たとえば俺が『色ボケ』とか『浮かれポンチ』って単語をど忘れしていたとしても、今この状態の兄を差し出せば一発で意味するところは伝わると思う。
寒いけれど穏やかで、静かで、最高に眠い昼下がりだ。
休日だからって真っ昼間から眠いなんて言っているとたるんでいるだなんて思われそうだが、至って正当な理由がある。即ち、この世の中には夜勤というものが存在するのだ。いや、まあ、夜勤なんてしてなくても休日の午後に眠くて寝てるなんてざらにあるけど、それはおいといてだ。夜勤をこなして朝方に帰宅した俺は至って正当な理由でベッドにダイブし、至って正当な理由で惰眠を貪っていたところを、至って不当なインターホンの音で起こされた。
寒いけれど穏やかで、静かで、最高に眠い昼下がりの出来事である。
夜勤がしんどいかしんどくないかと言えば、そりゃあしんどいし、不満もないとは言わない。でも自分で選んで就いた仕事だから、不満はあっても不当とは思わない。粟田口の男は寛容かつ柔軟であるべきだ。うむ。
だがインターホン、おまえはだめだ。
今この状態の俺にとってもっとも不当で、不要で、不敬とすら言える。粟田口の男はときに頑迷固陋ともなるべきだ。うむ。
──寝よう。
目が覚めて二秒でそう判断した俺は、再び眠りの海へと沈むために意識を手放そうとした。宅配業者だったら申し訳ないが夕方には起きるから不在票で手を打ってほしい。それ以外は悪いけど明日出直してきてくれ。明日のこの時間なら起きているし、家にもいるから。
しばらく鳴り続けるインターホンの音をうとうととやり過ごし、入眠の糸口を掴もうとする。音が聞こえなくなり、しめたと思って枕に頬を沈み込ませながら同時に意識も沈めようとした、そのときだった。俺にとってインターホン以上に不当で、安眠の海ではなく絶望の淵へといざなう音が聞こえてきたのは。
かちゃかちゃ、がちゃり。
──聞きたくなかった!
インターホン以上に不当で、不要で、不敬な音。明らかに鍵穴に鍵を突っ込んでドアノブを回した音。最悪だ。安眠の道は断たれた。いや、いや諦めるな俺。まだ、まだ希望はある。やって来たのが誰か、という点で、絶望の淵に沈むにはまだ尚早だ。
俺の部屋の合鍵を持っているのが可愛い彼女とかだったら絶望どころか天国なんだろうが、こちとら生憎とそんな夢のような現実は持ち合わせていない。実際にそれを所持しているのは実家の母親という、なんとも寂しい独り身だ。だが母が所持しているイコール、家族の誰がやって来たっておかしくない。さあ、誰だ。
母本人、乱、信濃、博多あたりは勘弁願いたい。年長組なら薬研か厚か後藤がいい。年少なら五虎退か秋田。できたらしっかり者の平野よりはちょっと天然な前田がいい。骨喰? まずないだろうが、仮にそうだとしたら、あいつはものすごくくだらない用事か、兄弟中でもっとも厄介な案件を持ち込んでくるかのどちらかだ。デッドオアアライブ。
とんとんとん、という足音と、がちゃりと扉が開く音。
さあ、誰だ。
俺が目を開けるまでは、訪問者が誰なのかは判明しない。なんて言うんだっけ、こういうの。シュレーディンガーの猫? ちょっと違うか? いずれにせよ、イメージトレーニングは大事だ。思い込みも時には大切だ。そこにいるのは薬研。薬研だ。誰がなんと言おうと、やげん!
「鯰尾」
「……」
俺が目を開けるまでは、訪問者が誰なのかは判明しない。そのはずだ。だから聞こえてきたのが弟の見た目に似つかわしくない低い美声でなく、涼やかで爽やかな美声だったとしても嘆くことなどない。前向きな姿勢を俺は推していきたい。あれ? 薬研声変わりした?
「鯰尾、起きて。これを見てくれ」
「……」
粟田口の男は寛容かつ柔軟。もしくは頑迷固陋。
今の俺がどちらなのかと言えば当然後者だが、頑迷という点において目の前のこの男には負ける。くそ、これなら明日の休日もまるっと潰れてしまうような厄介事を骨喰に持ち込まれたほうがましだった。
鯰尾、と再度俺を促す涼やかで爽やかな美声は、まるで綻んだように、ふわふわと、どこか陶然としている。名を呼ぶ声だけでそんなことがわかってしまう自分が恨めしい。なんせ両親と双子の弟を除けば、この世でもっとも長い付き合いのある人物だ。これはよくない。このどろっどろに溶けたチョコレートのように緩みきった声音から導き出される答えは三択──即ち、惚気か、惚気か、もしくは惚気だ。
ああ、ああ、もう。同じ惚気を聞くなら、もう一方の片割れのほうが良かったなあ。
この部屋に合鍵を使って入ってきた家族があの子だったら、たぶんきっと一番良かった。
「……」
そろそろと瞼を持ち上げる。俺が目を開けて初めて訪問者の正体が明らかになる。そのはずだった。いや、もう、本当はわかってたけどね最初から! 鍵の開け方とか足音とかでなんとなくね!
まだぼやける視界に映り込む、涼やかな出で立ち。我が兄ながら芸能人顔負けのイケメンだが、数多の女性をそれだけで虜にできそうな琥珀色の瞳は今、たったひとりの女の子の存在で以て、声音同様とろとろに緩みきっていた。
「……いち兄、俺、夜勤明けなんだけど」
「うん」
うんじゃねーよ、こんちくしょー。粟田口随一の頑迷固陋男め。
*
ローテーブルの上に置かれた可愛らしいパッケージの箱を前にして、正座をした大の男がうっとりとそれを見つめている図というのは言うまでもなくシュールだ。
「……まさかとは思うけど、食べないでずっと取っとくってのはやめてくれよ」
「……」
おい、なんで無言なんだ。まさかやるつもりだったのか。勘弁してくれ。
両手に持ったコーヒーのカップの片方をローテーブルの上に置き、椅子の背もたれを前にしてどっかと腰掛けながらもう一方のカップに口をつけ、コーヒーを啜る。眠気が飛んでいくようだ。できることなら飛んでいかせたくはなかったが、致し方あるまい。グッバイ、俺の眠気。頑張って数時間後には取り戻してみせるからな。
箱に夢中ないち兄はコーヒーになんて見向きもしないかと思いきや、おもむろに手を伸ばしてカップの取っ手を掴むと、視線は一片たりとも外さないまま器用に飲み始めた。もはや慣性で動いてるんだろう。熱いのに勢いよくカップを傾けたせいで若干むせている。弟たちにはとても見せられない姿だなと思ってから、俺自身も弟のひとりであることに思い至るが、それ以上は考えないことにした。兄貴ってのも楽じゃないもんだ。
舌を火傷して涙目の兄をよそに、さて、とローテーブルに置かれたものに意識を向ける。
少し緑がかった青色のストライプ柄の箱に、黒の細めのリボン。中身は当然手作りだろうから、梱包に使ったものだけどこかで買ったんだろう。相変わらず手が込んでいる。昔からそうだった。そう、昔から。
コーヒーを嚥下すると、苦いそれに触発されたかのように、少しだけほろ苦い思い出が脳裏をよぎっていく。
最後にあの子からバレンタインチョコを貰ったのは、俺が大学三年生のときだろうか。
──その一ヶ月後には、もう。
浮かんだその事実を打ち消すために、こみ上げた苦さをさらに苦いコーヒーで流し込んで誤魔化した。過去がどうであろうと、今は関係ない。過去は過去、今は今だ。そうだ。
たとえ過去の反動で、問題の二人が今現在ひどいリア充になっているとしても。
そのとばっちりを喰らった俺が、現在進行形で惰眠への道を断たれているとしても。今は、今。
俺が何も知らないで、何もしないで、手をこまねいていたこの数年間、この兄はそれはもう頑張ったのだ。傷つくことを繰り返して、それでもなお諦めずに、いっそ恐ろしいまでの執念で以て、長年望んでいた場所を、時間を、存在を、手中に収めることに成功したのだ。俺や弟たちだって、二度と会うことはできないだろうと思っていた家族に再会することができた。それを思えば、俺の安眠ライフが妨害されたことくらいなんでもない。
と思ったが、過去は過去、今は今であるように、それはそれ、これはこれだ。他人の恋路を邪魔して馬に蹴られたくはないが、自らの恋路を脇目もふらず突っ走る奴はたまには蹴られろってんだ。効くかどうかは別として。
似たような言葉に、とっておきの便利な格言がある。この世知辛い世の中で同志たちが何千何万と唱えてきた、それ。そう、即ち。
──リア充爆発しろ。
当のリア充たちに効くかどうか、そもそも聞くかどうかも別として、だ。ちなみに、目の前の色ボケ浮かれポンチ兄貴には絶対効かないだろうから口に出してはやらない。やらないぞ。
喉元まで出かかった格言という名の本音をコーヒーで胃の中に流し込む。
昨夜の夜勤前に職場のおばさま方から貴重な食料として大量の義理チョコを持たされたから、昨日が恋人たち、もといリア充たちの祭典のひとつであるバレンタインデーだということは知っていた。カレンダー通りの勤務じゃない職種の俺には関係のない話だが世間は奇しくも土曜日、昨夜はあの子のところへ泊まって、チョコを貰っていちゃこらして、今日帰路につく前にその足で俺のところに寄ったんだろう。二人が結婚秒読み、同棲間近だということは知っているが、どうせならバレンタインの前にしてほしかった。いや、それでも俺の安眠が妨害されなかったかどうかは五分と五分だけど。
なんでわざわざ俺のところに来るんだと若干思わなくもないけれど、まあそれだけ浮かれきっているということだろう。彼女から、というものに限定しても手作りチョコを受け取るなんて別段初めてでもあるまいが、そんな野暮なちゃちゃを入れるつもりはない。何せあの頃は俺や弟たち全員と同じ十把一絡げの扱いだったのだから、いち兄にとって今回のこのチョコは喉から手が出るほど欲しかった初めての本命チョコだ。感極まりすぎて泣いてたっておかしくない──いや待て、実際いま箱を見つめながら涙目じゃないか、この男?
「うわあ……」
さすがに声が出てしまった。が、色ボケ浮かれポンチリア充にはやっぱり、効く効かない以前に聞こえていないようだった。知ってた。
この分だと、もはや中身が何であっても関係なさそうだ。几帳面な彼女は毎年違うもの、クッキーやらマフィンやらマドレーヌやらトリュフやらパウンドケーキなんてものまで作っていたし、なんでも美味かったが、たとえ板チョコを溶かして固めただけのものだろうと、いち兄は喜んで食べるだろう。それどころか板チョコのままでもそうかもしれないし、なんならカレールウだって……いやカレールウは面白すぎないか? 知らずにかじった瞬間の顔を動画に収めたい。
実際の、中身は、何かな。
「……」
羨ましいだなんて、そんなことは思っていない。そこにあるものは、いち兄の努力の結晶だ。俺が決して知り得なかったもの、持ち得なかったもの──ずっとずっと蓋を被せて、見ないふりを続けてきたものだ。たとえば今から俺が彼女にだだをこねて、同じものが欲しいとねだったとして、やさしいあの子は中身から梱包から全く同じものを用意してくれるだろうが、今そこにあるものと全く同じにはならない。特別にはなれない。それは俺自身の選択だ。十把一絡げから逸脱しないことを良しとした、俺の。
いち兄は俺が選択しなかった道を選び、俺は逆にいち兄が選び取ることのなかった『兄』としての道を選んだ。
互いのこの選択が最良だったと、俺は心の底から思っている。
だからたぶん、これでいい。羨ましいだなんて思っていない。……ちょっとしか。
苦い苦い、コーヒーを嚥下する。
こくり、こくりと流し込む、それよりもさらに苦いものを奥の奥へ仕舞い込むために。
「……鯰尾」
「お?」
これまでずっとだんまりを決め込み、まさかの涙目で陶然と本命チョコを見つめていた兄がとうとう口を開いた。
さて、何を言うのか。中身についてか? 渡されたときの回想という名の惚気か? 感極まりすぎて、これは夢だろうか云々という発言ならば、頬をつねってやる用意がある。はたまた、長期保存の方法についてか? さあ、どれだ。
「お返しに来月旅行に誘おうと思うんだが、どこがいいと思う?」
「いや予想外すぎるわ魂胆ミエミエで引きます爆発しろ」
効くかどうか、聞いてるかどうかなんて知らん! 盛大に爆発しろ!
何故一蹴されたのか全くわかっていないらしい色ボケ浮かれポンチリア充兄貴はぶつくさと「薬研のところへ行けばよかった」とぼやき、「賭けてもいいけど薬研も絶対同じ反応です」という俺の返しにも心底疑問符を浮かべていたから、恋とは恐ろしく、そして救えないものだと思う。
薬研だって同じ反応をするだろうというのは確信しているが、それ以前にいち兄がそちらへ行くことは決してなかったであろうことも確信している。何故なら、このひとは死ぬほどかっこつけだからだ。弟たちの前ではなるべく完璧な兄でいたいと思っている。それが完璧にできているかどうかは、置いておいて。あと、俺自身も弟のひとりだってことも置いておいて。
たぶんこのひとが、完璧な兄でも完璧な息子でも完璧な恋人でもない、等身大でちょっぴり情けない姿を自分から見せられるのは、家族の中で俺だけだ。
──ああ、ああ、もう。
そのポジションを、たとえ双子の弟だろうと、初恋の女の子であろうと、誰にも譲りたくないと思ってしまっているくらいには、俺も到底、救えない浮かれポンチだ。
粟田口の男は寛容かつ柔軟たれと言うが、実質ほぼ全員が頑迷固陋のほうなのである。
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