行き場をなくした指の先が、震えている。

 俯けて横にずらした顔に、ぱさりと髪がかかる。その上を短く熱い吐息が撫でていったあと、長い指先が髪を払って、上から順番に唇を落とされる。こめかみ、眦、耳元、頬。頬に押し当てられたそれが離れていく際にちゅ、と小さくリップ音を響かせて、ただそれだけで体温が二℃ほど上昇したのではないかというくらい身体が熱くなる。不自然に跳ねた肩を、彼が熱の籠った指で揶揄うように撫でていく。もういっそこのまま上がり過ぎた熱で死なせてほしい。
 恥ずかしいから目をつむっていたいのに、何をされるのかわからないのも心許なくて、さっきから瞼を閉じたり開けたりを繰り返している。下げた視線の先の、正座から崩した脚は肌がすべて剥き出しで、何をすればいいのかもわからない自分の手が膝の上で震えていて、頭がくらくらする。
 頬に落ちた髪を、彼がまたその長くうつくしい指先で払いのける。顔を上げろと暗に言われている気がしたけれど、じっとこちらへ注がれる視線をまともに受け止める勇気などない。ないというのに。

「下着、」
「……え?」
「可愛いですね。よく似合ってる」

 こういうとき、なんと返すのが正解なのかなんて誰も教えてくれなかったし、自分で考えてもわからないし、考え出しても答えに辿り着く前に脳のシナプスが使い物にならなくなりそうだ。有名なアニメの主題歌に「思考回路はショート寸前」という歌詞があるけれど、まさにそれ。もういっそショートしたい。させてほしい。
 アイボリーを基調とした生地にレースと花の刺繍とアップリケをあしらったブラジャーとショーツの上下セットは今日初めて身に着けたおろしたてで、普段買うのよりもだいぶ値が張るもので、そういった諸々ぜんぶが彼にはもう見透かされている気がする。年齢の差、経験値の差、そのほかにもわたしではもはや埋めようのない何がしかの差を思い知らされる。ちくり、と胸に近いどこかが痛みを訴える。
 だってきっと、ほぼ確実に、彼は、一期は、こういうことをするのは初めてじゃないだろう。以前に付き合っていたひとがいることは知っているし、彼の歳だとか、外見と人柄の良さとか、その他諸々を鑑みてもそれが不自然なことではなくむしろごく当然のことだと頭ではわかっているのに、頭が百ぺん頷いたって心が一度もうんと言わないのだから、意味がない。
 返事に窮したわたしをどう受け取ったのか、一期は再びこめかみにキスを落とし、耳の傍でまた息をこぼす。吐息が肌に触れるだけでも身体が震えるのに、至近距離で言葉を紡がれるとかたちの良い唇までもが耳朶を直接撫でていくから、たまったものではない。

「……外しますね」
「……、」

 囁かれて、息を飲む。何を、なんて問うまでもなく後ろにまわった手が背骨に沿ってするりと肌を撫で上げたあと、ブラジャーのホックに指をかける。さすがに片手で、なんてことはなかったが、思っていたよりもずっと簡単に外されてしまい、ひどく悲しいような情けないような、心許ないような──とにかく泣きたい心持ちになっていく。
 ホックを外した一期の指が次に肩紐を落とそうとしたとき、思わず身じろいで、片手で胸から落ちそうになる下着を押さえ、もう片方の手は彼の腕を弱々しく押し返していた。

「……や、だ……」

 ──違う、そうじゃないと。思ったけれど当然もう遅くて、一度舌の上から空気に触れさせてしまった言葉はもう二度と呼吸の味を知らない状態には戻せない。
 触れた一期の腕が硬直して、耳元に寄せられたままの彼の口がひゅっと息を飲んだ。この反応からして、彼がわたしの挙動をただの羞恥心によるものと思っていないことは明らかで、でも当然だった。だって彼は誰より、何より、わたしからの『拒絶』には敏感なのだから。

「すみません……少し、性急すぎましたか」

 その声音には行為を中断させられたことによる不満なんか一欠片も混じっていなくて、ただただ、やさしくわたしを気遣っていて、やっぱり悲しいような心許ないような気持ちになる。泣きたくなる。一期はこんなにもわたしを想ってくれているというのに、わたしは自分のことしか考えていないのがひどく情けない。
 俯いて瞼をつよく閉じて、ふるふると首を横に振る。ちがうの、と口にした言葉にはまったく思うとおりの力など入っていなくて、届いたかどうかも怪しくなる弱々しさで、また一段と情けなさが増していく。泣くのだけは絶対にだめだ、余計に心配をかけるだけだと思って耐えようとしているのに、思い通りにいかないばかりのこの身体は主の意向などまるで無視して、眦に雫を浮かばせた。

「そんなに、怖かったですか……」

 ごめん、今日はもう何もしません、また今度にしますから。おろおろと一期はそう言いながら、わたしの背中へと再び手を伸ばして外したブラジャーのホックを器用に元通りにはめ直した。どう考えたって外すより留めるほうが困難なはずで、どうしてそんなに手慣れているのかと、さらに肥大化したわたしの醜い心がまた頭を擡げ始める。
 じくじくとした心地悪さに囚われながら、それでも彼がやさしくわたしを抱き寄せて髪を撫でてくれるから少しずつ落ち着いてきて、今度は情けなさより恥ずかしさが勝ってくる。一期は何も悪くないのに勝手な想像でもやもやしていることも、紳士で大人な対応をしてくれる彼に比べて自分がひどく子どもっぽいこともそうだし、あと単純に下着だけの状態でくっついているのが恥ずかしい。上下とも服を脱がされてしまったわたしとは裏腹に一期はワイシャツのボタンを二つ三つ外しただけだから、余計に。

「……ごめんなさい」

 しばらく経ってから出した声には先ほどよりは力も音も籠っていて、少しだけほっとする。一期がゆるゆると首を振って、わたしなんかよりよほど耳に心地好い、小雨のようにやさしい声をさらさらと降らせた。

「嫌だとか怖いとか思ったら、我慢せずに言ってくれていいんです。無理を強いるつもりはありませんから」

 情けなさ、恥ずかしさときて次は後ろめたさが募る。怖いという気持ちがなかったわけではないけど、さっきはそんなことすっかり忘れていた。彼を拒んだ原因が恐怖からだったなら、こんな後ろめたい気持ちにはならなかっただろうか。
 息を吸い、息を吐く。いつまで経っても臆病で自分本位なわたしは、正直今でも本音をさらけ出すのは怖い。でも、やさしい彼を誤解させたままなのはもっと怖くて、悲しかった。
 自分が口下手なほうだという自覚はある。だから、言葉にするだけじゃなくてきちんと態度にも表さなくてはだめだと思った。一期に触れられるのが決して嫌なわけではないことを示そうと、目の前の身体にぎゅっとしがみつく。彼のワイシャツが素肌に触れるのが恥ずかしいし、ボタンを外した襟ぐりから覗く鎖骨が色っぽくて眩暈がするし、そこから視線を上げればうつくしい喉元がごくりと嚥下するのがわかって、まるでいけないことをしているみたいにどきどきする。

「……、どう、しました、か」

 耳元で尋ねる声は掠れて不自然にどもっていて、あんなに手慣れた大人の男のひとという対応をしていたのに、と少しだけ気分が上向いてしまうから、わたしはどこまでも自分本位だと苦笑するしかない。
 ちがうの、と二度目の否定を口にする。一度目よりずっとちゃんとした言葉になっていて、ほっと息をついた。

「ごめんね、違うの。本当に嫌だったわけでも、怖かったわけでもなくて」
「……はい」
「その、わたしは初めてで、どうしたらいいかわからなくて戸惑ってるのに、いち兄はすごく……慣れてるなあと思ったら、ちょっとだけ……嫌だったというか……」
「……」

 思ったことをつらつらと紡いでいくにつれ、自分は今すごく恥ずかしいことを言ってるのではという気がしてきて、だんだんと言葉尻が窄んでいく。
 こういうことを言ってしまっても一期が引いたり、わたしを嫌ったりすることはないというのはもうわかっているけれど、どうしたって怖いものは怖い。沈黙が、つらい。何か反応してほしい。実際にはそれほど長い時間ではなかったと思うが、一秒一秒がひどくゆっくりと感じられて頭がおかしくなりそうだった。
 ぐるぐると忙しなく回る思考がまるで何十分も経ったかのような錯覚を覚え始めた頃、彼のシャツを掴んでいた指に上から手が重ねられた。確かな力が込められた手のひらはゆっくりとした動きで、自身の左胸へとわたしの手を導いていく。
 ね、と囁かれる声は低くて、熱っぽくて、いやらしくて。逃げ出したいのと、叫び出したいのと、あろうことかその先を知りたいという欲とがぜんぶ一緒くたになって奔流のようにわたしに襲いかかった。

「心臓の音、すごいでしょう」
「……」
「私だって戸惑ってますよ。ええと、まあ……経験がないと言えば嘘になりますが、あなたに触れるのは初めてなんですから」

 シャツ越しにどくどくと手のひらに伝わる鼓動は、確かに大きくて速いような気がした。言葉を濁した一期が、わたしと目が合ったわけでもないのにばつが悪そうに顔を逸らすのがわかって、もう自分が情けないんだか恥ずかしいんだか後ろめたいんだかわからなくなる。

「……緊張してるの?」
「……してます。当然でしょう。私がどれだけ今日という日を夢に見てきたと思っているのですか」

 わたしが決して答えるすべを持たない問いを、おそらくは彼自身も答えを求めてはいないであろう問いを投げかけて、それに、と一期は続けながらわたしの首筋に顔を埋めた。

 ──それに、あなたが初めてでなかったら、嫉妬に狂ってきっと、ひどくします。

 く、と歯を当てられる感覚がして、無意識にびくりと跳ねた身体はそのまま固まり、さながら標本のように空に縫い止められる。逃げ出したいのか叫び出したいのか、それともその先を。──ああ、ああ、もう。わかるはずもないし、同時にこれ以上わかりやすい自分もいない。
 知らず構えた身を、予想していたものが襲うことはなく、ちゅ、と一期はそこにやさしく口付けた。くっつけていた身体をゆるゆると離して、胸に当てていたわたしの手も放して、彼はまた手慣れた大人の男のひとという顔をしている。

「……嘘ですよ。うんとやさしくするに決まっています」
「……」
「すみません、意地悪が過ぎました。さ、服を着てください。風邪をひくといけないから」

 脱ぎ散らかしたままのわたしの服に彼の手が伸びる前に、と思ったときには、もう行動に移すことができていた。
 そういえば、いつの間にか震えることを忘れてしまっていた手を一期の首の後ろで交差させる。再び身体をくっつけて、下着一枚隔てただけの、どう贔屓目に見たって豊かとは言えない胸をぎゅうっと押しつけるのは恥ずかしいというよりもういっそ惨めささえ感じたが、ぴしりと固まった一期がまたごくりと唾を飲み込むのがわかったので、なんというかこう、いたたまれないけれど少しだけ救われる思いだった。
 行き場をなくしたらしい彼の指が、宙を掻いてはわたしに触れようとして、でも結局離れていく。
 ──触れて、ほしいのに。

「あの、あまりそんなふうにくっつかれると、困ります……」
「……嫌かな」
「いえ、すごく嬉しいんですが。そうではなく、その……何もしないわけにいかなくなるというか」

 さっき、今日はもう何もしないと宣言した手前、それを破るのは気がひけるのだろう。ひどくするかもなんてわたしを怖がらせるようなことを言っても、結局のところ一期はいつもやさしいから、わたしは息が苦しくなるし、胸がぎゅうっと痛むし、そのたびにもっとずっと、彼を好きになっていく。
 大丈夫だから、と囁けば、また彼の身体が硬直して、好きだとか愛おしいとか思う気持ちがより一層溢れていった。

「わたしも、いち兄とおんなじだから」
「……」
「……『今日』が夢じゃないんだってこと、教えてほしい」

 虚空を彷徨っていたはずの大きな手のひらが確かな目的でもってわたしの両頬を包み込んで、そのまま唇にやさしく噛みつかれた。濡れた息、濡れた音、濡れた皮膚。ぜんぶがわたしの頭をおかしくさせていくし、天邪鬼なわたしの心を百ぺんじゃ足りないほど頷かせるし、くらくらと酔わせては思考も言葉も奪っていく。
 息継ぎをする合間に薄目を開いてみれば、一期は手慣れた大人の男のひとの仮面を剥がして、余裕も気遣いもなくしたみたいな、ひどく覚えのある苦しげな表情をしていた。

「……では、もう『今日』を夢にしなくても良いのか、確かめさせてください」

 濡れた呼気が、ひどく熱い。
 二度目に背中をまさぐった指先は、一度目のときよりも確かな熱と焦燥に覆われていた。


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