懐かしい雰囲気の漂う住宅街で、バスを降りた。

 大きな家、こじんまりとした家、坂道、公園、その向こうに見える給水塔。アパート、マンション、街路樹、学校。道の間から垣間見えるグラウンドでは野球の試合がおこなわれているらしく、よく通る間延びした少年たちの声が聞こえてくる。この炎天下の下を、無我夢中で駆けずり回るというのは尊敬の念以外の何でもない。陽射しを浴びてただ歩くだけでも耐え難いわたしは鞄の中から日傘を出して差しかけた。それでも暑いものは、暑い。
 通りかかった家の庭先で、わたしに向かって犬がワンワンと吠えたてた。たぶん誰が通りかかってもそうなんだろう、わたしが移動するのに合わせて犬も庭を横切り、柵の向こうでまた何度も吠える。そのうち家の中から注意の声が飛んで、しょんぼりと落ち込んでしまった犬に、わたしは心の中でごめんねと詫びた。立派に番犬の役目を果たしていてえらいねと、一ミリも伝わることのない称賛の意も込めて。
 道は緩やかな上り坂に差しかかった。日傘をいっそう引き寄せて、道の脇に寄り、スマートフォンを取り出して地図アプリを確認する。この道で、合っているだろうか。迷ったら連絡をくれと言われているけれど、なんとなく憚られる。
 彼らが新しく移り住んだこの街は、わたしがかつて八年を過ごしたあの場所に似ている。

 目的地は、坂の途中に建てられた瀟洒な新築マンションだった。
 さすがにエントランスにコンシェルジュがいるような高級マンションではないようだけど、以前彼らが、そしてわたしも住んでいたあのアパートとは趣が違いすぎて若干不安になる。彼が本業の翻訳の仕事のほかに何か副業をしていて、そのどちらもで結構稼いでいるらしいことはなんとなく知っていたし、これまで広い家に引っ越さなかったのはしっかり者の娘さんからの、自分が中学に上がるまでは貯金をしておくようにとのお達しがあったかららしいので、意外というわけでもないのだけれど。
 高そうな観葉植物が飾られたエントランスにおそるおそる足を踏み入れ、教えられた部屋番号をインターホンに入力する。呼び出し音もなんだかお洒落な音楽のような音で、気後れと感動が入り混じった奇妙な心持ちでいるうちに、お洒落な音楽に勝るとも劣らない、焦がしたキャラメルを舐めているような心地にさせる相変わらずの美声がこちらに応じた。

『はい』
「……あ、こんにちは、粟田口で……」

 す、と続ける前に気がつき、慌てて旧姓を名乗る。もう何をするにも粟田口としか名乗る機会がないから、すっかり油断していた。

「すみません、間違えました……」
『いや、何も間違っていないだろう。それを間違いだと指摘したら、俺はまた一期にどやされる』

 やさしくわたしを慰めてくれているように聞こえるが、その声音には笑いが混じっているから、いたたまれない。
 どうぞ入ってくれ、と開けられるエントランスの扉を恨めしい気持ちでくぐった。
 エレベーターに乗り込み、七階で降りた先で立ち並ぶ、これまた瀟洒なデザインの扉に気後れしながらも目的の部屋を見つけて再びインターホンを鳴らす。今度は応答はなく、代わりに部屋の中からぱたぱたと軽い足音が聞こえて、間を置かずがちゃりとドアが開けられた。
 現れた姿に、息を飲んだ。

「こんにちは」
「こんにちは……久しぶり、だね」
「うん」

 少女はわずかに首を傾げて、ゆったりと微笑んだ。そのしぐさはよく見慣れたものであるはずなのに、何かが違っている。でも、うまく言えない。なんと言えばいいのか……まるで自分はずっと何年も眠りについていて、たった今目覚めたみたいな。或いは、長い間失っていた記憶を一瞬のうちに取り戻したような。そんな、世界にぽつんとひとり取り残されたかのごとく、不安定で心もとない、けれどどこか陶然としてしまう心持ち。

 ──なるほど、これは。

「遠いところをよく来てくれたな。まあ上がってくれ」

 開けられたドアの向こうでは彼女の父親が相も変わらずの美貌を惜しげもなく晒して微笑んでいた。わたしの記憶と言葉にし難い齟齬のある娘さんとは違い、彼のほうは出会ったときそのままだ。むしろ、どんどん若返っているような気さえする。もともと実年齢より十は若く見えていたから、そう思うのかもしれない。
 以前からずっと感じていたことだが、今こうして並んでいると、この親子はどこからどう見ても兄妹にしか見えなかった。

「お茶を、淹れてきます」

 丁寧に言って、まるで彼女のために誂えたかのような白の清楚なワンピースの裾をふわりと翻し、少女はまたぱたぱたと駆けていった。当たり前だが背も伸びていて、もう目線はほとんどわたしと一緒くらいのようだ。──十三歳。とりわけ女の子は、そこが劇的な境目なんだろう。自分がどうだったかはちょっと記憶にないけれど。
 父親似ではないと思っていたが、なかなかどうして、彼のミステリアスな雰囲気を受け継いだようなうつくしさが顕れてきている。もともと大人っぽい子だったけど、さらに拍車がかかって、たぶん服装や髪型次第では高校生にも見えるだろう。なるほどこれは、と思わずにはいられない。

「俺の懸念を汲んでくれるか」

 鶯丸さんが悩ましげに溜息をついた。あまりそういうイメージがなかったのだが、憂う姿も絵になるひとである。

「学校の男の子たちは放っておかないでしょうね。もしくは突然年上の恋人を連れてきそうです」
「……君は結婚してから物言いに容赦がなくなったな……」
「すみません。でも父親として心配な気持ちもわかりますけど、いきなり下着を見繕えというのはちょっと……」

 おや、というふうに眉を上げ、彼は表情を憂いから面白がるものへと変えた。五年という付き合いの中で、やっぱりそういう飄々とした態度のほうが見慣れているし板についているから、たとえ自分が煮え湯を飲まされる側であっても、なんとなくほっとしてしまう。毒されているとはわかっているけど。

「なに、一期にどやされたのは俺だけだろう。君への仕置きもあったのなら、悪いことをしたが」
「……」

 仕置きなんて、そんなものはなかった。なかったと言ったらなかった。
 ただ、いつもよりほんの少し、その、しつこ……、……念入り、だっただけだ。二回目のときを彷彿とさせるくらいには。
 何がとは、言わない。

「……せめて、誤解の生まれない文面が良かったです」
「それはすまなかった」

 ちっともすまなそうに聞こえないのに、それ以上咎めようという気にはならないから、たちが悪い。



【頼みがあるんだが、今度一緒に下着を買いにいってくれないか】

 事の発端は、一週間ほど前に鶯丸さんから届けられた、恐ろしく不可解で、難儀で、明らかに言葉足らずだとわかる、そんなメッセージだった。
 あ、このひと何か間違えてるな、というのは読んだ瞬間にわかった。決して、決して嘘でも誇張でもない。ただ、頭の片隅でそうだと思っても、わたしはその場で固まって動けなくなってしまった。誤字、誤送、誤読、そのどれであっても、文面自体の衝撃が強すぎて、もはや関係がなかった。下着を、一緒に、買いにいく。鶯丸さんと? どっちの? 彼の? わたしの? あまりにも堂々と送られてきたものだから、ひょっとして彼とわたしがそうするのは当たり前の行為なのかと一瞬錯覚したほどだ。
 スマートフォンに視線を落としたまま固まってしまったわたしを、そのときソファに寝転がってわたしの膝に頭をのせながらごろごろと新聞を読んでいた一期が怪訝そうに見上げた。どうしたんです、と問いかけられ、わたしは迂闊にもそのメッセージアプリの文面を彼に見せてしまった。今思うと後悔しかない行為だが、そのときは何が正解で何が不正解だなんてわからなかった。とにかくこの不可解な文面の不可解さを誰かと共有したかった。
 一期はわたしに膝枕をされたままスマートフォンを覗き込み、それから起き直って今度はわたしの手からそれを奪い取ってもう一度覗き込んだ。顔を上げないまま、彼は恐ろしく抑揚のない口調で問いかけた。あなたは鶯丸さんと一緒に下着を買いにいくような仲だったんですか、と。
 わたしは凝り固まった頭をなんとか動かして必死に首を横に振った。俯いて視線を落としたままの一期には見えていないかもしれないと思い、声に出して答えた。動揺しすぎていたせいで、いいえ、というなんとも他人行儀な返事になってしまったけれど、一期が気にした様子はなかった。

 彼が、その、どちらかと言えば嫉妬深いたちだということは、これまでのあれこれから知っている。だからこのときも誤解がうまく解けるか不安になったし、解けても機嫌をひどく損ねてしまうのではと心配になったけど、なんというか内容が内容すぎて彼も湧き上がった疑惑や妬心といったものをどう扱ったらいいのかわかりかねているようで、視線を彷徨わせ、口を開けたり閉じたりしていた。
 最終的に彼は考えることをやめて、まどろっこしいことはせず、トーク画面の上部にある受話器のマークに触れることで解決を図ろうとしたようだ。
 スマートフォンの持ち主はわたしで、メッセージを受け取ったのもわたしだが、口を挟む権限は当然ながら与えられなかった。
 通話が始まり、険しい表情の中に盛大に困惑の色を滲ませた一期がほとんど噛みつくようにして電話の相手を詰問していったが、やがて言葉を止め、一瞬ぽかんとすると、勢いよくわたしに電話を突き返した。ソファの背もたれに突っ伏して、耳まで真っ赤に染めながらがっくりと項垂れた彼が力なく発した言葉は。

 ──娘さんの、話だそうです……。

 電話口の向こうでは、直接耳に響かなくとも脳まで溶かしてしまいそうな相変わらずの美声が、のんびりと一期を呼んでいた。

 あ、そういうこと。
 今度一緒に下着を買いにいってくれないか、という衝撃文の、下着の前にたった一言『娘の』と挟むだけで、話は簡単に理解ができた。娘さんは今年中学に上がり、様々なもの、事柄が必要になってくる歳だが、男親だけではどうしても手が回らないだろう。わたし自身もそういったことは実母ではなく、すべて粟田口の義母にお世話になったから、よくわかった。

 ──すまない、言葉が若干抜けていたようだ。とにかくそういうことだが、どうだろうか。

 電話を代わり、あくまでのんびりと悪びれなく謝罪する鶯丸さんに改めてお願いをされて、その若干はちっとも若干じゃないと思いつつも承諾をし、じゃあ来週にと約束を取り付けて、通話を切る間際、まだ微かに赤面したままの一期に促されてまたスマートフォンを手渡した。一期は、年頃の娘のそんな事情をほいほい話さないでくれ、娘さんだって気の毒だと抗議していたけれど、おそらく相手は笑うばかりで聞き流していただろう。鶯丸さんは一期にとても好感を持っている。愛娘のそんな事情を臆面もなく話してしまうくらいには。
 いちばん気の毒なのはたぶん彼女ではなく一期だな、と思ったわたしは、電話が切れたあと、迂闊にも、本当に迂闊にも、彼を可愛いと思って少し笑ってしまった。……学習能力がない、というのは、重々承知している。

 その夜のことは、あまり思い出したくない。とても恥ずかしいことをされたし、させられたし、言われたし、言わされた。『そういうこと』に関して回数や年月を重ねていく中で、わたしだって決して受け身なだけではなくなっているにもかかわらず、それまででいちばん恥ずかしいと思うようなことだった。

 何がとは、言わない。



「まあ、出かける前に茶でも飲んでいってくれ」

 すべての元凶とも言うべきひとは、今日も悠然と微笑み、客をもてなすようなことを口にしながらも、その実彼自身が客人のようにわくわくと、己の愛娘がお茶を準備しているところを眺めている。長い足を組んでソファへと腰掛けるその姿は相も変わらず大変絵になっていて、恨めしいことこの上ない。
 柑橘系のアイスティーを用意してくれた少女は自分もソファに腰掛けると、お行儀よくそれを飲み始めた。幼い頃から片鱗はあったけれど、ここへきて如実に漂う品の良さはやっぱり父親譲りなんだろう。さっきは学校の男の子たちが放っておかないなんて言ったけど、どちらかと言えば綺麗すぎて敬遠される高嶺の花タイプかもしれない。年上の恋人を突然連れてくる率のほうが高いかも。その場合、鶯丸さんはどんな顔をするだろうか。とても興味がある。
 中学一年生。好きなひとくらいならいてもおかしくない年頃だ。わたし自身は当時まったくそういうことに縁がなかったけれど。

「学校は楽しい?」

 アイスティーを口に含みつつ尋ねると、柔らかな髪を揺らして彼女はこくこくと頷いた。小学生の頃はそんなに伸ばしていなかった髪は、今は肩の下まであり、先が胸のあたりを軽く撫でている。下世話だとわかっているが、なんとなく視線がそこに吸い寄せられる。まだ成長過程だろうけれど、これはたぶん、いわゆる「発育が良い」部類なのでは。……いま下着を新しくしても、すぐに合わなくなるような気がしてならない。
 彼女もいつか、好きなひとのために下着を新調するような日がやって来るのだろうか。まだまだ気が早いだろうか。興味だけは、とても尽きない。

「好きな男の子とか、もういるのかな」

 隣で、んぐ、とお茶を詰まらせたような声が聞こえたが、知らないふりだ。
 少女は頬を微かに染めて、躊躇いがちに目線を伏せた。しぐさのひとつひとつがなんというか本当にちぐはぐというかアンバランスというか、視覚情報に一枚だけ未来を映すレンズを挟んだみたいな、子どもなのに子どもではない、大人でないのにどこか大人というような、そんな倒錯的で危うい感じがする。加えて、ぽそりと恥ずかしげに「……ないしょ」なんて言われては、わたしが同年代の男の子だったらたまったものではない。
 もっとも、たまったものではないのは同年代の男の子だけではないようで、ちらりと横目で見れば父親である彼はなんともないふうを装ってはいたけれども、どこか憮然とした表情でソファの背もたれに頬杖をつき、そっぽを向いていた。内緒だと彼女は言ったが、好きなひとがいるとほぼ告白したも同然だろう。隠れ子煩悩であるところの鶯丸さんにとっては大打撃に違いない。
 思わず笑ってしまった学習能力皆無のわたしが、いい加減男性をからかうなんて慣れないことをするものではないと気付いたのは、いよいよ出かけようというときになって彼にとんでもない逆襲をくらってからだった。

「暑いだろうが、髪は括らずに下ろしていったほうがいいぞ」

 お茶を飲み終え、しばらく雑談をしたあとに、それじゃあそろそろと玄関まで見送りに出てきてくれた鶯丸さんが、靴を履き終えて改めて向き直ったわたしに向かって、面白がるような顔をしつつも、どうしたものかといったふうに、自分の首の後ろをとんとんと人差し指で叩いてみせた。

「お盛んなようで何よりだが、噛み跡とはまた激しいな」

 あいつは物腰のわりに色々と……と続ける彼の言葉を、いってきます夕方にはお嬢さんを送り届けます! と叫んで遮って、少女の手を引いて慌てて外に出た。
 してやったりと言わんばかりに続けられる「はっはっは」という笑い声も扉をがちゃんと閉めてシャットアウトして、はーっと溜息をつく。出かける前から一気に疲れてしまった。首の後ろに手をやる。自分じゃ見えないし、覚えがなさすぎる……けど、たぶん昨夜の、ものなんだろう。先日ほどではないけれど、昨夜もそこそこ念入り、だった。そういえば今朝支度をしているときに、髪を括るわたしを見て一期が鏡越しになんだか物言いたげにしていたのを思い出す。彼はすぐにいつもの王子様然とした微笑みで「涼しげで夏らしくていいですね」と褒めてくれたから、油断していた。もう何も信じられなくなる。
 おそるおそる隣に視線をやると、少女は困ったように、でもどういうふうに困ったらいいのかはわからないとでもいうように、なんとも言えない顔をしていた。わずかに俯いた、その耳は少しだけ赤い。多感で、様々な事柄を見聞きし、吸収していく歳だ。具体的にどういうことなのかわからなくても、なんとなく大人のそういう話だと察したのだろう。でも彼女はたぶんわたしを気遣って、何も知らないふりを、まったく何もというのは無理でも、演じようとしてくれている。……いたたまれない、という言葉の上位互換があるなら、今のわたしにもっとも必要な言葉だから知りたい。

 ──その次に優先される必要事項として、とにかく髪は下ろした。



 これほど不機嫌な様子を露わにしているのも、珍しい。
 十三年に及ぶ長い付き合いの中で、少々複雑で難儀な境遇を持つ彼女が他者の前で不満を表に出したり、それに準じるような行動を取ることは、ほぼほぼなかったと言っていい。ひとつだけ例を挙げるとするならば、結婚したての頃に私の第二のトラウマになりかけた──第一のトラウマが何なのかは言うべくもない──あの家出事件くらいのものだが、あれだって私への不満というよりは自身への困惑という意味合いが強かった。だからと言って二度同じことを経験したいかというと、二度と御免被るけれど。
 今はあのときとは違い、彼女は私に対してはっきりと不満を抱いているのだろう。わかりやすく頬を膨らませていたりするわけではないが、眉根はわずかに寄っているし、目線は合わないし、話しかければ答えは返ってくるけれど、それ以外はずっと無言だ。鶯丸さんのところから帰ってきてから、ずっと。

 原因は、知れている。
 遅くなると言うから夕食はひとりで済ませ、本を読みながら寛いでいる頃に帰宅した彼女は、朝家を出るときに高い位置で結っていた髪を下ろしていた。夜になっても気温は高く、汗でうなじに張り付いてさぞ心地が悪いだろうに、もう一度結い直すという選択はないも同然だったようだ。まあそうだろうなと、その原因をつくり、且つ看過した私は思った。位置的に自分で気がついたということはまずないだろうから、第三者、鶯丸さんか娘さんかに指摘されたんだろう。後者ならただ気の毒だというだけだが、前者だとしたらそれ以外にも少し、複雑な気分になる。気付いていながら何も言わずに送り出しておいて何を今さらと自分でも呆れるけれど。

 無言の抗議がちくちくと肌に刺さる。
 私がお茶を用意して、ソファに腰掛けて一息ついている彼女の隣に座ると、グラスを取りながらその身体はすすっと端へ寄っていった。相変わらずこちらを見ようとはせず、眉間には皺が寄って、機嫌が悪いことは明らかなのに、何も言わずにただ距離を取るところが、この子らしいというかなんというか。

「夕食は食べてきたんですか」
「……鶴丸さんのお友達がやってるお店で……」
「ああ、あの美丈夫の……」

 たしか鶴丸さんの幼馴染だという黒髪の、いかにも女性人気の高そうな男だった。会ったことはないが、写真を見た記憶があり、やさしげな甘いマスクもさることながら、ほどよく筋肉のついた立派な体躯を羨ましく思った覚えがある。
 ふうん、と呟けば、これまで散々私のちっぽけな妬心に慣らされてしまった彼女はぴくりと肩を揺らし、か細い吐息を気まずげに周りの空気に含ませた。私に不満があるというのに無視はせず律儀に返事をしてくれるところも、私のどうしようもない反応に未だ可愛らしい顔を見せてくれるところもまた、この子らしい。
 思わずふふ、と笑みをこぼし、腰を浮かせて横向きに座り直してから手を伸ばして髪に触れた。一房取って緩く巻くように持ち上げれば、昨夜私が残し、今朝見つけたその跡がわずかに姿を見せる。さすがに薄くはなったようだが、それでもまだそうとわかるものだろう。たまらなくなって唇を寄せると、とうとう黙っていることをやめた彼女が身を捩っていやいやをする。お茶と氷が音を立てるグラスを、中身がこぼれないように受け取ると、それをローテーブルの上に置いた。

「ん……ポニーテール似合っていたのに、残念です」
「っ、ばか、ばかばか、なんで、ひどい、どれだけ恥ずかしかったと……!」
「ごめん。最中は髪で隠れるからいいかとしか思っていなくて」
「……じゃあ、どうして今朝教えてくれなかったの……」

 せめて言ってくれてたら、と涙目で訴える彼女に、悪かったと言って宥め、本当によく似合っていたのでと嘯けば、まだ不機嫌な様子が尾を引いているものの、素直にそれを受け入れてまた黙り込んでしまう。彼女もずいぶんと私に甘くなったものだ。もしくは羞恥に慣らされてしまったと言ったほうが正しいだろうか。
 普段と違う髪型がよく似合っていたのはもちろん嘘ではないが、気がついていながら何も言わずに送り出した一番の理由はやはり、あの鳥の名を冠した男に私が未だ一種の劣等感を抱いているからだろう。彼が目的ではないとはいえ、休日に自分の妻が自分をほったらかして、ほかの男の家に遊びにいくなんて、やっぱりどうしたって面白くはないし、ましてや私は人一倍心が狭い。昨夜、気が昂ってしまって普段は付けないような跡を付けたのだってその一環だ。もっと言えば髪で隠れるからどうとか、そんなことはあのとき一切考えていなかった。素直な彼女は私のずるい言い訳を微塵も疑っていないのだろうけれど。
 食えないあの男にとっては私の行動も思惑もきっとすべてお見通しで、児戯にも等しいに違いない。その一方で私は、彼に見せつけてやろうというはっきりとした意図を持っていながら、実際に彼がそれを指摘したのかと考えるだけで苛立ちが募るから、もう本当に救いようがないと思う。
 脳裏に浮かんだ、腹が立つほどの美貌を持つ男の余裕綽々とした笑みを打ち消すように、嫌がって逃れようとする細い身体を抱きすくめ、後ろから見える首のその跡に舌を這わせた。冷房が効いているとはいえ、外から帰ってきたばかりの彼女の首筋には玉の汗が浮いていて、舐めると少ししょっぱい味がする。それを察したのだろう、「や」と微かに声が漏れ、いっそう私から逃れようと顔がそむけられた。

「汗かいてるから、やだ」
「じゃあ一緒に風呂に入りますか」
「……やだ」
「そうはっきり言われると傷つきます」

 思ってもいないことをただ悲しそうに言うだけで、彼女はほんの少し躊躇って気遣うような素振りを見せるから、私という悪い男がその隙を逃すはずもなく、二言三言口説くだけであっという間に一緒に風呂に入る約束を取りつけてしまう。そんなところも愛おしいと思う反面、あまりの素直さに誰に対してもこうなのかと危機感も募るから、本当にどうしようもない。私も、この子も。
 寝室で着替えの準備をしてから脱衣所へ行き、服を脱いでいると、あとからやって来た彼女が隣でおそるおそる取り出したものは見るからに真新しい下着で、何気ないふうを装って観察してみる。大胆に花と葉を模した生地の真ん中に薄い紗でできたリボンが大きくあしらわれており、色は珍しく黒だった。というより初めて見た気がする。普段よく身につけている可愛い系のものから少しだけ背伸びして色っぽさを意識したようなそれは、はっきり言って私の好みど真ん中で、これは誘われているということだろうかと、頭の中とついでに身体のとある部分が忙しなく働き始めるのを深呼吸をして落ち着かせる。落ち着け、粟田口一期。たぶん彼女に、他意はない。おそらく今日の買い物で、あの少女に付き合うついでに自身も購入したそれを早く身につけてみたいという、なんの変哲もない至極真っ当な女性らしい気持ちからだろう。きっとほかに意味なんてない。盛りのついた十代でもあるまいし、昨夜も散々したじゃないか。自重しろ。心頭滅却しろ。
 それでも、下着から視線を逸らせない私を見た彼女がぽつりと「こういうの好きそうって思ったけど……似合わない、かな」と呟けば──私の理性など砂上の楼閣も同然だった。

 一時間後、風呂場で散々泣かされてのぼせてしまった彼女をリビングのソファに寝かせて団扇で扇ぐ私に、ぽつりとこぼされた言葉は「もう、しばらく、しない」というなんとも残酷なもので、けれど先日からのことを考えるとどうしたってそう言われるのも無理はないから、黙って大人しく団扇を動かしていたら、私の悲愴な空気を感じ取ったらしい彼女がまた躊躇う素振りを見せるので、もう本当に甘いというか羞恥に慣らされてしまっているというか。
 私は私で学習能力が欠如しているけれど、この子もこの子で大概だ。

 ──どうかそれが私のせいによるもので、私に対してだけであってくれればいいのだが。


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