柔らかな髪が首元をくすぐる感覚で、目が覚めた。

 あたたかな寝床の中、ゆらゆらと揺蕩うようなまどろみの中で、誰かを腕に抱いて寝ているという感覚だけが明確に浮き上がっている。久方ぶりの感覚だった。実家暮らしをしていた頃は歳の離れた小さな弟たちが怖い夢を見たときなどに時折ベッドへと潜り込んできて一緒に眠りたがったので、よくこうして抱いてやったものだ。懐かしいな、とふわふわする意識の中で思う。一人暮らしを始めてから何年も経つし、長期休みにたまに実家へと帰って寝泊まりしても、もうそんなふうに甘えてくる弟はいなくなってしまった。末弟さえとっくに中学生なのだから、仕方ないことだとは思うけれど。
 一抹の寂しさを感じつつ懐古の情にふけるも、今この腕の中に収めている存在が弟たちの誰でもないことを、私はうつらうつらとしながら思い出していた。
 小さくて、あたたかくて、柔らかな身体だ。記憶の中の弟たちのそれよりは少しだけ低い体温と、小さな子どもとはまた別の、特有の柔らかさ。昨夜初めて、じっくりと堪能することを許されたもの。──嗚呼、嗚呼、思い返すとまるで夢のようなひとときだった。それまでは文字通り夢でしかなかったものを、私はついに現へと変えることができたのだった。誰にも汚されたことのないその柔肌をまさぐり、暴き、無我夢中で貪った。頭のてっぺんから爪の先、滑らかな肌の表面からその身体の奥深くまで、視覚にも聴覚にも嗅覚にも触覚にも味覚にも己の痕跡を刻み込んだ。長らく想い続けていたひとの、淡雪のような純潔を散らしたのはほかの誰でもなくこの私だ。
 今その彼女を腕に抱きながら、初夜が明けていくのを迎えるなんて本当に夢のようだった。

 腕の中の存在がもぞもぞと身じろぎし、柔らかな髪が再び首元をくすぐる。覚醒がよりはっきりとしたものへ変わっていく。彼女は私よりも先に目が覚めていたようだ。先ほどからごそごそと動いているのは腕の拘束から逃れようとしているものらしい。私の胸板に両手をついて身体を離そうと試みているようだが、そこに意志と呼べるほどの力は入っていなかった。私を起こすまいというなんともいじらしい気遣いを感じて、目を閉じたまま知らず口元が緩んだ。
 むくむくと悪戯心が湧き上がる。結局私の囲いから抜け出すことを諦めたらしい彼女が力を抜いて小さく息をつくのを見計らい、まわしていた両腕に力を込めてぎゅうっと勢いよく抱きしめると、耳元で「ひゃっ」という可愛らしい声が上がった。お互いに服は着た状態でいるものの、薄い寝間着の生地は彼女の柔らかな身体が緊張で強張る様をしっかりと伝えてくれて、たまらない気持ちになる。
 髪に顔を寄せて二、三度そこに口付けながら、ふわりと漂う心地好い香りを思いきり吸い込んで堪能する自分は若干変態くさいと思わなくもなかったが、昨夜散々好き勝手にしたいことをしたあとなので、もう今さらだった。腕の拘束を少し緩めて顔を覗き込もうとする私を敏感に察知し、彼女はぱっとその面を両手で隠してしまう。力で以てその手を退けさせるのは簡単だったが、敢えてそれをせずに指にちゅ、とキスを落とすと、華奢な肩が面白いくらいに跳ね上がって、私は己の頬がだらしなく緩むのを止められずにいる。
 可愛い。愛おしい。大切にしたい。そう思う一方で、もっと私を見てほしい、私で一喜一憂してほしい、傷つけたいわけではないけれど困らせて反応を愉しみたいという、倒錯的な欲望も少なからず存在していることを認めざるを得なかった。夢のような現実を手に入れて、気が大きくなっているような気もする。でも今はそんなことはどちらでも良くて、ただただ彼女の顔が見たくて、私はそれを妨げている指にそっと触れて左右に動かした。抵抗は、ほとんどなかった。

「……おはよう」

 カーテンが閉め切られたままの薄暗い部屋の中でもわかるほど顔を真っ赤にさせた彼女が、一度だけちらりとこちらに視線を寄越してから、俯いて再び私の首元に顔を埋める。

「……おはよう、ございます……」

 挨拶がいつもとあべこべになってしまっているなあと、ぼんやり思う。
 そういえば、この子は照れたとき敬語になる癖が昔からあるようだった。私の両親に対してはずっと丁寧な言葉遣いを崩すことはなかったけれど、私や弟たちにもそうだったのは最初だけで、あとはもうずっと砕けた口調で話していた。兄弟の中で彼女より歳が上なのは私を除けば鯰尾・骨喰の双子だけだが、その二人に対しても彼女は年下の弟たちと同じように話し、名前も呼び捨てだった。……正直、嫉妬しなかったわけがない。彼女が私を「いち兄」と呼ぶのは愛称の意で、決して兄だと思われているわけではないとわかってはいるが、一番歳の近い双子は私にとって大切な弟たちであると同時に、いつでも恋敵に取って代わる存在だった。彼女が家で最も仲が良かったのは乱だが、三歳違いの二人は学校に一緒に通うことはなかった。鯰尾と骨喰は、私が決して窺い知ることのできなかった彼女の姿を最もよく知る二人だった。面倒見の良い鯰尾はよく彼女に構っていたし、気難しくて無口な骨喰も彼女とは馬が合ったのか、ときどき勉強を見てやったりしていたようだ。この子にとっても、一番歳の近いあの二人は、乱や秋田とはまた違った意味で特別な存在であることだろう。
 挨拶ひとつで図らずもそこまで思い出してしまい、少しだけ面白くない。片想いの期間が長かったせいか、こうして想いを通じ合わせた今でも私は心が狭く、嫉妬深く、独占欲が強い。嫌がられないようにそれをセーブしようという自分もいるにはいるが、結局のところ昔とあまり変わらず私は彼女のやさしさの上に胡坐をかいて、甘えきってしまっていた。自覚があるならどうにかしろと突っつかれそうだが、それができたら苦労はしていない。
 顔を覗き込もうとすれば、恥ずかしいのか軽く頭を振って私の首元から離れようとしないので、握ったままの手に軽く力を込めて口元へと引き寄せた。先ほどしたように軽くキスを落としてから、可愛らしい爪を唇で食んでそろりと舌を這わせると、一瞬逃げようかどうしようかとでも言いたげにぴくりと指先が跳ねた。私の手のひらの中にすっぽりと収まってしまうほどの小さな手には、どこにも、逃げ場などないのに。

「……嫌ですか?」

 そういう訊き方はずるいとわかっていた。嫌だという答えが返ってきたとき私が傷つくのは確かだが、それ以上に彼女自身が傷を負うことを私は知っているからだ。
 やはり、この夢のような現は私の気を大きくさせているのかもしれない。触れた手、首筋を撫でる髪の匂い。ベッドの中という閉鎖的な空間で、より顕著に感じるあたたかさと柔らかさ。そのすべてと、首をふるふると横に振る彼女のしぐさが、さっきまでの私のどうしようもない妬心を徐々に溶かしていき、狭い心を押し広げていく。

「……やじゃない、です」

 少しばかり舌足らずな幼い言い方は出会ったばかりの頃を彷彿とさせて、たまらなく愛おしくなったけれど、そうなった原因は掠れて出しづらくなった声のせいだとわかるので、罪悪感もよぎっていった。私としたことが、昨晩あれだけ無理をさせておいて、目覚めてすぐそれを気遣えなかったなんて、本当に浮かれ具合がメーターを振り切っていてどうしようもない。
 触れるところを変えてそろりと背中を撫で上げれば、くすぐったいのか腕の中で身をよじる。その際、微かに呻くように息を飲んだのを、私は見逃さなかった。

「身体、辛いですよね……すみません」

 彼女は初めてだったのだから、どうしたって負担がかかったことだろうとは思うが、それで申し訳なさがなくなるものでもない。おそらくは、たぶん、きっと、やさしくできていたはず……だが、正直最後のほうは身も世もなく泣きじゃくって許しを請う彼女が可愛すぎたので、こちらの理性も確かだったとは言い難い。
 髪に触れれば、小さな両手が私の寝間着の胸元をきゅっと掴む。ようやくこちらの首元から少し顔を離して、彼女は健気にも舌足らずな声のまま、ゆっくりと答えてくれた。

「だいじょうぶ……」

 顔を寄せると、一瞬びくついて視線を泳がせたけれど、逃げたり拒んだりするようなそぶりは見せなかった。それだけでとても幸せな気持ちになる。額、目元、頬と順番に口付けていって、鼻先にも唇を落とすと、目をぎゅっと閉じたまま彼女が小さく息をこぼして笑うのがわかって、嗚呼、もう、本当に。

「以前はこんな幸せな夢を見るたびに、虚しさで死にそうになっていたもんですが、」
「……」
「夢ではないとわかった今も、今なら死んでもいいとしか思えないので、あまり変わらんようです」
「……死なれたら、こまる」

 ぽそりと呟き、彼女はごそごそとうつ伏せになって、枕に顔を埋めた。拗ねた子どものような行動が新鮮で、頬が自然と緩む。本当に今の己は死んでもいいくらい幸せとしか形容できない。

「……そうですね」

 髪を一房指に絡め、落とす。ずっと以前はこんなふうに触れることも、私の一方通行で独りよがりな行為でしかなかった。
 ──でも、けれど、今は違うのだ。自分も私と同じなのだと、昨夜彼女は言ってくれたのだから。

 しばらくしてから身体を起こす。隣に横たわるひとが寒くならないよう、できるだけ掛布団を動かさずにそこから抜け出て、ベッドに腰掛けた状態で床に足をつけた。枕に頬をぺたりとつけて横目でこちらを見る彼女はどこか不安そうであって離れがたいし、二人でまだごろごろしていたいという願望も少なからず、というか大いにあったが、カーテンの隙間からこぼれ出る光はとっくに陽が高いことを示していて、いくら休日とはいえ何もしないわけにはいかなかった。とくに、食事に関しては。

「朝食と、風呂の準備をしてくるので、できたら呼びますね」
「……て、」
「だめ、ですよ」

 自分でもちょっとどうかと思うほど、甘ったるい声が出た。たとえば、これを、個人的にあまり弱みを見せたくない知己──取り繕っても仕方がないので名前を言ってしまうが、鶴丸さんや鶯丸さんに聞かれたら、私は確実に自分の中の何かが死ぬ。
 おそらくは「手伝う」と言おうとしてくれたのであろう声を遮り、シーツについた手に体重をかけて、身を少しだけ乗り出した。スプリングがわずかに軋んで音を立てる。膨らんだ掛布団の上に微かに差し込む陽光が、彼女が身じろぐのに合わせてゆらゆらと揺れる。

「──起き上がる元気があるなら、もう一度しようか」

 何を、とは言わなくても、意味はしっかり伝わったようだ。
 明らかにぴしりと固まった身体は沈黙を守ったまま、おもむろに掛布団を耳元まで引き上げて、小さく丸くなった。隠されて見えなくなったその耳はきっと真っ赤に染まっているに違いなく、その様子を見てやはり可愛いとか愛おしいとしか思えない私は、たぶん性格が悪いのだろう。

「冗談です」

 手を伸ばし、掛布団から半分だけ覗いた頭をくしゃくしゃと撫でてやれば、細く小さくくぐもった蚊の鳴くような声で「ばか」とだけ返されて──冗談を冗談にできなくなりそうだった。
 逡巡、逡巡、逡巡。でも結局のところ、この夢のような現実に浮かれきった私が抗えるはずもなく、答えはほぼ最初から決まっていたようなもので、これほど意味のない葛藤の時間というのもなかった。
 身を乗り出して体重をかけた手はそのままに、髪を撫でていたもう片方の手でそろりと掛布団をめくる。ベッドのスプリングがまた控えめな自己主張をするのと、彼女が驚いたように肩を震わせるのと、薄明かりが空気中の粒子を反射させながらきらきらとこぼれていくのとは、同時で。

 申し訳ないが、朝食は食いっぱぐれてもらおう。
 再びあたたかなベッドの中にもぐり込みながら、その代わりに昼食を奮発する旨を私は心の内で誓った。


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