──やってしまった。

 爽やかな朝だ。それはもう爽やかすぎて、明るい陽射しが差し込む窓を開け放って高らかに叫びながら飛び降りてしまいたいほどに、爽やかな朝だった。カーテンの隙間からきらきらとこぼれる陽光の粒子、どこからともなく聞こえてくる小鳥たちの鳴き声。まるで絵に描いたみたいに、誂えたかのような完璧な朝だ。
 彼女が私の腕の中で目を覚まし、初めて肌を重ねたあのときのようにはにかんだ声と表情でおはようと挨拶をしてくれていたら、もっと完璧な朝だった。
 自分の恰好を見下ろす。全裸だった。下着すら身につけていなかった。辺りを見回す。床には脱ぎ捨てたままの服が散らばっている。だが、よく見ると服に混じって、爽やかな朝には到底似つかわしくない丸めたティッシュやら避妊具やらが転がっている。ゴミ箱に捨てるという思考すら働かなかったのか。子どもか。まあ、あの辺りはあとで片付ければいい。ベッドの上に視線を戻す。あちこち汚れのこびりついたシーツ。洗濯すれば問題ない。
 今、唯一問題があるとしたら、ベッドの壁際で不自然にこんもりと膨らんでいる布団の存在だった。

「……」
「……」

 流れる沈黙には気まずさしか含まれていない。目に見えなくても、それがわかる。

「……あの……起きてます、か」
「……」

 隅で掛布団を引っ被って丸くなっているその膨らみにそっと手を置くと、少しだけ跳ねて、ごそごそとますます小さくなり、私の手から逃れるようにわずかに離された。問いに対する返事はない。だが起きていることは確実で、また、私を拒んだのも明白だった。一瞬で頭が真っ白になる。伸ばした手は無意識のうちに素早く引っ込められた。彼女からの拒絶は、私にとって何にも勝る耐え難い苦痛だった。

 ──やってしまった。
 何がいけなかったのだろう、などと考えることは、さすがにない。が、結局は同じことだ。おそらくすべてが良くなかった。無理やり始めたわけではないし、痛いことをしたつもりもない。だが、途中から興が乗ってしまったというか……我を忘れてしまったというか……。
 いや、今さら取り繕ったって仕方がないのだ。はっきり言ってしまおう。私は、我慢ができなかった。抑えがきかず、手酷く抱いてしまった。
 まだたった一回しか経験のなかった彼女を。

 書類上だけでも一緒になれたことは私にとって大きな意味を持っていた。
 初めて一緒に朝を迎えたあの日、夢のような心地に浸るがまま、なけなしの勇気を振り絞って一緒に暮らしたい旨を告げた。想いが通じ、身体をつなげても、ずっと彼女を追いかけるばかりだった私は断られる可能性を捨てきれずにびくびくと怯えていたが、彼女はただはにかんで頷き、了承してくれた。ベッドの中、私の腕の中でだ。あの瞬間、本当にこのまま召されてもいいなと思った。死なれたら困ると彼女が言ったので、至極単純な私の前言はすぐに撤回と相成ったのだけれど。
 仕事を辞めた上、私がこちらの地で選んだ新居に引っ越すなど、環境変化が自分にばかり降りかかることに彼女は不満ひとつこぼさなかった。どうせなら籍も入れてしまいたいという私の要望にも、真摯に応えてくれた。式を挙げるのはもっと落ち着いてから、近しいひとだけを呼んでひっそりやりたいと言うので、引っ越しが終わってから両親と弟たちに挨拶だけしに実家へと赴いた。祝福され、囃し立てられ、一部の弟にはやれやれやっとかと呆れられて、顔を真っ赤にして萎縮する彼女には、可愛い以外の言葉が見つからなかった──が、今はそれは割愛することにする。とにかく、とても可愛かった。
 両親の前で婚姻届を書き、それを役所へと届け、手をつないで同じ家へと帰る。ただそれだけで天にも昇る心地で、満たされた。満たされていたはずだった。或いはそれゆえに、貪欲な私の心はさらに貪欲さを増したのかもしれない。初夜からだいぶ時間が経ってしまっていたことも私の貪欲さに輪をかけたのかもしれない。嗚呼、ひとつだけ言えるとするならば、今さら何を言ったところで言い訳にすぎないということだ。

 ──今夜は、抱いても良いですか。

 互いの荷物が片付くまでは、寝床は別々だった。平日は仕事に行きながら荷解きの作業をする私を疲れているだろうと気遣い、彼女は別の部屋で休んでいたが、正直身体の疲れよりも、すぐ傍にいながら事に及べないほうが辛かった。昨夜は同じ屋根の下で暮らすようになってから初めて、私のベッドに、やっとの思いで妻とすることが叶ったそのひとを引きずり込むことに成功した。夢のような一夜だったことは間違いない。あくまで私にとっては、だが。
 この子にとっては、悪夢のような一夜だったろうか。

「……」

 唾を飲み込み、おそるおそるもう一度布団の膨らみに手を伸ばす。
 私が目覚めてからずっとこの状態だから、この布団の下で彼女がどんな恰好をしているのか窺い知ることはできないが、おそらくは私と同じで何も身につけていないだろう。初夜が済んだときのように服を着せてやった覚えも、それどころか後始末をした覚えもない。重ねて言えば、途中から避妊もしなかった。熱に浮かされた頭では結婚したのだから良いだろうというごく単純な思考回路しかなく、薄くも確実に隔たりの役目を果たすゴムを介さずに彼女の中を味わい、汚すことのできる悦びに浸っていた。同意を得た覚えは、もちろんない。最低か。いや最低だ。
 思い返せば、後半はもう本気で泣いていた気がする。本気で抵抗もされた気がする。だが、涙で顔をぐちゃぐちゃにして、やだやだと首を振りながら、まったく力の入っていない腕で抵抗を試みるその姿は正直もっと酷くしてほしいと言っているようにしか見えず、私はその細い両腕を後ろから引っ掴んでのしかかり──振り返れば振り返るほど最低なことしかしていなかった。酔ったりしていたわけではないから、なまじ記憶がちゃんと残っているのがまた何とも言えない。いや、まったく何も覚えていなかったとしたら、それはそれで最低だが。

 とにかく、とにかくだ。やってしまったことは、もうどうしたって覆せない。それならば、私は彼女の心身と己の信用の回復に努めるべきだ。
 再度、掛布団の山に触れ、そっと名を呼んだ。

「その……昨夜は……だいぶ無理を、させて、すみませんでした……」
「……」
「か、身体気持ち悪いままでしょう……? 風呂に、行きませんか」
「……」
「シャワーだけでも……動けなければ私が運びますから」
「……」
「あの……」
「ひとりで入れる」

 突然の、思いもよらない強い語気での返答に肩がびくっと跳ねた。その拍子に、膨らみに触れていた手がまた離れていく。もう一度触れていいものかどうか右往左往しているうちに、また声が、今度は先ほどよりだいぶ弱々しくなって返ってきた。まるで、思いのほか強い口調になってしまったことを悔やむかのように。

「……見られたくないから、あっち行って」

 ──嗚呼、終わったな、と。どこか冷静な自分が絶望する自分を俯瞰していた。



 上の空で服を着て、上の空で床の上を片付け、顔を洗い、キッチンへと入って、上の空で朝食の支度をした。野菜を洗い、トースターに食パンを突っ込み、何故か卵を五つ割ったところで寝室のほうからごそごそと衣擦れの音がして、慌ててダイニングからこっそりと扉のガラス越しに覗き見た。彼女はよほど私の視界に入りたくないのか、丁寧に掛布団を頭から引っ被ったまま、のろのろと浴室に向かっていった。六つ目の卵を割る私の顔はおそらく相当ひどいものだったに違いない。だが、風呂場で自分で後処理をする彼女を想像してしまったら少し興奮したので、たぶん相当救いようのない顔もしていた。
 洗った野菜を切ってサラダにし、トースターを稼働させ、沸かした湯でインスタントのコーンスープを溶き、何故か大量にできあがったスクランブルエッグを前にして疑問符を浮かべているところに、がちゃりと扉の開く音がして、また衣擦れの気配。びくびくしながらまたも覗き見ると、彼女はダイニングとリビングを突っ切って、そこから続く引き戸を開け、自分の部屋へと入っていった。掛布団は私の部屋に戻してきたのか、もう被ってはいなかった。濡れた髪からこぼれる雫とシャンプーの残り香にごくりと喉を鳴らし、おそるおそる戸を開けて中を覗けば、クローゼットから私が以前彼女のために購入した布団一式を取り出して隅に敷き、また頭から毛布を被って丸くなっている姿があった。この期に及んでも己に正直だった私の助平心は、それで跡形もなく消し飛んだ。

 朝ご飯ができました、少しだけでも食べませんか、体調が良くないですか、顔を見せてもらえませんか。畳みかけるように訴えても、とにかく放っておいてほしいの一点張りで、捗々しい返事が返ってくることはなかった。彼女はついに、その日一日中ずっとその部屋から出てくることはなかった。少しでも何か口にしてほしくて、戸の外に置いた水と軽食が、私が外出した隙に減っていたことだけが唯一の救いだった。
 それまでの人生で一番恐ろしいと言っても過言ではない日曜日を一日過ごしたあと、同じ屋根の下にいるのに地球の裏側かとも思うほど隔たりのある部屋でベッドの中にもぐり込んで眠りにつく際に私の頭をよぎったのは『離婚』の二文字だった。籍を入れてまだ一日しか経っていないというのに、なんということだろう。でもどう考えても悪いのは私だった。弁解の余地もないほどに。
 悶々としながら瞼を閉じるが、結局眠れたのは丑三つ時だった。揺蕩う意識の中で、朝になったらまた謝ろうと決意し、浅い夢に沈んでいく。



 ──いち兄、と声がする。ころころと可愛らしく鈴を転がしたというよりは、川のせせらぎのような清らかな声だ。ずっと聞いていたくなる。いち兄、とまた私を呼ぶ声。何年もの間ずっと家族として続けられてきたその貞淑な呼び名が、夜には私の腕の中でいやらしく姿を変えて「いちご、いちご」と舌足らずに掠れるのがたまらなかった。昼間に清楚であればあるだけ余計に。

「いち兄」

 嗚呼、夢なら覚めたくない。まだ寝ていたい。もっとこの清らかなせせらぎを聞いていたい。

「いち兄、起きて。会社遅れる」

 夢の中でくらい現実を忘れさせてほしいのに、このせせらぎはずいぶんとしっかり者だ。いや、彼女がしっかりしたひとだということは子どもの頃から知っている。真面目で、気遣いができて、常に自身を戒めているような子どもだった。悲しいほどに他人を、私を思いやるがゆえに、追い詰められても尚、自らを追い込んでいく道を選ぶような子だった。
 もっとずっと、甘えてくれればいいのに。頼ってくれたらいいのに。私ではそれに値しないだろうか。
 起きて、とまた声がする。促される響きすら、心地好い。

「……おはようの、キスを、くれたら、起きます……」

 夢なのをいいことに、願望の垂れ流しだ。甘えてほしいと思っているのに、自分が甘える側になってどうする。そう突っ込みつつも、夢だからと完全に気が大きくなっていた。
 しばらく声が聞こえなくなる。この辺りで、おやと思い始めた。ゆらゆらと揺れる意識が次第にはっきりと焦点を合わせていく。夢と現の境界線。それを一歩踏み超えると途端に、それまで砂嵐しか映らなかったテレビがまるで急に電波を受信したかのような覚醒に見舞われる。
 ぎし、とベッドが軋む音と、衣擦れの音。眼前でさらさらと揺れ動く気配。はっとして、ぱりぱりと剥がれそうな瞼を持ち上げれば、一等私に近づいていたその気配が離れていくところだった。目覚め始めた頭を叱咤して、その動きを遡って辿ってみれば、額に押し当てられた何かの感触。何か、とは。私が夢うつつで口にした、あれだ。

「……今したから、起きて」

 なんだこれは夢か? というか夢の続きか? 彼女を求めすぎて、ついに目を開けたまま眠れるようになってしまったというのか。
 ぱちぱちと瞬きをする。意識は完全に覚醒していた。「遅刻しちゃうよ」とまた声がして、しゃっと音を立ててカーテンが開けられた。陽光が眩しい。遅刻。どこにだ。会社か。昨日が日曜日だったから、今日は月曜日かなんて、ごく当たり前の事実がとんとんと脳に刻み込まれる。

「朝ご飯とお弁当できてるから……」

 ゆったりとした、清らかなせせらぎのような声。先ほどまで起きて、と私をやさしく促していたそれは、夢ではなく現実だったらしい。彼女がすぐそこにいる。私に話しかけている。昨日はあんなにすげなくして、天岩戸に閉じ籠った天照大神の如く姿を見せてはくれなかったのに。それともあれは、あれこそが夢だったのだろうか。私がやらかしてしまったことから何から、すべて。
 上半身を起こし、ベッドの横を通り過ぎようとした腕をはっしと掴む。そんなに力を込めたつもりはないのだが、びくっと肩を震わせた動きがそのまま手首まで伝わってきて、見上げれば困ったように視線をきょときょとと彷徨わせる姿があった。困惑の中に微かに混じる怯え。調子のいい己を殴りたくなった。何が夢なものか。現実逃避にも程がある。
 触れないほうがいいのだろうと思ったが、離してしまうのも忍びなくて、手首からそろそろと下へと移動し、細い指を包み込む。これ以上怯えさせたくないなんて思いながら、欲望に正直な自分に抗えず、反対側の手も取って軽く引き、床に足をつけてもう一度見上げる。合わさらない視線に物悲しくなるが、まだ少し赤く腫れた瞼を見れば文句など言えようはずもない。

「昨日は本当に、すまないことをしました」
「……」
「……許してくれますか」

 ずるいなと思う。だって、こういう訊き方をしてしまえば彼女が頷かざるを得ないことを私はきちんと知っている。

「ん……わたしこそ、ごめんなさい」

 嗚呼、ほら。やさしいこの子は自分がどれほど傷ついていようと、私を傷つけてはいやしないかと気にするのだ。そして私はいつもそれにつけ込んで、己の思うがまま、したいがままに彼女を欲し、触れ、身動きがとれないように、私以外の誰も見ることがないように追い込んでいく。
 ベッドに腰掛けたまま、胸に顔を埋めるようにして抱きしめると、しばらく彷徨っていた手はそれでも私の髪に差し込まれ、ゆっくりと梳いてくれた。キスがしたくなり、首を伸ばすと同時に腰と背中をそっと引き寄せるが、髪から滑り落ちた指が私の肩を緩く掴んで押し戻す。

「遅刻しちゃう、から……」

 一瞬、やはり拒否されるのかと悲しくなったけれど、時計を見れば確かにいい時間だった。どう考えても会社になんて行きたくはなかったが、そうもいかないことは私自身が一番よくわかっている。
 帰ってきたら存分に彼女にやさしくしよう。甘やかそう。何か贈り物を買ってこよう。ただくっついて座っているだけでもいい。それ以上のことをしたくないわけではないが、昨日のことを思い返すと恐怖で堪えた。
 結局どこまでも自分のことしか考えていない私は、静かに離れていく彼女がこのとき何を思っていたかなど知る由もなかったのだった。



 左手に通勤用の鞄、右手にビニール袋と紙袋がガサガサと揺れている。
 会社で結婚した旨を報告すると、上司や同僚や部下に盛大に祝われ、コンビニ品の域を出ないが様々なものを奢られた。昼休みに弁当を広げたときは、口々に愛妻弁当かと囃し立てられた。一緒に住むようになってからはずっと彼女が家事をしてくれて、弁当も用意してくれていたから初めてというわけではなかったけれど、籍を入れてからは初めてだから、間違いなく今日のが最初の愛妻弁当だった。私の顔は一日中緩みきっていたと思う。仕事はしっかりこなせたはずだが、正直頭の中はずっとお花畑だった。
 新婚は早く帰れという上司のお達しに感謝の念を送り、定時で会社を出て、駅前で花屋とケーキ屋に寄った。贈り物というとオーソドックスにアクセサリー類が浮かんだが、購入に時間がかかってしまうし、何よりあの子ならそれよりも花を好むと思った。あまり邪魔にならないよう小さく、青系の花でまとめてもらった花束と、苺の乗ったショートケーキを二つ買い、一分一秒でも早く会いたくて家路を急いだ。やっぱりずっと、顔はだらしなく緩んでいて、頭の中では花弁が舞い散っていた。私は心底おめでたい男だった。このときは。
 マンションのエレベーターの進み具合に若干の文句を垂れながらも、鼻歌までうたう始末。部屋の前ですれ違った小学生に心底不審そうな目を向けられても、気にならなかった。荷物をいったん下ろし、鍵を開け、また荷物を持ってドアを開ける。ただいま、と声をかければ、あのゆったりとしたせせらぎが、おかえりなさいと返してくれる。

 ──はず、だった。

「ただいま帰りました」

 しん、とした静寂。音もないが、光すらもなかった。どこの電気も点けられておらず、廊下は真っ暗、その先に見えるガラス扉の向こうのリビングも真っ暗。おめでたさのかたまりとも言うべき私の脳内に、ぴし、と亀裂が入った。舞い散っていた花びらが一斉に、色と艶をなくしていく。
 名前を呼ぶ。返事はない。寝ているのかもしれないと、おめでたさのかたまりがしぶとくそう囁く。廊下の電気を点け、リビングへと入った。荷物を全部ダイニングテーブルの上に置き、真っ先に彼女の部屋へと向かう。
 引き戸を叩いて名を呼んでも、声が返ってくることはない。一言断ってから戸を開けて、壁のスイッチを入れる。ぱっと明るくなる室内に、彼女の姿はない。ぴしぴし、と脳内の亀裂が大きくなる。花畑が半分ほど枯れ始めた。
 別に、外出を禁じていたわけでもなし、と呼吸を落ち着かせた。買い物にでも行っているに違いない。今日の夕飯は何を作ってくれるのだろう。目一杯甘やかすと決めていたから、私が作ってもいいのだが。戻ってリビングの電気を点けた。ダイニングテーブルの上に置いたものを片付けてしまおうと、そちらへ視線をやったとき、ふと先ほどは暗くて気がつかなかったものが視界に飛び込んできた。

「──」

 咄嗟に言葉を失った。今度はぴしぴしと奔る亀裂なんてもんじゃない。がつん、と大きく殴られ、引き倒され、粉々にされる。花などもうどこにも咲いていない。あるのは私を追い詰め、手足の自由を奪い、何よりも呼吸を奪っていく、溺れさす水だ。
 テーブルまで歩む足が震える。段々と視界を占めていく、それ。白い便箋。うつくしい書き文字。もう四年近くも前のことなのに、未だに昨日の出来事のようにつよく鮮やかにはっきりとフラッシュバックを起こす。

【いち兄。ごめんなさい。】

 あの手紙は何年経っても私にとってのトラウマだった。姿を消した彼女を追い、見つけ、もう追い詰めることのないようにと大事に大切に想いを通わせ、やっと結ばれることのできた今でも、あのときのことを思い出すと息が苦しくなる。
 あの日のように、私の手の中でかさりと音を立てた白い便箋。おそるおそる視線を落とせば、短い文が目に入る。

【明日には、帰ります。夕ご飯は冷蔵庫にあるので温めて食べてください。】

 それだけだった。再びがつん、と大きく殴られる心地がした。
 何か私を責める言葉や、理由などが書いてあれば良かった。でも何もなかった。そのことが余計に堪える。どう考えたって今回悪いのは全面的に私なのに、彼女はまた私をひとつも責めることなく、自分を殻の中に追い込んで、その殻ごと静かに私から離れていくのだ。四年前にもそうしたように。
 は、は、と息がこぼれる。あまりの息苦しさに、意味はないと知りながらもネクタイを緩め、便箋ごとテーブルの上に手をついた。ぐらぐらと視界が揺れるのを、こめかみを押さえて止めようとする。やはり意味はないけれど。
 昨日から続く己の馬鹿さ加減に頭が痛くなった。浮かれきっていた今日に至っては、もはや怒りすらもわかない。私はどうしてあそこまでおめでたくなれていたのか。思い返せば、あの子はちゃんとサインを出していたのに。自分はまた、何も気付くことができなかった。否、気付こうとしなかった。二度もこんな手紙を書かせて。
 紙に触れる。ゆっくりと文字をなぞる。あの日と同じようでいて、それでもあの日とは違う何かがあるとするならば、私はそれを捕まえなくてはならない。今度こそ。

 瞼を下ろして深呼吸をすると、眩暈はだいぶましになった。ジャケットのポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、操作をする。最初にかけるところはもちろん決まっていたが、案の定電源が切られていた。予想通りだから嘆きはしない。少し心臓が痛むだけで。
 無機質なアナウンスを途中で遮断し、今度は少し考えた。彼女が行ける、頼ることのできる先は限られている。即ち、鶯丸さんのところか、実家かだ。私の知らない交友関係や、適当なホテルなどを選択されていたらお手上げだが、もしこの書き置きが彼女の出すサインの一環だとしたら。無意識でも意識的にでも、見つけてほしい、迎えにきてほしいと思っているのなら。それだけで、あのときとは違う。私が見つけやすいところを選ぶと、そう、思いたい。
 二択のうち、前者の可能性は低そうだ。少し遠いし、彼はあまり迷惑をかけたい相手ではないだろう。というか、彼のもとへ行っているとは私が思いたくなかった。あそこは娘さんがいるし、鶯丸さんが間違いを起こすような人物でないのはもう重々承知しているが、気持ちの問題だ。私の知らないあの子の二年半を知っている彼には、きっとこの先も苦虫を噛み潰したような複雑な思いしか抱けない。
 もし読みが外れて、彼女が彼のところへ駆け込んでいたら、しばらく立ち直れない気がする。恐ろしいので、確認は後回しにする。先に一番可能性の高いところへ連絡して、当てが外れたら、そのときは覚悟を決めよう。
 履歴をスクロールするのも、アドレス帳から引っ張り出すのも煩わしくて、直接キーパッドに数字を叩き込んだ。この時間なら必ず誰かはいるだろう。コール音が始まる。心臓が逸り、息が苦しくなるのを、また意味もなく抑えたくて、携帯を耳と肩で固定し、スーツのジャケットを脱ぎ捨て、ほどけかけたネクタイをさらに大きく緩め、ワイシャツのボタンをひとつ外したところで、ぷつっと耳の奥でコール音が断ち切られた。

『はい、粟田口でーす』

 調子良く間延びした声に、何よりもまず小言を投げつけたくなるのをぐっと堪えた。幾つになるのだ、この弟は。というか、もう実家暮らしではないのに、何故週の初めからそこに居座っているんだ。矢継ぎ早に繰り出しそうな説教の代わりに、溜息をついた。この電話の理想の相手としては、彼は下から数えたほうが早い。一番好ましいのは薬研、次点で厚か信濃。その次が両親だ。下の弟たち及び繊細な後藤にはあまり聞かせたくない。今そこにはいないだろうが、骨喰もできるだけ遠慮したい。が、なんと言っても最下位はもちろん、乱である。

「鯰尾か。私だが」
『え? 誰ですかー? 新婚早々、嫁に実家に逃げ帰られた甲斐性なしのオニーサマですかー?』

 手のひらで瞼を覆い、天を仰いだ。複雑としか形容しようのない、相反する感情が、混ざり合うというよりは水と油のように反発しながら絡み合い、私の中を埋め尽くしていく。即ち、煽られることの煩わしさと、読み通りに消息が判明したことの嬉しさだ。
 電波にのせて届けられる間延びした声は笑っているが、その笑い声はどこか白々しく乾いている。呆れ返っているのだろう。さっきは下から数えたほうが早いなんて思ったが、ある意味この電話に出たのが、両親を除けばこの世でもっとも私と長い付き合いのあるこの弟で良かったのかもしれない。ほかの弟たちだったら、おそらくこの倍はいたたまれなさに苛まれている。

「……あの子は、そっちに帰っているのか」

 口に出して問うと、思った以上に安心感が身体を突き抜けた。何も良くはないとわかっていながらも、良かった、と胸を撫で下ろす。良かった。本当に。返す返すも、ここで鶯丸さんを選択されていたら、本当にしばらく立ち直れないところだった。

『この世の終わりみたいな顔して一晩泊めてほしいって帰ってきましたよ。籍入れて二日後に離婚の危機とか、どこのドラマの世界なんだか』
「……」
『あの子は自分が悪いんだって言ってたけど。どうせいち兄がなんかしたんでしょ?』
「……」
『夜がしつこい男は嫌われますよ。程々にどうぞ』

 ──読まれている。完璧に、読まれている。ぐうの音も出ない。
 言い訳めいたことが次々と脳裏をよぎっていくが、それが身体の器官を通って口から出ていくことはなかった。今は何を言っても、鯰尾に論破されるだろう。ばっさばっさと容赦なく斬られて、私の心はもうゴミ同然になっている。これが薬研相手だったらと若干思わずにはいられない。あの子も持ち前の勘の良さで私を斬り捨てるだろうが、その切り口はもう少し柔らかいはずだ。その上、私へのフォローも入るだろう。嗚呼、やはり薬研に出てほしかった。私のいたたまれなさは今よりも数倍ひどいことになっているとは思うが。

「……とにかく、迎えに行くから」

 ほかに何も言えず、ただそれだけを告げる。来なくていいですよ、なんて、またばっさり斬られるかと思ったけれど、鯰尾は溜息をつき、そうしてください、と言う。その声音はすでに私をからかうようなものではなく、どこか不安そうで、でもほっとしたような、不思議な響きを保っていた。彼が続けた言葉で、その理由が知れる。

『ねえ、肝を冷やしたんじゃないですか』
「……」
『一瞬だけど俺は冷やしたよ。そのあと安心した。あの子の帰る場所には、ちゃんとこの家があるんだなって』
「……うん」
『早く来て、とっとと連れ帰ってください。今はそっちが帰る家でしょ』

 柔らかな声に、じんわりとする。嗚呼、やっぱりこの電話に出たのが、この弟で良かったかもしれない。

『あ、乱いるから。ボディーブローの一、二発はお覚悟ですなー』

 ──この、この余計な一言さえなければ!



「お、甲斐性なしのいち兄だ」

 実家に着いた私を一目見た弟が開口一番告げた言葉はそれだった。
 鯰尾との電話を切って、とるものもとりあえず家を出て車を飛ばした。脱いだジャケットは置いてきたし、ネクタイは緩んだままだし、そういえば買ったものをテーブルの上に置きっぱなしだと気付いたのは、実家に着く直前だった。花は、そういう処理が多少施されているだろうから大丈夫とは思うが、冷蔵庫にしまってこなかったケーキは、帰る頃にはもう食べられないだろう。すぐに、ケーキなんてまた買えばいい、今度はもっと時間のあるときに、もっと違うプレゼントを買えばいいと思考が切り替わったので、どうでもよくなったのだが。
 車を止め、家の中に入った私を出迎えたのは二人の弟たちだった。リビングのテレビの前に並んで座り、対戦ゲームをしている。黒髪の弟がうんうん唸りながら画面を睨んで操作しているのに比べ、赤毛の弟は涼しい顔で眉ひとつ寄せることなく、余裕たっぷりにこちらを振り仰いだ。件のセリフは、こちらの弟のものだ。

「おかえり、甲斐性なしのいち兄」

 信濃はあくまで涼しげにそう述べると、また前を向いて何やら手元で私のまったくわからない操作をする。途端に隣の鯰尾が大声を上げ、床の絨毯の上に崩れ落ちた。形勢は火を見るより明らかで、どうやら見たまま、鯰尾の圧倒的敗北らしい。

「お兄ちゃんをちょっとは立てるってことをしてくれないのかよ、もー」
「手ぇ抜いたら抜いたで怒るでしょ、鯰兄は」

 隣で嘆く兄ににべもなく言い放つと、信濃はコントローラーを置いて立ち上がり、キッチンへと入っていった。冷蔵庫を開けたり閉めたり、かちゃかちゃと食器の当たる音がする。飲み物を用意しているらしい。
 鯰尾に視線を戻すと、彼は寝そべったまま私を見上げていた。おかえり、と逆さ向きの顔がこちらを見て言う。ただいま、と反射的に返したが、一番口に出したいことは一欠片の我慢もきかず、すぐに口の端からこぼれ落ちた。

「……あの子は?」

 答えたのは鯰尾ではなく、キッチンのカウンター越しに立つ信濃だった。

「いち兄が来るって知ったら、乱の部屋に行っちゃったよ。せっかく久しぶりに相手してくれてたのにな」
「……」
「鯰兄は弱いし、乱はあんまりやりたがらないし。薬研と厚と後藤はいないし、中高生組はお勉強中だし。姉さんだけだったのに」
「悪かったな、弱くて」

 よっと掛け声をつけて鯰尾は起き上がる。文句を垂れながらもキッチンまで足を運び、カウンターの内へと手を伸ばしてまるで息を合わせたかのように弟からコップを受け取ると、ダイニングの椅子に座ってお茶を飲み始める。ま、そんなわけで、と笑う彼の声音は電話で聞かせたような切り口の鋭いものではなく、からかうようなものでも不安げな響きでもなく、ただ柔らかだった。

「そんなわけで、お察しの通り、いま全権を握ってるのは乱なんで。初戦からラスボスだけど、まあ逆に言えば一戦だけだから」
「……善処するよ」
「骨喰がいなくて良かったですね。あいつ澄ました顔して相当シスコン拗らせてるから、今頃もっと面倒なことに」
「よく言うよ。鯰兄だってよっぽどでしょ?」
「え、俺?」

 視線を斜め上に上げ、鯰尾は少し考えるそぶりを見せたが、すとんと、すぐになんの違和もなく、至極真面目な顔をして、当然のように、息をするのと同じくらい自然に、するすると言葉の糸を紡いだ。

「そりゃそうだ。いち兄にとっては違ったんだろうけど、俺らにとっちゃずっと妹同然だったし」

 ──まあ、今はなんでか義姉なんですけどね。
 そう言った彼の表情は、何年もあの子の傍で暮らしながらおそらく私がただの一度も持ち得なかった、そういう『兄』の顔をしていた。



 ノックをすると、答える声もなく、静かにドアが開けられた。半分だけ。扉の陰から覗く姿はやはり半分だけで、その片方だけの、海と空が交わる水平線上の色をのせたような深い青の瞳は眇められ、じっとりと熱を孕んでいる。まあ、ようするに、睨まれている。
 鯰尾の言った言葉が脳裏をよぎる。──ラスボス。そう表すほかは、ないだろう。先ほどここへとかけた電話の出てほしい相手ランキングでも堂々のワースト一位だ。気まずいし、いたたまれないし、歳が八つも離れているので出来得る限り恰好のつかないところは見せたくない。そう思ってから、もう何年もそんな面ばかり見せていることに気付く。
 乱がドアを半分からもう少しだけ開き、顔全体を覗かせた。兄弟たちの中でも一際明るく愛想がよく、いつもにこにこ微笑んでいるような子だが、今は恐ろしく無表情だった。怖いとしか言いようがない。しかも無言。怖い。
 電話で言われたように、顔か腹にでも一、二発拳を入れられるかと思ったが、それもなかった。彼は黙って扉をすべて開けきって、私を部屋の中へと招き入れた。広いと言えるほどの面積はないから、すぐに中が見渡せる。ベッドの上でこんもりと丸くなっている掛布団。覚えがありすぎて、軽く眩暈がする。
 乱はてっきり彼女の傍へと戻るかと思ったのに、そうはせず私と入れ違いになるようにして扉の外へと身体を滑り込ませた。振り返った拍子にひとつに括られた飴色の長い髪が私の腕を軽く叩く。それは私を責めているようにも、逆に激励しているようにも思えた。つまらない思い込みと言ってしまえばそれまでだけれど。

「お姉ちゃんが嫌がらなきゃ何したっていいけど、ボクのベッドは汚さないでね」
「……」

 やっと口を開いたと思えば、この宣いようである。死にたくもなるってもんである。

「あと、下の子たちが勉強してるから、お静かに。口塞ぐとかしてね」

 私の精神的なヒットポイントをこれでもかというくらいごりごり削り、乱はドアを閉めて出て行った。鯰尾が言うところのラスボスの、退場。この一戦は、不戦勝になるのだろうか。あとに取り残された私は、しばらく迷って視線をあちこち彷徨わせてから、ゆっくりと最終目的、最終到達地である存在との距離を縮める。
 ぎし、と音を立ててベッドに腰掛けると、掛布団からわずかに覗いた頭がふるりと震えて、逆向いた髪の一房がひょこりと揺れる。可愛いな、と思って手を伸ばし、そのはねた髪を直してやると、また頭が揺れ、布団に隠れる面積を増やそうとさらにもぐり込んだ。なんとなく雰囲気的に、嫌がっているわけではなく恥ずかしいだけだというのがわかるので、ほっと胸を撫で下ろした。あまり考えたくはないが、ここで完全に拒絶されてしまったら、自分でもちょっと、何をしでかすかわからないのだ。あとからとてつもなく後悔するであろうことは目に見えているのに。

「……夕食は、とりましたか」
「……」

 問えば、覗く髪がまた揺れた。今日はここで、皆で食事をつくって食べたのだろう。そういえば、彼女は今日家で何をつくっておいてくれたのだろう。冷蔵庫は結局覗いてはこなかった。帰ってから温めれば、まだ食べられるだろうか。

「……ごめん、なさい」

 布団の中で籠って聞こえる謝罪の声は、少し掠れて震えていた。──嗚呼、嗚呼。そんなことを、そんな声で言わせたいわけじゃない。見えないけれど、きっとそんな顔もさせたくはない。彼女のほうからも私など見えてはいないのに、必死に首を横に振った。掛布団越しに手のひらを置く。直接届くのは、声だけだ。

「いえ……いいえ。謝らなければいけないのは、私のほうです。結局、朝も浮かれてしまっていて……あなたの気持ちに気付くことができなかった」
「……」
「その……やはり、嫌だったのでしょう。泣いていたのに色々と、酷いことをしてしまって」
「……ちがうの」
「もうあんなことはしません。あ、いや、抱かないって意味ではなく……まったくしない、のは、ちょっと無理なので、できるだけもっと、やさしくします」
「いち兄、ちがくて、」
「頻度と回数も無理のない範囲で……でも、できたら一度に二回は、許してほしいんですが」
「あのね、一期」

 ふわっと、息が耳を撫でた気がした。そんなわけはないのに。
 触れた手のひらの下でごそごそと身体が動き、掛布団の端から彼女が仰向けに両の目だけを覗かせる。眇められ、じっとりと熱を持つその視線は先ほどの乱のように私を睨みつけているが、彼よりはだいぶ可愛らしいものだった。
 喋り散らかす私を止めた、滅多に呼ばれることのない「一期」という響きは、私にとって毒のようでも薬のようでもあり、ただの自分の名前なのに、睦言を聞いている気分にさせる。実際、彼女がこの名を呼ぶのはだいたい閨の中だけだ。私がそう呼ばせたくてそうしているのだが。
 ぴたりと口を噤んだ私を睨む視線が、ほんの少しだけ緩んで伏せられた。

「……いち兄は、ちゃんとやさしかったよ……ちょっとだけ、意地悪だったけど」
「……」
「本気でいやだったわけじゃ、ないし……えっと、まったくしない、のは、わたしも、無理だし……」
「……」
「そうじゃなくて、その……少し怖くて」

 なんだか色々と衝撃的な告白をされている気がして思考が止まりかかっているが、最後の怖いという言葉にようやく自分を少し取り戻す。けれど、怖い思いをさせて云々と私が謝罪を重ねるより先に、彼女の衝撃的な告白の続きのほうが一足早くかたちを成した。

「き、気持ちよすぎて、変な声ばっかり出るし」
「………………はい……?」
「最初に痛いって思ってたのが、もう全然なくて、逆に怖いし……」
「……」
「自分が自分じゃないみたいっていうか……内からつくり変えられてるみたいで、それも怖くて」
「……あの、」
「も、触ったり、話したり、顔見るだけで、おかしくなりそうで、だから、」
「あ、あー、ちょっと、まって、待ってください、いったんストップ」

 ──なんだろう、これは。いや、本当に、なんだろう。なんだっていうんだ、どうしたことだ、これは。
 わけもわからず制止して、でも彼女はおとなしくそれに従う。掛布団から覗く瞼はまるで何かに耐えているようにぎゅうっと閉じられ、睫毛がふるふると震えている。隠された頬も、首筋も、きっとその柔らかな、誰よりも私自身が確かに柔いということを知っているその身体は、今どこもかしこも色付いて、ふるいつきたくなるようなあえかな香りをほんのりと放っているのだろう。少し背中を押されれば、私という獣がすぐにでも、暴き立てにかかってしまうような。
 彼女は自分が何を言っているのか、わかっているのだろうか。否、おそらく何もわかってはいない。わかっていて、わざとこんな真似ができるような子ではない。よしんばそうだったとしても、もう関係がない。死ぬほど煽られて、私は暴発寸前である。どこがとは、言わないが。
 だって、そうだろう。男を知らなかったこの子が、私を知って、私の手でつくり変えられていくことを怖いと言い、何もしていなくても、私に触れたり、顔を見たりするだけで変になりそうだと言う。そんな殺し文句を好きな女性から聞かされて、何とも思わない男がこの世のどこにいる?
 ──まあ、もしいたとしても。そんな男の言い分など、今の私にとっては、まったく、全然、爪の先ほども心に響かないことは確かだが。

「……お願いですから、今すぐそこから出て、一緒にうちへ帰ってください」

 脱力し、ぽす、と額を布団の膨らみの上にのせる。横目で見やれば、彼女はわずかに瞼を押し開いて、ひどく熱の籠った瞳でこちらを見下ろしていた。

「あなたに触れたくて、気が狂いそうだ……」

 厚い布団越しに額に伝わる熱が、その瞬間ぽんっと、急に沸騰したみたいに上がるのがわかり、匂い立つような色が濃くつよくなっていく。
 私は過去に三度ほど、まったく彼女に手を出さずに夜を一緒に過ごした経験があるが、あの頃の自分はいったいどんな強靭な精神力の持ち主だったのかと自画自賛したくなるほど、今私は彼女に触れて、彼女を抱きたくてたまらない。まさか乱が示唆したように、ここでするわけにもいかないから、早くこの邪魔な布団を引っぺがして、抱き上げて、車に押し込んで、早く帰って誰にも咎められない私たちだけの場所で、思う存分に味わって、愛して、この子が怖いと言った、私だけを刻み込んで覚えさせておかしくする、内からつくり変える行為を続行したい。
 でも実際には、彼女を怖がらせてしまうことを怖いと思う自分もいるから、無理やり促すような真似もできなかった。一連のそれは最初の布団を剥がすところから、すでに私の願望と妄想に過ぎない。現実ではキスすらできやしない。──いや、それはどうだろうか。それくらいなら許されるだろうか。
 柔らかな膨らみに触れているところを額から頬に変え、じっと視線を送る。彼女は困ったように目線を彷徨わせた。相変わらず布団から出ているのは両の目から上だけで、目当ての唇は隠されたまま。触れて噛んで舌先でつついて舐め上げて、食んでしまいたいという私の欲望だけが先走って、そこに送りつける視線がじっとりと熱を孕んでいく。
 ずりずりと掛布団に頬を擦りつけながら顔を寄せると、私の意図を正確に理解した彼女は濡れた瞳をわずかに見開いてから、布団の中で首をすくめたようだ。彼女にとっての殻、その端を掴んで引き上げている桜色の指先にきゅっと力が籠り、ほんの少し色を失って白くなる。そこにちゅ、と口付ければ、ますます力が込められて白さを増し、それとは逆に爪以外の部分がさあっと花開くように一斉に色付いていくのが、たまらない。

「こ、ここじゃやだ……」
「キスだけ」

 丁寧に言い換えることも忘れて簡潔に囁いた。きょときょとと左右に彷徨っていた視線はやがて諦めたのか、また睫毛を揺らめかせながら瞼が下ろされ、布団の端を握っていた指はするりと離される。それらを了承の合図ととった私の顔は、おそらくきっと世界で一番締まりのない顔と言っても差し支えないほどだったに違いない。
 戯れに、ふに、と掛布団の上から口を彼女のそれに押しつける。閉じた瞼を再び持ち上げて驚いたようにぱちぱちと瞬きをするそのしぐさが可愛くて思わず含み笑いをもらすと、不満そうにぐっと眉根が寄せられて皮膚に小さな皺ができた。ここでは嫌だと言いながら、そんなふうに拗ねてみせるものだから、自然と私の含み笑いは続き、可愛らしい皺の溝はその深さを増していく。
 先ほどまで彼女自身が掴んでいた布団の端に指をかけ、そろそろとめくる。熟れた果実のような頬、きゅっと引き結ばれた薄い唇、歯を立てて嚙み切ってしまいたくなる細い首筋、息づいてなだらかに上下している胸。こく、と己の喉が鳴る。キスだけと言ったが、服の上から少し触るくらいならいいだろうか。その程度なら、きっとこの子も拒んだりは──

「この男ぜんっぜん懲りてねええええええ!」
「あ、ちょっ、鯰兄!」

 突然、ばたーんと勢いよく部屋の扉が開かれた。
 てん、てん、とまるで一コマずつ映し出されるフィルムのような、ゆったりとした沈黙。身動き不可、声出し不可。瞬きすらする余裕はない。私は彼女に軽く覆い被さったままで、その下で呆然と私の顔を凝視していた視線が幾度目かの沈黙を刻んだあと、そろりとドアのほうへ移った。

「あ、ごめん、つい。どうぞ続けて続けて」

 頭に拳を当てて今にもてへっと舌を出しそうな鯰尾の両脇を固めた乱と信濃が、それぞれ兄の右腕と左腕を取り、ずるずると引っ張って廊下へと出ていく。「せっかくいいところだったのに」「いやでも突っ込まざるを得ないだろ、あれは」「だからって普通あそこで出る?」という会話ののち、ばたんとドアが閉まり、また静寂が訪れる。
 嵐。台風一過。そう表現するしかないものだった。突然現れ、突然去り、こちらが指一本動かすことなくあっという間に刻まれたその爪痕は大きく、ふと気がつけばごそごそと衣擦れの音がして、彼女はまた桜色の爪を白く染めながら掛布団を引き上げて頭から被っている。ごろん、と布団の中でこちらに背を向けるのがわかった。嫌な予感しか、しない。

「あの……」
「……も、むり、です。今日はここで寝ます……」

 可哀相になるくらい声に恥ずかしさが滲んでいる上に、敬語だ。こうなってはもう、思うところはひとつしかない。即ち──終わった。
 嗚呼、嗚呼、もう。やはり、あの電話からして良くなかった。やっぱり薬研に出てほしかった。薬研がここにいてくれたら、きっと今頃私たちは悠々自適に車の中だろうに。あの出来た弟は繊細な見た目に似合わない豪快さでぶっすりと私を刺すだろうが、同時に同じだけ豪快にフォローの手も入れてくれるだろうに。嗚呼、薬研。早く帰ってきて、この柔らかな天岩戸を引っぺがす方法と、あのシスコンをおとなしくさせる方法を教えてくれ。
 もはや矜持も何もない状態で、またぽすっと布団の膨らみに額をのせる。厚いそれ越しに伝わる、上がっていく体温。熱さも柔さも私だけが知り、私だけが己の思うようにこの手でつくり変えていくことができる。ほう、と息がこぼれた。苦しいけれど、苦しくはない。苦しくないけれど、とても、くるしい。
 鯰尾の言葉は何も間違ってなどなく、私はまったく懲りない男である。

 ──嗚呼、触れなくてもいいから、せめて、キスだけはしたい。


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