二月十四日の恒例行事は、苦痛というわけではないが、別段歓迎すべきものでもなかった。

 学生時代、それも高校生の間はとくにそうだった。チョコレートをもらうこと自体が、ではない。面と向かって手渡され、好意を告げられることに悪い気はしないし、私がそれに応えられずとも大半の女性は気にしなかった。曰く、貰ってくれるだけで良い、と。私が微笑んでありがとうございますと礼を言えば、彼女らは頬を染めて顔を綻ばせた。厭味ったらしいのは重々承知で、健気なものだなとまるで他人事のように思った。
 辟易したのは、いつの間にか机や鞄に忍ばせられているものだった。手紙が添えてあるものや、市販のチョコレートであればまだ安心できたけれど、明らかに手作り風で無記名のものというのは、失礼ながら本当に受け取らせる気があるのかと思うほど意味がわからなかった。それらの数は多くはなかったが、正直手を付ける気にはまったくなれず、かと言って友人や弟たちに押しつけるわけにもいかず、悪いと思いつつもこっそりと処分に至っていた。高校の先輩だった鶴丸国永は、私などよりよほどチョコレートを受け取る機会も多かったようだが、そういう類のものをどうしていたのかはそういえば聞いたことがない。
 大学生の終わり頃には、さすがに無記名で置き去りにされているチョコレートに遭遇することもあまりなくなったけれど、私にとってやはり二月十四日は心浮き立つものではなく、さりとて嫌悪を抱くほどでもなく。言ってしまえば、関心自体があまりなかった。甘いものは好きでも嫌いでもなかった。受け取ってくれるだけで良いという健気な女性たちの好意を、その言葉のとおり、くれるならば貰おうというだけの日。
 愚鈍な私は、己が好意を向けられる側でなく、向ける側になって初めて、この日に込められた想いや意味や或いは煩雑さを、思い知ることになっている。



「お、うまそうな匂い」

 鯰尾の、声だった。
 寒い冬の日の、深夜──と言うにはまだ少し早いか。日付が変わるまであと数分といったところだ。寝る前に水を飲もうと一階へ下りていくと、キッチンは煌々と明かりが点いていて、そこから件の話し声がした。弟の言葉に答える声は細く高く、せせらぎのようにさらさらと耳朶を撫でていく声だ。彼女のものだとすぐにわかる、それ。キッチンから漏れ出る明かりによって空間の端だけがぼんやりと照らされる薄暗いダイニングの扉の前で、私の足は床に縫い止められる。

「なんだっけ、それ。トリュフ? だっけ? うまそう、いっこちょうだい」
「あ、ちょっと、勝手につまみ食いしようとしないで」

 カタン、という物音と、ぺち、という控えめな音。声が示すとおり、つまみ食いをしようと伸ばされた鯰尾の手を、彼女の手が阻止したのだろう。扉越しに聞こえる音も声も、どちらかと言えばあまり判然とはしていないのに、それらは私の耳には不思議とクリアに入ってきた。水をろ過するように、余計なものを削ぎ落として、ただ綺麗に染み渡っていく。
 視界に入ってはいないのに、肌と肌がぶつかって立てる軽快な音は、ありありとその光景を私の脳裏に刻みつけた。足元から何かがゆっくりと這い上り、脊髄を抜け、やがて頭の中を熱でいっぱいにする。ぐつぐつと煮え滾り、どろどろと溶けていくそれがなんなのか、私はすでに知っている。本人たちにとってはただの戯れのような一種のコミュニケーションに、私は醜くつまらない嫉妬をしているのだ。

「ん、うまい」
「もー……」

 結局つまみ食いを阻止することはできなかったらしく、鯰尾を咎める声がするが、その非難の声はどこか柔らかで、たぶんおそらくきっと、彼にしか向けられない声音なのだろう。誰かを非難すること自体、あまりない子だ。頭の中を埋め尽くす熱のかたまりが解放を求めて暴れまわって、内側から食い破るようにガンガンと警鐘を鳴らす。

「明日渡す分から、ひとつ減らしておくからね」
「ええー、そんな殺生な」

 仲良さげな会話をこれ以上聞かないためにその場を去るという選択もできたはずだが、いつの間にか私の手は扉の取っ手を掴んでいた。

「あれ、いち兄」

 足を踏み入れたダイニングからキッチンカウンターの向こう側を覗き込めば、間を置かずに鯰尾が私に気がついて声を上げた。その横に佇む彼女が一瞬ふるりと身を震わせたのは、彼の声に反応したからか、視界に私の姿を認めたからか、或いはその両方か。
 すぅっと息を吸い込めば、甘ったるい匂いが鼻をついた。彼女の手元にあるバットの中には、粉をまぶした小さな丸いチョコレートのかたまりがころころと転がっている。先ほど鯰尾の言った、三大珍味にちなんで名付けられたというチョコなのだろう。
 何年か前から、この子がバレンタインデーの前日の夜にチョコレートを手作りし、家族皆に配っていることは知っている。けれど今年は、今日は、今は、昨年とは違う様々な何かが私の心をざわつかせた。そしてそれはおそらく、私だけじゃない。

「今年はトリュフですか、明日楽しみにしていますね」
「……うん」
「いち兄は今年もしこたま貰ってくるでしょーに。さすがモテる男は前日の心構えから違う……」
「おまえも毎年食べきれないほど貰っているだろう。大学はもう春休みだからといって夜更かししてないで、早く寝なさい」
「いやだなあ、健全な大学生にとっちゃ、この程度まだ宵の口ですって」

 健全な大学生であるところの弟の言い分にやれやれと溜息をついて、冷蔵庫を開けた。ミネラルウォーターを取り出してコップに注ぎながら、それでも意識は後ろへと向ける。「もういっこちょうだい」「だめ」と会話を続ける二人を窺うと、鯰尾は背後から彼女の肩に顎をのせていて、またどろどろとしたものが私の脊髄を駆け上がっていく。
 こういった接触に他意はないであろうことはわかっている。でもそれは私が勝手に思っているだけで、鯰尾は違うかもしれない。彼女は違うのかもしれない。二人とも、違うのかも。或いは骨喰は? そんなこと、考え出したらきりがない。だって私は、三人が家の外で過ごした様子を知らないのだ。
 昨年、鯰尾と骨喰が大学へと入学して、誰よりもほっとしたのは私だった。理由はただ単に弟たちの進学を喜ばしく思っただけでなく、二人が彼女と同じ学校でなくなるという、そんなどうしようもなく愚かで醜い妬心からだ。五年もの歳月をかけて彼らが築き上げたそのポジションは、私には決して手が届かない。歳の差ばかりは、どうしたって埋めようがない。そう、自分にはどうしようもないものなのに、心はそんなの関係ないとばかりにどろどろと爛れていくから、もう救いようがないのだ。

「なんかラッピングの箱多くない?」

 水を飲むことで多少はこの心持ちがましにならないかと、また愚かなことを考えながらコップに口をつけていると、鯰尾が彼女の肩に未だ顎を押しつけたままそんなことを言った。つられてキッチン台の上にまとめられているラッピング用品に視線をやる。可愛らしい箱とリボン。材料費も梱包代もすべて彼女が自分でバイトをして稼いだお金で賄われていて、うちはただでさえ人数が多いのだから無理して用意しなくていいと告げたことがあるが、既製品のチョコレートを買うよりずっと安上がりなのだと健気に笑っていた。
 見れば確かに、箱やリボンの数は私や鯰尾を含めた兄弟たち全員と両親を合わせても、それより二つ三つは多いようだった。

「友達、にもあげるから」
「へー。あ、男?」
「女の子だってば……」
「どうだかなー」

 ──きっと、今こちらから見えないその顔は、眉尻が下がり、瞳は潤み、薄い唇は何かに耐えるようにきゅっと固く引き結ばれていることだろう。その心は、いたたまれなさと恥ずかしさと罪悪感でいっぱいになっていることだろう。鯰尾とのそんな会話を、背後で私に聞かれていることに居心地の悪さを感じて仕方ないに違いない。今年は、今日は──私の気持ちを知ってしまっている、今は。
 二言三言話をして、じゃあおやすみ早く寝ろよと鯰尾は言い残し、キッチンを出ていった。あとに残された彼女が明らかに名残惜しそうに彼の姿を目で追っていることが、少しだけ面白くない。でも、それも当然の反応だろう、この子は今できるかぎり私と二人きりにはなりたくないはずだ。嫌でも先日のことを思い出してしまうだろうから。
 困らせている、怖がらせているという罪悪感と、なんでもいいから意識してほしいという、願望と呼ぶにはあまりにも淀んでいる欲とが、私の中を交互に駆け巡ってせめぎ合う。

「美味そうですね」

 コップを流しへと片付けたあと、傍へ歩み寄り、わざと身体を寄せて肩越しに手元を覗き込む。びくりと身を震わせた彼女は、すんでのところであげそうになった声をどうにか飲み込んだようだった。トリュフの入ったバットを掴む指に、目に見えてわかるほど力が込められ、桜色の爪が色を失っていく。マニキュアも何も付けていないその小さな可愛い爪を手に取って食んでしまいたい衝動に駆られながら、ちらりと視線だけで横顔を窺う。眉は下がり、瞳は潤んで、唇はきゅっと引き結ばれている。無防備な耳から後れ毛のかかった首筋はうっすらと色付いて、これで私を誘っているつもりがないのだとしたら、ほかのどんな男の前でもこんなふうなのかと、興奮すればいいのか嘆くべきなのかわからなくなる。
 視線に耐えられなくなったのか、ぎゅっと瞼を閉じて深く俯いた。それでいて、逃げようとはしない。そうすれば私が傷つくことを、この子はわかっている。やさしいが、残酷だ。そんな今すぐキスをしてくださいと言わんばかりのしぐさと表情をしておきながら、同時にそれはすべて私に都合の良い妄想に過ぎないと、きちんと思い知らせてくれるのだから。

「……もう遅いので、早く休んでください」

 その身を両腕で囲い、キッチン台に押しつけて思いを遂げてしまいたいという欲をどうにか堪えて、身体を離した。明らかにほっとした様子の彼女に、やっぱり少しだけ面白くないと感じてしまうが、どう考えても私が文句を言える立場でもない。

「おやすみなさい」
「ん……おやすみ、なさい」

 きっと怖かっただろうに、それでも律儀に返事をしてくれる彼女を健気に思いながら、キッチンを出る。
 過剰な数のラッピング用品が視界に入り、胸がちくりと痛むと同時に、また脊髄を何かが駆け上がっていった。



 翌日は、社会人になってから初めての二月十四日だった。
 社内外問わず、相変わらずチョコレートを受け取る機会は多いが、さすがに皆弁えていて、ぱっと見て手の込んでいそうなものはほとんど見受けられない。ほっと胸を撫で下ろす。円滑な人間関係を築きたいと願っているのが私ばかりでないことに、これほど安堵できようとは──とそこまで思って、とんだブーメランじゃないかと自嘲した。不特定多数の女性からはお断りでも、手の込んだ、思いのこもったチョコレートを受け取りたいと願う相手は、少なくともひとりは存在するのだ。円滑な人間関係を築きたかったであろう彼女の意思を、無視するかたちとなってでも。
 退社前に予定が狂い、定時を過ぎたが、これはどう考えてもこの日の私の盛況ぶりに嫉妬心を露わにしたらしい、とある先輩社員による仕事の押しつけが原因だった。呆れ果てるほど馬鹿馬鹿しいとは思ったが、入社一年目では当然選択肢などあろうはずもない。完璧な笑顔で対応したら、相手は勝ち誇った笑みを浮かべながらも若干口元が引き攣っていたから、それで多少の溜飲は下がったし、隣のデスクで聞いていたらしい別の先輩社員の「嫉妬は良くないよねぇ、鬼になっちゃうよ?」という不思議な、どこかぞくりと恐怖を誘う言葉で、顔を真っ赤にして逃げ帰っていた。隣の彼は私に負けず劣らず社内での女性人気が高いものだから、あの男の羞恥心も半端なかっただろう。私が礼を言うと、先輩は「助けたつもりはないよ、仕事を手伝う気はないし」とそっけなく言って、お先にと帰っていったけれど、それが逆に心地好かった。

 家に帰る頃には二十一時を過ぎていて、翌日が休みであることに感謝しながら荷物はそのまま、スーツもジャケットだけを脱いで、ひとりで食事をとった。途中で何人か弟たちが入ってきて、代わりばんこに今日あった出来事を話し、また出ていく。疲れが飛んでいくようだった。夕飯を食べ終わり、風呂に入ろうかとネクタイを緩めたところで、ダイニングに入ってきたのは彼女だった。

「あ……おかえりなさい、いち兄。お疲れ様」

 彼女に労ってもらえるだけで、自然と頬が緩んだ。その手の中にある、見覚えのある可愛らしい箱を見て、恍惚とした気持ちと、仄暗い感情とが同時に湧き上がる。先ほど弟たちも、お姉ちゃんに貰ったのだと嬉しそうに見せにきた、それと同じもの。ひとりだけ特別にはまだなれないのだという現実と、それでもいい嫌われるよりはという夢。
 彼女がダイニングテーブルの上に置かれた私の荷物に視線をやり、すぐに逸らすのを見て恍惚感が増した。紙袋に入った数々のチョコレートは、少しはこの子の心を揺らすものであっただろうか。多少の夢を見るくらい、許してもらいたいと思う。

「あの、これバレンタインのチョコ……いつもありがとう」

 わざわざ私の座るダイニングの椅子の傍まで寄ってきてくれて、そっと箱が差し出される。毎年、渡すときの言い方が父の日のようで、それは私の想いを知ってしまった今年も変わらないのだと、また現実という名の針がほんの少しだけ私を刺す。

「ありがとうございます。大事に食べますね」
「……もうたくさん貰ってるみたいだから、今さらわたしのなんか、飽きちゃうと思うけど」
「まさか。……そんなわけないと、あなたはもう知っているでしょう」
「……」
「ねえ、」

 言うんじゃなかった、と彼女は声に出さず悔やみ、顔を歪める。──けれど、もう遅い。
 目の前に差し出された箱を受け取るふりをして、その無防備にも曝け出された小さな手に己の指をそっと這わせる。びくっと跳ねて引っ込めようとしたところをすかさず捕まえ、箱が落ちないようにもう片方の手で支えた。先日もそうしたように、親指ですり、と指の関節から手の甲にかけて撫で上げれば、皮膚が細かく震え始め、上げた目線の先で今にも泣き出しそうにかんばせが歪む。
 普段は身長差があるから、椅子に腰掛けたままの今はかえって触れやすい。それをいいことに、ただ指の腹でなぞるだけの、けれど愛撫とも呼ぶべき行為を続行する。捕まえたとは言っても、逃げられないほどの力じゃない。それでも彼女はただか細い息をこぼすばかりで、逃げようともしなければ、いやだともやめてとも言わない。……調子に乗ってしまいそうになる。勘違いをしそうに、なる。

「このチョコレート、本当に、ほかに渡すような男はいないんですか?」

 問わずとも、本当はわかっている。知っている。鯰尾や骨喰のように同じ学校に通ったことがなくたって、知っていた。この子はそういったものにまったく重きをおいていない。他者を拒絶しているわけではない、むしろいつだって他人に心を砕いている。でもそれゆえに彼女はいつもひとりでいようとしている。誰の特別にもならないようにしている。知っている。知っていた。
 それでも、震えながら瞳を潤ませながら頷いて答える彼女を見たら、頭の中を仄暗い歓喜が埋め尽くしていった。
 きっと勘違いなどではなく、目に見えるかたちにして取り出した私のこの想いが、彼女を雁字搦めに縛りつけ、どこにも逃げられないようにしているんだと思うと。
 ゆっくりと手を離す。ひと呼吸ごとに皮膚をなぞるように、丁寧に。空気を揺らすか細い息は明らかに安堵を告げていたけれど、ちくりとした痛みはもう感じなかった。

「……大事に、食べます」

 手の込んだ、でもまだ特別な思いが込められたとは言えないチョコレート。今度は箱をそっと撫でれば、困ったように視線を彷徨わせた彼女がテーブルの上に置かれた紙袋を見て、またすぐに逸らす。つられてそちらに目をやって、学生時代のことを思い出した。受け取ってくれるだけで良いのだと、それ以上は何も望まないと、健気で無欲だった女性たち。

 嗚呼、私は到底このチョコレートに、そんな綺麗な想いは抱けそうもない。


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