お昼の前には、もうすることが何もなくなる。

 起床時間は六時。一人暮らしで会社勤めをしていた頃より一時間ほど早い。あの頃は、隣人が泊まりにくるといったようなイレギュラーな場合を除けば朝食は適当に済ませることが多かったし、昼食もしかりだった。けど今はそういうわけにはいかない。ちゃんと朝食の準備をして、お弁当もつくる。どちらも自分のためではなく、彼のためのものだ。
 七時になったら、その彼を起こしにいく。意外と寝起きの悪い彼を起こすのにたっぷり十分かかることもあるので、注意が必要だ。ときどき寝ぼけておはようのキスをせがまれることがあるけれど、すべて額にすることで誤魔化している。盛大に寝ぼけながらも不満げな表情をするようになってきたから、そろそろ誤魔化しきれなくなってきたかもしれない。とは言ってもわたしのほうにも羞恥心という譲れない理由があるから、どれだけ不満そうな顔をされても無理なものは無理なのだけれど。
 ストライキしないかと持ちかけられたら喜んで頷くんじゃないだろうかというくらい、のろのろとした動きで身支度を整えた彼がダイニングテーブルにやって来たら一緒に朝ご飯を食べて、八時少し前に玄関先から会社へと送り出す。やっぱりストライキしないかと持ちかけられたら喜んで頷きそうなほど悲壮な様子をしているけれど、これはどんな社会人も同じようなものだろう。いってらっしゃいのキス、をせがまれることがやっぱり多々あって、でも寝ぼけている状態でだって羞恥心でいっぱいなのに覚醒した状態でなんてもっと無理で、けど断るとこの世の終わりみたいな顔をされるから、頬にすることで妥協していたら、最近はすっかり最初から頬を差し出されるようになってしまった。爪先で立って音もたてずに一瞬だけ触れてから窺うと、この世の終わりから一転してふわふわに蕩けた顔をしているので、非常に心臓によろしくない。

 新婚家庭というものはどこもこんな恥ずかしいことをしているのだろうかと甚だ疑問に感じながら彼を送り出して、朝食の後片付けをして、洗濯機を回して、掃除機をかけて、洗濯物を干して。買い物に出る必要がない場合は、もうそれですることが何もない。その時点でまだ午前中で、お昼ご飯はなるべくつくって食べるようにしているけれど、それも済んだらあとは夕飯の支度にかかるまで本を読むとかテレビを見るとか、そんなたわいもないことをして過ごす。その時間がとても手持ち無沙汰であるということを、わたしが言わなくても彼はわかっているようで、好きに外に出ていいし習い事でもパートでもなんでもしたいことをすればいいと言ってくれるけど、その実彼がそれらをあまり歓迎していないことはなんとなく察せるので、少なくとも今はまだ家にいたほうがいいのだろうと判断している。お金も好きに使っていいと口座の通帳とカードと印鑑を渡されているけれど、残高がわたしの知っている数字とは桁が違っていて、怖くてとてもじゃないが生活費以外で手をつける気にはならない。
 誰か、一緒にお茶でもしてくれるようなひとを見つければいいのかもしれないが、学生時代の友人たちとは完全に疎遠になってしまっているし、引っ越してきたばかりでこの近所にはまだ知り合いすらいない。長くわたしの拠り所となってくれていた鶯丸親子とはもうそう簡単に会えないし、粟田口の家は遠くはないけれど毎日実家に帰るというのはさすがに気がひける。そもそも平日の昼間ではみんな仕事か学校に行っているだろう。

 平日の昼間にぽつんと家にひとりでいると、ときどき無性にやるせなくなった。数年前に一人暮らしを始めた頃、よく感じていた虚無感に似ていた。早く夜になって彼に帰ってきてほしいと思ったし、早く休日になってほしいと思った。土日は平日とは違って、その、朝ベッドの中でぐったりしたまま起き上がれないわたしの代わりに彼が家事をしてくれたり色々と甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるので、なんというか、いけないことと知りながらもその蜜の甘さを手放せずにいる背徳感のようなものが正直すごい。彼のほうでも、始終申し訳なさそうな、罪悪感のかたまりみたいな顔なのに、どこか恍惚とした表情をしているからたぶん似たようなものなんだろう。
 週明けの月曜日の朝はわたしの虚無感も増しているが、彼の悲壮な顔もより一層ひどさを増している。どう考えたって、家で一日ぼんやりしているだけのわたしより忙しく働いている彼のほうが大変なのはわかりきっているから、帰ってきたら存分に労わろう、夕食は少し手の込んだものにしようとこっそり意気込む、この家で迎えるそんな何度目かの月曜日の昼だった。イレギュラーな事態が発生したのは。
 インターホンが、鳴ったのだ。

 インターホンの音は二種類ある。オートロックのマンションだから一階のエントランスで鳴らされる場合と、玄関の扉のすぐ横で鳴らされた場合。今のは後者だった。ということは訪問販売や宅配業者などではなく、このマンションの住人ということになる。越してきたばかりだから、青くなったのは言うまでもない。何か苦情を言われるのだろうか。生活音などには充分気をつけているつもりだけど、……夜がうるさいとかそういう話だったらどうしよう。恥ずかしさといたたまれなさで死んでしまう予感しかない。

「……はい、どちら様ですか」

 受話器を取り、声をかけた。モニターに映し出されるのはエントランスの様子だけだから、こちらのインターホンでは音声のみになる。知らず身構えたわたしの耳に飛び込んできたのは、思いもよらない甲高い声だった。

『こんちは!』
『こんにちはー』

 種類の違うその二つの声は、どちらもわたしの凝り固まった警戒心を解くには充分だった。
 ──子どもだ。男の子が二人……だろうか。

「あ、こんにちは……えっと、どちらのお子さんかな」
『オレ、愛染国俊! こっちは隣んちの蛍』
『国俊、何号室か言わないと』
『あ、そっか。五〇八号室!』

 元気な声のほうの子が答えた五〇八号室という部屋はこの階の端にある角部屋だ。そういえば、この階でよく小学生とすれ違うと彼が言っていた気がする。この子たちのことだろうか。
 ちょっと待ってねと一声かけてから受話器を置いた。誰か来ても不用意に出ないでくれと彼からはお願いをされているけれど、子どもが相手なら咎められることもないだろう。
 サンダルをつっかけて、玄関の扉を開ける。廊下には小学校中学年くらいの男の子が二人、こちらを見上げて立っていた。鼻の頭に絆創膏を付けた赤毛の子が先ほど国俊と名乗った快活そうな子で、薄い砂色の髪をした少し小柄な子が蛍と呼ばれていた子かなと当たりをつける。

「こんちは!」
「こんにちは」

 挨拶をきちんとやり直してくれるのは、とても好感が持てた。二人とも育ちの良さが窺える。

「こんにちは。何かうちにご用ですか」
「これ、落ちてたから届けにきた」

 赤毛の子がずいっと差し出したものは、午前中にベランダに干しておいたはずのポロシャツだった。湿ったままで、少し土がついて汚れている。風で飛ばされてしまったのだろうか。干すときにボタンをかけ忘れたのかもしれない。

「どうもありがとう。……よくうちのだってわかったね」
「ここ、あの頭の派手な兄さんのうちだろ? その服見覚えあったから」
「あ、そうなの……」

 頭の派手な、と言われて少し笑ってしまった。たしかに名前がわからなければ、彼を示すにはそれがいちばん手っ取り早い言葉だろう。
 わたしが笑ったことが不服だったのか、赤毛の子はほんの少し唇を尖らせて、扉の横にあるネームプレートを指差した。

「それ、なんて読むんだ? くり……じゃないよな。前に国行が教えてくれたけど、なんか難しい読み方だったし」
「ああ、ごめんなさいね。粟田口です。あわたぐち」
「あわ? あわって、ぶくぶくのあわ?」
「ううん、穀物の一種よ。稲とか麦とかの」
「……よくわかんねーや」

 国行というのが誰なのかわからないけど、名前からして家族か親戚なんだろう。五〇八号室には、どんなひとが住んでいるのだったか。両隣の部屋には入居してすぐ挨拶に行ったけれど、さすがに端の部屋まではまだ把握しきれていない。
 赤毛の子が押し黙ってしまうと、今度は砂色の髪の子が口を開いた。のんびりとした口調で、姿も声も幼いのにどこか達観したような雰囲気が印象的な子だ。

「でも下の名前はなんかおいしそうだったから覚えてるよ。いちごでしょ」
「あ、ええ、そう」
「新婚さんだって国行言ってた。らぶらぶやでって」
「言ってたな。らぶらぶやでって」

 からかわれているのかと思ったが、こちらを見上げる色味の異なる四つの瞳はどこまでも純真無垢だった。余計にいたたまれない。
 そして二人の言う国行なる人物がどのひとかというのもなんとなく読めてきた。朝、ゴミ出しに行くときに二、三度会ったことのある、あの黒髪で眼鏡の気怠げな美丈夫だろう。挨拶のイントネーションが関西のほうの訛りだったから、たぶん間違いない。
 子どもになんてことを吹き込んでくれているのか。次に会ったとき、どんな顔をしたらいいのかわからなくなる。
 子ども二人は返事に窮したわたしを気にするでもなく、互いの会話に移行している。「腹減ったな」「早くお昼買いにいこ」というその応酬に、わたしは押し黙っていた喉を再起動させた。

「お昼ご飯を……買いにいくの? おうちのひとは?」
「うちも国俊んちもみんな仕事だからいないよー」

 砂色の髪の子がのんびりと答える。ごく当たり前といったふうに。
 わたしは急いで冷蔵庫の中身を思い浮かべた。初めは買い置きしておいたお菓子でも出そうかと思っていたのだけれど──この子たちは、わたしのたわいもない話に付き合ってくれるだろうか。

「あの、洗濯物を届けてくれたお礼にお昼ご飯ごちそうするから、食べていかない?」

 色味の異なる四つの瞳、見慣れた琥珀色によく似た金褐色と、薄い翡翠色が、きらきらと輝きを増してこちらを見上げていた。



 赤毛の子が国俊くんで小学四年生、砂色の髪の子が蛍くんで小学三年生だという。
 二人は生まれたときからお隣さん同士の幼馴染。学年は違うけれどいちばんの親友で、いつも一緒に遊んでいるらしい。ちなみに先ほど二人の話に出てきていた国行というひとは蛍くんの従兄で、仕事で海外に行っている蛍くんの両親の代わりに彼の面倒を見ている保護者なんだとか。「まあ、どっちかって言えば俺が面倒見てるんだけど」とは蛍くんの談。
 今日は平日なのに学校はどうしたのかと問えば、至極真面目に「まだ夏休みだよ?」と返されてしまった。そうだった。今の自分には遠い出来事すぎて忘れていた。こういうときに歳をとったなあと思うから、感慨深いような少しだけ物悲しいような気持ちになってしまう。
 ダイニングテーブルにちょこんと腰掛けた二人にグラスに注いだ麦茶を出して、昼食の準備をする。メニューは夏の定番、冷やし中華にした。さっと茹でた麺に細切りのハムときゅうり、錦糸卵、トマト、もやしをのせて、つゆをかけるだけの簡単なものだが、二人ともおいしいおいしいと言って食べてくれた。国俊くんはもやしが苦手だったようで、わたしは残していいと言ったのだけれど、よその家で出されたものは残してはいけないのだと真剣な顔つきで完食してくれた。ごちそうさまでしたと手を合わせたあと、すすんで食器を流しへと片付けるところからも二人の育ちの良さが窺える。教育がよく行き届いているんだろう。

「旦那さんは何時に帰るんだ?」

 お昼を食べ終わり、何杯目かの麦茶をグラスに注ぐ頃、国俊くんに尋ねられた。旦那さん、という言葉に一瞬思考が止まりかかったのは、そんなふうに言われたのが初めてだったからだ。ああ一期のことか、と遅れて理解して、改めて認識して、顔から火が出そうなほど恥ずかしくなった。何を今さら、と呆れられることだろうけど。

「ん……と、早ければ六時半か、七時くらい……」
「ふーん。……なんで顔赤いの?」
「え、いや、べつに」
「国俊、新婚さんだよ、察しよう」

 何も察しなくていいし、何でも新婚で片付けるのはやめてほしいし、国俊くんも「そっかー」と納得しないでほしい。ポーカーフェイスを保っていたいのに、そんなわたしの願望は願望以外の何にもなることはなく、顔にはますます熱が集まっていく。
 そこからは何故か質問責めにあってしまった。いつどこで出会ったのかとか、馴れ初めはどんなふうだったのかとか、彼はやさしいかとか、女の人が放っておかなさそうだけどライバルはどうやって蹴散らしてきたのかとか。最後の質問は蛍くんからだが、可愛い顔のわりに発想が過激でちょっと怖い。それでも二人ともやっぱりからかっている様子は微塵もなく、純粋な好奇心からのようだった。こういう話は女の子のほうがよく好むと思っていたけれど、例外もあるらしい。
 純粋さが眩しすぎていたたまれなくて、どうにか話を逸らそうと夏休みの宿題の話を振ってはみたものの、新学期までまだあと数日あるにもかかわらず、二人とももうすべて終わったとのこと。優秀だ。そういえば、宿題が終わらなくて最終日に悲鳴を上げているような子どもをわたしは見た覚えがない気がする。粟田口の家の子たちはみんな真面目だったし、鶯丸さんの娘さんもとても計画的で──ああ、ひとりだけいた。中学生の頃の鯰尾だ。あの家に引き取られて最初の夏、わたしは中学一年、鯰尾は中学二年だった。学年の違うわたしでも手伝えるようなものがあればと申し出てみたけれど、一期と骨喰に甘やかすなと叱られてしまったのを覚えている。それでいて骨喰は夜中までかけてしっかりと双子の兄の手伝いをしていたから、いち兄には内緒にしてくれと口止め料としてわたしにこっそりお菓子をくれたのだった。
 あたたかい記憶にふ、と頬が緩んだのを国俊くんも蛍くんも見逃してはくれなくて、またエピソードをねだられる。でももう話せるようなものは何もなくて、あっても子どもには到底聞かせられない話ばかりで、返事に窮したわたしは視線を彷徨わせ、ふととあることに気がついた。

「あ……国俊くん、シャツのボタン取れかかってる」
「ん? あ、ほんとだ」

 彼が明るい色のTシャツの上に羽織っている黒のシャツの、上から二番目のボタンが今にも外れ落ちそうにぶらぶらと揺れていた。

「せっかくだから付けようか。それ、脱げる?」
「おっ、ありがとー」

 箪笥の引き出しからソーイングセットを取り出している間に国俊くんがシャツを脱ぎ、わたしに手渡し、蛍くんと口を揃えて「お願いしまーす」と言ってくれる。この子たちは礼儀正しいけれど、変に遠慮をしたりしないのがとても気持ちが良いなと思った。わたし自身の子どもの頃と比べると余計にそう思う。
 針と黒い糸、糸切鋏、指ぬきを取り出して準備をすると、子ども二人は興味深そうにわたしの手元を覗き込んだ。小学校でエプロンか何かをつくる裁縫の授業があったと思うが、もう少し上の学年だったろうか。
 指ぬきをするために、右手の中指にはめていた指輪を抜いてテーブルの上に置く。思い出深いその指輪は以前は左手の薬指にしていたものだけれど、そちらには結婚指輪をするようになったから、はめる指を変えたのだった。結婚指輪と違って家事をするたびに外したり付けたりするのを見た一期はべつに無理にする必要はないと言ってくれたけど、そう言いながらとても悲しそうな顔をするものだから、彼のそういう顔に弱いわたしに選択肢はあってないようなものだった。

「おお、指輪きれーだねぇ」

 腕を伸ばし、テーブルの上に顎をぺたりとつけて蛍くんが指輪を覗き込む。

「給料三ヶ月ぶんってやつですかー」
「えっと、いや……どうだろう」
「でも高そうだよ。愛されてますなぁ」
「らぶらぶですなぁ」

 明らかにからかわれているとわかるならまだましだけれど、残念ながら相変わらずそんな気配は微塵もない。
 非常にいたたまれなくなったわたしは、最初に二人に出そうと思っていた買い置きのお菓子を戸棚から出した。どこまでも子どもらしい子ども二人はすぐに指輪よりもそちらに興味が移ったので、ほっと息をつく。
 きゃっきゃと楽しそうにお菓子の取り合いをする彼らを微笑ましい気持ちで眺めながら繕い物を再開したわたしは、このとき迂闊にもテーブルの上に置いたはずの指輪の行方に気がつかなかったのだった。



 帰宅して家の中へと入ったときに、後頭部で何かがちりっと弾けるような違和感を感じてはいた。

「ただいま帰りました」

 返事は、すぐにはなかった。でも廊下も、奥のリビングも明かりは煌々と点けられていて、そこからガタンと物音もした。それだけでほっとして、わずかな違和のことなど頭から追いやった。
 靴を脱ぎながらネクタイを緩め、ワイシャツの首元と袖口のボタンを外す。今日も暑かった。先に風呂を使っても構わないだろうかとぼんやり考えながら腕時計を外して靴箱の上に置いたところで、ぱたぱたとスリッパの音を響かせて彼女が姿を現した。

「お、おかえりなさい」
「はい、ただいま」

 鞄を持ち上げれば、すっと差し出された両手が当たり前のようにそれを受け取ってくれて、もう何度もしているやり取りなのに未だに口元が綻ぶのを止められない。新婚家庭とは斯くもこのように、些細な出来事の繰り返しで幸せを噛みしめるものなのだと今身を以て知っている最中だ。端的に言ってしまうと、浮かれているの一言に尽きるが。
 身長差を埋めるようにして身を屈め、顔を寄せると、両手で鞄を抱えたままその痩身はぴく、と一瞬だけ反応を見せ、あとはさながら標本のように強張って動かなくなる。何も今とって食おうというわけではなく、ベッドの中ではもっと恥ずかしいことや口に出して言えないようなことまで既に色々しているのに、未だにこんな初心な反応を見せるのだから男としてはたまらない。
 ちゅ、と頬に口付けると、ふわりとシャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。おや、と思って何の気なしに尋ねてみる。

「もう風呂に入ったんですか?」

 ──ほんの一瞬だが、視線が泳いだ。

「ん……ちょっと、大掛かりな掃除したら、汗かいちゃったから……」
「……そう」

 答える姿も話し方もいつも通りだが、再び頭の後ろで何かが弾けるような違和感が私の思考を燻らせる。
 なんやかんや十二年の付き合いになるのだ。加えて彼女はその境遇から、子どもの頃は非常に隠し事の多いたちだった。病気や怪我、それからお金に関することでこの子が自分から申告したためしはほとんどないと言っていい。
 彼女の隠し事は巧みなほうだったと思うけれど、注意して見ていれば気付けないことはなく、おそらく彼女自身が寂しさから無意識にサインを出していたのもあって、私や兄弟の中でも勘の鋭い薬研などは大抵それを見破ることができた。彼女が私にも、ほかの誰にも悟らせることのなかった隠し事はただひとつ。あの四年前の春の日に失踪を図った計画、それだけだ。
 ちり、と後頭部でまた違和感が弾けて燻る。こみ上げる苦い記憶も相俟って、嫌な味の唾液をこくりと嚥下した。
 何か、私に言えないことがある。そう考えるだけで、まるで気道が狭められたみたいに息が苦しくなる。

「ごめんなさい、まだご飯できてなくて……あと少しだから先にお風呂入って」

 リビングへと移動すると彼女は眉をハの字に下げながらそう言ったが、その声は私の耳にあまり真面目に入ってはこなかった。部屋の中へ入った途端、違和感が目に見えるものへと昇華したからだ。ぐるりと見回すと、ところどころ物の配置が朝家を出る前とは違っている。掃除をしたというよりは、慌ててひっくり返したものをとりあえず適当に戻したというような印象だった。そもそも、彼女は毎日こまめに掃除をしてくれているから、汗をかくほど大掛かりな掃除をしたというのも、おかしいと言えばおかしな話だ。
 汗をかいた。風呂。すごく、ものすごく嫌な連想をしてしまった。いや、いやまさか、そんなはずはないだろう。真面目で誠実な彼女が、まさかそんな不埒な真似をするはずがない。夫のいぬ間に別の男を家に連れ込む若妻なんて、ちゃちなAVじゃあるまいし。……全然まったくなんの関係もない話だが、彼女に片想いをしていた頃に出来心で数回、妹もののAVに手を出してしまったことは墓まで持っていく秘密にしようと思っている。

「あの……いち兄?」

 おそるおそるというように私を窺う、私の妻。彼女は長らく染みついた習慣から私をいち兄と呼ぶ。一期と呼んでくれるときもあるが、それはベッドの中でほとんど正気を失っているときに私に強要されて口にするものだ。……ひょっとして嫌だったろうか。それとも行為そのものが苦痛になってしまっているのだろうか。
 考えれば考えるほど、思考は嫌な方向へ、決して認めたくはない方向へと流れていく。
 真面目で誠実で、時にひどく思い詰めてしまうほど、どうしようもなく私にやさしいひと。そのやさしい彼女が私以外の誰かに恋をしないとどうして言い切れる? もともと私ばかりが好きで好きで仕方なくて、気持ちを抑えられず追い詰めてしまうほどで、何年もかかってようやく結婚までこぎつけた関係だ。彼女が心変わりしないとどうして言い切れよう。やさしさゆえに私にそれを押し隠し、やさしさゆえにその新たな相手の言うまま抱かれ、私ではない男の腕の中で別の名前を呼ぶことが、どうしてないと言い切れようか。
 思考を繰り返すほどに、浮かぶ言葉のひとつひとつがざくざくと私を斬りつけていく。
 私が答えないのをじれったく思ったのか、彼女が居心地悪そうに両の指を擦り合わせ始めた。ふと、その手元に視線をやって、決定打に近いものを見てしまう。

 ──私が贈った指輪をしていない。

「指輪……」
「!」

 決定打に『近い』だけだったそれは、私の呟きに明らかに動揺してぱっと両手を背中へと隠してしまった彼女の行動によって、決定打そのものへと昇格してしまった。或いは降格と言ったほうが正しいだろうか。
 やさしい彼女はほかの誰でもなく私だけのために、できるだけ毎日それを身につけてくれていた。でも結婚指輪とは違って家事をするたびに外さなければいけないから、今だって、外してから再びはめるのをたまたま忘れていただけだと言えば済むことだ。……何もやましいことがないのならば。
 視線を上げ、顔を見た。半分影に覆われた俯き加減の表情は今にも泣きそうに崩れ、苦しそうだった。二度と決して、そんな顔をさせたくはなかったのに。

「……何か、私に言えないことがあるんですね」

 問いとも言えない問いを投げかければ、泣きそうな表情はますます崩れて、すぐにでも雫がこぼれ落ちてしまいそうなほど、その瞳はゆるゆると水の膜を張っていく。
 嗚呼──やはり私では駄目だったということなのだろうか。日がな一日家の中にいさせ、彼女が退屈を持て余していたことは知っている。縛りつけたいわけじゃないから、外に出て好きなことをしていいと言ってはいたものの、私があまりそれを歓迎していないことをこの子も気がついていたのだろう。彼女が外で、私の与り知らないところで誰かの目に留まったり、ほかへ目移りするのが怖かった。でも篭の鳥のように、真綿でくるむように私以外を知ることのない場所へ閉じ込め、抑圧させてしまった結果がこれならば同じことだ。
 嗚呼、どうかそんな顔をしないでほしい。自分を責めないでほしい。責められるべきは私のほうだ。
 でも、と。この期に及んでも底を知らない私の欲望は深く深くその嵩を増していく。できることなら挽回のチャンスを与えてはくれないだろうか。こちらは顔も名前も知らない、その誰かのことを今は想ったままでいいから、私の傍にいてくれないだろうか。
 手を伸ばし、青ざめた頬を手のひらで包んで親指の腹で眦を撫でる。ひく、と揺れる瞳は、あと少し言葉を吹き込めば水滴をぽろぽろと産み落とすだろう。
 私がそれをする前に、彼女が震える唇を動かして何か言おうとした、そのときだった。──インターホンが鳴ったのは。

「……」
「……」

 リビングの扉の横に備え付けられた受話器に二人して視線を送る。
 一階のエントランスではなく、玄関先で鳴らされるほうの音だった。ということは例外さえなければ、このマンションの住人ということになる。とんと心当たりはないが、何かあっただろうか。……それとも。
 顔を青くしたまま足を踏み出そうとする彼女を制し、私が受話器を取る。ちり、と何度目かわからない、けれど今度は違和感とも違う何かが後頭部で弾けた。耳に飛び込んできたのは、男の声。

『あ、おねえさん? オレ、国俊だけど』

 一瞬、新しい男が堂々と姿を現したのかと、頭がカッと熱くなった。殺意と呼んでも差し支えなさそうな、どろどろのぐちゃぐちゃに混ざり合った激情のかたまりが喉の奥を引き攣らせ、言葉ともつかない、ただの息と声の羅列となって口からわずかにこぼれ出る。

『あれ、おねえさんじゃねーな……旦那さんか?』

 けれど、よくよく聞いてみるとその声は明らかに幼く、男というより完全に少年のそれだった。少し考え、少々お待ちをとだけ声をかけて受話器を置く。リビングを出るときに気配を窺ったが、彼女がそこから動く様子はなかった。
 玄関の扉を開ければ、目線よりもだいぶ下に私が『新しい男』だと思い込んだその姿があった。燃えるような赤毛、やんちゃそうにつり上がった金褐色の瞳、鼻の頭に付けられた絆創膏。見覚えがある。ときどきこの階ですれ違う子どもで、十歳くらいだろうか。もう少し小柄な子とよく一緒にいるのを見かけるが、今はひとりのようだった。

「こんばんは!」
「……はい、こんばんは。どうしたのかな?」
「うん、これ」

 少年が手のひらを眼前に差し出した。小さな手の上に、小さなものがころんとのっている。見間違えようもない。何故なら私はそれを何年もの間ずっと仕舞い込み、自身の手であたためてきたからだ。彼女が受け入れてくれるまで。
 指輪をつまんで受け取ると、国俊と名乗った少年はほっと息をつき、鼻の頭をカリカリと掻いた。

「ごめんなぁ、遅くなっちまって。風呂入るときに気がついたんだ」
「……どこでこれを?」
「今日ここんちに洗濯物届けに来たら、奥さんが昼飯つくってくれたんだ。そんときオレのシャツのボタンが取れかかってたの直してくれたんだけど、外した指輪が間違ってシャツのポケットに入り込んじまってたみたいで」

 ──嗚呼、と思う。ぴんと伸びた一本の糸がすべての事柄を引っかけてつり上げられ、全部が一息につながっていく。あちこちひっくり返された形跡のある部屋、汗をかいたからという彼女の言、私に言えない隠し事。──外されていた指輪。そういうことだったのかと。

「そうでしたか、わざわざ届けてくれてどうもありがとう。ちょっと待っていて、お礼にお菓子をあげましょう」
「え、いいよ! 今日昼飯のあとにいっぱいおやつもらったから!」

 じゃーな兄さん、奥さんと仲良くな! と赤毛の少年は快活にそう言うと、手を振って廊下を駆けていき、端の部屋へと帰っていった。
 リビングへ戻ると、彼女は瞳に涙をいっぱいに溜めて、私の手元をじっと見つめた。ここにいても、私と少年との会話は聞こえていたのだろう。くしゃくしゃに崩れた表情は、先ほどまでとは違って安堵の色を濃くしていた。背中へと隠されていた手は、今はぎゅうっとスカートの側面を握りしめている。手を伸ばして、皺をつくるそこから一本ずつ指を外し、いつもの指に指輪をはめ直すと、彼女は左手で右手を包んでそこに震える吐息をこぼした。コップのふちまで注がれた水が表面張力をなくしてふいに溢れてしまったかのように、両の瞳に張られた水の膜がそのかたちを崩してぽろぽろと頬を伝い落ちた。
 たまらなくなって、抱きしめた。あやすように背を撫でれば、ぎゅっとしがみついてくれるのがいつになく甘えられているようでまた、たまらない。

「ごめ、ごめんなさい、なくしたのかと、お、おもって……」
「いいんです、ちゃんと見つかったんですから。それに指輪なんて、また買えばいい」

 ワイシャツにしがみつきながら彼女はふるふると首を横に振った。それではいやだと言った。曰く──この指輪でなくては意味がないのだと。
 背を撫で続けながら天井を仰ぐ。嗚呼、嗚呼、もう。数分前の己を思いきり殴りつけて土下座させてやりたい。この子が私の留守中に新しい男を連れ込んだなんて、どんなとち狂った妄想だ。たとえいつか心変わりをするときが来たとしても、そんな不誠実な真似をこの子がするはずないことは初めからわかりきっていたじゃないか。愚かにも程がある。
 くそ、と思わず悪態をこぼすと、触れた背が怯えたように震えて、慌てて弁解を試みた。

「ごめん、違います、今のはあなたに対してではなく……ちょっと自分を許せそうになくて」
「……どうして?」
「……てっきりあなたにほかに好きなひとができて、別れ話を切り出されるのかと思ったから」

 彼女は少しだけ顔を上げて、落ち着いてきたらしい瞼をぱちぱちと動かすと、また顔を伏せて私の肩に額をぐいぐいと押し当てながら、ぼそぼそと低い声で何かを言った。
 結局のところやはり浮かれきった状態のままの、私の耳と脳が自分だけに都合良く働いているのでなければ「一期しか好きにならないって、言ったのに」と聞こえた気がする。

 ──こんなの、こんなの今すぐ抱いてくださいと言ったも同然だろう。

 背と脚に腕を差し込んで軽く抱き上げると、耳元で可愛らしく慌てた声が響いた。肩を軽く叩かれるのを意に介さず、そのまま近くのソファに半分寝かせるようにして身体を下ろし、私自身は足元に敷かれたラグの上に膝をついて覗き込む。指と指を絡め合わせ、額同士がくっつきそうなほど顔を寄せて、緩めてあったネクタイをほどきながら良いですかと囁くと、私の意図を正確に理解した彼女は途端に顔を茹蛸のように真っ赤にした。
 返す返すも、何度もしているのに未だにこんな初心な反応を見せてくれるのがたまらないし、改めてこんな子が不貞を働けるはずがないと本当に数分前の自分を殴りつけたい。

「だ、だめです」
「どうして」
「まだ週初めなのに」
「関係ありません」
「いや、だって、仕事で疲れて、」
「ないですね」
「……明日の朝起きれないと、困る」
「朝食も弁当も私が用意します」
「……」
「もう良いですか」
「……ゆ、夕飯まだできてないから、せめて食べてから……」
「……」

 彼女のできる精一杯の譲歩が、そこらしい。
 少し考えて、頷いた。確かに腹は減っている。加えて私は暑い外から帰ってきて、まだシャワーも浴びていない。彼女が夕食の残りの準備をしている間に風呂へ入って、食事をして、そのあとでも時間はあるだろう。
 額にひとつキスを落としてから身体を離すと、彼女は明らかにほっと胸を撫で下ろした。若干面白くないとは感じたが、まあいいだろうと思い直す。

 きっとごちそうさまを言ったあとに、どうせまたすぐにいただきますをすることになるのだから。


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