部屋の隅で、すすり泣く声が絶え間なく続いている。

 泣いているのは五虎退、前田、そして秋田だ。その三人を骨喰と博多、平野が傍について慰めている。私と四つ違いの骨喰はともかく、泣いている三人と歳の近い博多と平野は自分たちも泣き出したくてたまらないといった様子だった。本来なら長兄である私が泣いている三人をそれぞれ慰め、無理して涙をこらえている二人をきちんと泣かせてやらねばならないのに、足はただ突っ立っているだけで、棒のように動かない。
 私の目の前には疲れの滲んだ顔を片手で覆い、ダイニングの椅子に腰掛けている母。それに寄り添うように佇んでいる旅行から帰ってきたばかりの薬研と厚、それに信濃。乱は少し離れた椅子の上に膝を立てて座り込み、むっつりと黙りこくっている。

 今この場にいない家族はまだサークル合宿から帰って来ていない鯰尾と、自室に閉じ籠ってしまっている後藤。先ほど車で出て行った父。それから『彼女』だが──私の見ているこの光景がたちの悪い夢でないのならば、彼女はもう家族ではないというのだろうか。

「いつ、出て行ったんですか」

 やっとのことで出た声は、みっともなく掠れていた。
 母が疲れた顔をのろのろと上げて、ひどく億劫そうに答える。

「……今日の午後みたい。みんな出掛けていて──遊び疲れて帰ってきた秋田におやつを作ってくれて、そのあと昼寝をした秋田が夕方目を覚ましたらもういなくなってて、その手紙があったらしいから」

 今日の午後。私は何をしていただろうか、とぼんやり思ったが、平日だから言うまでもなく会社にいて仕事をしていた。年度末なので忙しく、定時になっても上がれずに残業を数時間。やっとのことで退社して、ひどく慌てた様子で吹き込まれた留守電のメッセージに気がつき、車を飛ばして実家へと帰ってきて、今はもう二十二時を過ぎている。
 夕方にこの手紙を見つけて、それから今までずっと、秋田は泣き続けているというのか。

 手の中でかさりと音を立てた白い便箋に視線をやる。うつくしい字だった。几帳面な彼女は普段から字が綺麗だったが、お別れの挨拶だというのに一片の乱れも汚れもない。端のほうに見える少し濡れた跡は彼女自身の涙ではなく、秋田のものだろう。まだ小学生の秋田は難しい漢字が読めないが、こちらが想像している以上に、彼はこの手紙の文面を正しく理解したことだろう。

 両親に宛てた感謝の言葉と事務的な挨拶。それから弟たちへのメッセージ。彼女は誰とも仲が良かったが、とくに仲の良かった乱と、末弟の秋田はやはり少し特別だったとみえる。ほかの弟たちは二人ずつ括られている中、乱と秋田にだけはそれぞれ単独で言葉が綴られていた。
 十歳違いの秋田が可愛くて癒しだったという文面から、少し下へ離れたところ。一際短く、そっけなく、それでいて私をこれ以上ないほど打ちのめし、どん底に叩き落とし、痛めつけ、絶望させる言葉。泣きたくなった。頭を掻き毟りたくなった。叫び出したかった。膝をついて顔を覆い、無様に喚き続けられたならどんなにか良かったろう。

 息が、ふるえた。
 ──嗚呼。

【いち兄。ごめんなさい。】

 ──嗚呼、嗚呼、嗚呼!

「……私の、せいだ……」

 くしゃりと手紙がたわむ。同じように自分の顔も歪んでいくのがわかった。「いち兄」と呼ぶ声がする。歳のわりに低く落ち着いた声は薬研のものだとわかったが、応えることもできず、俯いて便箋をつよく握りしめた。現在進行形で私の心を滅多刺しにするこの手紙は、それでも彼女が最後に残したものだというだけの理由で、私には決して手放せないものとなる。

「私の、せいです。私があの子を追い詰めたから、」

 一期、と今度は母の声がした。ただでさえ弱りきったその声に確かな困惑が混じっていて、申し訳なく思う。

「追い詰めたってどういうこと? ごめんなさいって手紙の中にあるけど、あなたあの子に何かしたの?」

 両親に何もかも打ち明けてしまえという衝動に襲われることは、これまでたびたびあった。
 常に自分を律し、他人を慮り、いつだって己の立場を忘れることのなかった、心やさしい少女。彼女を私の腕の中に閉じ込めておける何よりも強力な鎖が私の両親だった。終ぞ口にしたことはなかったが、彼らを盾にして迫っていたなら、彼女はきっと頷いたことだろう。でも、だからこそ私はなけなしの矜持を以てその欲望に抗い続けた。いくら私を見てほしくても、そんな卑怯な真似に縋りたくはなかった。

 愚かだと思う。大馬鹿者だと思う。
 もう散々ずるくて卑怯で浅ましい自分自身を見せつけていたのに。意識してほしいがために怖がらせるような真似までして、散々あの子のやさしさにつけ込んで、振り回して、困らせて、傷つけて、泣かせて、追い詰めていたというのに。今さら私のちっぽけな矜持ひとつがなんだったというのだろう。
 私を見てほしい、受け入れてほしい、私の手で汚したい、でも嫌われたくない、拒絶されたくない。そんな中途半端で、どうしようもないほど浅ましい自己愛に満ちた私の態度が、今回の事態を招いたのではないのか。軽蔑されるのも憎まれるのも覚悟の上で、なりふり構わず手段を選ばないでいたら、こんなことにはならなかったんじゃないか。

 ──そもそも、私が彼女を欲しなければ。
 おそらく一番できそうもないことを思い浮かべ、私は心の中だけで自嘲した。そんなこと、できるものならとっくの昔にやっている。

 顔を上げた。不安そうにした母と厚、二人と視線が合う。薬研と信濃は落ち着いた表情で、乱は──先ほどから静かなまま、こちらを見てもいない。
 私は息をつき、意を決して正直に己の所業を告白した。

「……結婚の、申し込みをしました」

 驚いた様子を見せたのは母と厚だけだった。信濃もそうかもしれないが、二人と違ってわずかに目を見開いただけだ。薬研は天井を仰いで「やっぱりか」と溜息をつき、乱は微動だにもしていない。
 薬研は兄弟の中でも一等勘が良いし、乱は彼女と一番仲が良かった。知られていても不思議ではないと思うが、それが平気かというとまた別問題だ。いたたまれないし、恥ずかしい。私とあの子は五つも歳が違う。多少の年月を経た今ではそれほど問題のない歳の差だろうが、出会った当時の年齢を考えれば犯罪だと謗られても文句は言えない。

「結婚って……あなたたち、付き合っていたの?」

 母の声に滲む困惑の色が大きく濃くなり、私のいたたまれなさも増していく。厚が吊り上がった眼を大きく瞬かせて何度も小さく戸惑いの声を上げているのが、よりいっそう助長を促した。

「いいえ。私の片想いなので」

 三拍ほどおいたあと、母の顔がさっと気色ばんだ。無理もない。あの子の性格や物の考え方を理解していたのは何も私だけではないのだ。父も母も、薬研も乱もきちんとわかっていただろう。否、家族全員が多かれ少なかれ知っていたことだろう。一番幼い秋田だってそうだ。だから彼は何時間も泣き続けているのだ。図らずも彼女の最後を見送った立場となり、引き止めることが叶わなかった自分を許せずに泣いているのだ。

 彼女は紛れもなくこの家の一員で私たちの家族であり、彼女自身もそれを重畳としていたようだが、その実あの子の周りには誰も引き剥がすことのできない透明な膜のようなものが常に存在していた。壁、とはまた少し違っていたように思う。彼女は、その境遇がそうさせたのだろうが子どもの頃から非常に大人びており、我慢強く、自己を主張するということがほとんどなかった。誰の目にも留まらないよう、空気に溶け込むようにして暮らしていた。
 私は知っていた。きちんとわかっていた。彼女は、薄氷の上に立っているようなもので、自らその氷を割りたがっていた。大人になることを誰よりも切望していた。この家を、私たちを大切に思う一方で、可能な限り早くこの家を出たがっていた。

 自己を殺し、空気に溶け込み、誰のことも不快にさせない代わりに、誰からの好意も受け取ろうとしなかった少女。
 私は、どうにかして彼女に自分を見てほしかった。すり抜けようとするその手を捕まえて、繋ぎ止めておきたかった。

「交際もしていないのに結婚を迫ったっていうの?」
「ええ」
「そんな、そんなことして、あの子がどう思うのかわからなかったの? 彼女がどんな子なのか、一期だって知っていたでしょう!」
「知っていました」

 二の句が継げない、といった様子で母は黙り込んだ。薬研も厚も信濃も何も言わず、ただ私を見つめている。

「私の思慕を受け入れることはせず、けれど完全に拒むこともできず、ただじっと、静かに、彼女は追い詰められていったんです。……私のせいで」

 こんな事態を招いてしまったのは、ほかの誰でもなく私自身だ。
 手のひらの中の手紙にまた視線を落とす。つよく握りしめたせいで皺が寄ってしまっていたのを、わずかに震える指でゆっくりと伸ばした。かたちが崩れてしまった、うつくしい文字。これをしたためていたとき、彼女はどんな顔をしていたのだろうか。些かの乱れもない字は、彼女の心をそのまま写したのだろうか。私への謝罪の言葉を綴ったその見事な手蹟は、あの子が私にまったく心を砕いていなかったということなのか。

「いち兄」

 ふいに、声。しばらく聞いていなかった声だった。私が帰ってきたときからずっとただの一言も発さず、黙りこくって座っていた乱がこちらを見ていた。

「覚えてる? お姉ちゃんが中学生の頃、階段で転んだとかで腕の骨にヒビ入れる怪我をして学校から帰ってきたことあったでしょ」

 突然まったく繋がらない昔話を始めた乱に困惑の空気が流れる。厚が何か口を挟もうとするのを薬研が手で制し、人差し指を口に当てた。そのままちらと寄越される視線を受け流し、私は乱を見やる。乱はまっすぐに私を見つめていた。表情は、静かだった。

「お姉ちゃんはうまく隠してたけど、夕飯を食べるときにいち兄が気付いて、慌てて病院に連れてった」
「……覚えているよ」
「怪我や病気をしたら必ず言いなさいっていち兄に叱られてたけど、初めの二年間くらいはお姉ちゃん絶対に言おうとしなかったね。いつもいち兄か、たまに薬研が最初に気がついて、そのたんびに注意して、でもなかなか直らなかった」

 乱が何を言いたいのかわかるようなわからないような、ざわざわとした感覚が身体の内を巡る。薬研とは真逆で歳のわりに高く細い声は耳朶を穿つような響きではなく、ぞっとするほどの静けさを保っていた。兄弟の中でも一際明るくて華やかな乱は気性も激しいと思っていたが、こんな凪いだ水面のような一面も持ち合わせていたのだろうか。

「お姉ちゃんは、苦しいときに苦しいって言えなかったんだよ。辛いことがあっても誰にも言えずに、ひとりでじっと耐えるしかなかった」
「……」
「でも、でもボクは、知っていたのに、」

 ──否、そうじゃない。
 静かな水面には映らない水底で、乱は激しく葛藤していた。ゆらゆらと頼りなげに頭を揺らし、立てた膝の上に顔を埋める。薬研の手を押しのけた厚が乱に歩み寄り、その背を撫でた。嗚呼、せっかく実家へと帰ってきたのに私は兄らしいことが何ひとつできていないばかりか、弟たちを泣かせるだけとなっている。

「お姉ちゃんが泣いてるの、ずっと見てたのに。何もできなかった」

 凪いだ水面に、とうとう雨が降り落ち始めた。嗚咽の合間に彼女を呼ぶ悲痛な声が、私の耳をざあざあと打つ。
 彼女と一番仲の良かった乱。こんなことになったのはいち兄のせいだと私を詰ってくれれば良いものを、彼が責めているのは自分自身だった。私の心を深く抉るこの光景は、たちの悪い夢などではない。現実だ。

 乱の嗚咽が鼓膜を震わせていく一方で、気がつけば部屋の隅から聞こえるすすり泣きの声はごく小さくなっていた。
 五虎退と前田は泣き疲れたのか、肩を寄せ合って眠っていた。傍に寄り添う博多と平野も、こくりこくりと舟を漕いでいる。骨喰の腕に抱かれた秋田だけが、兄の胸に額を寄せて未だ小さくしゃくり上げていて、痛ましいことこの上ない。無口な骨喰は普段あまり弟たちと触れ合ったりしないが、秋田の背をさするその手の動きはぎこちないながらもやさしさに満ち溢れていた。

 母が椅子から立ち上がり、とにかくお父さんが帰って来たらもう一度話をしましょうと言って、下の弟たちを部屋で寝かせるために出て行った。薬研はしばらく物言いたげに私を見ていたが、結局何も言わずに母に付き従った。それに続こうとした信濃は一瞬足を止め、私に向かって「姉さんは……」と言いかけたが、首を緩く振ってそのまま行ってしまった。厚は乱の背を撫で続けている。ひとりになった私はくしゃくしゃになってしまった便箋をテーブルの上に置き、静かにその文字を指でなぞった。

 念のためにその辺を見てくると、そう言った父が車で出て行って、どれくらい経っただろうか。
 出て行ったのが昼間だというなら、もう何もかも遅いだろう。彼女は賢く、慎重な性格だ。いったいいつからこんな計画を立てていたのかわからないが、私が最初に彼女に想いを告げてからもう二年が過ぎている。よもやその頃から、とは思いたくないが、考える時間も準備のための時間もきっとこちらが思う以上にあったはずだ。
 最後に会ったとき、あの子はどんな顔をしていただろう。先日、忙しい合間を縫って卒業祝いにと顔を出してから、そう時間は経っていない。短大を卒業した彼女だけでなく、薬研と厚に後藤と信濃、前田と平野もそれぞれ高校と小学校を卒業したのが重なり、家族皆で外食をした。私は、彼女がようやく学生でなくなることに嬉しさと不安を同時に感じて浮足立っていた。卒業と同時にはっきりとした関係になりたいわけじゃない、と言ったことは嘘ではない。まだ受け入れてもらえるとは到底思っていなかった。それでも、もう一度気持ちを伝えようと思っていた。私の想いが何ひとつ変わっていないことを知ってもらいたかった。羞恥と困惑できっと色付き歪むであろう愛らしいかんばせを想像し、最低なことに興奮していた。

 けれど──嗚呼、嗚呼、嗚呼。
 外堀を埋めるような卑怯な真似しかできない私を未だにきちんと拒めていなかったやさしい彼女は、あのときすでに今日この日を迎えることを待ち望んでいたというのか。

【いち兄。ごめんなさい。】

 指で手紙の文字を追う。どんな顔をして彼女はこれを綴っていたのか。このうつくしい文字と同じように、その表情もただ静謐だったのか。わからない。せめて最後に見たときの表情を思い浮かべようとしたが、それすら思い出せないことに愕然とした。私は、結局いつでも己のことしか頭になかった。追い詰められた彼女がこのような手段に出るなど想像もしていなかった。彼女のことをわかっていたつもりだったのに。本当に『つもり』なだけだった。
 嫌いだと言われないことに安心しきって、調子づいていた。でも実際は、何もかも捨てて逃げ出すほど私を厭っていたということなのか。

「……鍵」

 ふいに、また声がした。
 乱が、立てた膝に顔を半分埋めながらテーブルの端をじっと見つめている。嗚咽はもうだいぶ小さくなっていて、鼻をすするのに混じって時折こぼれるだけとなっていた。乱の視線を追うと、テーブルの上にスマートフォンが置いてあるのが見えた。携帯は解約してください、という手紙の文面を思い出す。あの子が置いていったものだろう。だが乱が触れたのは携帯電話のほうではなく、また、私の心を揺さぶったのもそちらではなかった。
 スマートフォンの横に置かれた鍵。なんの変哲もない銀色の小さなそれは、この家に住む全員が持つ我が家の鍵だ。家族の証であるその鍵を手放した彼女の覚悟が窺い知れると同時に、私の視線は鍵に括りつけられたものに釘付けになった。

 彼女は、ただ家の扉を施錠するだけのそれをまるで宝石のように扱っていた。
 おそらく親戚の家にいた頃には与えられなかったものなのだろう。母から鍵を手渡されたとき、あの子はそれまでほとんど動かすことのなかった表情をわずかに緩ませ、紅潮した頬と輝かせた瞳で恭しく受け取っていた。朝、皆で家を出るときに彼女に鍵をかけてとお願いすると、嬉しそうにこくこくと頷いて施錠をしてくれた。なんでもないときでも時折取り出して大切そうに眺めているのを知っていた。その姿があまりにいじらしくて、私はつい世話を焼いた。裸のまま持ち歩いているその鍵を失くさないようにと、キーホルダーを買ってきてプレゼントした。
 五つも年下の女の子がどのようなものを好むのかなどわからなかったので、乱に付き合ってもらって二人で選んだ。どんなのでも喜んでくれると思うけど、という弟の助言のとおり、彼女は喜んでくれていた、と思う。恥ずかしそうに顔を真っ赤にさせて、でも鍵を与えられたときと同じように恭しく受け取ってくれたその姿は非常に私の胸を打った。あの頃はただ純粋に、彼女を可愛らしいと思っていた。間違っても今のような欲に塗れた邪な想いは抱いていなかった。

 何故、あの頃の気持ちのままでいられなかったのだろう。

 つ、と伸ばされた手が鍵とキーホルダーを掴んだ。私の手ではない。乱だった。彼は手のひらの中でちゃり、と音を立てたそれをしばらく眺めたあと、のろのろと椅子から降りて私の元へ来た。瞳が大きいせいで、真っ赤に泣き腫らした跡が余計に痛々しい。ちゃり、と鳴る音がすぐ傍で聞こえる。

「これは、いち兄が持っていて。……いつかお姉ちゃんに返せるように」

 反射的に差し出した私の手のひらにぽとりと鍵を落とし、乱は母と薬研と信濃を手伝うために厚と一緒に出て行った。その青い瞳は雨が降ったあとの夜露に濡れた空気のように、ただ静かだった。
 手のひらの中で小さな鍵と小さなキーホルダーがぶつかって立てる音。見覚えのある、デフォルメされた白い猫と赤いハートをかたどった、それ。知らなかった。気付かなかった。こんなもの、とっくに用が無くなったと思っていた。だって、何年前だ。八年近くも前じゃないか。中学一年生だったあの子も、もう成人を迎えた。こんな子ども向けのものをいつまでも付けていなくても、その間いくらでも自分が好むものに付け替えられただろうに。この鍵は彼女にとっての宝物に違いなかったろうに。

 何の気なしに私が贈ったそれを、八年もの間ずっと、後生大事に使ってくれていたというのか。

「──っ」

 ちゃり、と音が鳴る。胸の前で拳を握りしめる。手の中の硬い感触がたまらなく涙腺を刺激する。
 もう片方の震える手指で白い便箋に触れた。うつくしく、乱れのない文字。そっけないとさえ言える、ただ一言の謝罪。なんの感慨もなく書かれた言葉なのだと思った。静かな手蹟とその心に齟齬はなく、彼女は最後まで私に一切心を砕くことはなかったのだと思っていた。

 ──馬鹿か、私は。どうしてそんなことを考えたんだ。乱が指摘していたし、自分でも知っていたはずだろう。
 あの子は、苦しいときに苦しいとは、決して言えなかったのだ。

 触れる。なぞる。辿る。皺になった紙の上にぽたぽたと雫が落ちる。私に泣く資格などない。そう思うのに、この身体はまったく言うことをきいてくれない。酸素を求めて口を開けると、みっともなく嗚咽がこぼれ出た。苦しい。苦しい。うまく息が吸えない。身体の周りを真っ白な壁で四方八方塞がれたような息苦しさ。胸に抱いた鍵の感触が私からますます息を奪う。
 テーブルに突っ伏すこともできず、ただ耐えていると、ふいに腰に誰かが抱きつく気配がした。視線を下げれば、薄紅色の髪が視界に入る。秋田だった。もう彼は泣いてはおらず、ただじっと言葉もなく私の背中に顔を埋めている。のろのろと視線を彷徨わせると、骨喰と目が合った。頷かれる。

 私はいったん秋田の腕をほどくと、床に膝をついて正面から弟を抱きしめた。子ども特有の高い体温が心地好さを誘い、また涙腺が刺激される。十五も年下の末弟に慰められ、その肩口に顔を押しつけて私は嗚咽を噛み殺し続けた。疲れきった秋田がやがて眠ってしまうまで、ずっと。

 手のひらの中でまたちゃり、と音が鳴った。
 ──嗚呼、嗚呼、ただ。息が、くるしい。



 ガタッという音で、急速に意識が引き戻された。

 それほど大きな音だったわけではなく、むしろ被さるように響いている発車ベルのほうが音としては際立つ。でも電車に乗って何度も聞いているうちに耳と脳に馴染んで覚えてしまったその甲高い音よりも、イレギュラーに発された突発音のほうがずっと覚醒を促すものらしい。はっと顔を上げると、わたしの隣に腰掛けていた男性が急ぎ足で電車を降りていくところだった。きっとわたしと同じようにうとうとしていて、乗り過ごしそうになったんだろう。扉にいちばん近い隅の座席だったことが幸いしてか、男性は発車ベルが鳴り終わる前にホームに降り立つことができていた。のだが。
 ふと足元に視線をやったわたしは、床の上にぽつねんと置かれたものを見るなり拾い上げ、慌てて男性を追いかけて電車を後にした。ちょうど発車ベルが鳴り終わった瞬間に扉をくぐり抜けることができたけれど、それなりに大きい旅行鞄が閉まるドアに引っかかり、少しだけ焦る。幸いにもすぐに鞄は外れたので事なきを得たのだが。
 それほど主要な駅ではないのか、降車したひとは多くはなかった。前方に見覚えのある松葉色の髪を発見し、ほんの少し気後れしながらも小走りに駆け寄って声をかけた。

「あの」

 振り返った男性は非常に姿の良いひとだった。肌の色が白くて顔立ちも大変整っていたが、それも含めた全身がとても調和のとれたうつくしい姿をしていた。黒のフィールドジャケットに細身のジーンズ、革のショートブーツという出で立ちは決して派手ではないのに、このひとだと明らかに人目を引く。モデルだと言われても納得してしまう姿の良さだ。顔立ちから年齢は二十代半ばと踏んだが、どこか達観というか老成したような雰囲気がある。若く見えるだけで、実際の歳はもっと上かもしれない。
 男性がわずかに首を傾げた。まじまじと観察してしまったことに気まずさを覚え、わたしは慌てて手に持ったパスケースを差し出した。

「これ、落とされてましたよ」

 髪と同じ色をした眼がゆっくりと見開かれる。手がジャケットのポケットを押さえ、そこにあるはずのものがないことに気がついたのだろう。わたしの手からパスケースを受け取ると、彼はほっとしたように微笑んだ。

「これは気がつかなかった。すまない、助かった。ありがとう」
「いえ」
「──ひょっとして、これのせいで無理に電車から降ろしてしまったか?」

 う、と一瞬言葉に詰まった。はいともいいえとも言えないからだ。確かにこの駅で降りる予定はまったくなかったが、持っている切符は適当に買っただけで、具体的にどこという目的地があったわけでもない。
 それでも気を遣わせてしまう、という懸念が一瞬でわたしの答えを決めてしまった。もはや性分だから仕方がない。

「いいえ、わたしもここで降りますから」

 男性はそうか、と頷いて、もう一度ありがとうと礼を言った。それに軽く会釈をして、わたしは歩き始める。
 腕時計を確認する。時刻は夕方で、まだ春先だからそろそろ暗くなりかけている。新幹線と在来線を乗り継いで適当にここまで来たが、本当に降りることにして良かったのかもしれない。まだ今夜の宿も決めていないし、その前に携帯電話を買わなくてはならない。依存しているつもりはまったくなかったけれど、ないならないで手持ち無沙汰だし不便だと、この数時間で実感していた。

 改札を出て、地図の付いた案内板の前に立つ。まずは交番かコンビニを探して、ショップの場所を訊けばいいだろう。そう思って小さな文字を目で追っていると、後ろから声をかけられた。

「どこか行きたいところがあるのか?」

 振り向けば、すらりと姿勢の良い姿。松葉色の髪と瞳。先ほどの男性だった。
 さっきは気がつかなかったが、このひとは見目も良いが、声もまた良い。聞いていると、焦がした甘いキャラメルを舐めているような心地になってしまう。訛りは感じないけど、イントネーションが独特で不思議な感じがした。なんというか、つい答えようという気にさせる声だった。

「ええと、携帯電話を買いたくて」
「携帯電話?」

 甘く響く美声に促されるまま正直に返答してしまい、しまったなと思う。
 春休みの時期とはいえ、こんな時間に観光地でもなさそうなところに旅行鞄を携えて降り立って、挙句の果てに携帯を買いたいなんて不審以外の何でもない。勘の良いひとなら家出人だと気付きそうな怪しさだ。一応ぎりぎり成人しているけれど、未成年者だと勘違いされても可笑しくはない。初日から面倒事は起こしたくないのに、と下手を打った自分自身に舌打ちをしたくなる。

 だが、目の前の彼が不審な点を感じた矛先は、わたしが考えたものとはまるで違っていたようで。

「携帯電話を扱う店は、さすがにその地図には載っていないと思うが」
「……え、あ、いえ、交番かコンビニで尋ねようかと」
「ああ、成程。失礼した。どこの電話会社だ?」
「え?」

 なんというか物腰は柔らかで品があるし、口調は砕けているが尊大ではなく、全体的に感じの良いひとなのだが、ペースが非常に掴みにくい。初対面だからというのが理由なわけではないような気がする。
 一呼吸おいてから、なぜ電話会社を問われているのかに思い当たり、わたしは少し考えて以前使っていたところとは別の会社名を答えた。男性はほんのしばらく考えるそぶりを見せ、やがて頷いてわたしを手招いた。繰り返しになるが、本当に姿の良いひとで、動作のひとつひとつが目を引く。

「駅前に店があったはずだから案内しよう。落とし物を拾ってもらった礼だ」

 知らないひとについていくな、とは子どもの頃から口を酸っぱくして言われていることだし、普段のわたしなら丁寧にお断りしているところだ。でも、このひとならなんとなく大丈夫だ、という感じがした。根拠はない。勘ですらなく、ただの感覚。
 すらりと背筋の伸びた後ろ姿が歩き出し、少し先で立ち止まってこちらを窺う。わたしは鞄の取っ手をぎゅっと握りしめ、顎を引いて小さくお願いしますと呟いて彼のあとに続いた。

 なんだかんだ言って、わたしは不安だったのだろうと思う。身ひとつで家を出て、頼れるひともあてもなく電車に乗って。考えないようにしてきたし、覚悟も散々していたはずだが、心細さはコントロールできるものではなかった。このひとに話しかけられて、わたしはひどく安堵していた。
 もう家を出て何時間にもなる。秋田は昼寝から目覚めただろうか。あの手紙を見つけてしまっただろうか。初めに誰に連絡を取ろうとするだろう。それとも、すでに誰か帰っている頃だろうか。骨喰、乱、五虎退、博多、平野、前田あたりならそうかもしれない。薬研に厚、後藤と信濃は今日帰宅の予定だけどもう少し遅いはず、鯰尾が帰ってくるのは明日。一期は││忙しい時期だと言っていたから、来るのはもっとずっとあとかな。

 駅を出ると、眼前に空が広がった。翳を落とし始めた、くすんだような空の色。彼の髪色と重ねるには程遠く、それでいて連想せずにはいられない。こちらとあちらでは、天気はどれほど違うのだろう。彼があの手紙に目を通す瞬間に、わたしはどこにいて、何をしているだろう。

 ──ああ、駅の向こうで、耳の中で、発車ベルが鳴り響いている。



 片方の耳からもう一方の耳へと突き抜けていくベルの音が、うるさい。
 この甲高い音はいったいいつまで鳴り続けるのだろう。まだ扉は閉まらないのだろうか。まだ発車しないんだろうか。どうして誰も促さないんだろう。騒ぎ立てないのだろう。ああ、うるさい。これじゃ眠れない。
 とうとう耐え切れなくなり、わたしは瞼を持ち上げた。浮上する意識が身体の感覚を脳に伝え始める。座席に腰掛けているはずの身体は横たわっていた。あたたかいものに包まれている感覚。電車の中ではなく布団の中にいるのだと気がついて、ベルの正体に思い当たる。

「……」

 のろのろと腕を持ち上げて、音の発信源に手を伸ばす。ジリリリリ、とけたたましく鳴いていた目覚まし時計を上から力を込めて叩くと、それでぴたりと音は止まったが、スヌーズを切っておかないと五分後にまたひどい自己主張を始めるので裏側にも手を伸ばした。電車に乗っている夢を見ていたせいで発車ベルの音かと思っていたが、実際はこちらのほうがずっと耳に障る。目覚まし時計なんだから当たり前だけれど。
 まだ眠気の残る頭を軽く振って改めて時計に目をやった。そういえば今日の朝は自分ひとりじゃないことを思い出す。朝食の準備を、とそこまで考えて、時計の針の位置にわたしの思考は停止した。長針が十二を指しているのはいい。だが、七を指しているべき短針はどう見ても八のところを指していた。

「はちじ……」

 反射的に跳ね起きていた。
 アラームをセットする時間を間違えていた、という古典的なミスに頭を抱えて転げまわりたい気持ちに駆られながら布団から抜け出す。隣に敷いてあったはずのもう一組の布団は畳まれ、隅に寄せてあった。ひとりでクローゼットに仕舞おうとしたらしい格闘の跡が見てとれるが、うまくいかなかったんだろう。申し訳ない気持ちになる。

 七帖の部屋を大股に横切ってキッチンへ続く引き戸を開ける。じゅわあっという音と食欲をそそる良い匂い。フライパンを片手にコンロの前に立っていた少女がこちらを見てわずかに首を傾げた。外見も中身もあまり父親似ではないのに、こういうしぐさは驚くほど似通っている。

「おはようございます」
「おはよう。ごめんね、寝坊した……朝ご飯つくってくれたの」

 声に出さず頷いて、彼女はコンロの火を止めた。隣の自宅から調達してきたのだろうか、足りない背を補うための踏み台から危なげなく下りて、器用にフライパンからスクランブルエッグを皿に移す。すぐ傍には開封済みの食パンの袋が置いてあって、トースターが稼働している。食パン切らしてなかったっけ。だから今日の朝食は、寝坊という失態を犯さなければ米を炊いて和食にしようと思っていたはずだけど。
 わたしの視線に気がついたのか、少女はあまり動かさない表情から少しだけ眉を下げた。

「よそのおうちの冷蔵庫をかってにあさるのはよくないと思って……」
「……あ、あー、そっかこのパンあなたのおうちの? ご、ごめんね、ほんと寝坊してごめん。え、ひょっとして卵も?」

 頷かれる。また頭を抱えて転げまわりたくなった。小学四年生にここまで気を遣わせるとか大人としてどうなんだ。ああもう、消え入りたい。消えてなくなってしまいたい。
 さらによろしくないことに、皿からほくほく湯気を立てているスクランブルエッグも、チンという音を立ててトースターから取り出された食パンも、見るからにひとり分だった。聞かずとも答えはわかりきっていたが、それでも念のため尋ねてみる。

「これはあなたが食べる分だよね?」
「ううん、おねえちゃんの分。私は先に食べた。十五分には出ないとまにあわないから……」

 ──うん、知ってた。

「顔を洗ってきます……」

 朝っぱらから三度、いたたまれなさに転げまわりたくなりながら、わたしは洗面台目指して浴室に駆け込んだ。


 わたしが暮らすアパートの一Kの部屋、その隣の角部屋に少女は父親と二人で住んでいる。

 鶯丸さんというそのひとは普段は翻訳の仕事をされていて、在宅ワークであることがほとんどだが、時折何か別の仕事があるらしく、二・三日家を空けたりする。そんなとき、隣人のよしみということでわたしは彼の一人娘を自宅で預かっていた。とは言っても隣部屋だし、娘さんは十歳のわりにとても落ち着いてしっかりしているので、わたしがすることといえば食事の用意くらいのものだ。今朝はそれすら怠ったわけだが。

 ただ隣に住んでるだけの見ず知らずの他人に大事な一人娘を託して心配じゃないんですか、と鶯丸さんに尋ねたことがあるが、君が見ず知らずの他人かどうかを決めるのは君ではないさと軽快に返された。信用に値すると思われているらしいのは素直に嬉しいと感じるけれど、あのひとの少々不可思議な掴みにくさは初めて会ったときからまったく変わっていない。それでいてとても親切なひとで、ここに入居したときから彼にはお世話になりっぱなしなのでわたしは頭が上がらないのだが。

 顔を洗って簡単に髪をとかしつけたあと、せっかく用意してもらった朝食を冷ますのが嫌で、行儀が悪いと知りつつも寝間着のままトーストとスクランブルエッグを食道に詰め込み、ティーバッグの紅茶を胃に流し込んだところで、最終的な身支度を整えたらしい少女がランドセルを背負って姿を現した。玄関まで見送りに出る。寝間着だから恰好がつかないけど、仕方ない。

「寝坊は今度から気をつけるけど、もしかしてまたこういうことがあったときはうちの食材使ってくれていいからね。あなたのお父さんからはちゃんと食費預かってるから」
「……うん」
「ええと、お父さんは今日帰ってくるんだったよね。夕飯、外でご馳走してくれるって言ってたから楽しみだね」
「うん」
「朝ご飯ありがとう。ごちそうさま。いってらっしゃい」
「いってきます」

 おとなしく、表情は富んでいるとは言えず、口数も少ない彼女だが、この「いってらっしゃい」「いってきます」のやり取りを交わすとき少し嬉しそうに顔が綻ぶのを知っている。その気持ちは、わたしにもよくわかるものだった。この子の父は家にいることが多い仕事だから親子の触れ合いは少なくはないのだろうが、片親であればそれなりに寂しい思いもしてきたことだろう。「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」を言ってもらえる生活というのがどんなに尊いものなのか、似たような境遇のわたしにはよくわかった。

 てくてくと階段に向かって歩き出した姿が一度立ち止まってこちらを窺う。手を振って微笑むと、幼く丸みを帯びた頬にぱっと朱が差して、小さな手を振り返してくれた。恥ずかしかったのか、そのまま走って行ってしまった姿を可愛いなあと思う。
 お世話になっている隣人の娘さんというだけでなく、彼女のことはどうも放っておけない。子どもの頃の自分を見ているようだというのもあるし──あの家を出たときの末のあの子とちょうど同じ年頃だから、つい重ねて見てしまう。
 歳の離れた弟たちに構っていた『彼』のやり方を、つい思い起こしてしまう。

「……」

 玄関の外には空が広がっていた。絵の具を薄く伸ばしたような、淡い蒼穹。秋晴れの、少し色味の薄い空。あのひとの髪と結びつけるには遠く、それでいて思い浮かべずにはいられない。彼はどちらかと言えば春空のようなイメージだった。髪色だけでなく、柔和な琥珀の瞳や、穏やかな微笑みなどがそう思わせていた。
 空が、記憶を刺激させる。思い出とともに季節が巡る。初めて出会った春。好きだと告げられた冬。最後に二人きりで話した夏。今は、秋。

 わたしが粟田口の家を出て、二年と半年が過ぎていた。


 結果から言えば、わたしはこの二年半、誰に見つかることもなく生活することができている。
 貯金が多少あったとはいえ、ひとりきりで何もかも一から始めるというのは思っていた以上に大変だった。部屋を借りて職に就くという大まかなことはなんとかなったものの、ひとりで生活する上で必要な細々とした雑事などについては知識もなく、そのあたりはずいぶんと隣人に助けられた。頼れる親族も友人もいないということを彼は不審には思ったようだけれど、そうかと頷いただけで深く詮索してはこなかった。そういうところも本当に有難く、やっぱり頭が上がらないでいる。

 部屋を借り、必要最低限の家具や家電を買い揃えて、初めの数ヶ月間はバイトをしながら仕事を探し、運良く近くに本社を構える食品メーカーの事務職に就くことができたが、改めて思うのは学校に行かせてもらえたことがどれほど糧になっていたかということだった。短大を卒業した経歴や在学中に取得した資格などは、社会に出る上で明らかに有利な持ち物だった。あのひとが言っていたことは正しかった。でも彼はいつだって正しかったように思う。
 あの家で培われたものは大きい。ひとりで暮らし始めて、改めてそれを実感していた。

 暮らしが少し落ち着き始めた一年半ほど前から半年に一度、少額ではあるが、学生時代に関西のほうへ旅行したときにそちらでこっそり開設しておいた口座を通して粟田口家にお金を送っている。そんなことでわたしの所業が帳消しになるはずもないけれど、せめてもの罪滅ぼしと恩返しだった。あの心やさしい保護者たちからは常々あなたはお金のことを気にしすぎだと注意をされていたから、ある日突然拒否されて口座がなくなっていたりしたらどうしようと思ったこともあるが、今のところはそんな気配もない。もっとも、わたしの消息を伝える唯一のそれをなくすわけにいかないと考えているのかもしれないと思うと、罪悪感でじくりと胸が痛んだ。

 誰もいない家に帰ってきて、ひとりきりで食事をとって、眠って、幸せだったあの日々を夢に見て、朝目が覚めて誰に「おはよう」と挨拶することもなく、仕事に行って、また誰もいない家に帰ってきて、という繰り返しは、最初のうちは恐ろしいほど寂しくて悲しくて辛くて何度も泣いた。両親が亡くなってから親戚の家を転々としていた三年間は似たような辛さを味わっていたはずだが、そのあとの幸せな八年間にすっかり上書きされていた。布団の中で泣きながら帰りたいのだろうかと考えるたびに、そんなことできるはずがないと何度も自分を戒めた。
 時が経つにつれて段々と寂しさは薄らいでいったけれど、それはやっぱり鶯丸親子の存在が大きいと思う。彼らはまったくの他人ではあるが、ただのお隣さんと言うにはあまりにも近く、傍でわたしの心の支えとなってくれている。今では懐かしい夢を見ることも、夜泣くことも、郷愁に駆られることもほとんどなくなっていた。

 ただ、空を見たときに時折きしりと音を立てて胸に奔る痛みだけが、わたしと一期とを未だ繋げている。



 待ち合わせ時間は十九時ちょうど。今日はいわゆるノー残業デーだから、十八時きっかりに退社することができた。自宅は電車で二駅のところだから近いほうだが、待ち合わせの場所が少し離れているから家に帰っている余裕はない。トイレで簡単に化粧だけ直す。今朝は寝坊をしてしまったので服装に気を遣う余裕がなかったのだけど、これで問題ないのだろうか。今日は友人が経営しているレストランに案内する、と言われていた。彼らと外食する機会は多くはないけれど、これまで行った店はどれも敷居が高すぎるということはなかったし、子連れだから大丈夫だと思いたい。

 指定された駅に五分前に着くと、すでに親子は到着していた。わたしと同じように仕事帰りらしい若い女性たちはみんな松葉色の髪の彼に視線をやって、ほうっと溜息をついている。ベージュのシングルトレンチコートに黒のボトムス、キャラメル色のスエードの靴は同じ空間にいる数多の男性陣と比べて特別派手というわけでもないのに、相変わらず人目を引く姿の良さだ。実年齢よりだいぶ若く見える彼と、それとは逆に十歳よりいくらか大人びて見える少女が並んで佇んでいる様は、親子というより歳の離れた兄妹という感じだった。

 鶯丸さんがこちらに気がついた。ひとと話すときにわずかに首を傾げるしぐさは彼の癖のようなものらしい。

「すみません、お待たせしてしまいましたか」
「いや、こちらが早く着きすぎただけだ。気にしなくても大丈夫」

 隣で少女がぺこりとお辞儀をした。いったん家に帰って着替えたのだろう、朝見たときとは違うよそゆき用らしい可愛いワンピースを着ている。一瞬自分の恰好に焦ったが、鶯丸さんもフォーマルな恰好はしていない。大丈夫そうかと安堵の息をついて、少女に話しかけた。

「今朝はごめんね」

 ぶんぶんと首だけを横に振った彼女に代わって父親が口を開いた。

「どうかしたのか?」
「今朝寝坊したんです。すみません、そのせいで彼女に朝ご飯をつくらせるという失態を犯しました」
「それはそれは。まあ細かいことは気にするな。俺もよくやる」
「気にしますよ……あ、お預かりした食費の余った分お返ししますね」
「ああ、今回も世話になった。ありがとう」

 今朝消費させてしまった朝食分をきっちり上乗せした金額を封筒に入れたものをその場で返す。とは言っても食パン一枚と卵一個なのでおおよその目算だが。
 世話になったと彼は言うが、そのお礼として毎回こうして食事をご馳走されているし、そもそもお世話になりっぱなしなのはわたしのほうだ。二年半前、あの家を出たその日に電車を降りた先で彼と話をしてから、それは変わらない。

 実は鶯丸さんと初めて出会ったのは今住んでいるアパートではない。あの日、彼が電車の中で落としたパスケースを届けたのがきっかけで、携帯電話を扱う店に連れていってもらったのが最初だ。お礼を言ってそれきりになるはずだったのだが、なんの偶然か数日後、引っ越し先のアパートのお隣さんに挨拶をしようとベルを鳴らしたら彼が出てきた。人目を引く姿をしている彼のことをわたしはもちろん覚えていたので驚いたが、鶯丸さんのほうもわたしを見て驚いていた。とくに目立つ容姿でもないわたしのことを彼は忘れていなかった。職業柄、あまり大勢のひとに接することがないからというのが理由らしい。

 鶯丸、という珍しい姓を名乗る彼の後ろに小さな女の子が見えて、妹さんかと思ったら娘だと言うので二度驚いた。二十五、六歳と思われる見た目にどこか老成した雰囲気を加味しても二十八、九歳と踏んでいたのだが、実際はそれよりさらに五つくらい上だった。実年齢を知って三度驚いたのも懐かしい記憶だ。

 こちらだ、と歩き出す彼に従い、駅を出る。帰宅ラッシュの人々で賑わう駅前で彼の容姿はよりいっそう人目を引き、すれ違う女性はおろか時々男性の視線すら集めているのだが、本人は至って気にしていないようだし、娘さんも慣れているのか涼しい顔をしている。きっと授業参観なんかも注目の的だろうなと思った。こんなに若くて恰好良いお父さんならクラス中から羨望の眼差しを向けられることだろう。

 初めて人ごみに気がついたかのように、ふと鶯丸さんは振り返って身体の小さな娘さんに向かって手を差し出した。やさしいなあとほんわかしながら見ていたのだが、少女は恥ずかしかったらしく、父親の手ではなくトレンチコートの袖口を掴んだ。眉をわずかに八の字に下げた彼がわたしに向かって苦笑する。

「今日も娘がそっけなくて、しょんぼりだ」

 これくらいでそっけないなんて言ってたらこの先しょんぼりどころじゃないですよ、とは言わないでおいた。


 連れて来られた店は隠れ家風というのだろうか、大通りから少し引っ込んだところにあるイタリアンレストランだった。店内は女性やカップルが多かったが、スーツ姿の男性もちらほら見受けられる。内装がシックで落ち着いているし、奥に個室もあるようだから接待などでも使われるのだろう。
 予約席に落ち着いたあと、注文を取りに来たオーナー兼シェフだという男性は、鶯丸さんとはまた違ったタイプの姿の良いひとだった。古風な言い方をすれば伊達男というんだろうか。背が高く、均整の取れた立派な体躯で、艶やかな黒髪に濃い蜂蜜色の瞳、甘いマスク、おまけに声も甘く響くバリトンときている。美形の男性二人が並んでいる様は近くの席の女性たちの視線を総なめ状態で、わたしは居心地が悪くて仕方なかったけれど、わたしより一回り年下の少女はやっぱり慣れているのか涼しい顔でお行儀よくメニューを眺めていた。見習いたい。

 前菜からパスタ、メインディッシュのお肉料理、デザートまですべて美味で、食後のコーヒーを飲みながらランチタイムのときにもまた来たいなあと考えているところへ、鶯丸さんがそういえば、と口を開いた。ちなみに彼の手にはコーヒーのカップではなく、湯呑が握られている。注文のときに日本茶を、と言ったときは耳を疑ったのだが、メニューにしっかり載っていたので目も疑うことになった。オーナーさん曰く「彼のおかげでメニューに入れることになったんだけどね」らしい。

「今週の土曜日は空いているか?」

 問われて考える前に、それまでおとなしく食事をして口を挟むこともほとんどなかった少女が珍しく慌てた様子でオレンジジュースの入ったグラスを脇によけながら抗議の声を上げた。

「おとうさん、いいから」
「聞くだけ聞いてみればいいだろう。少し急だが」
「ええと、土曜ですか? とくに予定はないですけど。何かありました?」
「いやなに、娘がな」
「おとうさんなんて、きらい」

 彼女は顔を真っ赤にさせて、そっぽを向いてしまった。普段はとても聞き分けの良い子だから、こんな姿は滅多にお目にかかることがなく、とても新鮮だ。可愛い。鶯丸さんを見ると、彼は湯呑を手にしたまま固まっていた。顔には笑みが貼りついたままだが、目がまったく笑っていない。マイペースで何事にも達観していて、他人がどう思うかなどまるで気にしていないようなひとだけれど、意外と子煩悩なのだ。愛娘にはっきりきらいと言われて、もはやしょんぼりどころじゃないだろう。

「土曜に何かあるの?」

 わたしは微笑んで彼女に尋ねた。少女は目を泳がせたまま、口ごもる。こういうとき畳みかけるのはよくないと、わたしは身を以て知っていた。本当にこの子を見ていると、昔の自分を思い出す。そして、周りにいたやさしい人々を思い出す。彼らがしてくれたことをなぞるように思い浮かべる。同じようにできていますようにと心の中で願う。

 しばらく間を置いて、すいぞくかん、と彼女はそっぽを向いたまま呟いた。

「水族館?」
「……イベントが、あって……」
「そうなんだ。いいよ、一緒に行こうか」
「でも」
「わたしもペンギンが見たいなあ」

 遠慮して渋る子どもを説き伏せるには、大人が自らしたいことを言うのが効果的。それをわたしは身を以て知っていた。これは、あのひとがよく使っていた手だ。アイスクリーム販売車を眺めていたときは、食べたいけれどひとりでは恥ずかしいから一緒に買ってくれませんかと言い、本屋で読みたいと思った本があったときは、レシートで懸賞に応募するのに金額が足りないから何か選んで加えてくださいと言ってくれた。あのひとは本当に、わたしをよく理解していた。思い出が脳裏によぎり、じんわりと胸が痛む。でもどこかあたたかな痛みだった。

 わたしがあのひとの意図をわかっていたように、目の前の少女もたぶんわたしの考えはお見通しだろう。それでもきょときょとと彷徨わせていた視線をまっすぐこちらへ向けて、頬を紅潮させたまま小さくありがとうと言った。あたたかな痛みが増す。

「俺が行ければ良かったんだが、生憎ちょうど仕事の締切と被っていてな。いつもすまない」
「いえ、お安い御用です」

 固まった状態から復活した鶯丸さんが湯呑に口をつけながら言うが、先ほどのきらい攻撃はよっぽど効いたらしく、目に見えてしょんぼりしていた。こういう表情は顔文字で見たことある気がする。仕方ないとでも言いたげな娘さんの小さな手に松葉色の髪をぽんぽんと撫でられて、少し気分が上向いたのかぱっと表情が明るくなる。これも顔文字で見たことある気がする。仲睦まじい様子に、自然と頬が緩んだ。

 わたしの後ろから突然声がかかったのは、そのときだった。

「──お、鶯か? 君も来ていたのか」

 低く落ち着いた、耳に馴染む美声。どこかで聞いたような、と思ったときにはそのひとはテーブルの横に来て、よっと片手を上げて鶯丸さんに挨拶をしていた。その真っ白い姿を見上げて、わたしは息が止まりそうになった。口から漏れ出そうになった声をどうにか飲み込み、急いで俯く。他人の空似であれと願ったが、鶯丸さんが返した挨拶はそれが叶わぬ願いであることを示していた。

「ああ、久しぶりだな。鶴丸」

 ──つるまる。だめだ、そんな名前はファミリーネームでもファーストネームでも滅多にあるものではない。
 どうしよう、どうしよう。頭の中がぐるぐると目まぐるしく回り、ぐつぐつと沸騰したようになっていく。テーブルの上のコーヒーカップの取っ手にかけられた指がカタカタと震えていることに気がつき、慌てて手を膝の上に引っ込めた。息を吸って、吐き出す。

「やあ、お嬢。しばらく見ない間にまた別嬪になったな」「鶴丸さんも」「そういう返しをどこで覚えてくるんだ」という少女との会話へと移行する中で、どうかこのままわたしのことなど無視してほしいと願いを込めて拳を握るが、そんな態度を彼がとるはずもなかった。顔を伏せていても、じっと視線が注がれるのがわかった。

「驚いたな、鶯は再婚していたのか? それなら言ってくれれば祝いの品を用意したものを」
「ああ、報告が遅れてすまないな。祝いならいつでも受け付けている。水出し玉露で良いぞ」
「えっ」

 思いもよらない会話の応酬に思わず顔を上げてしまい、ぱちりと視線が合った。相変わらず恐ろしいほど整ったうつくしい顔立ちに、こちらの顔を見られてしまったことよりも怯んでしまう。色素の薄い肌と髪、輝く黄玉の瞳、すらりとした立ち姿。このテーブルは再び店内の女性の視線を欲しいままにしている気がしたが、さすがに今そこまで気を回す余裕はなかった。

 ふむ、とうつくしいひとはわたしを眺めて微笑んだ。内心冷や汗びっしょりだが、予想していた言葉は聞こえてこなかった。

「若いなあ。一回りくらい違うんじゃないのか? 鶯、君の亡くなった奥方は寛容なひとだったが、さすがに犯罪は許容しかねるんじゃないかと思うぜ」
「成人していれば犯罪にはならんだろう。それより鶴丸、この茶番をいつまで続ける気だ? 娘の冷たい視線がそろそろ堪えるんだが」
「全力で乗ってきたくせに茶番とは言ってくれる。まあ、お嬢のこの蔑みの目は俺も辛いし泣きたくなるがな。よしわかった、それで?」
「彼女はうちの隣人だ、娘がよく世話になっている」
「そんなことだろうと思った」

 え、え、とおろおろしている間に、解こうと思っていた誤解は解けたらしく、というかそもそも誤解ですらなかったようで。

「突然すまなかったな。鶴丸国永だ」

 白いジャケットの懐から名刺入れを取り出し、にっこり微笑んだ彼から一枚手渡される。おそるおそるそれを受け取ったあと、わたしは少し考えて姓だけ名乗り、名刺は会社のデスクの引き出しに入れっぱなしで今は持ち合わせがない非礼を詫びた。それは半分は本当だが、半分は嘘だった。営業職などではないから会社に置いたままにしてあるのはその通りだけれど、もしものときのために数枚持ち歩いてはいる。でもそれを彼に渡す気にはまったくなれなかった。あとでどうなるかわからない。
 頂いた名刺に視線を落とす。見覚え、聞き覚えのありすぎる名前の上に、インテリアデザイナーという職業と事務所の名らしきものが記されている。こういった職種には詳しくないのだが、フリーランスらしいというのは見てとれた。

「デザイナーさん、ですか」
「ああ、この店の内装は俺が手掛けたんだ。オーナーとは昔なじみでな」

 思わず天井を見上げた。濃茶を基調としたシックで落ち着いた内装は良い雰囲気を出していて、わたしの好みだった。素直にそう述べると、鶴丸さんは儚げな見た目にそぐわない快活な笑みで、ありがとうなと明るく言った。

「あれ、鶴さんこんなところで油売ってたの? 奥の部屋で三日月さんお待ちかねだよ」

 他のテーブルの接客をしていたらしい件のオーナーさんが通りかかり、窘めるように彼に声をかけたあと、また忙しそうに厨房へ入っていく。

「三日月も来ているのか」
「仕事の打ち合わせだ。あいつは人使いが荒くてかなわん」
「違いない。よろしく言っておいてくれ」
「了解した」

 じゃあな、とひらひら手を振って、白くうつくしいひとは去っていった。わたしは二人に気付かれないよう、詰めていた息をゆっくりと吐き出した。名刺を鞄にしまってから、コーヒーのカップを持ち上げて口をつける。指はもう震えてはいなかった。
 大丈夫。大丈夫だ。彼はわたしの顔を見ても、とくにこれといった反応は示さなかった。彼の記憶には残っていなかったか、残っていても今のわたしとは結びつかなかったのだろう。今ほど、あの家の籍に入っていなくて良かったと思うことはない。『粟田口』なんて姓を名乗ったら、一発でわかってしまう。

「古い友人でな。良い奴なんだが、騒々しくてすまないな」
「いえ……」

 鶯、という愛称や、会話の様子からして、ずいぶん親しそうだった。まさかこんな繋がりがあるとは思ってもいなかった。偶然以外の何物でもないはずなのに、あまりの巡り合わせに在りもしない何かを疑ってしまう。勘ぐってしまう。瞼の裏でちり、とそれは弾け、わたしの思考を揺らしていった。

 ──鶴丸国永。一期の高校の先輩で、大学生になってからも何度かあの家に遊びに来ていた。
 もう何年も前の話になる。七、八年は経っているだろう。わたしは中学生か、ぎりぎり高校に上がったくらいの年齢だった。挨拶を交わしたことくらいしかないし、それだって片手の数で足りる。それに、わたしはあの家で対外的には一期の『妹』だったから姓を名乗った覚えもない。よそから引き取った子どもだということくらいは一期も話していたかもしれないが、それだけだろう。大丈夫。大丈夫のはずだ。

 大丈夫だと自分に言い聞かせるたびに、ちりちりと脳の内側を何かが埋め尽くしていく。
 ぬるくなったコーヒーが、やけに苦さを増して喉を嚥下していった。



 夢を、見ていた。
 夢の中で「ああ、これは夢だな」と気付くことはままあるけれど、このときは最初からそうだった。ふわふわと漂う意識が明るい空色を捉えたときに、夢だとわかった。現実ではもう二度と見ることはない、少なくともわたし自身はそう信じているその色。琥珀色の双眸と穏やかな雰囲気とも相まって、春空を思わせる、色。

 一期が、こちらを見て微笑んだ。子どもの頃からよく見ていたような、やさしい慈しみに満ちた笑みだったが、それだけではなく、瞳に熱が籠っていた。覚えのある、とろりとした眼差し。彼に恋われているとわかる、それ。
 これは間違いなく夢だと、わたしの意識が告げている。それゆえに、夢の中のわたしはどうしたらいいのかわからなくなる。

 わたしは彼を裏切って逃げた身だ。だからたとえ夢でも、こんなふうに彼から想いを向けられる資格などない。そう思うのに、それとは相反する思考も存在している。夢なのだから、自分のほかに誰も知ることはないのだから、甘やかなそれを享受してしまえと。現実では叶わなかったことを、誰にも責められることのない夢の中で果たしてしまえと、欲望が頭を擡げて囁いている。
 一期がゆっくりとわたしに向かって手を伸ばした。男のひとの大きな手のひら。長く節くれだった、うつくしい手指。甘く微笑まれたまま、髪を撫でられる。瞳が、口元が、指先が──彼のすべてが、わたしを愛おしいと告げている。

 心地好い。これはいけない。もっと欲しい。怖い。触れたい。逃げ出したい。応えたい。受け入れたい。──違う!


 ごつん、という重く鈍い音で、目が覚めた。

「……った……」

 ぼんやりと覚醒を始めた脳が側頭部の痛みを認識する。
 肩から上の部分が敷布団からずり落ちた状態で、わたしはフローリングの床に頬をくっつけていた。布団の下にはマットレスが敷いてあるから、床とは少し段差があり、頭は重力に逆らうことなく段差の分だけ落下したものらしい。じわじわと痛みが増していく。涙が浮かんだ。それは頬を経由することなく目尻から直接床へと滴り落ちた。
 でも泣いているのは痛みのせいだけではなく、痛いところもぶつけた頭じゃなくてもっと別のどこかだった。

「……っ、」

 ──なんだ、あの夢は。最低だ。

 衝動に駆られるまま、わたしは横向きの頭をずらして、ごつっと額を床に打ちつけた。新たな痛みで涙がまたじわりと浮かび、殺しきれない嗚咽が漏れた。ひくひくと震える喉を両手で押さえ、奥歯を噛みしめてゆっくりと息を吐き出す。ぎゅうっとつよく閉じた眼から溢れるものが、また床を濡らしていく。
 最低で、最悪で、最高に浅ましい。このところは見ることもなくなっていた『懐かしいあの頃の夢』ですらなく、ただの妄想の産物だ。なんて愚かしい。なんて恥ずかしい。死んでしまいたい。消えてなくなってしまいたい。
 夢の中ならば誰にも責められまいと思った夢の中のわたしはなんて馬鹿なのだろう。目が覚めてしまえば、ほかの誰でもなくわたし自身が己を責めることになるというのに。

 ぐす、と鼻をすする。震える肩から力を抜いて、どうにか嗚咽を落ち着かせる。今日はまだ平日だ。朝から眼を腫れぼったくしたまま仕事に行くわけにはいかない。首を擡げて時計を見ると、まだ六時少し前だった。アラームが鳴り響くまで一時間以上もある。
 起き上がってタオルを濡らして絞り、それを両目に当てながらまた布団にもぐり込んだ。閉じた瞼の裏に、春空が浮かんだ。脳裏をよぎる、夢の中の光景。やさしい笑みと、やさしい手のひら。ぐすり、とまた鼻をすする。愚かなのは夢の中のわたしだけじゃない。

 夢から覚めてしまったことを少し惜しいと思っている自分のほうが、きっと何倍も愚かで浅ましいに違いなかった。



 土曜日に向かった水族館は、少しだけ遠方にあった。

 とは言っても日帰りで充分行って帰ってこられる距離だが、十歳の子どもをひとりで行かせるには電車の乗り換えなんかが少し不安だろう。休日だし有名なところだから人も多く、少女の目当てのイベントを目的にして来たひとはほかにも大勢いたようで、館内は結構な賑わいを見せていた。やはり家族連れが多く、両親と手をつないで楽しそうにはしゃいでいるよその子どもを見て、わたしは思わず彼女の手を取っていた。びっくりしたようにわたしを見上げたあと顔を赤くしていたが、振りほどいたりはしなかった。わたしはそのことにひどく安堵していた。

 交通費と昼食代に、釣りはいらないから好きに使ってくれと鶯丸さんから渡されたお金はどう考えても多かったが、余ったお金を返そうとしても彼が受け取らないであろうことはわかっていたので、それならばと少女にお土産を選ぶよう勧めた。彼女は彼女で遠慮することはわかりきっていたから「お父さんにあげたら」と付け加えることを忘れない。
 売店でしばらく悩んで、お茶好きの父親のために彼女はイルカの絵が描かれた湯呑を選んだ。今日の目的のイベントもイルカに関するものだったし、好きなのだろうと思い、わたしは少し大きめのイルカのぬいぐるみを購入した。ぬいぐるみというのは結構値段が張るものだが、それでも渡されたお金からはまだお釣りがくるから問題はない。

 電車の中で持たせるのは少し酷かと思ったので、駅からアパートまでの帰り道で袋から出して少女にはい、と渡した。彼女はてっきりわたしが自分用に買ったものだと思っていたのだろう。目を丸くしてぱちぱちと瞬きをしたあと、困ったようにわたしを見上げたけれど、目の前のイルカの可愛さには勝てなかったらしい。躊躇いがちに伸ばした両腕でぽすっとぬいぐるみを抱き、顔を埋めて耳まで赤くしながら「ありがとう」と呟いた。じわりと胸があたたかくなる。確かに嬉しいと思う反面、どこか痛みも感じるあたたかさだった。心を真綿で包まれてゆるゆると力を込められているようで、何故か意味もなく泣きたくなった。

 手をつないで帰りたいと言うと、彼女は嫌な顔ひとつすることなくぬいぐるみを片手で抱えて空いた手を差し出してくれた。小さな手のひらはあたたかく、やさしかった。えへへ、と笑うと、普段あまり微笑んだりしない少女も照れたように顔を綻ばせてくれた。
 秋も半ばに差し掛かり、陽が落ちるのも早くなってくる。ただでさえ色味の薄い秋空は、薄墨を流し込んだように暗くなりかけている。少し肌寒い。そろそろお鍋の季節かなあなんて呑気なことを考えながら、二人で手をつないだままアパートの階段を上る。二階に着き、廊下へと曲がる。切り取られた薄い空が見える。

 ──春空が、視界に飛び込んできた。

 突然のことで、わたしは咄嗟になんの反応もできなかった。慣性だとでもいうんだろうか、歩みを止めることすらできず、落ちかけた陽に照らされる明るい空色をぼんやり眺めながら、まるで水の中を歩くように、時間の流れが緩慢になったみたいに、ゆっくりと廊下を進んだ。先に歩みを止めたのはわたしの隣にいた少女のほうだった。彼女は立ち止まり、わたしを引きとめるようにつないだ手をくい、と引いた。

「おねえちゃんちの前だれかいる……」

 小さな声と気配に誘われるようにして、わたしの部屋の前に佇んでいたひとが顔を上げた。さらりと流れる春空の下から覗く、琥珀色の双眸。髪のせいか角度のせいか少し影を含み、どこか仄暗い色を湛えている。ひゅっと逆巻く息がわたしの喉奥を撫で上げた。
 かたちの良い唇が無音で何かを紡ぐ。わたしの名前のような気がする。手すりに預けていた背をゆらりと起こした彼が片足を半歩こちらへ踏み出す。ざり、というわずかなその足音を聞き取った瞬間、わたしの緩慢な時間は終わりを告げた。

 つないでいた少女の手を離し、脇目もふらず元来た道を駆け戻る。
 ばたばたばた、という騒音はひどい近所迷惑だと頭の隅ではわかっていたが、なりふり構っている余裕はなかった。三歩も踏み出さないうちに今この場から逃げたってもうどうしようもないだろうという事実に思い当たったが、やっぱり構ってはいられなかった。とにかく逃げたいという欲だけがわたしを衝動的に突き動かしていた。頭の中は真っ赤になったり真っ白になったり真っ黒になったりと忙しい。思考がちりちりと灼けつき、感情がぐつぐつと煮え滾った。
 階段に辿り着くまでの、時間にしておよそ二秒がひどく長く感じられた。その上、下りる動作に入るまでにたっぷり一秒は躊躇してしまった。階段は上るときより下りるほうに神経を使う。止まってしまったのは反射だとはいえ、一秒間のタイムロスはきっと致命的な失敗だった。

 段差に足を踏み出しかけたところで、後ろから恐ろしく容赦のない力で腕を引っ張られる。

「いっ……!」

 痛いと声に出す間すら与えられず、身体が思いきり風を切った。ぐん、と空を薙いで一瞬止まり、バランスを崩して足が後ろへと滑って逃げる。どん、と背中が廊下の手すりにぶつかるのと、掴まれた左腕にさらに力が籠るのと、縋るものを求めて無防備にも浮いた右腕をも捕らえられるのとは、同時だった。ほんの少しの間をおいて、心臓がどくどくと血液を送り出す。息を吐くのが苦しい。
 顔は、上げられない。

 俯けて横にずらした顔を覆う髪。そこに、長い吐息がかかった。今にも泣きそうな、何かを堪えているような、ひどく熱を孕んだ吐息だった。わたしの両腕を掴む大きな手のひらは、わずかに震えている。上着の上からでもはっきりと痛みを感じるほど、ぎりぎりと込められる力は緩むことがない。でも、痛いだなんて言えなかった。声を出せるはずもなかった。
 今呼び掛けたら、視線を合わせてしまったら、きっとわたしの心は馬鹿になったみたいに何も機能しなくなる。

 呼吸をすることすら憚られて、弾む息をできるだけ小さく細かく整える。腕だけでなく、身体のあちこちがじわじわと痛みを訴え始めた。手すりにぶつけた背中はともかく、何故か足の裏が痛むと思ったら、パンプスが片方脱げてしまっていた。腕を引っ張られたときに抜け落ちたんだろう。靴下だけで地を踏んでいるのが落ち着かなくて、踵を上げる。足を少し動かしただけで彼はそれを逃げの意思と見たらしく、眼前の大きな革靴が牽制をするようにさらににじり寄る。わずかに芽生えた恐怖心は、いつかも感じたものだった。手を握っても良いかと聞かれた、あのときの。
 いつかとは違い、許可を求めることなく彼は今わたしに触れている。逃がさないと言わんばかりに爪を立てて、つよく容赦のない力で以て、わたしを捕らえている。この手のひらの感触を、わたしは知っていた。

 これは夢でも幻でもない。恐れていたことが現実になってしまった。
 わたしは、一期に、見つかってしまったのだ。

 ぱたぱたぱた、と軽い足音が聞こえて、はっと我に返って視線を彷徨わせた。すっかり失念していたけれど、わたしには小さな連れがいたのだ。少女はぬいぐるみを抱きかかえたまま一目散に廊下の奥へと駆け込んで、自宅の角部屋のベルを鳴らした。何度も何度もベルを押すその様子は普段の落ち着いたおとなしい性格からは考えられないほど慌てていて、ひどく申し訳ない気持ちになる。がちゃりと扉が開いても、彼女はまだベルを鳴らしていた。

「どうした、騒々しいな。お姉ちゃんにちゃんと礼は言ったか?」
「おと、おとうさ……」

 言葉を紡ぐのももどかしいらしい少女が開いた扉の陰から外へと父親の腕を引っ張り出す。鶯丸さんはお仕事中だったのだろう、ラフな部屋着に黒縁の眼鏡をかけた姿で娘さんに促されるまま廊下に出て、こちらを見た。普段から若く見えるのにそういう恰好をしているとさらに若く見えるな、などとわたしの脳が現実逃避を図り始める。

 彼はわたしたちを見て一瞬目を丸くしたあと、修羅場か、と呟いた。違います! という叫びはわたしの頭の中でしか再生されなかった。声は出ないし、相変わらず動けない。第三者の登場によって一期の拘束は少し緩んだけれど、腕そのものを離されることはなかった。

「大丈夫か? 警察を呼ぶか?」

 わずかに眉を寄せて心配そうに述べる鶯丸さんと視線が合い、わたしは出せない声の代わりに必死に首を横に振った。警察のお世話になるだなんてまったく本意ではないし、それは目の前の彼も同じだろう。一期はわたしの左腕を掴んでいた指に一瞬だけ力を込めたあと躊躇うようにゆっくりとそれを離し、鶯丸さんのほうへ身体ごと向き直った。反対側の腕を離されることはなかった。

「お騒がせして申し訳ありません。私は粟田口一期と申します。家庭の事情で姓は違いますが彼女は私の妹ですので、ご心配いただくようなことは何も。……この状況では信用に値しないでしょうが、事実ですので」

 二年半ぶりに聞いた一期の声は、丁寧だが言葉の端々に冷たさを感じるものだった。彼は明らかに「部外者は口を出すな」と言外にほのめかしていた。誰に対しても常に人当たり良く接する彼のこんな態度を目の当たりにするのは初めてで、こんな状況だというのにわたしは少なからず驚いていた。

 鶯丸さんはさすがというべきか一期の物言いにもまったく怯まず、推し量るようにじっと彼を見つめるだけだったけれど、少女のほうはそうもいかなかったようで、怯えたように父親の服の裾をぎゅっと掴んでその背に隠れた。子どもは敏感だし、彼女はもともと人見知りのきらいがある。わたしは無理もないと思ったが、生来子ども好きの一期はその様子を見て少し我に返ったらしい。戸惑うような空気が触れた腕から伝わってきて、次に声を出す頃には触れたら斬れてしまいそうな冷たさは鳴りをひそめ、幾分か和らいだ態度に変わっていた。

「君は、鶴丸の友人だな」
「……はい」
「信じよう。ただし、あとで一度部屋を訪ねさせてもらうから、そのつもりで」
「どうぞ」

 鶯丸さんはおいで、と少女に声をかけて、部屋の中へと戻っていく。わたしがあげたぬいぐるみを未だ大事そうに抱えた彼女が心配そうにちらとこちらを窺うのがわかったが、目を合わせることはできずにわたしは俯いた。幼い子どもにこんなみっともないところを見られて、たまらなく恥ずかしいし、いたたまれない。明日からどんな顔をして会えばいいんだろう。
 角部屋の扉がぱたん、と無情にも閉まって、あとにはわたしと一期だけが取り残される。

「……」

 沈黙。わたしは相変わらず何も言えず、動くこともできず。目線は足元にやったまま、一期のほうを見ることもできない。このまま黙って突っ立っていたら、彼は諦めて帰ってくれたりしないだろうかと到底叶いそうもない願いが脳裏をよぎっていく。浅はかだと思ったが、今は藁にでも縋りたい気持ちだった。
 視線の先で、わたしの右足には靴がなかった。汚れてしまったであろう靴下の爪先を左足の靴に擦り寄せると、一期は初めてそれに気がついたようで、辺りを見回す気配が隣から伝わってきた。掴まれた右腕に一瞬だけ力が籠り、躊躇いがちにゆっくりと離される。左腕のときと同じようにして彼はわたしへの拘束を解き、代わりに言葉でその場に縫い止めた。

「靴を拾います。……逃げようとは、思わないで」

 もう逃げる気力なんてなかったし、パンプスが転がっている場所はどう見ても目と鼻の先だった。たったの数秒で彼は戻ってきて、再びわたしの手を取った。そのあと突然跪いたので、わたしはびくりと身を竦ませる。
 腕を引っ張ったときとは違うやさしい所作で彼は自分の肩に手をつかせ、わたしの右足をそっと持ち上げた。足元に置いてくれれば自分で履くのに、彼は手が汚れるのも構わず靴の裏側を掴んで爪先からゆっくりと丁寧に履かせてくれた。そのあとこちらを窺うように見上げるので、わたしは俯けた顔をふいっと横に逸らす。自分でも呆れるほど嫌な態度だと思ったけれど、下から届く一期の声はやさしかった。

「乱暴な真似をしてすみませんでした。怪我は、ありませんか」

 一期の声は、やさしかった。わたしは顔をそむけたまま、目をぎゅっと閉じて、ふるふると首を横に振った。

 何を言われても応えないつもりだった。彼が何を言っても、何をしても、ただじっと黙ってやり過ごそうと思っていた。見つかってしまったものは、もう仕方がない。その事実を覆すことはできない。でも卑怯で臆病で意固地なわたしは、この期に及んでも逃げることしか頭になかった。身体的に逃げることは叶わずとも心で拒んで、殻に閉じ籠って、ぽろぽろと落ちてくる彼のやさしい声と、やさしい手つきをただ、意識の向こうに追いやって。

 ──そんなこと、無理に決まっていた。

「……どうして……」

 ぽつりと声がこぼれる。視界の端に、夢にまで見た空色がちらつく。一期は立ち上がって、またわたしの腕を取った。さっきは痛いほど力を込められていたのに、今その大きな手のひらは震えることもなく、それでいてわたしを逃がそうとすることもない。

 彼の色、声、言葉、手のひら。そのすべてがわたしの中に落ちて、染み込んで、綯い交ぜになって、わたしから何もかもを引きずり出していく。捕らえて、殻を割って、引っ張り上げる。呼吸ができない水底から何度も何度も彼はわたしをすくい上げてゆく。

 主語のないわたしの問いかけを一期は正確に理解した。彼はいつだって、わたしの言いたいことをなんでもわかってくれていた。

「……鶴丸さんが、教えてくれました」

 やっぱり、そうなのか。

 どうしてこの場所がわかったのか、という問いに対する答えはほぼ予想通りのものだった。鶯丸親子と訪れたレストランであの白くうつくしいひとと再会してから三日ほどしか経っていない。今このタイミングで一期が現れたからにはきっとそういうことなのだろうと思ったけれど、それにしてもあのひとはいったいどの段階でわたしのことに気がついていたのだろう。声をかける前だろうか。わたしの顔を見たときにはとくになんの反応も示さなかったはずだが、本当は一期の『妹』がそこにいて内心驚いていたのだろうか。それとも、その場では思い出さずにわたしたちと別れてから?

 ふいにどこかでがちゃりとドアの開く音がして、わたしの詮無い思考は堰き止められた。二階ではなく、下の一階の部屋のようで、ばたんと扉が閉まって鍵をかける音がしたあと足音が遠ざかっていく。もう夕方だから、そろそろ夕飯の支度のために買い物に出るひともいるだろう。
 ひとの気配にびくりと身を竦ませたわたしに、一期は少しだけ沈黙してから顔を寄せて囁きかけた。

「ここでは人の目につくでしょう。部屋へ入れてください」

 拒否権はなかった。少なくとも、わたしの中では。

 もう逃げたりしないから腕を離してほしいとお願いしても、一期は嫌ですと一言ぴしゃりと言って、わたしを離そうとはしなかった。悪いのはぜんぶ自分であることはわかっているので、仕方なしにそのまま部屋の前まで歩き、鞄から鍵を取り出して鍵穴に差し込む。ドアノブに手をかける直前に中があまり片付いていないことを思い出して少し躊躇ったのを、一期はまったく別の解釈をしたようで「誓って、何もしません」と厳かに告げた。言われるまでその可能性に思い当たらなかったわたしは、掴まれた左腕と視線を注がれる顔の左側が急激に熱くなっていくのを自覚せざるを得なかった。

 掃除は明日しようと思っていたから引き戸の向こうの部屋はたぶんいくつか物が出しっぱなしだし、洗濯物も取り込んだあとそのままだ。せめてそれだけ片付ける時間がほしいと、玄関の扉を閉めてからわたしは一期に断りを入れようとした。靴を脱ごうとして、そろそろ離してくれてもと思った指に力が籠り、ふるふると震え出したことに気付く。
 息がこぼれ落ちる。覚えのある、今にも泣きそうな、何かを堪えているような、ひどく熱を孕んだ吐息。ぎくりと身を震わせたわたしを敏感に察知して、彼は首を横に振った。苦しそうな呼吸のまま。

「何もしないというのは語弊があったかもしれない、でも違うんです、そうじゃなくて、ただ……」

 視界には、一期のうつくしい喉元。こくりとそこが上下して、かたちの良い唇が切なげに戦慄いた。

「……抱きしめさせて、くれませんか」

 それはいつかの『お願い』によく似た、けれど彼には一度も求められたことのない行為だった。

 こくりと、うつくしい喉元がまた上下する。そこからそろそろと視線を持ち上げて、わたしは初めてまともに一期の顔を見た。二年半ぶりに視界に入れる一期は記憶の中より少し痩せて見えたけど、わたしを射抜く琥珀色は何も変わっていなかった。熱を持ち、蕩けて、灼けつく。ゆらゆら揺れる灯火みたいだ、とそう思った。

 どうしたって彼より力で劣るわたしは抗うすべなど持っていない。今はもう狭い部屋の中の、狭い玄関口に二人で突っ立っていて、人目を気にする必要もない。だから掴んでいるこの腕をさっきみたいに思いきり引っ張れば、彼は自分のしたいようにできるのに。

 そうしないのは、わたしに拒絶されることを考えているのだろうか。
 一期は、未だにわたしを大切に想ってくれているということなんだろうか。

 鼻の奥が、つんとする。
 身体ごと一期に向き直って、顎を引いて頷いた。きちんと声に出して返事をしたほうがいいかと思い、口を開いて息を吸うと同時に大きな手のひらが目の前をよぎる。革靴が一歩こちらへ踏み出す。腕を掴んでいた手が背中にまわる。身体の前面に大きく体重がかかって、でも後退はできず、仰け反る恰好になる。後頭部にまわった手のひらがくしゃりと髪を掴み、指に絡める。

 吸った息は声にも言葉にも変換されず、緩やかな吐息となってこぼれ出た。
 背の高い一期に抱きしめられると、彼の肩に額を預けるかたちになった。ずうっと昔、時折頭を撫でてもらっていた子どもの頃は、もう少し見上げることが多かった気がするのにと、こんなときに何故かそんなことを思う。

 当然だった。わたしはもう、子どもではないのだから。

「……、あなた、は……っ」

 高くもなく低くもない、耳に馴染む穏やかな響きのうつくしい声。今その声はわたしの耳元で震えている。よすがにするように、抱きしめる腕に力が籠る。髪に触れる手つきは余裕をなくしたみたいに少しだけ荒々しく、先日わたしの浅ましい欲が見せた甘やかな夢の中のそれとは似ても似つかなかったけれど、どちらが良いかなどとは比べるべくもなかった。

「あなたは、おれが、おれたちが、どれだけ心配したと……!」

 彼が自分を「おれ」と言うのは『叱る』ときではなく『怒る』ときだと、わたしは知っていた。

 声が濡れて、湿り気を帯びる。耳にかかる吐息は熱っぽく、すん、と鼻をすする様は今にも泣きそうで、苦しそう。苦しむのも傷つくのもぜんぶわたしのせいなのに、きりきりとわたしを締めつける腕も、乱暴に髪に差し込まれる手も、少しも緩むことがない。

 これ以上ないほどひどいやり方で彼を裏切り、逃げたわたしは恨まれ、憎まれ、嫌われても仕方ないはずだった。むしろ、そうあってくれたらいいとすら思っていた。わたしのことなんて忘れてくれればいい。こんな面倒くさい女にはさっさと見切りをつけて、うつくしい一期にふさわしいうつくしいひとと、もっと息のしやすい恋愛をしてほしい。そう願っていた。

 馬鹿みたいだと思う。
 何故なら、大切に想われたままだとわかって、彼の腕の中でわたしはひどく安堵している。

 結局わたしは何も変わっておらず、愚かしくて浅ましいまま。家を出た二年半前の春から、一期を傷つけて怒らせた四年前の夏から、彼に指輪を渡された五年前の冬から、何ひとつ賢明になれていない。自分は一期にとってよくないものだと散々唱えてきたくせに、陰では彼を恋しがってあんな夢を見るし、直接触れられてる今なんてもうひどいものだ。嬉しいと思っている。彼がうまく息を吸えるようにとあんなにこいねがっていたのに、わたしに触れれば触れるほど苦しんで傷つく彼を見て、嬉しいと思ってしまっている。

 ──最低としか、言いようがない。

「……ごめん、なさい」

 失踪を図って心配をかけたことだけでなく、ほかにも色々な意味を込めて謝罪の言葉を呟くと、一期の肩がびくりと跳ねた。ゆるゆると首を横に振り、違う、違う、そうじゃなくてと頑是ない子どものように泣きそうな声で言う。

「違うんです責めたいわけじゃないあなたを責める資格なんて私にはない」

 早口で一息にそう告げて、一期は震える息を吸い、吐いた。これ以上は在りそうもないほどの隙間という隙間をさらに埋めようと互いの身体が密着する。少し苦しいけれど、言わない。言えない。わたしが彼に苦しいなどと言えるはずがない。苦しんでいたのは、いつだって彼のほうだった。

 一期の言う言葉の意味が、少しだけわからない。

「……私のせい、でしょう」

 一期は何か思い違いをしている。わたしと彼の間で、何かが少しずれている。齟齬がある。さながら、あの家の異物だったわたしとの間にあった『他人』という名の線引きが次第に彼だけ違う意味を伴っていったように。

「私があなたを追い詰めたから」
「違う」
「違いません。私があんなことを言わなければ、あなたは少なくともこんなやり方で家を出たりはしなかった」

 違う、違うと今度はわたしが頑是ない子どものように首を振るが、つよく抱きしめられているせいで頭はほとんど動かないし、何より一期の言葉がわたしを雁字搦めにする。泣きたくなる。彼はどうして、こうまでわたしを理解しているのだろう。わたしは彼のことをなんにもわかってはいなかったのに。

 追い詰められていたなんて感じたことはなかった。彼のせいだなどとは考えたこともない。わたしがしたことは、ぜんぶわたしの責任だ。考え抜いた末に、わたしはこの道を選ぶことしかできなかったのだ。もしあの家に引き取られたのがわたしではなく、一期が想いを寄せるのも別の誰かだったなら、その誰かはきっと違う方法を取ることができたはずだ。わたしが選べなかった、彼の手を取って受け入れるという選択を、その誰かなら選ぶことができたかもしれないんだ。

 ああ、ああ、わたしは本当にどこまでも愚かで浅ましい。
 いま一期の腕の中にいるのが別の誰かで、彼に一等理解されているのも自分ではないと考えるだけで、ひどい嫉妬に見舞われている。それこそ、そんな資格ありはしないのに。

「前にも後ろにも進めずに追い込まれていくあなたに気付きもせず、私はあなたがくれるやさしさに溺れきってしまっていた」
「ちがう……」
「苦しいときに苦しいと言えないあなたを追い詰めてしまった」

 違う。違う。それは、わたしが言いたいことだ。どっちつかずなわたしの振る舞いのせいで、彼をずいぶんと傷つけてしまった。彼から与えられる心地好いぬるま湯に浸りきって、曖昧な態度は彼のためによくないと知りながら、生殺しにするように彼を縛りつけてしまった。苦しい、苦しいともがく彼を見て、離れることを選んだのに、わたしは今また。心地好さに抗えず、同じことを繰り返そうとしている。

 わたしの否定を一期は手のひらで押さえつけて、また息を吸い、吐いた。震えは少し治まって、でも熱っぽさは消えないまま。今は見えない琥珀色がどんな様相を呈しているのか、わたしの中の浅ましい欲がまた知りたいと告げる。

「私は自惚れていたんです。決して私を拒みきれないあなたは、いつか必ず頷いてくれるものと思っていたから」
「……」
「あなたにとっての私が至極どうでもいい人間だったなら、いっそそのほうが良かったのかもしれない」

 ──でも、そうではなかった。

「兄ではない。ましてや恋でもなかった。それでも私はあなたにとって、特別な存在だったのでしょう」

 わたしを封じ込める腕に関係なく、首を動かすことができない。否やが唱えられない。
 だって、一期の言うとおりだった。わたしは、わたしは一期が大切だったのだ。

 独りぼっちのわたしを昏くて寂しい水底からすくい上げて、息をさせてくれた。いつもやさしく気遣ってくれて、でもきちんと叱ってもくれた。兄ではなかった。妹ではなかった。でも彼が初めからそのように振る舞った理由をわたしはいつからかちゃんと知っていた。あの家に引き取られたときのわたしの年齢がもっと幼かったら、妹として扱われていたかもしれない。けれど実際のわたしは十二歳という思春期真っ盛りだった上、面倒くさい境遇で面倒くさい性格をしていた。彼はわたしを慮ってくれたのだ。わたしとのちょうどいい距離を測ろうと、わたしをきちんと理解しようと、手探りで、投げ出さずに根気よく、彼はわたしに付き合ってくれた。怪我や病気を隠していると叱られた。何か欲しいと思ったとき、こちらが気に病まないやり方で甘やかしてくれた。兄ではなかった。妹ではなかった。それでもわたしが「いち兄」と呼ぶのを彼は許してくれていた。わたしは異物で他人だった──けれど、でも、わたしたちは『家族』だった。

 一期がまたひとつ息を吐いて、ゆっくりとわたしの身体を離す。徐々に生まれる彼との隙間に寂しさを覚えるのはよくないことだと頭ではわかっているのに、心はもう欲望に忠実だから始末に負えない。
 彼の左手がわたしの右手を取り、ポケットから取り出した何かを握らせる。ちゃり、と音を立ててわたしの指はそれを掴んだ。その音を、感触を、わたしは知っていた。忘れるはずも、ない。

 指を開く。またちゃり、と音が鳴る。小さな鍵と、それに取り付けられた小さなキーホルダーがぶつかって立てる音。デフォルメされた白猫と赤いハートをかたどったそれは、ところどころ細かな傷がついて、くたびれてしまっている。十年も経っていれば当たり前かとぼんやりした頭でそう思い、もう十年も経つのかと思考の別の部分が驚愕に染まる。

 十年前、こうして同じように彼の手から渡されて以来ずっと、これはわたしの宝物だった。
 あの家に置いてきても、ずっと、わたしにとって何よりの宝物だった。

「……あの日、乱は自分を責めて泣いていました」

 懐かしい名を聞いて、胸がぎゅうっと痛んだ。乱。いつも一緒にいてくれた。こんなわたしをずっと慕ってくれていた。明るくて華やかで、彼のあたたかくてやさしい気遣いにいつも、救われていた。

「あなたが泣いていることを知っていたのに何もできなかったと、しばらく食事も喉を通らないほど落ち込んでいました。あなたの置き手紙を最初に読んだ秋田は、毎晩のように泣いていた」

 ああ、ああ、秋田。あの日、彼をひとり家に置いてわたしは出てきてしまった。ほかに誰もいない家で、わたしが用意したホットケーキを食べて幸せそうにふにゃりと笑んで「おいしいです」と言ってくれた。可愛くて仕方なくて、罪悪感で胸が張り裂けそうだった。やっぱり、やっぱり、彼があの手紙を最初に読んだのか。わかっていたはずなのに、まるで昨日のことのように心が痛い。

 ふるふると震え出したわたしの右手を、一期の両手が支えてくれる。大きな手のひら。わたしを慰め、甘やかし、愛撫して、拒絶もする、男のひとの手。わたしの腕、髪、背中、至るところに熱を持たせ、火傷のように跡を残し、それでも。

 それでも、この手はいつだって、わたしをすくい上げてくれる。

「帰ってきてくれとは、言いません。今のあなたには、あなたの生活がある。働いてお金を稼いで、誰かと食事をしたり、誰かとどこかへ出かけたり、私ではない別の男と……恋を、したり、するでしょう。それならもうそれで、構いません。私を見てくれなくてもいい」

 別の男と恋を、のところで触れる指にぎゅっと力が籠ったとき、どうしようもないほどの熱がわたしを襲った。自分から触れたいという、覚えのある衝動が身体の中を駆け巡っていく。

「ただ、もう一人で抱え込まんでください。苦しいときは苦しいと言ってください。この鍵は誰に返すのでもなく、あなただけのものです。あの家は、あなたの家です。ただいまと言って帰れば、いつだって皆おかえりと迎えるから」

 自分の世界そのものだったあの家で、わたしは異物で他人だった。それでも家族だったと、そう思っていた。
 一期は違うと言う。──『今』でも、家族なのだと。

 震える指で、手のひらの中の鍵とキーホルダーを握りしめる。右手に左手を重ねて、胸の前で抱く。鼻の奥がつんとする。息が、くるしい。わたしが手を動かしたせいで、一期の手は離れていった。肩先でしばらく彷徨っていた指は、結局触れることはなく下ろされる。わたしに触れることは彼の中で罪悪に近いのかもしれないと思うと、ずきずきと胸が痛んだ。

 彼は、わたしなんかを想わないほうがいい。忘れたほうがいい。嫌ってくれたらいい。そう思ってさよならをしたはずだったし、今でも頭ではそう思っているのに、浅ましくて最低なわたしの心はそれに反してまた彼を縛りつけにかかる。

「……べつのひとに、恋なんてしない」

 視線の先で、一期の手がぴくりと動く。彼は怒るかもしれない。あの日、わたしの手を払いのけたように。
 でももう、わたしの愚かしさは濁流のように止まることがない。

「……隣の家の男性は?」
「すごくお世話になってるけど、そういう関係じゃない」
「あなたがそうでも、あちらは違うかもしれませんよ」
「そ、んなこと……」

 ない、と続けて顔を上げる。すごく近くに一期の顔があって、固まった。抱きしめる腕を離されてから、彼の顔を見るのは初めてだった。ゆらゆら揺れる灯火のような琥珀色。額に触れそうなほど近くにあるかたちの良い唇が「あのね」と諭すように言葉を紡ぎ、そこから視線が逸らせない。

「男というのは、好いた女性の言うことをなんでも自分に都合良く受け取るものなんです。その気がないなら、そういう言い方をしてはだめです」

 ──期待させては、また怖い思いをするかもしれないよ。

 まるで弟たちに噛んで含めるような言い方だった。怒る気も失せたらしい呆れた口調。けれど、でも、その表情はまるで弟たちに向けるものではなかった。とろりと蕩けた双眸も、困ったように下がった眉も、わずかに紅潮した頬も、笑えばいいのか嘆けばいいのかわからないとでも言いたげに綻んだ口元も。

 彼は、ぜんぶで、わたしを愛おしいと告げていた。
 あの日見た夢に、よく似ていた。

 夢から覚めたときの虚無感とはまったく違うものがわたしの胸に去来して、押し寄せる。とぷり、とぷりとわたしの中を満たし、溢れ、こぼれ落ちて、ぐるぐると廻っていく。この感情はたぶんもうずっと以前からわたしの中にあって、そしてその正体をわたしはずっと知っていた気がする。

「……いち兄、は……」

 声に出して、気付く。その名を呼ぶのはずいぶんと久しぶりだった。
 兄ではなかった。妹ではなかった。わたしはこれから、この先、彼の何になれるのだろうか。

「いち兄は、わたしといると、いつも苦しそうだった……」

 わたしは、異物。わたしは、彼にとってよくないもの。彼を苦しめる存在。息を奪うもの。これまでずっとそうだったように、きっとこれからもそれは変わらない。来し方も行く末も、同じで変わることはない。
 うつくしい喉元がこくりと上下する。その喉が、かたちの良い唇が、空気を求めてはくはくと動く様を、わたしは、わたしは、これまで、これから。

「あなたに触れたり、あなたを想うと、息が苦しい」

 一期が上着の胸元を握りしめて言う。肯定されたからといって、わたしが傷つくのはお門違いだ。わかっているのに、じわりと胸が痛む。彼はわたしに触れないほうがいい。わたしを想わないほうがいい。知っている。知っていた。

 でも。

「それでも、あなたのいない世界で呼吸ができたって、なんの意味もないんです」

 わたし自身は、苦しくてもいいから彼に触れたいと、いま思ってしまっている。


 握りしめた手のひらの中で、ちゃり、と音が鳴る。
 胸の前で右手に重ねた左手をそろそろと離し、虚空へと伸ばす。指は相変わらず震えていた。右手の中の小さくて硬いものが、わたしに年月の数を教えてくれる。──十年。十年だ。

 その十年の中で、わたしは初めて自分から一期に触れた。

 上着の袖を掴んだだけで、それまで堪えていたものが一息に溢れ出す。涙腺は決壊して馬鹿になったみたいに雫があとからあとからこぼれ落ち、それに付随して雑多に混じり合った感情がわたしの中を満たしていった。とぷり、とぷりと溜まり、溢れ、わたしの周りを埋めていく。わたしの息を奪っていく。
 苦しくて口を開けると、ひくっと嗚咽がこぼれ出た。一度そうなってしまったら、あとはもう止まることがない。

 一期の肩口につよく額を押しつける。ぼたぼたと落ちる涙が彼の服に染み込んで汚していったが、彼はわたしを引き離そうとはしなかった。わたしが縋りつきやすいように身体を後ろへ倒して玄関の扉に背を預け、緩くまわした両腕でわたしを支えてくれた。髪を梳く手つきは先ほどのように荒っぽくはなく、子どもをあやすみたいにやさしい。でも耳元で震えている吐息は変わらず、熱っぽいままだった。

 一期に触れるのは、苦しい。彼を想うことは、きっと痛くて怖い。
 でも、彼は今までわたしに触れるたび、わたしを想うたび、同じ気持ちを味わっていたのだろう。
 苦しんでいたのは、いつだって彼のほうだった。けれど、今なら嗚咽さえ治まれば、わたしにも言えるかもしれないと思う。さっき一期がそうしろと望んだように、ただ、ただ、そう。

 ──息がくるしい、と。


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