がり、すぐ傍の窓にかかったカーテンを引いた。淡い光源が遮られ、ぼんやりと柔らかな輪郭を保っていた彼女の姿が影に包まれる。

 キンコーン、という金属を叩いたようなベルの音が鳴り響いたのは、再び腰を下ろそうとする直前だった。
 びくりと肩が跳ね、知らず身体が硬くなっていた。続けて再び聞こえてくるだろう音を予想して無意識に身構えていたが、次に耳に入ったのはベルの音ではなく、控えめなノックの音だった。キッチンと玄関口のほうへ視線をやる。部屋を仕切っている引き戸は私が開け放したままにしていたから、ノックのあとに続けられた「鶯丸だ」という声は小さくくぐもってはいたものの、しっかりと耳に届いた。

 鶯丸というのが鶴丸さんから聞いていた、先ほどの隣人男性の名だと気がつくのに時間はかからなかった。あとで部屋を訪ねると言われていたことを思い出し、そこでやっと私は彼女に視線を向けた。一度のベルの音ではその眠りを妨げることにはならなかったらしく、彼女はすうすうと寝息を立てたままだ。なんとなくほっと息をつき、一度曲げかけていた膝を伸ばして移動する。

 インターホンではないから、来客の応対には直接ドアを開けるしかない。一人暮らしの女性には物騒なことこの上ないと眉をしかめてしまうのは建前で、本音は嫉妬だとわかっている。隣人男性に限らず、これまでに何人の人間──ひいては男たちが無防備な姿を晒す彼女に不躾な視線を送っていたかと思うと、憤懣やるかたない。

「……今開けます」

 部屋の引き戸を閉め、家主ではない者が応対に出るということを知らせるために声をかけてから扉を開ける。果たしてそこには松葉色の髪と瞳を持つ男性と、その背に隠れるようにしてこちらを見上げている少女とが立っていた。

「こんばんは」
「……こんばんは」
「夕食は済ませたか?」

 挨拶のあとにまず訊くことがそれなのだろうか。
 虚を衝かれるかたちとなり、改めてまじまじと彼の顔を見る。余裕を失っていた三時間前は注視することもなかったその顔立ちは非常に見目麗しく整っていて、気を挫かれそうになる。男やもめだと鶴丸さんから聞いたときはもっと歳のいった男性を想像していたが、実際にこうして見ると私といくつも変わらないように思える。でも後ろにいる娘さんは、今年中学へ入学した秋田より少し年下だろうかというくらいで、こんなに大きな子どもがいるならやはり見た目通りの年齢ではないのかもしれない。

 わずかに首を傾げるしぐさは大の男がやっても気味が悪いだけだと思うのに、彼には不思議とよく合っていた。見目の良さだけでなく、どこか気品と色気が混じり合うその神秘的な雰囲気にくらりとする女性も多いだろう。あの子はただお世話になっているだけだと言っていたが、それでもなんとなく焦りが募る。

「いえ……まだです」

 夕食は済ませたかという問いに首を振って答えると、鶯丸氏は両手に提げていた小振りの鍋を持ち上げてにこりと微笑んだ。子どものように屈託がない、というのもまた違うが、厭味をまったく感じさせないその笑みは私の警戒心を徐々に溶かしていく。

「簡単なもので悪いが、お裾分けだ。二人分ある」
「私の分も、ですか」
「無論だ。味は、まあうちの娘が美味いと言ったから保障する」

 ずい、と胸の前に鍋を押しつけられ、つい「ありがとうございます」と反射的に受け取ってしまう。うちの娘、と言いながら彼が己の背中にぴっとりとくっついている少女の頭を撫でるので、少しだけ微笑ましくなった。身を屈めて子どもと目線を合わせると、大きな瞳がまあるく見開かれ、肩がわずかに跳ねるのが見てとれた。

「こんばんは」
「……」
「こら、ちゃんと挨拶をしなさい」
「……こんばんは」

 父親に促されて渋々挨拶を返す少女からは、私以上に警戒心が漂っている。子どもの相手は弟たちで慣れている分、そのつっけんどんな態度には少々堪えるものがあったが、致し方ないことだと言い聞かせた。この子にしてみれば、私は突然やって来て隣家の女性に無体を強いる狼藉者にしか見えなかったに違いない。二人で帰ってきたとき、仲睦まじく手をつないでいた様子からして、少女はよく懐いているのだろう。そういえばこの子はどことなく、幼い頃の彼女に似ている。彼女にとってもまた、この少女との交流は深い意味を持つのかもしれない。

「すまないな、少々人見知りなもので」
「いえ、悪いのは私のほうですから」

 屈めていた身体を戻し、鍋を持ち直す。その、と言いよどむ私を見つめるゆったりとした視線はやさしげな、それでいてどこか面白がるような色を湛えていて、気恥ずかしいというかいたたまれないというか、食えない大人の相手をさせられる子どものような心持ちだ。

「その……先ほどは失礼な態度を取ってしまって申し訳ありませんでした。妹がお世話になっているようで、ありがとうございます」
「気にすることはない。大事な家族の傍に得体の知れない男が住んでいたら気が気じゃないだろう。ああ、申し遅れたな。鶯丸という」

 あらかじめ用意してあったのだろう名刺を手渡され、いたたまれなさがさらに増す。当然と言うべきか否か、こちらでは名刺の用意などない。

「頂戴します。……すみません、私のほうは、」
「君のことは鶴丸から聞いて知っている。失礼だが、先ほど確認も取らせてもらった」

 失礼だとは思わなかった。そもそも私のほうが先にこのひとの個人情報を入手してしまっているので失礼だと言われてしかるべきだが、彼はとくに何も言う気はないようだった。
 何をしている方なのだろうと思い、名刺にちらりと視線を落とすと、そこには翻訳家とある。鶴丸さんの顔の広いのは学生のときからだが、彼の知り合いには特殊な職業のひとが多い気がする。自身はデザイナーだし、先日話に出ていた幼馴染のシェフ、もう一人の幼馴染は確か警察官で、ほかにも陶芸家やら弁護士やらモデルやら若手実業家やら枚挙にいとまがない。私自身はしがないサラリーマンに過ぎないが。

「鶴丸から君へ伝言を預かっている」
「……どのような」
「男を見せるまで帰るな、だそうだ」

 ──頭を抱えたくなった。両手が塞がっているので不可能だったが。これだからあのひとには敵わないとか、やっぱりばれているのかとか、第三者になんてことを言っているんだとか色々こぼしたくなったが、私の口から出たのはか細い溜息だけだった。
 鶯丸さんはゆったりと笑んだまま、何を問う気もないようだ。私と鶴丸さんのそれぞれの話が食い違ってちぐはぐであることに彼は気付いているだろうに。

「貴重な休日に朝から娘が世話になったから彼女に礼を言いたかったんだが、今日はもう無理だろうか」
「あ……はい、その、妹は今眠っていて。また明日にでも改めて挨拶に伺わせますから」
「いや、それには及ばんさ。君との時間のほうが彼女にとっては大事だろう」

 かっと身体が熱くなる。完全に見透かされてるように思う。鶴丸さんはおそらく先ほどの伝言のような思わせぶりなことしか口にしていないだろうに、このひとにはもう何もかも知られてしまっている気がした。このアパートのつくりでは、きっと薄い壁の向こう側へと彼女の泣き声が彼と彼の娘にも届いていただろう。それを彼らが是ととったのか、非ととったのか。つまりはそういうことに違いなかった。

 鶯丸さんはやはり何を問う気もないようだが、言いたいことがまったくないわけでもないらしい。ゆったりとした笑みを崩さないまま、今さらな所感になるが見目と同じくらい良い声を響かせる。私の中で彼の人物評価が徐々に『食えない男』となりつつある。

「詳しい事情は知らないが、無理して妹だと言わなくていいぞ」
「……」
「さっきから──いや、最初からか。恋敵でも見るような目で俺を見ているからな」
「……家族なのは、本当のことです」
「ああ、そうだろうとも」

 ふいに彼が私の顔を覗き込み、そのあと顎に手を当てて肩やら腰やらに視線を寄越す。

「……なんでしょう」
「いや、君の背丈は俺と変わらないな。体格も、まあ似たり寄ったりか」
「それが何か」
「今日は帰らないんだろう? 着替えが必要なら貸すから取りに来るといい」
「……」

 前言撤回だ。なりつつある、じゃない。このひとは完全に『食えない男』そのものだ。
 どっと疲れが押し寄せてきた私は、もう諸手を挙げて全面降伏するしかなかった。

「もちろん、君がまだ男を見せていなければの話だが」

 ──両手が塞がっていて不可能だったので、撃ち落とされた。



 ひとの話し声で、目が覚めた。
 目が覚めた、ということはどうやらわたしは眠っていたらしいと、ひどくとりとめのない思考がぼんやりとよぎっていく。瞼を持ち上げると、ぱりぱりと剥がれるような感覚がした。映し出された視界は墨を塗りたくったように真っ暗で、ゆっくりと時間をかけて目がそれに慣れていった。部屋の明かりはついておらず、カーテンも閉めきられている。ひゅう、と息を吸うと、やたらと喉が渇いていて、思わずこくりと唾液を嚥下した。
 ぴくり、とわずかに動いた指先が捉えたのは柔らかな布地の感触で、それがシーツだとわかる。慣れ親しんだ手触りから、自分の部屋の布団なのは間違いない。きょときょとと視線を彷徨わせると、暗い視界の端にうっすらと光源があって、ごろりと寝返りをうって身体をそちらに向けた。

 キッチンと玄関口へと続く引き戸に嵌め込まれたすりガラスが細く小さく通している光は玄関の扉の向こう、アパートの廊下の常夜灯だろうか。ぼそぼそとした低い話し声が聞こえる。今眠っていて……とか、また明日にでも……とか時折聞き取れる部分以外は何を話しているのかわからない。

 やがて声が途切れ、ぱたんとドアが閉まる音と、短く床を踏みしめる足音。からりと引き戸が開き、暗闇の中でもそれとわかる明るい春空が視界に飛び込んでくる。

「ああ……すみません、起こしてしまいましたか」

 互いに闇に慣れた目が視線を交わし合って、彼が安堵とも悔恨ともつかない溜息をこぼす。
 引き戸を閉め、一期は布団の傍に寄って膝を折った。手に持ったものをことりと床に置くので、何かと思ったら鍋だった。白色の小振りの深鍋には見覚えがある。

「先ほどの隣家の男性が夕飯をお裾分けしてくださいました。ポトフ、美味しそうですよ」

 一期が鍋の蓋を開けて言う。煮込んだ野菜とスープの良い匂いが漂ってきて、胃がきゅうっと小さく鳴った。わたしはお腹が空いていた。今何時だろう。どのくらい寝ていたのだろう。もう夕飯の時間なのか。一期はずっとここにいたのだろうか。今来ていたのは鶯丸さんだったのかな。ポトフ美味しそう。おなかすいた。
 とりとめのない思考が次々と浮かんでは消えていく。言いたいことも聞きたいこともたくさんあるはずなのに、どんなふうに話しかけたらいいのかわからない。寝そべったまま一期を見上げると、彼もどう振る舞えばいいのかわからないようで、眉尻を下げて困ったようにわたしを見た。なんだか少し安心した。

 シーツの上に手をついて身体を起こそうとすると、眼前の大きな両の手のひらがしばらく迷うように空を掻いてから、ゆっくりとわたしの肩と腕を支えてくれた。流れる髪がぱさりと手の甲に落ち、大げさなほど肩を揺らした彼がすみませんと小さく言って手を離す。気恥ずかしくなって俯き、胸元に指をやって初めて上着を着ていないことに気がついた。察したらしい一期がまたすみませんと慌てたように言う。「着たままでは寝苦しいかと……あの、余計なところには一切触ってませんから」と続けられる言葉に、わたしはこくこくと頷くことで精一杯だった。

 玄関先で一期に縋りついて泣きじゃくってからあとの記憶がまったくない。泣き疲れてそのまま子どものように眠ってしまうなんて、彼にはひどく面倒をかけただろう。恥ずかしい。いたたまれない。消え入りたい。布団の上で立てた膝に、きっとひどい状態としか形容できないであろう顔を埋めて隠す。

「気分が、悪いですか」

 降ってくる一期の声音は焦りの入り混じったやさしい気遣いに満ち溢れていて、心臓がぎゅうっと掴まれたように痛くなる。高くも低くもない心地好い声は、散々泣いたあとだというのにまた涙腺を刺激する。顔を伏せたままふるふると首を横に振り、いい加減何か言わなくてはと、わたしは細く息を吸って吐いた。

「……へいき」

 掠れきった声は顔に負けず劣らず、ひどい状態だった。
 膝を抱えていた左手にふいに何かが触れ、びくっと肩が跳ねる。一瞬躊躇する様子を見せたそれは、それでも離れてはいかずにわたしの指先をやさしく掴んだ。

「やっと、声が聞けた」

 ──心臓が痛い。泣きそう。触れたところが熱い。恥ずかしい。そんなにやさしげな声で呼ばないでほしい。そんなに大事そうに扱ってくれなくていい。ああ、ああ、もう。苦しい。息が、くるしい。
 縮こまってまた何も言えずにいるわたしを責めるでもなく、一期は自身も黙ったまましばらくわたしの手を握っていた。時折わたしの反応を窺うようにしながら指先がするりと肌の上を滑る。わたしが嫌がっていないことを確認して、ほうっと息をつくその様子からは、彼がまったく言葉を遣わずに嬉しいと言っていることが顔を伏せたままでも伝わってきて、また息が苦しくなるばかりだった。

 どのくらいそうしていたのか。沈黙を破ったのは一期だった。彼は「お願いがあるのですが」と前置きし、わたしがそろそろと顔を半分だけ上げるのを見計らって、つないだ指先にきゅっと力を込めた。

「絶対に何もしないので……今日、泊めてもらえませんか」

 中途半端に擡げていた首を思わず完全に伸ばして、ぱちぱちと瞬きをして一期を見た。
 暗い部屋の中でもわかるほど彼はばつの悪そうな様子だったけれど、取り消したり冗談にする気はないようで、暗がりに浮かぶ両の琥珀はしっかりとわたしを見据えていた。握られた手から伝わるしっとりと熱を帯びた体温は、そこからわたしの中に入り込んで細胞のひとつひとつを破壊しながら身体の隅々、毛細血管の奥の奥まで循環していくようだ。
 まるでウイルスのようなその熱がわたしの内側へと浸食していくのと同時に、蚊の鳴くような小さな声で続けられた「もっと一緒にいたいです」という彼の言葉がわたしの外側を撫でていく。不覚にも、という言い方はおかしいかもしれないが、不覚にもこのとき一期を可愛いと思ってしまった。五つも年上の男性に使うような言葉じゃないことも、一期が聞けば怒るか困るかするだろうということもわかっていたので言わなかったけれど。

「無理にとは、言いませんが」
「あ……」

 わたしがしばらく返事に窮してぼんやりしている間に、一期は不安げに顔を逸らして手を離した。思わず追いかけて、引き留める。こちらから指を掴み直すと彼はぎょっとしたようにわたしを見て固まったけど、振り払ったりはしなかった。そのことに安心して、先ほど彼がしたように触れたところに力を込めた。

「無理じゃない、から……その、もう遅いし、泊まっていって……」

 顔から火が出そうなほど恥ずかしいし、語尾が尻すぼみになるし、もう遅い時間だと言ってはみたものの実際のわたしは今が何時なのか未だ知らずにいる。夜なのは間違いないと思うが、終電に焦るような時間ではないのかもしれないし、そもそも交通手段が公共交通機関じゃないかもしれない。色々なことがぐるぐると頭の中を忙しなく巡っていく。
 気を取られているうちに、一期の指が動いてまたわたしの手を握り返す。爪が食い込みそうなほどの力強さに今度はわたしが固まって、息を飲んだ。

「……こちらから言い出しておいてなんですが、もっと警戒心を持ってください」
「……」
「自分に気があるとわかっている男の“絶対に何もしない”なんて言葉、本気で信じてるんですか?」

 でもその強さは一瞬のことで、すぐに力は緩められた。硬い爪の先が名残惜しげに軽く皮膚を引っ掻いてはいたけれど。
 項垂れた一期が細く長い溜息をこぼし、ゆるゆると力なく首を振る。

「ああもう……どうしてこう、あなたを怖がらせるようなことをすぐに言ってしまうのか」
「……」
「嘘です。この流れで信用してくれというのもおこがましいですが、本当に何もする気はありません」
「……う、ん」

 するりと親指でわたしの手の甲を撫でてから離れていく指を、今度はわたしも追いかけなかった。気まずいという感じとも違うような、なんとなく微妙な空気の中、わたしは膝を抱えたまま、一期は正座をした体勢で、二人して視線をあちこち彷徨わせたあと、同時に同じところを見る。未だ明かりをつけていない薄闇の中で存在を主張する白い深鍋が、とても頼もしく見えた。

「……食事にしましょうか」
「……準備する」

 胃がまたきゅう、と小さく鳴った。



 とにかくまず部屋の電気をつけて、それから顔を洗った。それだけでずいぶん人心地がついた。
 ポトフの入った鍋を火にかけ、簡単にサラダでもつくろうと冷蔵庫からレタスとトマト、玉ねぎ、マヨネーズを取り出し、ツナ缶を開ける。スライスした玉ねぎを水にさらしたあと、ちぎったレタスとツナを加えてマヨネーズで和え、塩胡椒して切ったトマトを添えるだけ。白米を炊く時間はないから、朝食用のクロワッサンを出す。

 一期は自分も手伝うと言ってくれたが、ひとりでもすぐに済んでしまうことと、キッチンが狭いことを説明して大人しく座っていてもらった。レタスをちぎっているときに後ろからぽそりと聞こえてきた「新婚さんみたいだ……」という呟きは全力で聞こえないふりを通そうとしたけれど、動揺してボウルを取り落とした。肝心の一期は「どうしました? 大丈夫?」なんて自分が原因だとはまるで思ってもいない様子だったので、あれは彼自身も気付いてない無意識の呟きだったのだろう。まったく心臓によろしくない。

 ローテーブルの上に食器を並べ、いただきますと手を合わせる。先ほどの微妙な空気がまだ尾を引いているのか、会話は少なかった。一期と二人きりで食事をとるなんて、そういえば初めてだった。何か話そうと、ポトフに使われているじゃがいもが丸ごと一個そのままのかたちで入っているのを豪胆な鶯丸さんらしいと笑って褒めたのだけれど、一期はあまり面白くなさそうに相槌を打つばかりだったので失敗した。褒め言葉と言えど、ひとの行いを笑うなんてよくなかったかもしれない。

 食事が済み、一期が食器は自分が洗うと言うのでおまかせして、わたしはずっと出しっぱなしにしていた洗濯物を片付けた。それが終わる頃、鍋まで丁寧に洗って拭いた彼がコンビニへ買い物に行くついでに鶯丸さん宅へそれを返しにいくと言うのを送り出す。もう遅いから明日わたしが返しておくと言ったのだが、一期は聞き入れなかった。「つまらない男心です、察してください」と言われ、ひょっとしてさっきのじゃがいもの件もそうだったのだろうかと、ひとり部屋の中でわたしはまた心臓によろしくないと嘆くしかなかった。

 お風呂の準備をする。下着なんかはコンビニに売っているからいいとして、着替えはどうしようとあれこれ考えてみたけれど、とくに妙案は思い浮かばない。わたしの服を出すわけにもいかないし、そのままで寝てもらうしかないかなと思っていたら、帰って来た彼は鍋の代わりに白のパーカーと紺のスウェットを携えていた。寝間着用に鶯丸さんから借りたのだと言う。いつの間にそんな仲になったのだろうと少し興味を引かれたけど、どうしてだかずっと苦虫を噛み潰したような顔をしているので尋ねるのは憚られた。

 先に一期がお風呂を使い、そのあとでわたしが入る。湯上がり姿なんてもう何度も見たことあるのに、何故かひどく落ち着かず、湯船の中で膝を抱えてぶくぶくと息を吐く。どんな顔をすればいいかわからなくてついいつもより長湯をしてしまったが、落ち着かないのはお互い様だったようで、お風呂から出たわたしを見るなり彼は思いきり目線を逸らしていた。その様子を見てわたしの落ち着かなさがさらに増したのは言うまでもない。
 髪を乾かしたり歯をみがいたりしているうちに時間は過ぎて、少し早いけれどもう寝てしまおうとクローゼットから客用布団を取り出す。敷く位置に少し迷って、でもたかだか七帖の部屋では選べるほど選択肢はない。お隣のあの子が泊まるときは普通にわたしの布団のすぐ横に敷いているけれど、さすがに同じようにする勇気はなかった。少なくとも今は、まだ。

「……布団、あるんですね」

 常より低い声が聞こえて、一期のほうを見る。──私は雑魚寝でも良かったのに。そう続ける彼は明らかに不機嫌そうで、とても言動が一致していない。布団がなくて落胆するのならわかるけど、あって困るものでもないのに何故嫌がるのだろう。

「泊まりに来るような誰かが、いたのですか」

 その理由はすぐに知れてしまった。泊まりに来るような誰か。その存在を一期は想像したのだろう。つまり、つまりはそういうことだ。彼がさっき『つまらない男心』と称した、それと同じ。
 抱えていた布団を床に下ろす。いつもの場所より幾分か離れた位置。そっと一期を窺うが、視線が合わさることはない。でも用意した答えを言うための前置きとしてわたしがええと、と呟くと、彼の肩はすぐに反応してぴくりと揺れた。

「お隣の……」
「は……? 鶯丸さん?」

 間髪入れずに遮られ、勢いよく視線が絡む。今にも掴みかからんばかりの形相に一瞬気圧されるけれど、その表情は憤っているというよりはどこか悲しそうで、誤解をされていると思うとわたしの胸もひどく痛んだ。

「あの、娘さんのほう……」
「……は、」
「鶯丸さんが家を空けることがたまにあるから、そういうとき預かってて」
「……」

 一期は黙って、さっきわたしがしていたように膝を抱えて顔を伏せてしまった。春空色の髪が隠してはくれない耳朶は真っ赤に染まっていて、このあとなんて声をかければいいのかわからなくなる。じっと見つめているのも申し訳ないような気がして、畳まれた状態の敷布団と掛布団を広げて寝られる状態にする。膝をついて隅のほうを調節していると、ぼそりと声がかかった。

「……狭量な男だと、呆れているでしょう」
「……」
「私を選ばなくても構わないなんて、物分かりのいいことを言っておいて」

 ──本当は怖かったんです、ずっと。

「今日ここへ来たら、あなたが選んだほかの誰かを目の当たりにするかもしれないと思った」
「……」
「それでも祝福できると思っていたんです。馬鹿みたいでしょう。ありもしない妄想で勝手に嫉妬して、こんなみっともないところを見せているくせに」
「……そんなこと、ない」

 そんなことない。本心からそう言った。だって、わたしもまったく同じだ。ありもしない妄想をして嫉妬に駆られたり、物分かりのいいふりをして実際はすごく心が狭い。
 敷いた布団の上で膝を揃え、居住まいを正す。肯定のための否定の言葉、そのあとに続けて言うべきことはもう決まっている。でも、怖い。口を開くのも億劫になる。未だに自分の気持ちをはっきりと告げることもできない臆病で怖がりなわたしは、こんな自分をさらけ出したら嫌われるのではないかと、ただ恐ろしい。嫌われても仕方ないなんて思っていたのは虚勢でしかなかった。怖い。怖い。逃げたい。──でも。

(ここで逃げたら、何も変わらない)

 だって、一期は自分の気持ちを吐露してくれるのだ。怖いと言いながら、逃げずにわたしに会いに来てくれたのだ。同じだけの想いを返すことはまだできなくても、わたしはもっといろんなことを言葉にすべきだ。苦しいときには苦しいと、きちんと伝えるべきなんだ。
 パジャマの膝の部分をぎゅっと掴む。からからに渇いた喉を叱咤して、震える息をどうにか吸い込んで吐いた。

「わたしだって心が狭くて、そういう嫉妬とか、よくするし……」
「……あなたが?」

 視線は掛布団にやったまま、こくこくと頷く。正直この時点でいっぱいいっぱいすぎて、このまま違う話題になってほしいなんて愚かな願いがよぎるけれど、束の間のモラトリアムは非情だった。

「私のことで、って思って構いませんか」
「……構わない、です」
「……たとえば?」
「え?」
「たとえば、どんな嫉妬ですか」

 思わず一期を見る。彼は立てた両膝の上で組んだ腕に顔を半分埋めて、上目でこちらを見ていた。こてん、と首を傾げる様はまるで幼い子どものようで、一瞬どきりとする。乱がよくやっていたようなしぐさだけれど、相手が一期に変わっただけでわたしの心の言いようのない部分がピンポイントで破壊されていく。

 こんなことを言って引かれないだろうか。嫌われないだろうか。逃げたい。泣きたい。息が、くるしい。でも、わたしを雁字搦めにする一期の視線が、息を止めて水底へ潜ることを許してくれない。彼はいつだって、そこからわたしをすくい上げる側だから。

「その……たぶん、同じこと」
「同じ?」
「違うひとを選んでほしいってずっと思ってたけど、いざそうなったらきっとおめでとうなんて言えないなとか……」
「……ならないし、言わせませんが」
「……あと、いち兄が昔付き合ってたひとのこととか」

 え、という呟きと衣擦れの音。彼が勢いよく顔を上げるのを横目にわたしは膝で立って両手をつき、いくらも離れていない自分の布団へと這って移動する。ごそごそと掛布団の中へもぐり込み、羞恥といたたまれなさで縮こまっていると、また衣擦れの音がして、体重がかけられたフローリングの床がきしりと鳴くのがわかった。

 布団の傍まで寄った気配が熱い吐息をこぼす。その吐息に含まれたものに気がつかないほどわたしは子どもではなかったが、経験は皆無なので、どういう反応を返せばいいのかはまったくもってわからなかった。
 手を、と告げられる声は息と同じくらい熱っぽくて、まだ温まらない布団の中で知らず身体が震えた。

「手を、握らせてくれませんか」
「……」
「それだけです。ほかには何も、しません」

 今日だけで何度その言葉を聞いただろうか。思えば部屋へと招き入れるときからそうだった。どれだけわたしを怖がらせるような真似をしても結局彼がその言葉を違えることはないだろうし、よしんば違えたとしても、わたしが心から拒むことも、きっともうない。そうやって彼にぜんぶを投げて委ねるのはずるいのかもしれないけれど、経験がないのだから大目に見てほしいと思う。

 そろそろと掛布団の裾から手を出すと、あたたかく大きな手のひらに包み込まれた。こうして手を握られるのも、今日だけで何度目のことだろう。

「あなたへの想いを自覚してから今日までずっと、ほかの誰とも付き合ったりしていません」
「……さっきのは忘れて……」
「無茶言わんでください。無理に決まっているでしょう」

 録音したいくらいだったのに、と苦笑する気配から逃げたくて手を引っ込めようとするも、当然逃がしてもらえるはずもない。

 わたしは十二歳で、一期は十七歳だった。彼が最初からわたしを好きなわけではなかったのはもうわかっているし、ある意味当然のことなのに、そこに嫉妬する自分は馬鹿としか言いようがないとか。自覚してから今日までって少なくとも五年は経っていると思うのに、その間一度も心変わりしなかったなんて一期も大概だとか。そんな彼から逃げてしまったわたしがやっぱり馬鹿の極みだとか、いろんなことをつらつらと考えているうちに、触れる指と吐息と声とにまた、形容し難い熱が籠る。

「好きです」

 ひゅっと息を飲む。肺の奥の奥から苦しく感じるのは、きっと掛布団を頭からかぶっていることだけが理由じゃないとわかっている。

「好きです。あなたが高校二年生のときから、ずっと」

 こんなときでも、わたしの脳はそれまで知らなかった情報を処理して、そうだったのかなんて驚くことに余念がない。六年もずっとわたしだけをなんて、本当に彼も大概だ。
 一期は両手で戴くようにしてわたしの手を握りながら、細く長く息をこぼした。「やっと、言えた」という言葉には切なる、としか言いようのない響きが籠っていて、胸がぎゅうっと痛くなるし、ますます苦しくなる。

「『あの日』が来なければ、こうしてもう一度伝えようと思っていたんです」
「っ、ごめ……」
「ああ、謝らないで。悪いのは私です。“短大を卒業したら”なんて期限を設けてあなたを追い詰めてしまったこと、死ぬほど後悔しました」
「……」
「でも、」

 ──でも今は、あの頃よりはずっと、自惚れてもいいような気がしているので。

「好きです」
「……ちょっともう、黙ってください……」

 思わず敬語になってしまったわたしを「私の真似ですかな?」などと笑う気配。ドロドロに溶けたチョコレートの海に沈んでいくような心持ちがする。いつもは呼吸のできない水底からわたしをすくい上げてくれる一期は、こちらでは溺れろと言わんばかりに容赦なく突き落としてくる。

 苦しくて、苦しくて、ただ苦しい。今日の夕方から馬鹿になってしまっているわたしの涙腺はもう今にも決壊しそうで、でも、けれど、まだだめだと眉間に力を込めて耐える。束の間だけでも落ち着けるよう深呼吸する。
 たくさんの言葉を、想いをくれる一期に、わたしが返せるものはまだ少ない。それでもまったくないわけじゃないから。身体の中に渦巻く苦しさをかたちにして舌の端から外へ出すことを、わたしはもう怠ってはならないのだ。

「……ごめんなさい」

 一期が何か言おうとするのを、つながった指先をつよく握り返すことで制した。

「いち兄は謝るなって言うけど、でも、わたしだってひどいことしたから……」
「……」
「あんなにたくさん良くしてもらったのに、あんな……ごめ、ん、ごめんなさい」
「……うん」
「それか、ら、」

 ──わたしに会いに来てくれて、ありがとう。

 なんとかつっかえずに最後まで言えて、でもそれが限界だった。枕に顔を押しつけるのと、堪えていた嗚咽が大きくこぼれるのとは同時で、肩が震え、背中が震え、次第にどこもかしこも嗚咽に支配されていく。
 自分の鼓膜をも震わせる聞き苦しい泣き声の合間に小さく断りの言葉が聞こえて、頭を覆っていた掛布団をそろりとめくられたのがわかる。つないだ手はそのままで、もう片方の大きな手のひらにぐっと頭を抱き込まれ、顔を押しつける先が枕から彼の首元へと変わった。ぐすりと鼻をすするたび、ひくっと喉を鳴らすたびに、それを落ち着かせようと髪を撫でる手つきがやさしすぎて、また泣いてしまう。それはわたしの知る中でもっとも不毛で、もっともやさしい、追いかけっこだった。

「そう言ってもらえるだけで、今とても幸せです」

 わたしの髪に唇を寄せて一期は囁いた。どうしようもなく歩みの遅いわたしを彼は許してくれる。理解してくれる。彼はいつだってそうだった。いつだって一期の声や言葉や手のひらが、わたしに呼吸をさせてくれる。

「いきなり私を好きになってくれなくてもいい。私は、待ちますから」

 いつかも聞いたその言葉を、あのときのように怖いと感じることはもうなかった。
 ただ、ただ、空気を与えられる端から、息が苦しくなっていくだけで。




 ベルを鳴らしたら、中から出てきたのは松葉色の家主ではなく、真白い姿の麗人だった。

「あ……」
「お、きみか」

 琥珀と言うには少し色味の薄い眼をふうわりと細めて、彼──鶴丸国永はこの上なくうつくしく微笑む。

 日曜の夕方少し前。昼間の良い陽気から、風が少し冷たくなろうかという頃。オフホワイトのVネックのニットにグレーのスキニージーンズというごくシンプルな服装をモデルのように着こなしたそのうつくしいひとは、足元だけそれにそぐわないつっかけサンダルを履いた状態で、アパートの隣室を訪れたわたしを出迎えた。記憶が正しければ彼は三十になろうという歳のはずだが、若々しい中性的な美貌とうつくしいながらも人懐こい笑顔から、同年代くらいに見えてしまう。それを口にすることはさすがに憚られるけれど。
 扉を片手で支える立ち姿は、ぴんと背筋を伸ばしているわけでもないのに姿勢の良さが窺える。綺麗なひとは何をしても綺麗というか、常人と変わらないしぐさをすることで余計にうつくしさが際立つというものなんだろう。

「生憎と鶯は急な仕事で出掛けてるんだ。留守居役とお嬢のお守りを俺が仰せつかっててな」
「……そうですか」

 背後に彼が「お嬢」と呼ぶ少女の姿が見える。わたしを見て何か言いたげに口を開くけれど、行儀の良い彼女は大人同士の会話に割り込むなんてことはしない。すぐに口を閉じて俯いてしまったその様子は、これまでにも何度も経験した胸の痛みを引き起こした。幼い頃の自分を思い出す、じわじわとした浸食だ。

 鶯丸さんに昨日のお詫びとお礼がしたくて、彼が前に好きだと言っていた和菓子を持参してやって来たけれど、本人がいないのなら出直すしかない。せめて少女に一声かけてからと思い、一度鶴丸さんを窺うと、彼は人当たりの良い笑みを崩さないまま、さらりとなんでもないことのように問いを投げかけた。

「一期はもう帰ったのか?」

 正直、鶴丸さんの姿を認めたときから、その名が出ることは予想していた。それでも、ただ一言の返事を発するのに胸でつっかえ、喉でつっかえ、舌の上でもつっかえて、心と身体の噛み合わなさにひどく情けない気持ちになった。

「……はい」
「そうか。なら、きみさえ良ければ夕飯を一緒にどうだ? ちょうど買い出しに行こうと思っていたんだ」

 これにはわたしよりも少女のほうが顕著な反応を示した。俯かせていた顔をぱっと上げて、じっとこちらを見る。まだ口を挟むことはなく、けれどその瞳は雄弁に喜色と期待を物語っていた。鶴丸さんはこの子のことをよく理解しており、また彼はわたしのことも、一期のことも、きっとよくわかっている。

 わたしに断る理由はなかった。二つ返事で了承する。

「ご一緒させてください。よかったら、お手伝いします」
「そりゃ有難い。家主が帰ってきたら、両手に花なのを見せつけて羨ましがらせてやろう」

 けらけらと笑いながら、まあひとまず上がってくれと彼は扉の内に引っ込んだ。慣れた様子でスリッパを出すその姿を見て、そういえば昔、大学生だった彼があの家へ遊びに来たとき、同じようにわたしがスリッパを用意したこともあったのを思い出す。

 同じことを考えたのか、鶴丸さんが振り返ってわたしを見る。すうと細められた黄玉の瞳は、現在のわたしを通して在りし日の──気のせいかもしれないが、中学生だったわたしよりもさらに遠いどこかのわたしを見つめているように思えた。

「今さらだが、久しぶりだなあ」

 彼の言う「久しぶり」は、当然ながら数日前にあのレストランで会ったことではない。それがわかるから、わたしも頷いた。

「……お久しぶり、です」
「光忠の店できみを見つけたのは偶然だが、まあ言い逃れをするつもりはないから、歯に衣着せず言ってくれ」
「……」
「きみの居場所を一期に教えた俺を、恨むかい?」

 息を飲んだのはわたしではなく、未だ大人たちの会話に口を挟めずにいる子どもだった。不安そうに、そしてどこか非難するように見上げる少女の髪をくしゃくしゃと撫でながら、弱ったなとでも言いたげに鶴丸さんは苦笑している。
 歯に衣着せないと言うなら彼の問いかけこそそれだと思ったが、わたしの答えはもう決まっていた。先ほどのように三度つっかえることもなく、心身に生じる齟齬に戸惑うこともない。

 いいえ、とわたしは声に出して答えた。それは嘘偽りのない、わたしの本心だった。

「いいえ。正直に言うと、少し……ほっとしています」
「……」
「それに、あなたがわたしの事情より、いちに……彼のことを優先するのは道理だと思うので」
「……そうか」

 一期がわたしを見つけたのが『昨日』じゃなかったとしても、いつかその日は来たかもしれない。来なかったかもしれない。どちらにせよ、過去のことに対して『もしも』を持ち出しても仕方がない。一期は逃げたわたしを見つけてしまったし、わたしが浅ましくもそれに安堵を覚えているのも事実。

 鶴丸さんがもう一度少女の頭をくしゃくしゃと撫でているのを見て、また少し昔を思い出す。一期はこんなふうに乱雑に撫でたりはしなかったけれど、過去をなぞる行為は胸にきしきしとした痛みをもたらした。十二歳のわたしと十七歳の一期がそこにいるようだった。

「愚問だったな、すまない。たとえきみからどう思われようと、俺は一期の好きにさせようと思ったんだ」
「はい」
「だが、それとまったく同じで、ここの親子は一期よりもきみの味方だ」

 彼に背を押され、彼女が少し躊躇いながらも、とことことわたしの前にやって来る。そっとわたしの手を取り、心配そうにこちらを見上げるその姿を思いきり抱きしめたい衝動に駆られたけれど、まずは昨日のお詫びをしなければと、両手で小さな手を握り返し、しゃがみ込んでこちらから少女を見上げた。

「昨日は、みっともないところを見せてごめんね。びっくりしたでしょう」

 ふるふると首を横に振り、彼女はもう片方の手を伸ばしてわたしの眦に触れた。

「……おねえちゃんずっと泣いてたから、あのお兄さんはひどいひとだと思ったの」
「……」
「でもおとうさんが、きっとちがうって言うから……大切なひとなんだろうって、だから泣くんだろうって」
「うん……」
「家族だって、言ってた」
「そう、大事な、家族なの」
「家族だけど、すきなひと?」

 目頭が熱くなる。口の中がからからに渇く。息が、できなくなっていく。
 この期に及んでも反射的に逃げたくなる自分を叱咤して、唇を噛みしめる。

 この子は、わたしではない。少し境遇や性格が似ているだけであって、決してわたし自身ではない。それでもこれは、過去の自分からの問いかけだと思った。独りぼっちで昏い水底を彷徨っていた十二歳のわたしが、逃げて逃げて逃げ続けた挙句に膝を抱えてうずくまっていた二十二歳のわたしの手を取って、引っ張り上げようとしているのだと。

 この手を掴む子どものわたしが歩んでいく十年間、決して短くはないその歳月の苦しみを大人のわたしは知っているけれど、なかったことにしたいとは絶対に思わない。
 だって、一期のいる世界で過ごした十年間は、どれほど苦しくてもわたしにとって大切な、意味のある、かけがえのない日々だったから。

「いつか……」

 口を開けて息を吸う。息を吐く。ただそれだけの行為の、なんと単純で、困難で、痛切で、甘美なことだろう。

「いつか、ちゃんと好きだって、伝えられたらと、思う……」

 未だ臆病で意気地なしなわたしの、眦をゆるゆると撫でていた幼い指がぴたりと止まって、仕方ないひとだとでも言いたげに微笑んだ少女がとても可愛かったので、わたしは今度こそ彼女を思いきり抱きしめた。
 耳元でくすぐったそうにこぼされる吐息が、わたしの中で言葉よりもよほど素直で取り繕うということをしない涙腺を、どこか諭すように、あやすように、とんとんと叩いては刺激していった。



 鳴り響く着信の電子音。数秒それを聞き流したのち、画面に触れてから耳に当てる。もしもし、というお決まりの文句。電子ノイズに変換されて届く、かすかに息を飲む音と、躊躇うような沈黙の気配。

『──こんばんは』
「……こんばんは」

 なんだか不思議で変な感じだ。そう思ったのは一期も同様だったようで、少し不思議な感じがしますねと、照れたような苦笑するような声。彼と電話でやりとりするのは別段初めてではないけれど、そんなに頻繁にあったわけではないし何年も前のことだから、どうしたってお互いにぎこちない。あの頃は「こんばんは」なんて挨拶することはなかったし。

 それに、わたしが感じた違和感は別の意味も含んでいて、電話越しに聞く一期の声は明らかに鼻にかかっていた。

「やっぱり、風邪ひいてる……」

 思わずこぼれた呟きには、すぐさま否定の言葉が返ってきた。

『違います』

 違うも何もないだろうに。
 昨夜、わたしは一期の腕の中でまたしても泣き疲れて寝入ってしまって、夜中にくしゃみの音で目が覚めた。眠りながらくしゃみをした一期は、わたしの頭を抱きかかえたまま律儀にも掛布団の上から添い寝をした状態で、何も掛けていない身体を寒そうに震わせていた。自分が泣いたせいだと思うとひどく申し訳なく、かと言って起こして客用布団のほうへ戻らせるのも忍びなく、苦肉の策としてわたしは彼のために敷いた布団から掛布団だけをずるずると引っ張ってきて震える身体に掛け、戻って彼の隣でまた眠った。朝から動き回ったり、色々あったために疲れていたのか、夕方少し寝ていたにもかかわらずわたしの脳と身体はあっけないほど簡単に再び眠りに落ちた。

 朝お互いに目が覚めて、近すぎる距離にまた気まずいような気恥ずかしいような空気が流れて。身支度と朝食の準備をしている間も一期はずっとくしゃみをしていたので、たぶんこれから風邪をひくのだろうと思っていた。本人は何故かやたらと否定したがったけれど。

 ──寒かったなら、そのまま布団の中に入ってくれれば良かったのに。

 あまりにも一期の態度が頑ななので、わたしはついそう口にしたのだが、言ってしまってから後悔した。失敗したと思った。自分の布団に戻ってくれたら良かったのだと、そう告げるべきだった。
 案の定、一期はわたしの不用意な発言を受けてぴしりと固まったあと、怒ったように顔をしかめて目を逸らしながら常にないほどぶっきらぼうに返事をした。

 ──できるわけないでしょう。自分から望んだこととはいえ、同じ部屋で寝るというだけでも生殺しの状態だったのに。

 私は乱ではないんですよ、と続けられて、さすがに乱とだって同じ布団に入って眠ったことはないと返したかったが、これ以上口を開くとまた余計なことを言ってしまいそうだったので、おとなしく黙っていた。

 一期は昼過ぎに帰るまで、ずっと頻繁にくしゃみをしていた。
 別れ際、夜に電話をかけてもいいかと少し心もとなさそうに聞いてきたときも。


 くしゅんっ。
 小さくどこか隠れるようにして、もう聞き慣れてしまった音がする。電話口から少し離れたところで、彼がまたくしゃみをしたようだ。ぐす、と鼻をすする様は控えめで、でもそれは取り繕っているだけのような気がした。

「辛いなら寝てたほうが」
『平気です。ちょっとくしゃみが出るだけで、なんでもありません』

 子どもの頃、風邪をひいてしまってもわたしは誰にも言い出せずによく隠していて、そのたびに一期に叱られたものだけど、今はそれがあべこべになってしまっていてなんだか可笑しいような感慨深いような不思議な感じがする。彼もそれを思い出したのだろう、ばつが悪そうに軽く咳払いすると、やや不自然に話を逸らした。

『鶯丸さんには会えましたか?』

 自ら尋ねたわりに、その声は苦々しげだった。昨日も思ったが、わたしのいないところで彼らがどんな会話をしていたのか、少しだけ気になる。

「お仕事が入ってて留守だった。今日は遅くなるみたい」
『そうですか……父ひとり子ひとりでは、何かと大変でしょうね』
「だと、思う。娘さんはしっかりしてるけど、まだ小学生だし」
『そういえば、あの子は、……』

 一期が何かを言いかけて、途中で思い立ったように口を噤む。あの子は、のあとに小さくあなたの、と続けたように聞こえて、わたしは彼が何を言おうとしたのかなんとなくわかった。
 ──あの子は、あなたの子どもの頃に似ていますね。きっとそう言いかけたのだろう。わたしが自分で似ていると感じるくらいなのだから、わたしの子ども時代をよく知る一期にとっても、何かしら思うところがあったに違いない。

 しばらく口を挟まずに待ったけれど、一期は口から出しかけた言葉の切れ端をそのまま飲み込むことに決めたようだった。たぶん彼は、その切れ端につなげようとしたものをわたしが察したことに気がついたのだと思う。言い直して、違う話をそこにつなげた。

『いえ……、そうだ、昨日はあの子とどこへ出かけていたんですか?』
「……水族館、行ってた」
『ああ、いいですね。昔、家族で行ったのを思い出します』

 電話越しで、表情は見えない。彼がわたしのことをよく理解しているのとは違い、わたしは未だ彼をわかっているとは言い難い。それでも、それでも今。一期が今朝のわたしのように、言葉をすべて出しきってから後悔に駆られるのを、わたしは感じ取った。決して電波には乗らないはずのその後悔の念は、耳に当てた精密機器から三半規管を通して、わたしの脳髄にじわりと染み込んだ。

 きっと風邪のせいだろう。熱があるかどうかはわからないけれど、これだけ苦しげな鼻声なら、頭もぼーっとしていることだろう。だから彼は『失敗』したのだ。言うべきではなかったと、悔やんでいる。

「……」
『……』

 家族で行ったという水族館の記憶は、わたしにはない。たぶんわたしがあの家に引き取られる前の話、末っ子の秋田が生まれる前とか生まれて間もない頃とか、そんな昔の話に違いない。自分がまだ家族の一員ではなかった頃の話をされたからといって、彼がわたしをのけものにしたなんて思わないし、たとえそうであってもその家族から逃げ出したわたしに何を言う資格もない。
 それでも、やさしい一期は気にするのだ。わたしを想って、わたしを気遣って、彼はいつも自分が苦しんででも、わたしの世界に大きく息を吹き込む。

「あのね、」
『……はい』

 沈黙を破って届く、息苦しさに満ち満ちた返事。今にも泣きそうな響きなのはきっと、風邪による鼻声のせいだけじゃない。
 スマートフォンを耳に当てたまま、もう片方の手をテーブルの上に伸ばす。ちゃり、と音を立てて指先が掴むもの。小さな鍵と、小さなキーホルダー。彼が二度与えてくれた、わたしにとって何にも代え難い、唯一無二の宝物だ。

「その、今すぐは、まだ無理だけど……そう遠くないうちに、ちゃんと、うちへ、帰りたいと思ってて」
『……』
「思ってる、から、できたら一緒に、帰ってほしいです」

 今でも家族だと、この鍵はわたしだけのものだと、そう言ってくれた一期が、電話の向こうで息を吸って、息を吐いた。
 は、とこぼされる吐息はさっきよりもずっと泣きそうで、苦しそうで、今にも消え入りそうなくらい小さくて、痛みに押しつぶされそうだと訴えかけるようで、辛そうで、恥ずかしそうで、でも彼はそれをぜんぶ自分の内へと飲み下して、またわたしに息をくれる。単純でいて困難で、痛切でありながら甘美な、それを。

『──はい』

 苦しくたっていいのだと、一期は言った。今わたしも、そう思う。
 一期が苦しくなる分だけ、わたしも彼の世界に息を吹き込むことができるようになれたらと。そう、こいねがっている。

 気恥ずかしいような、愛おしいような沈黙の時間、鍵にくくり付けられた白猫を指で弄っていると、またか細い息を漏らした一期が、お願いがあるのですがと言った。

『来週もまた、会いに行っても良いですか』

 ぐずぐずと鼻にかかった声で、ゆっくりおそるおそるとでもいうように尋ねる様は、まるで幼い頃の秋田や五虎退が怖い夢を見たから一緒に寝てほしいとお願いをしたときのようで、少し微笑ましくなって返事を告げる。

「……風邪が、ちゃんと治ってたら」

 さっきまであんなに頑なに風邪だとは認めなかったのに、間髪入れずに治します、と返した一期を、また不覚にも可愛いと思ってしまった。不覚にも、という言い方はやっぱりおかしいのかもしれないけれど。
 でも本当に不覚だったのは、気付けばそれをうっかり口に出してしまっていたことだった。

 ──数秒後、わたしは鼻声であるのが気の毒になってしまうほどの猛抗議を受けることになる。


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