ちゃり、と音を立てて鍵をテーブルの上に置いたとき、少しだけ迷いが生じた。

 住み慣れた家をこっそりと、まるで咎人のように逃げ出そうとしていることに対してではない。それについては自分に許される限りの時間を使って考えに考え抜き、準備を推し進めてきた。今さら覆すつもりも、引き返すつもりもない。わたしはこうするしかなかった。恩を仇で返そうとも、この道を選ぶことしかできなかった。後悔は、たぶんしないだろう。もうそんな段階はとっくの昔に超えてしまったから。
 迷ったのは、この数年で積み重ねた覚悟に比べてあまりにも取るに足らない小さなことだ。

 一度テーブルの上に置いた鍵をもう一度掴む。この鍵は、この八年間わたしのすべてだった。帰る家があるということ、自分を受け入れてくれる家族がいるということ。この鍵を与えられたとき、本当に本当に嬉しかった。学校やバイトから帰ってきて、おかえりと温かく迎えてもらうのはもちろん好きだったけれど、誰もいない家に鍵を開けて入るのも好きだった。このちっぽけな、銀色の、なんの変哲もない家鍵は、わたしの宝物だった。この家に引き取られた中学一年のときから、ずっと。

 指の中でちゃり、とまた音が鳴る。小さな鍵と、それに取り付けられた小さなキーホルダーがぶつかって立てる音。
 この家に来たばかりの頃、まるで宝石か何かのように鍵を扱うわたしを見て、失くさないようにとこのキーホルダーを与えてくれたのは『彼』だった。デフォルメされた白猫と赤いハートをかたどった、いかにも若い女の子が持っていそうなそれを包むもののないまま渡されて、てっきり彼も誰かからの貰い物をわたしに寄越してくれたのだろうと思ったのだけれど、幾日かしてから弟の一人である乱が密かに教えてくれた。曰く、わたしのためにわざわざ雑貨屋さんに足を運んで、乱と一緒にあれでもないこれでもないと悩んで選んで、買ってきてくれたらしい。わざわざ包みを取り外したのは、わたしに気を遣わせたくなかったからだろう。高校三年生にもなる彼が、可愛い弟と一緒とはいえ若い女の子たちが集うお店に行って、こんな女児向けの商品を購入してくれたのかと思うと、有難いやら申し訳ないやら気恥ずかしいやらで、夜ひとりになってからこっそりとわたしは泣いた。
 小さなキーホルダーのついたこの鍵が、わたしの何よりの宝物だった。

 少しの間逡巡して、再びテーブルの上に鍵を置く。鍵はここへ置いていく、それはもう決めたことであり、これを手放すこと自体がわたしの意思表示だ。迷ったのはそちらではなく、キーホルダーのほう。──外して、持っていこうか。一瞬だけ、そう考えた。
 指で、白い猫に触れる。迷いが生じたといっても、それはポーズのようなものだった。考えるまでもなく、答えはわかりきっていた。持っていくわけにはいかない。わたしにそんな資格はない。結局のところ彼を、彼らを、こんな最悪のかたちで裏切ろうとしているわたしには。
 息をつく。指を離した。

 鍵の横にスマートフォンを置く。本当は解約まで済ませてしまいたかったが、名義はわたしではなくこの家の家長なので叶わなかった。中のデータはすべて消し、初期化してある。家族だけでなく友人たちとも音信不通になるわけだが、躊躇いはなかった。写真も音楽もメールのデータも電話帳もすべて消した。中身を持ち出そうとは、思わなかった。
 携帯の下に、白い便箋に綴った手紙を挟む。それで、わたしがこの家ですることはもう何もなくなった。

【八年もの間、本当にお世話になりました。こんなかたちでお別れすることをどうか許してください。このご恩は一生忘れません。わたしのために使っていただいたお金は今後少しずつお返しします。携帯は解約してください。残っている荷物は処分してくださって構いません。どうか、お元気で。】

 親戚というわけでもない、ただの友人の子どもだったわたしを引き取り、実子と分け隔てなく育ててくれた粟田口夫妻には感謝してもしきれないのに、こんなそっけない文面しか残せない自分が情けなくて仕方なかったけれど、ほかにどう書けばいいのかわからなかった。半ば兄弟のようにして育った、夫妻の大勢の息子たちに対しても同様で。

【鯰尾、骨喰。年の近いわたしをいつも気にかけて、遊んでくれて嬉しかったです。】
【薬研、厚。年下なのにふたりともわたしよりずっとしっかりしていて、とても助けられました。】
【後藤、信濃。年相応な等身大のあなたたちと接する時間は、わたしにとってかけがえのないものでした。】
【乱。可愛いものが大好きな可愛いあなたとはいちばん仲が良かったと思っています。】
【五虎退、博多。泣いたり笑ったり、いつも賑やかなあなたたちを見るたびに心が洗われました。】
【平野、前田。普段は仲良しのふたりがわたしの膝を取り合ってけんかしたこと、今でも微笑ましく思います。】
【秋田。わたしがこの家に来たときまだ二歳だった末のあなたが本当に可愛くて仕方なかった。癒しでした。】

 文面の最後。『彼』へのメッセージは、本当にどう書けばいいかわからなかった。わからなくて、悩んで、でも何を記してもきっと、言い訳にしかならないから。この言葉しか、思い浮かばなかった。

【いち兄。ごめんなさい。】

 彼はきっとわたしを許さないだろうと思うし、わたしも許されたいとは思っていない。ほかの兄弟たちと比べても一際そっけないこの文面を読んだとき、彼がどう思い、何を言うのか。今後わたしは知る由もないけれど、知っても知らなくてもきっと同じことだ。わたしが、彼の前から逃げるように消えてみせることは──もう、変わらない。
 さあ、あとは、ここを出ていくだけだ。

 銀行口座から下ろした全財産と、持ち得る限りの荷物を詰め込んだ旅行鞄を取り、リビングを出る。この家に来て数年にしかならないわたしはもともと自分の荷物は少なかったし、必要なものはあとで買えばいいと思った。アルバイトができる年齢になってから、勉強以外のことは顧みずあくせく働いたおかげで、お金は少し余裕がある。それでもまずは仕事と住むところを探さなくてはならないだろう。先日短大を卒業し、もう学生ではない。在学中にきちんと就職活動はして、内定ももらったが、こっそり辞退した。最初から就職する気のない就職活動というのは不毛以外の何物でもなかったけれど、すべて今日という日のためだ。学校を途中でやめる、という選択肢はわたしにはなかった。何もかもきちんとまっさらな状態にした上で、というのが以前からのわたしの計画だった。
 玄関で靴を履き、家の中を振り返る。今この家には、まだ小学生の末弟だけがいる。おとなしい気質の彼はわたしが用意したおやつを食べて、お昼寝の真っ最中だ。世間は春休み。夫妻はどちらも勤め人だから仕事に行っているけれど、次男は大学のサークル合宿、三男はバイト、四男と五男、六男、七男は卒業旅行中、八男はデート──相手の性別は不明だが──と言っていた。九男はペット関係の交流会だとかでいないし、真面目な十男、十一男、十二男に至っては春休みだというのに塾通いだ。そして長兄は、一年半前に家を出たから数には入れない。今は会社にいるのだろう。
 みんなの予定を聞いて、決行を今日にした。夜中にこそこそ出ていくことはしたくなかったので。

 扉を開け、外に出る。鍵をかけることができない家に小さな子どもをひとり残していくのは不安もあったが、この家は先ほど挙げたとおり人数が多いぶん予定も様々で、全員が鍵持ちだ。慣れているだろう、と思いたい。
 それでも、わたしのあの手紙を最初に読むのがあの小さな可愛い末弟であることを思うと、じくじくと胸が痛んだ。
 涙は、出なかった。


 駅までの道を歩く途中、何人か近所の人とすれ違ったけど、全員がわたしの旅行鞄を見て「あら、ご旅行?」と微笑んだだけだった。世間は春休み。わたしもまだ春休みのようなものだ。「家出して失踪するところです」とはおくびにも出さず、わたしは微笑み返して挨拶を交わした。
 駅に着き、時刻表と腕時計を確認する。行先は大まかにしか決めていない。しばらくはホテル暮らしになるが、今夜の宿はどうしようか。手がスマートフォンを探しかけて、はっと我に返って苦笑する。今の時代、携帯電話がないと生きていけないんだな。まだ家を出て数十分なのに、早くもこれだ。まずは携帯電話の新規契約。必要な書類や印鑑はすべて持ってきているから、すぐにできるだろう。

 電車が到着する。春休みとはいえ、平日で時間も微妙だし都会というわけでもないから人はまばらだった。隅の席に腰掛けて、鞄を足元に置き、動き出す景色を窓から眺める。そのとき本当に、本当に不思議でならないのだが──初めて涙が、こぼれた。
 八年間住んだ、見慣れた景色がぼやける視界の中で流れていく。がたごとと音を立てて、ゆっくりと。

「……さようなら」

 瞼を下ろすと押し出された雫が頬を伝って、ひやりとした心地が肌を撫でた。
 どうせ、ちゃんとした目的地なんてない。──少し、眠ることにする。



 実の両親が事故で亡くなったのは、小学三年生の冬だった。

 両親はどちらも血縁関係が希薄で、祖父母もすでに全員他界していたため、それから中学に上がる直前まで三年強、わたしは決して多くはない親戚の間をたらい回しにされた。この『親戚にたらい回しにされる』という表現は実際に使うことがあるから存在しているんだなと今になって思う。正直あの三年間には良い思い出がまったくと言っていいほどない。虐待とまではいかないが、あまり良い扱いを受けなかったことは確かだった。
 それでも、わたしはあのひとたちを恨んではいない。だってそうだろう、大抵のひとは自分の家族が大切だ。たとえそうでなくても、自分自身の生活が大事だ。そこに異物が入り込めば、排除したくなるのは道理。どれだけ表立って主張しないように身を縮こませて小さくなっても、異物は歯車を狂わせる。家族をなくして独りぼっちになったわたしは、よその家庭の和を乱す、紛れもない異物だった。

 できるだけ静かに、おとなしく、息をひそめて暮らした三年と少し。
 転機が訪れたのは小学校の卒業式を終えた直後のことで、まるでそれを見計らっていたかのように粟田口と名乗るひとたちがやって来たのが始まりだった。

 当時わたしを引き取っていた家と、粟田口夫妻の間でどんな交渉がおこなわれたのか、子どもだったわたしには詳しく知らされなかった。話し合いがなされている間、わたしは家の外で待っているように言われた。夫妻が連れてきた彼らの長男だというひとがわたしに付き添って、相手をしてくれた。それが、一期との出会いだった。

 一期を初めて見たとき、わたしは雷に打たれたみたいにひどく驚いて──そしてひどく恥ずかしくなったのを覚えている。
 空の色を写し取ったかのようなさらりとした髪、琥珀色の柔和な瞳、鼻筋の通ったうつくしい顔立ち、穏やかな声、丁寧で品の良い物腰と口調。どこをとっても絵本や物語に出てくる異国の王子様としかいえないひと。こんなひとは見たことがなかった。家でも学校でも。きっと街を歩いていたって、こんなひとにはそうそうお目にかかれないだろう。こんな、何もかもが完璧に調和したひとには。

 ただでさえ色々と拗らせていたわたしはこんなうつくしいひと、それも年上の異性を前にして落ち着いていられるはずもなく、始終俯いてろくに返事もできなかったけれど、一期は気を悪くしたふうもなく微笑んで何くれなくわたしに話しかけてくれた。初めはわたしの学校のこととか、好きなものや得意なことなんかを聞きたがったけれど、わたしがうまく話せないでいるのを見るとすぐに質問をやめて、自分の話をぽつぽつとしてくれた。とはいっても彼の話は十二人もいるという弟たちのことで占められていた。その数に驚いたわたしが思わず「十二人……」とぽつりと呟くと、反応があったことが嬉しかったのか彼は破顔して、これ以上ないというほど賑やかで喧しいですよと答えてくれた。

 このときのことを一期はあとになって、弟ばかりたくさんいるけれど妹はいないからどんな話をすれば小さな女の子の気をひけるのかまるでわからなかったと語っていたけれど、わたしはこのとき一期と会って話をしていなければ、きっと粟田口家へ行こうとは思わなかった。彼の話は決して話術的に優れていたわけではなく、弟ひとりひとりについてただ滔々と語っているだけのものだったけど、深い愛情に満ちていて、それがとても心地好かった。このうつくしい年上の異性に愛されている弟たちは、どんなひとたちなのだろう。どんなふうにその情を受け止めているのだろう。一人っ子のわたしには想像もつかず、また、ひどく羨ましかった。

 だから大人たちの話し合いが終わって、粟田口夫妻から直接、私たちはあなたのご両親の友人で良かったらあなたを家に迎え入れたいと思っていると誘われたときもあまり迷わなかった。その場ですぐに答えは出さなかったけれど、二度目に彼らが訪れたときにきちんと頭を下げて返事をした。そのときも一期は両親と一緒に来ていて、またわたしに付き合って話をしてくれた。最初に会ったときよりも、わたしは彼に反応を返すことができていた。

 親戚は、知人であったというだけで赤の他人の彼らがわたしを引き取りたいと申し出たことに対して体裁や外聞が悪いと顔をしかめていたが、わたしのことを持て余しているのも確かだったので、話が拗れることはほぼなかった。初めは養子縁組を考えていたらしい夫妻に対し、それだけはと頑として譲らなかったことくらいだろう。養育費の問題については、どうなっていたのか未だに知り得ていない。引き取られてしばらくしてから一期に尋ねてみたことがあるが、子どもはそんなこと気にしなくていいんですよと頭を撫でられるだけだった。

 粟田口家は、とても心地の好い家だった。
 十七歳の一期を筆頭に、わたしとはひとつ違いの鯰尾と骨喰から十歳下の秋田まで、男の子ばかり十三人。テレビのドキュメンタリー番組でしか見たことのなかった大家族は賑やかであったかくて、やさしかった。学校でだってこんなに大勢の男の子に接したことのなかったわたしは初めこそ萎縮しておどおどした態度しかとれず、親戚の家でそうしていたように縮こまって息をひそめて暮らしていたけれど、明るくて溌剌とした彼らに次第に感化されて、自分を出すことができるようになっていった。とくに気が合ったのが、三つ下の乱だった。子どもの感覚でいうと三歳差というのは大きいものだし、彼はわたしなどと違って性格も見た目も長兄に負けず劣らず華やかでうつくしかったが、わたしのことを本当の姉のようにお姉ちゃんお姉ちゃんと慕ってくれた。それは乱に限らずほかの子たちもそうで、聞けば皆ひとりくらいは姉妹が欲しかったのだという。二桁にものぼる数の男兄弟では無理もないと少し笑ってしまった。

 それまで過ごした三年間が嘘のように、わたしはあの家で幸せな日々を送ることができた。親戚の家にいたとき、わたしは誰もいない家の中に入ることは許されていなかった。誰かが帰ってくるまで外で待つしかなかった。ここはおまえの『帰る家』ではないと、言葉にせずとも雄弁に語られるそれは、食事をひとりでとることよりも、体調を悪くしてしまったことを言い出せずにいることよりも、ひどく堪えたものだった。
 だから、ある日粟田口家の鍵を手渡されたとき。嬉しくて仕方がなかった。ひとりだけ苗字が違っても、ここのひとたちはわたしの家族で、わたしの『帰る家』はここなのだと。そう思っていいんだと、言葉にせずとも雄弁に語られるそれは、大勢で食卓を囲むことよりも、具合が悪いと言い出す前に気付いてもらえることよりも、ひどく幸せだった。あの鍵は本当に、本当にかけがえのないわたしの宝物だった。

 ──それでも、あの幸せな日々の中でわたしは一度たりとも、異物たる自分を忘れはしなかった。
 どれだけ溶け込めていても、慕われていても。初めからここにいたわけじゃない、血の繋がりが一切ないわたしは歯車を狂わせる異物でしかない。ここのひとたちはやさしくて、みんな狂った歯車に合わせたり気にしないようにしてくれているけど、排除されないのをいいことに調子に乗っていいはずがなかった。わたしは常に自分を戒めた。勉強を怠らず、礼儀を身につけ、できるだけ好ましい子どもでいられるよう心掛けた。粟田口夫妻からは、もっと肩の力を抜いていいと言われたけれど、実子でもないのに養ってもらっている身だということをわたしは決して忘れたくはなかった。負い目だったと言ってもいい。

 早く大人になって、独り立ちして、粟田口家へ恩返しがしたい。ただそれだけを思って生きてきた。十代の若者における青春とも呼ぶべき娯楽や恋愛は、わたしには無縁だった。白い目で見られることもあったが頓着しなかった。わたしにとっての世界は、あのやさしくてあたたかな家だけだったから。
 高校生になってからは、勉強を疎かにしない一方で少しでも独立したときの足しにしようと身を粉にしてバイトをして、でも辛くはなかった。わたしは、幸せだった。帰る家があって、家族がいて。ほかのひとにしてみればきっとなんでもない、そんな当たり前のことが、わたしにとっては至上の幸いだった。

 二度目の転機は、一度目の転機から五年と半年が過ぎた、高校三年の冬。一度目のときと同じように、それは一期によってもたらされた。
 わたしは──粟田口一期というひとのことを、見ているようで、わかっているようで、まったくわかってなどいなかったのだ。


 一期がわたしを最初から決して妹として扱っていないことには気がついていた。
 彼の弟たちの中でわたしより年少の子はみんなわたしのことをお姉ちゃんとか姉さんとか呼んでくれて、そんな彼らが長兄を「いち兄」と呼ぶのを聞いて次第にわたしも一期のことをそう呼ぶようになっていった。それを一期が不快に思っていたことは、たぶんないと思う。一期はいつだってやさしくて、わたしに良くしてくれた。いつだってわたしが家族の輪の中に溶け込めるよう気遣ってくれたし、慈しんで大事にしてくれた。それは確かだった。

 ただ、それでも彼は決してわたしを呼び捨てにはしなかったし、時々ぽろりと外れることはあっても基本的に敬語を崩さなかった。何年もの間ずっと。彼とわたしは、他人だった。他人行儀、なのではなく、正しく他人だった。
 そのことをわたしは感謝こそすれ、恨みになど思っていない。一抹の寂寥感を覚えることはあったが、無視できる痛みだった。だって、わたしは異物なのだ。本来ならあの家に存在するはずのなかったものだ。彼の言動は自戒を促してくれた。異物たる自分自身をわたしはいつも忘れないでいられた。
 線引きはあれど、一期はいつもやさしかった。初めて会ったとき、うまく話せないわたしに無理を強いることなく、小さな女の子の気をひくやり方なんてわからないと思いながら一生懸命自分の話をしてくれたこと。大事な鍵を失くさないようにとキーホルダーをプレゼントしてくれたこと。体調が悪いことを黙っていても彼はいつも真っ先に気がついてくれたし、勉強や進路の相談にも親身になって乗ってくれた。彼は確かに『兄』ではないが、それと同じくらいわたしにとっては大切な『他人』だった。
 結局、線引きをしていたのはわたしも同じだったのだ。だから、一期にとっての線引きが次第に違う意味を伴っていったことなど、わたしは気付くはずもなかった。

 高校三年の冬。天候は晴れているのに、ひどく寒さの堪える昼下がり。
 合格祝いを、と言われて一期の部屋に呼ばれて行った。日曜日だったように思う。

 その少し前にわたしは推薦で短期大学に合格していた。実母の通っていた学校だ。早く独り立ちをと考えていたわたしは高校を出たら当然就職するつもりでいたが、進路相談のときに一期に口を酸っぱくして言われたのだ。

 ──大学には行ったほうがいい。そのほうが選択肢も広がる。

 一期自身はそのときもう大学を卒業して、誰もが羨むような一流企業に勤めていた。確かに大学を出たほうが就職には有利だろうと思ったけれど、だからといってわたしは一期ほど出来が良いわけではなかったので彼を手本とするには気が引けたし、かかる費用のことを考えると素直に頷けなかった。いずれお金はすべて返すつもりでいるが、少しでも節約するに越したことはない。でも、そんなわたしの考えなど一期はお見通しで、彼は両親に意見を陳述した。
 案の定、やさしいわたしの保護者たちは、お金のことは気にしなくていいから行きたい大学に行きなさいと言ってくれたが、それでもわたしは渋った。子どもがたくさんいる粟田口家はかなり裕福な家だとその頃には知っていたけれど、わたしという異物がその恩恵をそれ以上受けていいはずがなかった。
 いつもはわたしに主張などしない一期に押されて、悩んだ末にわたしは折衷案を出した。四年制の大学ではなく、二年制の短期大学に行く。母が卒業したところを推薦で受けて、やるからにはと真面目に励み、合格した。家族はみんな喜んでくれたし、一期も、よく頑張りましたと褒めてくれた。

 合格祝いをあげます、と一期に言われて。そんなのいいのにと思いながら彼の部屋に行った。日曜日だったと思うのは、社会人の彼が昼間に家にいたからだ。ひょっとしたら土曜日だったかもしれない、よく覚えていない。正確な日付も記憶にない。覚えているのは、ひどく寒い昼下がりだったということだけ。これまでの人生において二度目の転機となったあの日のことは、わたしにとって紛れもなく青天の霹靂だった。

 暖房の効いた部屋で、床に置かれたクッションの上に座ったわたしに一期は小さな箱を手渡した。そのときの彼の表情にも気付かず、中身を見るまでわたしは呑気に構えていた。リボンを解いて箱を開けて、中から出てきたベロア生地のケースに、そこでようやく違和感を覚え始め──ケースの蓋を開けて、言葉を失った。

 指輪だった。

 しばらく動けなかったし、何も言えなかったし、ひょっとすると息も止めていたかもしれない。乾いた空気に触れる喉がからからに渇いていることに気がつき、ごくりと唾を飲み込んだ。わずかな痛みを訴える喉を唾液で誤魔化しながら、考えた。冗談かもしれない。深い意味はないのかもしれない。彼はあまりこういう冗談を好むたちではなかったはずではと思ったけれど、わたしの知らない一期だってきっといるに違いない。半ば願うようにして、顔を上げた。すぐに後悔した。

 わたしの知らない一期が、そこにいた。

 彼はひどく苦しそうに、琥珀色の柔和な瞳に熱っぽさを湛えて、わたしを見つめていた。かたちの良い唇を開いたり閉じたりして今にも何か言いそうで、わたしはやめてくれと思ったが、思うだけで口には出せなかった。眉を寄せて表情を歪めても尚うつくしい彼に比べて、わたしはきっとひどい顔をしているに違いなかったが、取り繕おうとすることも叶わなかった。彼の、高くも低くもない耳障りの好い声がついに紡がれた。その声も、ただただ、うつくしかった。

「短大を卒業したら、私と結婚してもらえませんか」

 たちの悪い冗談だということにして、わたしを怒らせてくれたほうがましだった。
 彼は、自分が舌の上にのせた言葉の意味を知らないんじゃないかと思った。もしくは、何か別の言葉と履き違えているのではと思った。そのどちらも違うことは、わずかに下げた視線の先、膝の上で固く握りしめられた拳が震えているのに気がついてわかってしまった。いつも穏やかで冷静で理知的な一期は、このとき確かに心乱れていたのだろう。
 かたちの良い唇がまた震えて。「あなたのことが好きなんです」と彼は改めるようにそう言った。先の言葉は早急すぎるものだったという自覚も、順番がめちゃくちゃだという自覚もあったに違いない。それでも彼は溢れ出るものをもう抑えることができないようで、困ったようにわたしを見ながらもう一度、消え入りそうな声で好きだと囁いた。

 ここへ来て、ようやくわたしは声を出すことができた。反射的に聞き返していた。おんなじように消え入りそうな声で、いつから、と。
 途端に一期が顔を真っ赤にして、ばつが悪そうに俯いたのを見て、ひどい罪悪感に囚われた。
 まさか初めからだったわけがない。この家にやって来たときわたしはまだ中学生になったばかりで、五つも年上の一期は間違いなくわたしを子ども扱いしていた。少なくとも中学生の間は、そうだったと思う。そういえばと思い当たるのは、高校生になってから段々と彼がわたしに触れなくなったことだ。それまでは時折頭を撫でてくれたりしていたのに、いつの頃からかそれがなくなっていた。もともとスキンシップ過多というわけではなかったし、単純に子ども扱いをやめただけだろうと、とくに気にしたこともなかったのだけれど。

 そのときまでわたしは一期の想いなどまるで知らなかったのに、羞恥に染め上げた顔を逃げるように逸らした彼が何を考えたのか、手に取るようにわかってしまった。彼は、自分が子どもに懸想するような──言葉を選ばず乱暴に言ってしまうならば、いわゆるロリコンなのではないかとわたしに疑われたと思って、深く恥じ入ったのだろう。握りしめた拳がまた震えていた。可哀相なことをしてしまったとわたしも深く恥じ入ったけれど、何も言えなかった。何か言えば、空に放たれたそれが次々と彼を傷つけていく気がした。

 一期はわたしの問いには答えず、ただぽつりと吐き出すように問いを返した。

「気持ち悪いですか」

 絞首台に立つ死刑囚も斯くや、という顔をしていた。
 一期を気持ち悪いなどと思ったことはそれまでの五年半で一度もなかったし、想いを打ち明けられてからの二年半の間にもそんなことは思わなかった。でもその本心とは別に、わたしが彼を否定する言葉をただの一言でも発したならば、たちまち自らの手で縄を首にかけてしまいそうな彼の危うさがわたしに否やを唱えさせた。無言で首を横に振るわたしを彼は視線だけで捉えていた。琥珀色にまたとろりと熱が籠るのがわかって、そのいたたまれなさに今度はこちらが俯く番だった。

 一期の部屋に、二人きり。改めてそれを認識して、ひどく心許なくなった。手に持ったままのベロア生地のケースを突っ返すこともできず、かと言って中身を取り出して無邪気に指にはめてみるなんてこともできるはずがなく、所在なげに弄んでいると、ふいに一期が何かを言ったが、口の中でだけ言葉であることを許されたかのようなそれはわたしの耳には届かなかった。
 このとき聞き返さなければ彼は言い直すのをやめたかもしれないけれど、過去のことに対して『もしも』を持ち出しても仕方がない。わたしは、聞き返した。今度はきちんとかたちづくった声で彼は手を、と呟き、二拍ほどおいてからまた言い直した。

「手を、握っても良いですか」

 いっそのこと強引にキスでも仕掛けてくれたほうがまだ対処の仕様があったものを、一期はわたしが拒めないぎりぎりのラインを心得ていた。彼はわたしという人間をよくわかっていた。わたしが一期というひとをわかっていなかったのとは対照的に。
 下心はあったかもしれないが、ただ手を握りたいというだけのそれは大人の男性が請うものにしてはあまりにもささやかで不釣合いな気がして無下にはできなかった。無言で頷いてからいくらも経たないうちに、少し離れたところにいた一期が距離を詰めてきて膝を突き合わせるようにして腰を下ろし、ゆっくりとわたしの手から『合格祝い』を取り上げて傍らのローテーブルに置いた。これが『合格祝い』などではないことは、もうわかっていたけれど。

 大きな右手が躊躇いがちにわたしの指に触れ、そのままやんわりと握り込んだ。わたしが驚かないよう力は加減されていて、でも。『子ども』に対する触れ方でないのはあまりにも明白だった。長い指の先の腹がするりと手首の皮膚の上を撫でさする様は、名付けるならば『愛撫』と呼ばれるものではないのかと、わたしは跳ね上がりそうになる肩を押さえつけるのに必死だった。正直なところ、怖くて震えていたと思う。この大きな手のひらに触れられるのは初めてではないのに、撫でられたことだってそれなりにあったのに、意図する想いが違うだけでこんなにも変わるのかと。生々しく、ある意味で言葉よりも的確に「私はあなたを恋い慕っています」と告げた一期の態度に、わたしは確かな恐怖を感じていた。

「これ以上は何もしませんから、怖がらないで」

 『これ以上の何か』をされたほうがずっと恐怖を感じずに済むのでないかと、口には出さないがそう思った。
 一期は、やさしい。彼はいつだってやさしかった。でもこのときは、そのやさしさが痛いほど恐ろしかった。異物たるわたしと正しく『他人』であった一期。互いのその線引きに、いつからか齟齬があったことなど及びもつかなかった。わたしは一期のことを何もわかってはいなかった。

「これを今すぐ受け取ってほしいとは言いません」

 これ、というのが例の『合格祝い』を指すのだと気がついて、ローテーブルの上のそれにゆっくりと視線をやった。一期は申し訳なさそうに苦笑しながら、本当の合格祝いはきちんと別に用意していると告げた。わたしはもうどちらでもよかったが、きっと拒めないだろうと思った。思えばわたしはこれまで一度も一期を拒否したことなどなかった。だって一期は、やさしい。彼はいつだってやさしかった。

「今すぐ返事をくれとも言いません。卒業してすぐにどうこうなりたいわけでもない。私は、待ちますから」

 触れたままのあたたかい指先がまた手首の皮膚の上を滑って。偶然だろうとは思ったが、そこが血管が多く集中する人体の急所だということに気がついて、ふいにぞわりと背筋を何かが駆け抜けた。

 一期の言い分は一見して、わたしの意思を尊重してくれているように思えた。でもそこにわたしが拒否する選択肢は含まれていないように感じた。指輪を受け取らない、返事をしない、彼の言うどうこうにはならない。それらの事象は初めから度外視されている気がした。彼は待つと言ったが、これはわたしが頷くまで待つという意味ではないだろうか。

 このとき、突然硬いもので思いきり頭を殴られたような衝撃を受けたことを覚えている。
 一期は何も言わなかったけれど、たとえば彼が自分の気持ちを両親に打ち明けたとする。ただそれだけで、わたしの選択肢はあってないようなものになる。心やさしいあの夫妻はおそらく反対なんてしない。わたしのことを実子と区別することなく可愛がってくれていた上、初めは養子縁組すら考えていたほどだ。わたしが名実ともに粟田口の家へ入ることになったら、きっと喜ぶに違いない。そしてわたしは彼らに求められたら、頷くしかなくなる。それだけの恩を受けてきた。

 ガンガンガン、と鳴り響く警鐘のようなもので頭がひどい痛みを訴えた。
 わたしは一期のことを何もわかってなどいなかったが、彼はわたしのことをよくわかっていた。わたしが異物であることも、そう在ろうとしてきたことも、この心地好い家では何も拒めずにいることも、早く独り立ちしたがっていることも。ぜんぶ知っていた。だからこうして結婚などという早急な話を持ち出したのだろうし、ひょっとしたらあんなに進学を勧めてきたのもわたしをこの家に繋ぎ止めておくためだったのかもしれない。考えだしたら急激に色々なことが疑わしく思えてきて、泣きたくなった。

 逃げ出したい。でも、逃げ道を塞がれている。

 わたしは一縷の望みをかけて、そろそろと視線を上げて一期を見た。わたしが考えたことすべてを否定してほしかった。やさしい一期。童話に出てくる王子様のように洗練され、何もかもが完璧に調和したうつくしいひと。
 指の先がまた、わたしの薄く脆い急所を撫でた。今にも爪を立てられそうで、それが愚かな被害妄想であることを願ったが、熱に浮かされたような一期の琥珀色の瞳には確かに獣のような光が宿っていて。
 うつくしくておそろしい男の口元が歪み、どこまでも耳障りの好い声が耳朶をなぶって鼓膜に染み込んだ。

「私はあなたが思っているような高尚な人間じゃない。ずるくて、卑怯で、夢の中で幼い姿のあなたを汚したこともあるほどの浅ましい欲に満ちた、ただの男です」

 彼はわたしの考えたことを非常に正確に読み取っていた。
 血潮が透けて見える薄い皮膚の上に、ぐっと硬い爪の先が食い込んだ。


 それからどのようにしてその部屋を出たのか、よく覚えていない。耐え切れなくなって逃げ出したような気もするし、まったく逆で一期がわたしの部屋の前まで送ってくれたような気もする。わからない。気付けば暖房も明かりもつけない寒くて真っ暗な部屋で膝を抱えてぼんやりしていて、帰ってきた同室の乱に驚かれた。何かあったの、といたく心配されたけれど理由を話せるはずもなかった。

 あの寒い冬の日の、青天の霹靂のような出来事は、確かにわたしに再度訪れた転機だった。
 一期を見る目が変わったし、彼のほうでもわたしを見る目が昔とは違うことを知ってしまったから、同じ屋根の下で暮らしていることが落ち着かなくて仕方がなかった。家族がいる手前、避けたりはしなかったが、なるべく自然に接触する機会を減らすようにした。家族との時間を大切にする一期は平日にあまり家にいることができない分、週末は大抵どこにも出かけずまだ幼い弟たちの相手をしていたから、わたしは土日には必ずバイトを入れるようにして家から離れることを選んだ。それまでにも勤労には励んでいたけど、すぐにもっとお金が必要になるとこの頃からつよく思うようになっていた。

 勉強に関する相談は、なるべく骨喰のところへ持っていった。骨喰が家にいないときや、彼でも教えられない問題だった場合は「いち兄のところへ行けばいい」とあっさり追い出され、そればかりか「最初からいち兄に聞いたほうが早いのに」と不審がられる始末で、わたしは言葉尻を濁すしかなかった。骨喰は兄弟の中でも一等口数が少ないので、むやみやたらと詮索してこないのが救いではあったけれど。
 三男に追いやられたわたしが、あの冬の日以降初めて一期の部屋を訪ったとき、彼は信じられないものを見るような顔をしていた。ほかのみんながいる前ではお互いになんでもないような振る舞いをしていたが、彼はわたしの行動の意図には気がついていただろうし、わたしが再び彼と二人きりになろうとするとは思っていなかったんだろう。断ってくれていいと思いながら小さく教えてほしいところがあって、と乞うと、一期は嬉しそうな、切なそうな、ほっとしたような、見ているこちらの胸がしめつけられるような笑みを浮かべた。わたし自身は羞恥と困惑と罪悪感で押しつぶされそうだった。

 何回かそういうことがあったが、一期は仕事帰りで疲れているような平日でも決してわたしをすげなく追い払ったりはしなかった。これまでと同じように親身になって、懇切丁寧に教鞭を振るってくれた。ただ、彼は決してあの冬の日の出来事をなかったことにはさせてくれなかった。二人きりのときにわたしを見つめるあの琥珀色はずっと熱を帯びていたし、わたしが部屋を辞しようとするとき彼は必ず『お願い』をした。

「手を、握っても良いですか」

 拒めるはずもなかった。
 あのときのような触れ方をされるのだろうかというわたしの不安をよそに、一期の接触はまったく普通だった。ただ手を取って軽く握りながらしばらく佇んでいるだけで、あの日のような愛撫と見紛う触れ方は一切されず、わたしは安堵した。さほどの頻度ではなかったけれど何度かそういうことが続き、すっかりそれに慣れてしまった。あんなことがあったというのに、馬鹿だと思う。あれだけのことを言われても、わたしはまだ一期というひとにどこか夢を見ていた。

 何ヶ月か経って、前回より少し間が空いてからまた一期のもとを訪れたときも、それまでと変わらないと思っていた。触れてもいいか訊かれ、手を取られ。下向いた手のひらの表面をつつ、と彼の指先がなぞっていったとき、やっとそれまでとは違う違和感を感じた。ぐい、とそのまま手を引かれた。強くはないが、振りほどけないほどには力の籠った動きだった。
 指の先にちゅ、と口付けられ、頭が真っ白になって、そのあとカッと熱くなった。そんな中でも、瞼を伏せた一期を見てうつくしいなどと考える余裕があったようだけれど、たぶん現実逃避だろう。実際にはわたしはパニックを起こして無意識に呟いていた。「いやだ」と。

 途端に勢いよく手を離されて、少しバランスを崩して解放されたばかりの手を床についた。一期を見上げると、彼は顔面蒼白になりながら頬を紅潮させるという非常に器用なことをしていて、唇を戦慄かせながら痛々しく視線を逸らした。そのときになってようやくわたしは自分が発した言葉がどんなものだったのか気がついた。彼を、拒絶したのだと。

「すみません、調子に乗りました」

 数ヶ月前にも見たことのある顔をしていた。己の思慕は気持ちが悪いかと、まるで咎人が自らの罪状を述べるかのように問い掛けた、あのときの顔だ。
 わたしは一期を気持ち悪いと思ったことなど一度もない。そんな顔をさせたいわけじゃない。わたしは一期が大切だった。やさしい一期に、やさしく在りたかった。たくさんの弟たちから「いち兄」と呼び慕われ、わたしもそう呼ぶのを許してくれていた、『兄』ではないけれど大切な『他人』。異物たるわたしをすくい上げて、慈しんでくれたひと。
 絞首台に立つ死刑囚も斯くやあらん。そんな顔をして今にも自ら縄を首にかけようとしている彼を放ってはおけなかった。力なく下がった腕の先の震える拳にわたしは手を伸ばして触れた。

 ぱしっ。

 軽快な音。そのわりに受けた衝撃は小さいとは言えず、またバランスを崩して先ほどと同じ手を床についた。空に浮いたほうの手の甲がじわじわと痛み出し、わずかに赤みが差した。わたしの手を払いのけた一期は食いしばった歯の間から苦しそうに息を漏らし、憤怒の表情でわたしを睨めつけていた。

「あなた、馬鹿なんですか?」

 わたしは一期が怒ったところなど見たことがなかったし、たぶん弟たちもないんじゃないかと思う。彼は『叱る』ことはあっても『怒る』ことはなかった。激昂している一期なんて想像したこともなく、一瞬『馬鹿』という言葉の意味がわからないほどだった。彼は今、わたしに向かって馬鹿だと言ったのだろうか?

「おれがあなたに邪な気持ちを抱いてるってもう知っているでしょう! 何故そんな無防備に触れようとするんですか? どうしていつも私が手に触れるのを唯々諾々と受け入れるんだ? 本当は嫌だと思っているなら、どうして、」

 わたしを拒絶した大きな手のひらでくしゃりと前髪を乱して俯いた一期から目が離せなかった。耳から入った情報がぐわんぐわんと頭の中を掻き乱し、浸透していった。これほど声も口調も荒げた一期を見るのは初めてで、ああ彼も自分のことを「おれ」なんて言ったりするのかと馬鹿なことを考えていた。彼がわたしを馬鹿と言ったのは実に的を射た発言だったと思う。
 顔の上半分を手のひらで覆い、俯く一期の表情は見えなかった。泣いているのだろうかと心配になったが、わたしはまったくその場から動けなかったし、近寄れなかった。息はできていたので、声なら出るだろうかと乾いた唇を舐めて呼び掛けた。「いち兄」と。

 一期がびくっと肩を震わせて、膝を立てて背を丸めた。とうとう両手で顔を覆ってしまい、その隙間からこぼれ出る吐息の量にますます不安になったのだが、しばらくして吐き出された声の調子はさっきより穏やかになっていたので少しほっとした。それも束の間だったけれど。
 逃げてください、と一期は言った。わたしが聞き返す間も与えず、祈るようにまくしたてた。

「今は声を聞くだけでしんどいんです。早く私の目の前から逃げてください。一分経ってもそこにいたら襲いかかります。めちゃくちゃに犯します。わかったらすぐにこの部屋から出て、できれば弟の誰かと一緒にいてくれないか……」

 ──あなたに触れたくて、気が狂いそうなんだ。

 動かないと思っていた足は一分どころか数秒であっさりと動いて、立ち上がって部屋を出るまで泣くのは我慢しようと思ったけれど、堪え切れずに零れ出た嗚咽は一期にも聞こえていたと思う。ぼたぼた涙を流しながら自室へ帰って、ベッドにもぐって頭から布団をかぶって、わたしはずっと泣いていた。珍しく狼狽えた様子の乱にどうしたの、と何度も聞かれたけど、お腹が痛いと言って誤魔化した。もちろん信じてはもらえなかった。でもほかに何も答えられなかった。

 泣き疲れて少し眠って、夜が来て夕食はどうするかと聞かれて。起き上がって、食べると答えた。食欲なんてなかった。けれどそれよりも、この家で出される食事を不要としたり残したりするほうがわたしには嫌だった。わたしはどこまでも卑屈で臆病な、異物だった。
 乱が気を利かせて部屋で食事をとれるよう運んできてくれて、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。彼はもう何も聞かずに、黙ってわたしの隣で一緒に食事をしてくれた。味なんてきっと感じないだろうと思った夕食は、美味しかった。心と身体は所詮別物らしい。思考と味覚も、わたしにとっては全然別次元のものらしかった。

 美味しい夕ご飯を食べながら、わたしはぐるぐると考えていた。それまでなんとなく澱のように自分の中に溜まっていたものが、ここでようやくかたちを成して、はっきりとした姿を見せた。決意、決定、意志、覚悟。言葉にするなら、そんなものだ。わたしは心を決めた。本当はもうずっと無意識に考えていたことだったから、なんの違和も戸惑いもなく、それはわたしの中で静かに審判が下された。

 不思議なことに、もう涙は出なかった。


 一期が一人暮らしをすると言ったのは、それからすぐだった。
 社会人になってもう一年が過ぎていたから家族の誰も驚かなかったし、反対もなかった。下の弟たちが何人か寂しがってほんの少し唇を尖らせていたけれど、大好きないち兄に頭を撫でてもらってやさしく諭されれば、それでもう許していた。毎週末は無理でもなるべく帰ってくるようにするから、という約束を彼はきっちりと守るのだろう。家族を、弟たちを心から大切にしているひとだから。

 彼が家を出ていくまでの短い間、わたしが彼の部屋を訪れることはもうなかった。本当は、あの冬の日からずっとそうしなければいけなかった。骨喰に不審に思われても、そうするべきだった。わたしは一期が言ったとおり、どうしようもないほどの馬鹿だった。大馬鹿者だった。
 わたしは、わたしという存在がどれほど一期を苦しめているのか、まったくわかっていなかった。わかっていなかったというより、わかろうとしなかったというほうが正しいかもしれない。もっとずっと軽く考えていたし、楽観視していた。無知だった。でもそれ以上に、最低なことをしていた。

 わたしは心のどこかで、一期に想いを寄せられているという自分自身に酔っていたのだ。

 うつくしく、何もかも完璧に調和した、誰もが憧れる王子様のような一期がわたしを好きだと言っている。わたしを欲しいと言っている。わたしの逃げ道を奪い、汚したいという欲を覗かせ、爪を立ててわたしを捕まえようとする。ほかの誰も知らない、わたしだけが知る一期。
 わたしはそんな彼を受け入れる覚悟も、想いに応えるすべも持たないくせに、知らず知らずのうちにいい気になっていた。羞恥と困惑で浮足立ち、彼を避けるそぶりを見せながらも、一方では彼を試すような真似をしていた。一期から熱っぽい眼差しを向けられるたびに罪悪感を感じながら、心の底から拒むことをせずにいた。それでいて、いたずらに軽い言葉で彼を惑わし、あまつさえ慰めようなどと偽善じみた世話を焼いて、彼の逆鱗に触れて。

 これを最低だと言わずになんと言えばいいのだろう。
 一期は自分のことをずるくて卑怯で浅ましい男だと語ったけれど、それはすべてわたしのほうだ。受け入れることも拒絶することも中途半端にしかできない、ずるくて卑怯で浅ましい女。厚意で家に置いてもらっている異物のくせに、思い上がっていた愚かな女。
 一期が怒るのも無理はない。こんな最低な女はよしたほうがいい。こんなのは、よくない。わたしは一期にとってよくないものだ。彼を苦しめるだけの存在だ。一期はわたしを昏くて寂しい水底からすくい上げてくれたけど、わたしは自分が息をするために彼から呼吸の仕方を奪ったも同然なんだ。

 ──自己嫌悪で吐きそうになった。


「怒って、いますか」

 一期と再び二人きりで会話を交わしたのは、彼が家を出ていくほんの少し前。
 夏で、暑かった。夜なのに蝉がうるさくて、でもどうしようもなくて。

 外で話を、と言われて、一期のあとをついて表へ出た。部屋の中は引っ越しの準備で片付いてないから、と言われたが、それは口実でもう彼はわたしを部屋へ入れる気はなかっただろう。わたしももう入る気はなかった。
 住宅街の中を少し歩き回って、自販機の前で足を止めた一期は小銭を出して飲み物を買い、わたしにも買ってくれた。お互いにしばらく無言でそれを飲みながら、じわりとした蒸し暑さと喧しい蝉の大合唱の聞こえる中で、じっと佇んでいた。沈黙を破ったのは一期だった。

 ──怒っていますか。

 怒っていたのは一期のほうだったというのに、彼は叱られる寸前の子どもみたいに頼りなげな顔をしていた。わたしは怒ってなどいなかったし、そんな資格もない。首を横に振った。それでも一期の表情は曇ったままだった。

「本当はきちんとわかっていました。あなたはやさしいし、いつでも自分の立場を気にしているから、私に気を遣って拒まずにいてくれただけだと。私はそれにつけ込んで甘えていたに過ぎないのに、手前勝手な言い分を押しつけて八つ当たりをしてしまった」

 すみませんでした、と呟いて一期はシャツの胸元を握りしめた。苦しそうだった。どうにかして彼の苦しさを取り除けないものかと思ったが、そのたったひとつの方法をわたしはすでに知っていた。
 苦痛を和らげるようにして彼が缶コーヒーに口をつけた。綺麗な喉がこくりと動く様を見て、やっぱり一期はうつくしいとそう思った。

「私を、嫌いになりましたか」

 また問われた。また、首を振った。
 本当に彼のためを思うなら、嫌いになったと答えたほうが良かったのだろう。でもここにきてもわたしはまだ、一期を傷つけたくないなどという独善的な考えを捨てることができなかった。もう散々傷つけて苦しめているのに、わたしはどこまでも卑怯で臆病だった。

 一期が逃げるように顔をそむけた。

「あなたがそう答えるのをわかっていて、私の耳に障りの好い返事を与えてもらうためだけに聞いたのです。あまりやさしくせんでください……また、調子に乗ってしまう」

 街灯の下、伏せられたその表情は泣きそうだった。
 やっぱり一期はわたしのことをよくわかっているし、わたしを理解すればするほど彼は息ができなくなっていく。それをひどいと思うのに、あってはならないことだと思うのに、このときわたしは初めて自分から一期に触れたくてたまらなくなった。慰めるためではなく、わたし自身が彼に触れたいとつよく思った。それまで積み上げていた決意や覚悟なんてものをすべて無効にして、ぜんぶ捨てて。わたしが一期にそうしているように、彼に呼吸を奪われてみたいと、そう思った。

 中途半端に空を掻いた指は、それ以上持ち上がることなく元の位置に収められた。
 一瞬で何もかも忘れて彼に触れるには、わたしたちの距離は遠かった。心の問題ではなく、物理的に離れていた。一期は明らかに意図的にわたしから距離を取っていた。こちらから近づいて距離を詰めることもできたが、それを思いつく頃にはもう我に返っていた。ぱしん、という肌と肌がぶつかって立てる軽快な音を、わたしは思い出してしまっていた。

 よくない。やっぱり、よくない。わたしは彼にとってよくないもの。彼の息を奪い、傷を付け、苦しめるだけのもの。たった一瞬でも、どうしてそれを忘れていられたのだろう。あれほど泣いて、自責の念と自己嫌悪でいっぱいになって、考えて考えて考え抜いて決めたのに。よくない、ひどい、愚かしい、浅ましい。恥ずかしさで消え入りたくなった。

 一期がわたしの名を呼んだ。彼は万が一にもわたしに触れること、もしくは触れられることのないよう慎重に注意を払って間合いを保っていたが、再びこちらを見つめる瞳はあの冬の日から少しも変わらず熱っぽいままだった。

「私が家を出るのは、ずっと以前から考えていたことです。あなたが自分を責める必要はありませんし、そうしてほしいとも思いません。ただ、離れることで私があなたへの想いを断ち切ることを期待されているのなら、それは諦めてください」

 とろりと蕩けた琥珀色の視線は、蒸し暑い大気を通してその熱を何倍にも増幅させ、まっすぐにわたしの肌を焼いた。

「あなたのやさしさにつけ込んででも、あなたを得たいと思うことはもうやめられんのです」

 一期と二人きりで話したのは、この日が最後だ。


 一期が家を出て行って、部屋がひとつ空いたことでわたしは一人部屋を与えられた。
 もともと家にやって来たばかりのとき、ひとりだけ女の子だからという理由でわたしは自分だけの部屋を宛がわれたが、そのために男の子たちの二人部屋をふたつ三人部屋にしたというので慌てて辞退した。新参者がそんな厚遇を受けるわけにはいかなかったのだ。部屋割りを組み直してもらった結果、乱が同室になってくれて、それで六年過ごした。わたしは気にしなかったが、たとえ本当の姉弟だったとしてもこの歳まで同室というのは有り得ないことなのだろうし、乱は可愛いものが好きなだけで中身は立派な男の子だったから、おそらく相当気を遣わせたと思う。初めは小学四年生だった乱も、もう高校生になっていた。さすがに部屋を分けることを今度はわたしも固辞しなかった。
 それに部屋を分けても分けなくても、すぐにそれがなんの意味も為さなくなることを、すでにわたしは知っていた。

 決意、決定、意志、覚悟。言葉にするなら、そのようなもの。もう決めていたし、そこからさらに時間をかけてそれを強固にしていった。必要なもの、必要なことをひとつずつ書き出し、計画を立て、準備を進めた。わたしはもう、じっとあるがままに自身の境遇を受け入れることしかできない子どもじゃなかった。自分の頭で考えて、自分の手で、足で、行動することができるようになっていた。
 そうなれたのは、粟田口家の人々のおかげだ。この家に引き取られなければ、今のわたしはなかっただろう。その恩をひどい仇で返すことになるのを良心が咎めなかったわけはない。迷いが生じなかったと言えば嘘になる。それでも、わたしの意志は終ぞ覆らなかった。わたしは自分でも嫌になるくらい、卑怯で臆病で利己的な人間だった。

 一期は弟たちに約束したとおり、ひと月の間に二、三度は実家に帰ってきた。わたしが唯一懸念していたのは彼の気持ちが家族に、とくに両親に知られてしまうことだったのだけれど、彼がそれを打ち明けた様子はなく、みんながいる前ではわたしに対する態度も家族へのそれだった。
 たぶん乱は、知っていたんじゃないかと思う。あとは勘のいい薬研も気付いていたようで、それとなく示唆されたことがある。でも二人ともはっきりしたことは何も言わなかったし、誰かに言った様子もなかった。

 結果としてわたしは『この日』を迎えることができた──できて、しまった。

 後悔は、たぶんしない。そんな段階はとっくの昔に過ぎ去った。もともと大人になったらこうするべきだと子どもの頃から考えていた。さすがにこんな乱暴なやり方ではなかったが、今さらそれを言っても仕方ない。
 十二の歳から八年間。幸せだったな、と思う。わたしは、間違いなく、幸せだった。
 わたしにとっての世界はあの家だけだったけれど、その世界はわたしがいなくなっても廻ってゆく。

 わたしは今日、八年を過ごした粟田口家を出た。誰にも告げず、なんの痕跡も残さず、ただ一枚の書き置きだけ残して、完璧に失踪した。もう成人しているし、彼らとは籍を同じくしていないから、それほどひどい事態にはならないはずだ。あくまで社会的な意味では、だけど。
 この日を以て、一期の世界から、わたしという存在は消えてなくなる。彼はわたしを許さないだろう。きっと怒るだろう。悲しむだろう。やさしいひとだから、己を責めるだろう。そう思うと胸が痛む。それよりはわたしを恨んで、憎んで、嫌ってくれたらいいと思う。

 彼がうまく息を吸えますように、と。ただそればかりを、こいねがっている。


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