ぽかぽかとしてあたたかい陽だまりみたいな、そんなやさしい空気に満ちた夢を見ている。
 わたしの隣で幸せそうに微笑んでいる、目が覚めたときいつも顔を思い出せない、この男のひとは誰なのだろう。

 目覚まし時計が鳴る瞬間には、いつまで経っても慣れることがない。
 朝きちんと起きるために必要不可欠なものだとわかっていても、わたしはこの目覚まし時計という代物がとても苦手だった。理由はただひとつ、自己主張が激しすぎるからだ。そうでなければいけない、意味がないというのは充分に理解しているけれど、苦手なものは苦手。ひっそりと、息をひそめて暮らすべきわたしには似つかわしくないもの。そこまで嫌うのなら使わなければいいのではと言われそうだが、万が一にも寝坊や遅刻なんて絶対にしたくない。したくないと言うより、してはならない。絶対に、絶対に。
 少し前までは、朝が来ることが怖かった。一日が始まってしまうことが億劫だった。でも今は少し──違う気がする。
 今日もけたたましく己の仕事を全うするアラームを、自分に出来得る限りの速さで以て手を伸ばし、叩いて止めた。この家に来てから今のところ、鳴る前か鳴った瞬間にきちんと目を覚ますことができていて、ほっとする。まだ朝の早い時間に、わたしの目覚ましで同室者を起こしてしまうのは気が引けるという理由もある。今日は、どうだろうか。
 起き上がって二段ベッドの下を窺うが、掛布団から覗く飴色の髪は少しも動くことはなく、彼はよく寝入っているようだった。あと一時間もすれば彼も起き出してくるだろうけれど、まだ寝かせておくに越したことはない。できるだけ音を立てずに、身支度を整えなければ。

 息をひそめながらパジャマを脱ぎ、制服に腕を通す。少ない私服の中から毎朝選ぶ必要がなくなったので、この制服というものは便利だなと思っている。下ですうすうと寝息を立てている彼と、この家の唯一の女性と、あと何人かが、近いうちに買い物に行こう、服を揃えようと言ってくれていて、とても有難くは思うけれども、このセーラー服一着があればなんとでもなる気がした。この制服だって、わたしが自分で手に入れたものじゃない。わたしが自分で、自分自身だけで賄えるものなんて今はほぼないも同然だ。自然と溜息がこぼれた。

 早く、大人になりたいなあ。
 二段ベッドから下りて、壁に備え付けられた鏡を覗くと、映っているのはどこからどう見ても紛れのない子どもで、また息をつく。こればっかりは仕方ない。時間に身を任せるしかない。現実から目をそむけることは許されないのだから、子どものわたしは子どもとして自分のやるべきことを全うしなければならないんだ。毎朝きっちりと仕事をこなす、目覚まし時計のように。
 部屋を出る際に下のベッドを覗くと、彼は身じろぎして何やら幸せそうにむにゃむにゃと寝言を言っていて、ささくれだった心が少しだけ和んだ。

 部屋を出て、一階の洗面所へ行き、顔を洗い、簡単に髪を整えた。籐でできた箪笥の上のかごの中から飾りも何もついていない黒色の髪ゴムを取り出して、ひとつに括る。かごの中には色とりどりの飾りがついたゴムやシュシュやヘアピンなんかが入っていて、そのほとんどの持ち主である同室の彼はいつでもどれでも好きなの使って、と言ってくれるけれど、わたしが自分から手をつけたことはない。毎朝わたしより後に起き出してきた彼がわたしの髪を見て、頬を膨らませ、洗面所へと引っ張っていって、やり直し! とわたしを叱り、そうして初めてわたしはかごの中から黒の髪ゴム以外のものを取り出すことができる。もう毎朝そうだから、最初から違うの選んどけばいいのにと、わたしといちばん歳の近い男の子は言うけれど、それができたためしはないし、たぶんきっとこれからもそうだろう。
 かごの中の華やかで可愛らしい飾りに囲まれて、ぽつんと混じっているなんの変哲もないシンプルな黒のそれは、この家における異物であるわたしによく似ている。

 廊下からダイニングの扉の向こうを窺うと、もうひとの気配がした。ひとつ深呼吸をして、扉を開ける。キッチンカウンターの向こうでわたしよりも小柄な影が顔を上げ、儚げなその容姿に見合っているとは言えない低く落ち着いた声を響かせた。

「よう、早いな。おはよう」
「おはよう……薬研、くん」
「くんはいらねえよ。年下なんだ、気遣いは無用でいいさ」

 大人びた姿、大人びた声、大人びた言動。本当に小学五年生かと疑うレベルで大人びている彼はこの家の四男にあたる。わたしもあまり年相応らしくないとは言われるけれど、薬研とは比べようもないだろう。彼は本当に、一度人生を終えて、その記憶を持ったまま再び人生をやり直している最中といったような、そんなちぐはぐな感じがする。
 きゅっと水道の蛇口をひねって水を止めた薬研はシンクで野菜を洗っているところだったようで、トマトやレタスをばしゃばしゃと豪快に洗っては次々にボウルの中へ放り込んでいく。今日はお手伝いさんは夕方にしか来ない日だから、朝食と、給食がないひと用にお弁当を用意しなければならない。今日の当番がまさか薬研ひとりというはずもなく、たしか予定ではほかに厚と信濃だったと思うが、姿が見えないところを見るとまだ起き出してきていないんだろう。制服の袖をまくって、キッチンカウンターの中へと足を踏み入れる。

「手伝う」
「姉さんは今日は当番じゃあないだろう。気遣いはいらんと言ったばかりだぜ」
「うん、でも……手伝う」
「……そう言って昨夜の仕込みも手伝ったんじゃなかったか」

 はーっという軽い溜息が聞こえてきて一瞬身体が固くなるけれど、この子はほかの年長組の兄弟たちと比べるとわたしを咎めることはほとんどないとわかってきているから、そのまま冷蔵庫を開けた。昨夜の下ごしらえも手伝ったおかげで何を作ればいいのかは聞かなくてもわかる。薬研はもう何も言わず、包丁を取り出して野菜を切り始めた。兄弟中でいちばん手先が器用というだけあって、その手さばきはやっぱりとても小学五年生には見えなかった。

「もうちょい遠慮をなくせ……って言っても、今はまだ届かねえんだろうな」

 ぽそりと低く呟かれた言葉は、聞こえなかったふりをした。

 数分後に厚と信濃がやって来て、四人で朝食とお弁当をこしらえ、そうしている最中にもどんどんほかの兄弟たちが起き出してくる。これだけ男の子ばかりだと、朝の支度も食事もてんやわんやだが、この粟田口家の子たちは全員わたしが知っている男の子よりもずっとお行儀がいいから、きっとこれでもまだ静かなほうなのだろう。いちばん下の子はまだ二歳なのに、ぐずることもなく長兄に服を着せてもらってご機嫌だ。そのあと、とことことわたしのところへやって来て抱っこをせがむので、ささくれだった心がまた少し和らいだ。
 この家の大黒柱である粟田口夫妻は今は出張中で留守だから、朝食の席は兄弟たちだけだった。長兄の「いただきます」という号令に合わせ、みんなで手を合わせたあと食事が始まる。みんなお行儀はいいけれど、物静かだといえるひとはほとんどいないから食事中はずっと途切れることなく賑やかなお喋りが続く。次男の鯰尾、六男の信濃、七男の後藤、八男の乱、十男の博多あたりはとくに賑やかだ。十三男の秋田の食事の世話をする長兄の一期からときどき叱咤の声が飛ぶ。この中で唯一寡黙と言えるのは三男の骨喰くらいで、鯰尾から話を振られても静かに相槌を打つばかりかと思えば、隣に座る十一男、十二男の双子、平野と前田の口をときどき拭ったりしてやっている。兄弟が多い上に歳が離れていると色々大変なことも多いのだと、この家に来て知った次第だった。そんなわたしも隣に座る九男の五虎退が苦手なにんじんとにらめっこしているのを助けてあげたい衝動に駆られているけど、もう長兄に叱られることは体験済みだから応援だけにとどめている。頑張って咀嚼し終えた彼にお茶を差し出せば、涙目ながらもそばかすの浮いた鼻筋から頬にかけてを赤く染めて微笑んでくれるから、また心のささくれがひとつ消えていく。

 食事が終わると、わたしは同室の彼──乱に手を引かれて洗面所へと連れていかれて、もう毎朝恒例となってしまった『やり直し』をさせられる。腕組みをして頬を膨らませている乱の綺麗な飴色の髪も、クラスの女の子たちが集まって実践していたやり方を思い出して見様見真似で結ってあげると、彼の機嫌は途端に良くなった。「いち兄じゃ、こんなに綺麗にできないもん」とにこにこ笑っている乱を見て、当の一期は、また甘やかして……と言いたげに溜息をついているけれど、五虎退のときと違って何も言わないのは、わたしを気遣ってくれているんだろう。みんなそうだけれど彼はとくにずっと、この家にやって来てからのわたしを気にかけてくれている。家を出るときも、いつもそうだ。

「鍵をかけてくれますか」

 つい先日この家の鍵をもらったばかりのわたしに、一期はここのところ施錠の役目を任せてくれる。わたしがその行為に、鍵そのものに特別な意味を見出しているのを彼はわかっているようだった。何をそんなものくらいで、と呆れられているかもしれないと思うと少し怖くなるけれど、鍵をかけたあとに見上げる一期の表情はいつもやさしい。初めて会ったときからずっと、彼はわたしをやさしく慈しんでくれている。
 でも彼が本当は、この家における異物であるわたしを扱いかねていることも、知っている。

 薬研、厚、後藤、信濃、乱の小学生組と家の前で別れ、鯰尾と骨喰とわたしはそれぞれ五虎退、博多、平野、前田の手を引き、一期が秋田を抱っこして保育園へと向かう。半分近く人数が減っても賑やかなのはあまり変わらず、弟たちがいち兄、いち兄、と呼ぶたびに一期は忙しなくそれに応えている。一期は自分の両親には丁寧語を使うけれど、弟たちには誰に対しても口調を崩していた。反して、それがわたしに向けられることはなく、弟たちに混じってぽつんと佇むわたしに話しかけるとき、彼の話し方は器用にころころと変わった。たまに、何かの拍子に丁寧なそれが意図せず崩れることはあるけれど。
 わたしがそのことに、たとえほんの少しであろうと寂しさを感じてしまうことは、絶対にあってはならないことだ。わたしはただの他人で、厚意で家に置いてもらっているだけの人間だ。わたしが彼の弟たちと同じ立場を享受しようだなんて、願うことすらおこがましい。一期はわたしの兄ではない。わたしは一期の妹ではない。たとえばわたしが、今こうして五虎退と博多の手を引く側ではなく、鯰尾や骨喰に手を引かれて保育園に通うような年齢だったとしたらもう少し事情は違ったかもしれないが、そんなもしもの話をしたって微塵も意味がないことは百も承知している。

 一期はわたしにとてもやさしくしてくれるけど、わたしという存在をどこか持て余しているのも事実だろう。同じように、わたしのほうでも一期というひとをどう位置付けたらいいのかわからない。彼は鯰尾や骨喰のように同年代の男の子ではなく、薬研や乱たちのように年下の男の子でもなく、かと言って父親や親戚や粟田口の小父さまのような大人の男性とも違う。少し歳が離れているというだけの、けれど絶対的に自分とは『違う』存在。綺麗でうつくしく、強く毅然としていて、それでいてどこか境界線の危ういひと。
 そこかしこで幼い声がいち兄、いち兄と彼を呼び慕う。そんな中で、わたし自身は彼をなんと呼べばいいのか図りあぐねている。

 弟たちを保育園に送り届けたあと、一期とは別れて鯰尾と骨喰と一緒に中学校へ向かう。一学年上の二人は美少女と見紛うような美形兄弟として校内でも有名で、初めのうちは一緒に登校するたびに騒がれたが、鯰尾の人懐っこい性格と骨喰の無関心さがうまく噛み合わさり、今では何か言われることもほとんどない。二人はわたしのことを一緒に暮らしている家族だと説明したから、家ではどんなふうなのかとたまに聞かれるくらいだ。この学校に小学校時代のわたしを知るひとはおらず、クラスでは何かと浮きがちだけれど、そんなことは些細な問題だった。わたしがこの学校で、これからの三年間、気にかけるべきは二つだけ。成績を落とさないこと、問題を起こさないこと。それだけだ。
 小学三年生の終わりから小学校を卒業するまでは、学校にいる間だけがわたしの安らぎの時間だった。呼吸をすることを許されていた。あの頃は家人がみんな遅くなるような日には、わたしも図書館などで時間を潰してから帰るほかなかった。今ではそんなことはなく、学校が終わればわたしは好きなときに帰ることができて、あたたかく迎えてもらったり、逆に誰かを出迎えたりできる。家族に「ただいま」と「おかえり」を言ったり言ってもらうことができる生活は、とても些細なもののようで、その実ひどく尊い。この数ヶ月の間に身を以てそれを実感している。
 わたしは、自分自身が異物だということを決して忘れてはならない。それでも彼らを『家族』だと、そう思ってもいいのではないかと思い始めている。

 六時間の授業が終わり、退屈なホームルームを終え、帰り支度をして学校を出る。鯰尾と骨喰は部活があるので、下校まで一緒になることはほとんどない。もう好きなときに家に入れるから、このまま真っ直ぐ帰ってもいいのだけれど、校門を出てからちょっと考えて、学校から少し離れた図書館へと向かうことにした。もうすぐ定期テストがあるから、勉強をしておかないと。胸を張れるほど頭が良いわけではないが、どこに出されても恥ずかしくないくらいの成績は維持しておきたい。
 保育園へのお迎えは、昼過ぎに出張から帰ってきているはずの夫妻が行ってくれることになっているから必要ない。夕飯の買い出しも、お手伝いさんが来てくれる日だから必要ない。支度自体は手伝うとしても、五時半頃までに帰れば問題ないだろう。

 図書館は──好きだ。以前は学校と、そこくらいにしか居場所がなかった。今はそうではないし、前とは場所も違っているけど、とても落ち着くことに変わりはない。
 一時間半ほど苦手な英語とにらめっこし、ふと顔を上げると、窓の外側を大粒の雨がひっきりなしに叩いていた。視覚情報を認識して初めて、耳からの情報も頭に入ってくる。この潮騒のような水の気配はたぶんもっと前からわたしの耳朶と脳髄をノックしていたのだろうが、集中していたせいで気がつかなかった。思わず眉をしかめてしまう。傘は、持っていない。
 外に出ると、雨足は弱くなるどころか強くなるばかりで、じきに止む夕立であろうことを考慮しても、この中を傘なしで帰るのは正直二の足を踏んでしまう。制服を濡らしてしまうことも、体調を崩してしまうことも避けたい。でも、夕食の支度には間に合うように帰りたい。そうしろと言われたわけではないけれど、わたし自身はそうしなければいけないのだ。誰に言われることがなくたって。
 わたしが出入り口でまごついている間に、様々な小さなドラマが周りでは繰り広げられていた。わたしと同じで傘がないのか途方に暮れたように雨空を見上げるひと、意気揚々と傘を差して去っていくひと、意を決して雨の中に飛び込み、水たまりを踏みつけながら走り去っていくひと。図書館を出るひとたちだけでなく、この夕立から避難するために図書館の軒下を雨宿りの場所に決めたらしいひとたちもいた。傘を持たないひとだけでなく、持っているひともいる。
 いちばん近いコンビニまでは走って、そこで傘を買う。わたしにはそれが妥当な気がした。制服は多少濡らすことになるが仕方がない。体調を崩さないことだけ祈ろう。そう決意を新たにし、片足を雨足の向こう側へと踏み出した──ところで、ふいに名前を呼ばれた。

「……」

 よく知っている、高くも低くもない、穏やかな響きのうつくしい声。少し上擦った、驚いたような声は、それでもそのうつくしさをまったく損なうことなく、雨音と調和するかのようにわたしの耳朶に染み込んでいく。
 半分雨に打たれかけた片足を元に戻し、目線を上げる。今まさにここの軒下を雨宿りの場所に選んだところだったのだろう、紺色の傘を緩く畳んでこちらを見ているのは、一期だった。そのかたちの良い唇が、もう一度わたしの名を紡ぐ。
 わたしは彼を見上げ、口を半分だけ開き、また閉じた。それは、そこから紡ぐべき彼の名を、一期の呼び方を、異物たるわたしが未だ決めかねて、用意ができていなかったからだけではなく、彼の隣にもうひとつの人影を認めたからだった。ぽたぽたと雫を垂らす傘は品の良い桜色で、一目でビニール傘とは比べ物にならない代物だと知れる。

「……」
「あら……妹さん?」

 容姿だけでなく、心根までそうだとわかるような、そんな綺麗な女性だった。声を荒げたことなんて生まれてこのかた一度もなさそうな、柔和でやさしげなひと。身につけている制服は、つい最近この街にやって来たばかりのわたしでも知っているような有名なお嬢様学校のもので、偏差値も高いところだ。学費云々を抜きにしても、学力的に到底わたしは受験しようなどとは思わないところ。
 染めようなんて言おうものなら皆にこぞって止められそうなつやつやとした黒髪は、この湿気だというのにどこも縮れることなく真っ直ぐうつくしく伸ばされていて、普段どんなお手入れをしているのだろうと、現実逃避にも似た、まったく関係のないことをぼんやり考えた。

「弟さんが多いとは聞いていたけれど、妹さんもいたのね」
「ええ、まあ」

 一期は隣の彼女に曖昧に微笑んだ。おとなしい子でして、と続ける彼の表情は柔らかで、普段弟たちに向けているものともどこか違う。きっと彼の中で特別な存在なのだろう。隣に佇む、この女性が。うつくしい彼にお似合いの、このうつくしい女性が。

「偶然だね。本を借りに?」
「ううん……勉強」
「……感心だが、あまり根を詰めすぎてはいけないよ」
「うん」
「傘は、持っているのかな」
「……」

 普段わたしに対して使う丁寧語ではなく、弟たちに向けるものと同じような話し方なのは、妹だと言った手前、彼女に怪しまれないためだろう。それは、ひどくおかしな感覚だった。ちぐはぐな感じがした。これまで彼に丁寧な言葉遣いで話しかけられるたび、わたしはとてもおこがましいことと知りながらも、そのことに一抹の寂寥感を感じずにはいられなかったのに。今は、逆に、なんだかとても、いや、もうよく──わからない。ただひどく、息苦しい。
 傘を持っているかという問いに対して首を振ると、一期の彼女がじゃあこれを使って、と言って桜色の質の良い傘を差し出してきた。わたしはそれを、ひどく嫌だと感じた。このひとは、まったくの厚意から言ってくれているとわかっているのに、とてもいいひとなのに。一切の非がないひとに対し、わけもわからず、ただ嫌だと思うわたしはなんて醜くて性格が悪いんだろうか。息が苦しいだけじゃなく、泣きたくなる。
 それでも彼女の厚意を蹴ってしまえば、一期の妹はなんて感じが悪いのだろうと、彼に対しての心証まで下げることになるだろう。傘を借りるのは嫌だが、そうなってしまうのはもっと嫌だった。わたしは、わたしに関わるひとにできるだけ良く思われるよう振る舞うべきだ。少なくとも、その努力を怠らないようにすべきだ。わたしを受け入れてくれたひとたちをがっかりさせないために。
 でも、厚意に簡単に飛びついてしまうのも行儀が悪いだろうか……と嫌な計算をしてまごつくわたしの指に、横から伸びてきた手が傘を握らせる。それは桜色の傘ではなく、もっと大きな紺色のそれだった。

「いえ、それには及びません。これを使わせますから」
「そう? でもそれなら一期さんはどうするの?」
「あなたが入れてくれるんでしょう」
「そうね、一期さんが恥ずかしくないのなら」

 くすくすといたずらっぽく笑っても、彼女はどこまでも上品だった。ほんもののお姫様のようだった。王子様みたいな一期と並び立って、一幅の絵画のようにうつくしい、女性の理想を詰め込んでそのままかたちにしたような、ひと。
 息苦しい。背中がむずむずする。耳を塞ぎたくなる。逃げ出したくなる。泣きたい。きもちがわるくて嫌だ。……こんなふうに感じてしまう自分自身が、いちばん。

「気をつけて帰りなさい」

 本当は傘を突き返して、このまま土砂降りの雨の中へ飛び出してしまおうかと思った。でも目線を上げて一期の顔を見たら、彼が心底わたしを気遣ってくれていることがわかったから、臆病なわたしは反抗的な態度を取ることもできなかった。ぎゅっと傘の柄を握りしめて、ありがとうとお礼を言って、隣の彼女にも会釈をして、まだ水滴が滴ったままの傘を広げる。わたしにはとても大きく重く感じる、男のひとの傘。すっぽりとわたしの身体を覆い隠して雨から守ってくれるもの。彼自身のようだなと、またぼんやりと思う。
 雨の中に足を踏み出すと、後ろで鈴の音を転がしたような「とっても可愛らしいわ」という声が聞こえたが、一期がそれに何か返す前に、雨音に紛れて聞こえなかったふりをして、水たまりを蹴って小走りにそこを離れた。
 あの桜色の綺麗な傘に、王子様のような彼とお姫様のような彼女が二人並んで入って相合傘をするさまは、きっと目が眩むほど綺麗で絵になる光景なのだろうと、そう思った。

 帰宅すると、家の前で乱と鉢合わせた。彼はわたしが差している傘が明らかに男物なのを見て、その傘はどうしたの誰に借りたのと目を輝かせて色々聞いてきたけれど、持ち主が一期だと知ると途端につまんない、と頬を膨らませていた。他者の恋愛事に興味はあるが、長兄はその範疇に入っていないのだろう。乱はあのうつくしい女性のことを知っているのか少しだけ気になったが、結局尋ねることは憚られた。
 一期が帰宅したのは夕食の準備が整ってしばらくしてからで、玄関で傘立てに入れたビニール傘はあのあとどこかで買ったものらしかった。わたしが何か言う前に、彼は微笑んで「濡れずに帰れましたか」と尋ねてきて、頷くことで精一杯のわたしは、お礼も満足に言えない口下手の自分を呪うしかなかった。一期の口調がいつも通りの丁寧なものに戻っていることも、さっきそうでなかったときはおかしな感覚だと思ったのに、また寂しさに似た何かで心がささくれだって。

 そのささくれを、きっとわたしは表に出してはいけない。誰にも悟られてはならない、誰にも気付かれてはいけない。この心地好い居場所は、元からわたしに与えられていたものではなく、たくさんの厚意によって成り立っているものだ。わたしは自分が何者なのかを忘れてはいけない。この家における異物。それが、わたし。
 繰り返し繰り返しそう思考すると、ささくれだった心は幾分か和らいだ。代わりにまるで身体中の空気を抜かれてしまったみたいに、喉がからからに干からびて、息苦しくなっていく。


「今、少し良いですか」

 夕食のあと、明日の予習をして、乱にお風呂が空いたからと言われたので入浴の準備をして部屋を出ると、同じく自室から出てきたらしい一期に呼び止められた。何か粗相があっただろうかと、まるで虜囚のようにおずおずと彼を窺うわたしに、一期は困ったように微笑んで「そんなに固くならんでください。大したことじゃありません」とやさしく声をかけてくれる。
 乱や鯰尾、骨喰たちと違って、一期と二人きりで話したことはあまりなかった。この家に来る前に初めて会ったとき、二度目に会ったとき。そのあともたぶん二、三度くらいのものだと思う。
 ──これを。そう言った一期が何かを握った手をわたしへと差し出す。反射的に出した手のひらの上にのせられたものが微かに擦れ合うような高い音を立てた。

「家の鍵に何も付けていないでしょう。朝見るたびに気になっていたので」

 手のひらを見ると、そこにはキーホルダーがひとつのっていた。デフォルメされた白い猫と、一緒にくっついている赤いハートをかたどった飾り。高校三年生の彼が使うには些か可愛らしすぎるもの。裸のままということはきっと使用未使用にかかわらず彼が以前から所持していたものだろうから、たぶん貰い物か何かなのだろう。一瞬、脳裏にあの女性の影がよぎる。

「良かったら使って。気に入らなければ、捨ててください」

 捨てるだなんて、そんなあり得そうもないことをさらりと言い、彼は簡潔に話を済ませると、それじゃあと踵を返しかけた。わたしの口からは、あ……とか細い声とも言葉ともつかない息がこぼれるばかりで、からからに干からびた状態の喉はそれ以上の何かを錬成しようとはしない。きゅ、とわずかに握った手のひらからは、金属のホルダー部分と飾りが擦れ合って立てる音が聞こえる。彼がこれを本当にわたしに与えてくれるというなら、わたしが享受してもいいものなら、呼び止めなければ。お礼を言わなければ。待ってと、ありがとうと、ああ、ああ、それから──。

「──あの、いち兄!」

 ただ、待ってと言えばよかったのに。もしくは名前を呼ぶにしても、もっと違う選択があったのに。ぽんこつなわたしの脳と喉は、よりにもよっていちばん選んではならない、けれどこの家に来てからもっともよく耳に馴染んでいるものを紡いでしまっていた。
 一期が目を見開いて、驚いたようにこちらを見る。その琥珀色の瞳が今にも嫌悪と侮蔑に染まりそうな気がして、わたしはおそらくきっとひどい顔色をしながら、もつれる舌を必死に動かして弁明をした。

「あ……ちが、ちがうの、そんなつもりじゃ……ごめんなさい、ごめ……」

 きし、と廊下の木目が音を立てる。返しかけた踵を元に戻し、一期はわたしの前に立つと、ふいに手を上げた。びくりと身を縮こませたわたしを見て、一瞬緩慢な動きになるも、その手は過たずわたしの頭へとのせられる。彼にとっては慣れたしぐさでも、わたしにするのは初めてだからか、撫でる手つきはどこか、ぎこちない。

「謝らなくたっていいんですよ」
「……」
「好きなように呼んでくれたら、それで。もしあなたが嫌でなければ、どうぞいち兄と呼んでください」

 琥珀色の瞳には、嫌悪も侮蔑も滲んではいなかった。ただ、異物であるわたしという存在を思いやって、慮って、慈しんで、労わって。おこがましいとわかってはいるけれど、すべてを赦してくれているような、そんな色を湛えていた。
 いつの間にか、息苦しさは綺麗に消えてなくなっていた。

 夜、みんなが寝静まってしんとしている頃、二段ベッドの上段に寝そべって、下から聞こえる乱の寝息を聞きながら、わたしは枕の横に置いたものをぼうっと眺めていた。指を伸ばして触れれば、それはちゃんとそこにあって、ちゃり、とわずかに音を立てる。夢じゃないんだとわかって、自然と頬が緩むのを感じた。心地好い眠気が次第に身体を支配していって、瞼を閉じれば、やさしい笑みと、やさしい手のひらの感触と、やさしい琥珀色が脳裏をよぎる。
 わたしは一期の妹ではなく、一期はわたしの兄ではない。きっとこれから先、何年経っても、この家におけるわたしの立ち位置は変わらないだろうけど、わたしは彼の弟たちとまったく同じにはなれないだろうけれど、それでも。ただひとつ許されたものがあるだけで、わたしは息ができる。ほんの少しだけ、自分を好きになれる。妹になれなくたっていい。彼の特別な呼び方を、わたしも享受してもいいのだとわかっただけで。
 いち兄、と口の中だけで呟くと、嬉しさと安心感と少しの気恥ずかしさが身体中を巡り廻って、すとんとわたしの喉へ落ち、ゆっくりと馴染んでいく。渇きが癒されて、空っぽの器が満たされて、呼吸を奪われていく端から、また息が吹き込まれる。

 そうしてわたしはいつもの、よく知らない誰かの夢を見た。
 これまでのことは紛れもない現実であり、その現には続きがあるということをわたしはどうしてか知りながら、ただずっと、長い長い夢を見ていた気がする。



 とてもとても、大きな手のひらだ。
 その大きな手のひらがゆっくりとわたしの頭を撫で、髪を梳き、ふわふわとした心地好い感触を与えてくれる。するすると移動した指に頬と、頬の下をくすぐられると、まるで自分が猫になったみたいできもちがよくて、んん、と鼻から息が漏れた。貼りついた睫毛を剥がして閉じた瞼を持ち上げれば、開けた視界によく見慣れた春空と琥珀が映って、誰何をするよりも先に嬉しさと安心感と、ほんの少しの気恥ずかしさが身体中を巡り廻って、喉の奥へと落ちた。

「いち兄……」

 一期は琥珀色の瞳をぱちぱちと二、三度瞬かせると、慈しむような愛おしむような、からかうような戸惑うような、複数の色がいっぺんに混ざり合って溶けたみたいな、そんな器用とも不器用ともつかない笑みを浮かべてわたしを見た。

「そう呼ばれるのは、しばらくぶりですね。昔の夢でも見ていたんですか?」

 そういえばそうかもしれない。結婚してしばらく経ってからも、まだわたしは「いち兄」と呼びかけることが多くて、「一期」と呼ぶのはごくたまに口をついて出たときか、あと……ベッドの中で彼に言われたときにくらいのものだったけど、その頻度は次第に逆転していって、一年が過ぎた今ではもうほとんど「いち兄」とは呼ばなくなっていた。
 初めて彼を呼んだときの、彼にとっての特別な呼び名。
 長い長い、夢を見ていた。

 ベッドでうたた寝をしてしまっていた事実に思い至り、ごそごそと身体を起こしかけるも、わたしの体調をきちんと察しているらしい一期にやんわりと押し戻されてしまう。彼の前では昔から本当に、自分の体調を誤魔化せたためしがない。

「朝もそうでしたが、気分が優れんのでしょう。休んでいてください」
「でも、ごはんの支度……」
「時間が時間なので、今日は何か買ってきます。食べられそうなら」

 スーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めている一期は会社から帰宅したばかりなのだろう。ベッドサイドに置かれた時計を見ると、もう二十時近かった。申し訳なくなって枕にぎゅうっと顔を埋めても、一期は不満などひとつも言わずにただやさしく髪を撫でてくれる。こんなに甘やかされてしまっては、わたしはそのうち自分ひとりでは何もできなくなるのではと危惧せずにいられない。禁じられた何かを偶然手に入れてしまったみたいな、そんな甘美で仄暗い、罪悪感と背徳感。
 人間の欲とは恐ろしいもので、いけないこと、悪いことだってわかっているのに、心地好いそれを手放す気には到底なれず、わたしは頬を指の背ですり、と撫でるその大きな手を取り、両手で握って弄ぶ。彼は何も言わずにわたしの好きにさせてくれるので、また甘やかされているという自覚が募るばかりだ。
 あのね、と囁けば、彼は子どもの我儘を促すかのように、うん、とやさしく応えてくれる。

「昔の夢、見てた」
「どんな?」
「いろいろ、たくさん……昔、図書館の前で会った、一期の彼女さんも出てきたよ」
「……またそんな、耳の痛い話を」

 寝そべった顔の前で大きな手を弄りながら見上げると、ベッドに腰掛けてわたしにされるがままの一期は苦虫を噛み潰したような顔をしている。わたしが鶯丸さんの話をするときなんかもだいたい同じような表情をしているが、対象が自分自身になってもあまり変わらないものらしい。
 わたしはわたしで、あのほんもののお姫様みたいだった彼女を思い出して複雑な気持ちにならないわけではないけれど、あのとき感じていたようなぐちゃぐちゃとした感情はもう一切なく、懐かしいなとだけ思う。そんなふうに感じてただ笑みをこぼすばかりのわたしのことも、彼にとっては面白くない要因のひとつなんだろう。噛み潰す苦虫が百匹くらいいますみたいな顔をして、一期は抗議だと言わんばかりに手のひらをひっくり返すと、逆にわたしの手を取って弄び始めた。

「すっごく綺麗なひとだった」
「まあ……否定はしません」
「上品で大人っぽくて雰囲気があって……少女と女性の中間特有の危うい魅力みたいな」
「あなたも十七、八の頃はそんな感じだったでしょう。私がどれほど気を揉んでいたかも知らずに」
「……そうなの?」
「そうです」

 何を当たり前のことを、とでも言いたげに彼は告げ、わたしの手を握った指に少しだけ力を込めて、口元へと引き寄せる。不服そうに爪の先をかりかりと軽く噛むものだから、くすぐったさに身を捩れば、絡んだ視線の先で眇められた琥珀色の瞳にだめだよと叱られているようで、それだけでわたしの身体は素直におとなしくなる。やさしいのに、甘やかしてくれるのに、身動きが取れないほど雁字搦めにもされていることを、わたしはおかしいこととは思わないから、たぶんひょっとすると、お互い様なのかもしれない。
 一期は軽く息をつくと、用意してから少しだけ紡ぐのを迷ったらしい言葉を、結局やめることはせずに語った。

「……半年ほど前に、偶然会ったことがあるんですが」
「あの彼女さん?」
「ええ。私の結婚相手があなただと知られていたので、散々にからかわれました。妹だというわりにぎこちないから変だと思ったと」

 いたずらっぽく笑っても、どこまでも品が良く洗練されていたあの女性がそう言って一期をからかう様子は容易に想像がついた。きっとあの鈴の音を転がしたような綺麗な声で、身悶えするほど一期を恥ずかしがらせて、でも本当に彼を傷つけるようなことはせず、最後にはきっとあのうつくしい笑みで彼とさよならをしたのだろう。
 偶然会っていたと聞いて、ちょっとだけわたしの心は潮騒のようにざわめくけれど、やっぱりあのときのようなどろどろしたものとは違う。今思い返すと、当時のわたしはよくわからないながらも完全にあの女性に嫉妬をしていたのだと気付く。一期のことを兄として見ていたわけでも、ましてや男のひととして好きだったわけでもないのに。十三年かけてわたしが育ててきた気持ちを、十三年前のわたしはすでに持っていたなんて、ひどく滑稽で、おかしくて、泣きたくなるほど笑えて、胸がぎゅうっと締めつけられる話だ。

 あのとき感じた息苦しさも、心地悪さも、十三年の間にわたしが抱くようになったものとはたぶん少しずつ違って、でもきっとどちらも大切な、かけがえのない、偽りのない、ほんもののわたしであることは間違いない。十三年という月日は言葉にするとあっけないが、その実、気が遠くなるほどに長くて、その間に起こったすべての出来事や気持ちや葛藤や感情を言葉にするすべをわたしは持たないけれど、それらはきっと言葉にしなくても消えることなく、積み重なって降り積もって、わたしと彼と、まだ見ぬ誰かをも、かたちづくってくれる。

「……あのね」

 息を吸って、息を吐く。ベッドの上に身を起こし、ゆっくりと居住まいを正した。正座をしたわたしの手を握ったままの一期から、微かな戸惑いと不安が伝わってくる。

「実は今日、病院に行ってきたの」
「病院……?」

 伝わる戸惑いと不安が一気に膨れ上がった。彼は顔を真っ青にして、それほど悪いんですかいつからですか病名は治療は私にできることは、と一息にまくし立ててくる。なんでそう、悪い想像しかできないんだろうか。結婚している夫婦なら、もっとこう、先に思い浮かべられることがあるはずなのに。
 でも、彼のそんなところをわたしはとても愛おしいと思うから、たぶんやっぱり、お互い様ということだ。

「そうじゃなくて、産婦人科」
「……は、」
「子どもが、できました。……産んでもいい?」

 大きく見開かれて今にもぽろぽろと涙と一緒に落っこちそうな、二つの琥珀色が宝石みたいにきらきらしていて、とても綺麗だなと思った。
 次の瞬間には、ひゅうっと大きく息を吸った一期に思いきり抱きしめられていて、一拍、二拍とおいたあとに、肩口にはーっと細く長く吐息がこぼされる。図らずも騙したみたいなかたちになってしまったことを詫びるように、背中に緩く手を回せば、抗議するかの如く彼の腕に力が籠って、でもすぐにわたしが身重の状態ということを思い出したのか、肩に額を擦りつけるにとどまった。

「……なぜ、それを、最初に、言ってくれない……」
「ごめんなさい」
「心臓が止まるかと思いました……なんなら一瞬止まりました」
「うん」
「産んでもいいかなんて、あなたが聞くようなことじゃない。私が言うべきことだ」
「……」
「産んでくれますか。私たちの、子どもを」
「……うん」

 また細く長く息を吐いたあと、一期はぽつりと嬉しいです、とだけ言った。しばらくそのまま静かにわたしの肩に額を預けて、でも触れた彼の背が細かく震えていたから、たぶん少し、泣いたのだろう。
 数十秒か、数分か経った頃、彼は思い立ったように顔を上げて、母に連絡を入れなければと言った。それはまだわかるけど、そのあとも、病院に行ったと告げたときの狼狽えぶりに勝るとも劣らない勢いで、今日はもう寝ててください何か食べられますか何が食べたいですかつわりはひどいのか明日から家事をするのも辛ければ言ってくださいああ薬研にも来てもらわなくては、と湯水のようにまくし立ててとどまることがない。弟が何人も産まれるのを彼は目の当たりにしているはずだし、末弟が誕生したときは中学三年生のはずだが、自分の子どもとなるとまた違うものなんだろうか。どっちにしても、薬研を呼ぶのは完全に違うと思うのだけれど。専攻が違うとか、まだ研修医だとか、そんなことではなく。

 大丈夫だから少し落ち着いて、と諭すように言えば、一期はしゅんと項垂れてしまった。そんなにしょげられてしまうと、わたしの心にもちくちくと刺さるから、お詫びになるかわからないけれど彼の手を取って、ちゅ、と口付けてみる。上目で窺えば、彼は嬉しいのか悲しいのか歓迎しているのかしていないのか、よくわからない、また器用とも不器用ともつかない表情をしていた。一年以上に及ぶ結婚生活で、わたしにも少し一期のことがわかってきた。彼は今、わたしに誘われたんだと解釈したが、わたしの今の状態を思い出し、しばらく好きにはできない──少なくとも、あまり、激しいようなことは──という葛藤に苛まれている、といったところだろうか。どっちにしろ、あまりお詫びにはならなかったみたいだ。
 それでも、すり、と頬を寄せると、彼は辛抱できなくなったとでもいうようにもう片方の手でわたしを引き寄せて、唇を塞いだ。大抵いつもやさしいけれど、今はそれよりもずっとやさしくて、急に舌を吸われたかと思えばゆっくりと唾液を流し込まれて、激しくされるときよりも頭がおかしくなりそうだった。
 唇をわずかに離した至近距離で、一期が瞳と息に熱を込めながら、ぽつりと言う。幸せすぎて息が苦しい、と。
 それに答えるわたしの顔も、瞳も、声も、彼とまったく同じ様子をしているに違いない。

 わたしはお姫様ではなく、誰より王子様然としている一期もたぶんわたしの隣では王子様じゃないと思うから、おとぎ話の王子様とお姫様が迎えるハッピーエンドみたいに綺麗な物語を紡ぐことはできないと思うけれど、もし一期と歩み続ける人生を物語だと仮定するなら、それはまだ終わることなくこの先も続いていく、夢でも幻でもない、現だということだろう。

 この世界でわたしたちの呼吸が続く限り、ずっと。


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