いったい、どれほどの偶然が重なってこうなったというのだろうか。
 『ドキッ☆男女がお風呂場でバッタリ鉢合わせ』なんて、少女漫画の中だけの展開かと思っていた。

 こうなるに至ってしまったささやかな偶然の出来事は今思い当たるだけで幾つかある。まず、この本丸の審神者であるわたしの入浴時間がいつもと違っていたことだ。本丸の浴場は現世で言う銭湯並みに広いので、刀剣男士たちが十数人束になって入っても問題はない。ただ、彼らは全員が男性なので、その中に一応生物学上は女に分類されるわたしが混ざるわけにはいかなかった。まあ、短刀たちとはたまに一緒に入るけど、それ以外の男士たちとは、いくら家族のような関係だといっても、さすがに恥じらいや慎みが勝る。歌仙あたりからは、短刀たちとの混浴にも苦言を呈されるけれども。
 だから、わたしはこの広い浴場をいつもひとりで使っていた。加えて刀剣男士たちは主であるわたしを立てて、いつも一番風呂を使わせてくれていた。よって、わたしの入浴時間は大体決まっていたのだ。ただ、忙しいときや所用があって出かけていたときなど、イレギュラーはもちろん発生する。そういう場合はできるだけ最後のほうに入ることにしていて、今日も仕事の時間が押してしまったため、本丸の皆が入浴を終えた頃を見計らってやって来た。さすがに全員をきちんと把握してきたわけではないが、その見極めが失敗だったということは、今この状況に至ってしまったことが物語っている。

 ささやかな偶然の出来事その2が、それだ。まだ風呂を使っていなかったひとがいた。
 ささやかな偶然の出来事その3。タイミング。そのひとがやって来たのがわたしが入浴する前、もしくは後だったなら何も問題はなかったし、仮に入浴中だったとしても、脱衣所のかごに入っている衣類で誰なのかはわかっただろう。これはわたしにも言えることである。先に誰かが入っていることがわかれば、お互いに出直すことができたのだ。
 でも悲しいかな、ささやかな偶然の出来事その3はタイミングをこれでもかというほどバッチリ示し合せてきた。つまり、わたしが風呂から出てちょうど身体を拭き始めたその瞬間に、がらりと扉が開いたのだ。

 ──と、ここまでつらつらと要因を並べ立ててみたが、そのどれもが、どうしようもなかったことだというのは充分に承知している。わたしの仕事が押してしまったのも──いやこれはちょっと怪しいが──、わたし以外にもまだ入浴を終えていなかったひとがいたことも、鉢合わせたタイミングも。すべては神様の思し召しとも言うべき、偶然の産物だ。
 そうではない、それに因らない出来事があったとすれば、ただひとつ。
 というか、それさえ怠らずにいれば、ほかの1から3の出来事が天文学的な数値の確率で重なろうとも、この事故を未然に防げたのだ。

 ささやかな偶然の出来事その4。風呂の扉に『主、入浴中』の札をかけ忘れた。
 そして、そのことにわたしはたった今思い至った。状況は、最悪である。

「……」
「……」

 流れる沈黙、沈黙、沈黙。先も述べたとおり、悪い意味でタイミングがバッチリだったため、がらりと扉が開いた瞬間わたしは身体を拭き始めたところで、言うなれば素っ裸だ。せめて下着を付け終えていたかった。バスタオルで下半身をなんとか隠せていたのは不幸中の幸いだろうか。代わりに上半身はまるっと曝け出した状態だけれど。

「……」
「……」

 ひたすら沈黙、沈黙、沈黙。恋人でも父親でも兄弟でもない異性と風呂場でバッタリ出くわしてしまったのだから、なんというか「きゃー」とかそんな可愛らしい悲鳴ではなくとも、何かしら叫んでも許されると思うのだが、あまりにも突然すぎてその機会すら逸してしまった。出くわした相手のほうでもそうなのか、彼の性格からしてこういう場面に陥ったら顔を真っ赤にして平謝りし、慌てて扉を閉めて出て行きそうなものなのに、実際は真顔のまま固まって、まじまじとわたしを見つめている。

 というか、なんで、よりにもよって。

 仕事が時間通りに終わらなくて入浴時間が変わった、ほかにもまだ風呂を使ってなかったひとがいた、そのひとと最高に最悪のタイミングで鉢合わせた、そしてそれらすべてが重なってしまったとしても状況を回避できる魔法の札(ありがたくも歌仙兼定の達者な直筆である)をぽんこつなわたしは掲げ損ねた。4つのささやかな偶然の出来事は、そのどれかひとつでも起こらなければ、今こうして貧相な素っ裸を、見たくもなかったであろう彼に晒すこともなかった。現実とは、時に非情なものだ。

 もしこの世の事象を司る神様が気まぐれに憐れなひとりの人間を弄ぼうと思いついて、その結果何十億分の1の確率でわたしに白羽の矢が立ち、4つのささやかな偶然の出来事がすべて回避不可能な、決定付けられた運命だったとしても、もはや文句はない。うっかりしていたわたしが悪い。羞恥心はそれなりに持ち合わせているが、見られて減るものでもないし、ましてや嵩が増えるものでもなく。見苦しいものを見せてしまってすまないという気持ちすらある。ただし、それはこうして鉢合わせることとなった刀剣男士が『彼』でなかった場合の話だ。

 うちの本丸には現在38振りの刀剣男士が顕現している。顕現可能とされている数はもっと多いが、わたしは審神者になってまだ1年弱の新米だから、そんなものだろう。それに、ひとつ屋根の下で一緒に生活をする者たちとして考えると、38、わたし含めて39という数は多いと思う。学校で言うなら、まるっと1クラス分だ。男女の比率は38:1だけど。
 つまるところ何が言いたいのかというと、38振りも刀剣男士たちがいて、どうして神様は彼を選んでしまったのかということだ。だって38のうち4分の1が一緒にお風呂に入っている短刀たちだし、ほかにも脇差とか打刀とか大太刀とか、たとえ同じ太刀にしろ、もっと彼以外の選択もあったじゃないか。気まぐれな神様が世界中の人間の中から暇潰しの生贄にとわたしを選んだ何十億分の1という確率より、たった38分の1という確率のほうに断然悪意を感じる。

 繰り返すが、未だ真顔で素っ裸のわたしを見つめて沈黙を守ったまま固まって突っ立っているのが『彼』でなければ、わたしは「見苦しいものを見せてごめん」で済んだのだ。
 それができないのは、彼がわたしの想い人だから。わたしが彼に、恋をしてしまっているから。

 ささやかな偶然の出来事その5。
 なんでよりによって、一期一振なの。



 前置きが長くなった。

 とはいっても、こののっぴきならない状況に陥ってから今この瞬間に至るまで、時間に換算すればわずか数秒ほどだ。たったの数秒でわたしは女としての諸々を悉く失った気がするが、嘆いても元に戻るわけがないのは重々承知している。
 一期一振は何も言わない。動かない。表情も変えない。彼が今何を考えているかなど知る由もない。沈黙が痛いし辛いし怖い。でも、どういう反応をされるんだろうと予測することも怖いし、かといってすべてをなかったことにされてそのまますーっと退場されるのも、それはそれでショックだ。
 こういうのって漫画とかだとラッキースケベっていうんだっけ。果たして一期一振にとって、この状況がラッキーなのかは謎だけど。もし仮に今の立場が逆だった場合、つまりは彼の風呂上がりにわたしが出くわしてしまったとしたら、それは間違いなくわたしにとってのラッキースケベなんだけど。

 また、数秒が過ぎた。
 もはやここは戦場なのではないかという、針の筵に包まれているかのような緊迫した空気の中、わたしはごくりと唾を飲み込み、身体を拭こうと引っ掴んでいたバスタオルをそろそろと持ち上げて、さりげなく胸を隠した。そんなことをしても、片想いしている男性に己のささやかな胸部を無修正で目撃されたという事実は変わらないのだが、わたしの中にも幾ばくかのオトメゴコロは存在する。些細な衝撃で爆発四散しかねないほどの頼りないオトメゴコロだけれど。

 とにかく一期一振にも何か反応してほしい。そう思った矢先のことだった。

「……私は、」
「!」

 彼はその場に突っ立ったまま動かない。表情も真顔のまま変わっていない。かたちの良い唇だけがわずかに上下に開かれて、そして──ただでさえ頼りなく、今この状況でさらに不安定になっていたわたしのオトメゴコロを、容赦なく木っ端微塵に吹っ飛ばしてくれた。

「私は……もう少しふくよかなほうが好みですな」
「……」

 わたしの脳内に、その声音のギャップで数多の乙女審神者の心を攫っていったという、とある刀剣男士の決め台詞がよぎっていった。「予想外だったか? ガラ空きだぜ!」
 ええ、ええ、予想外でしたよ! どうせスカスカのガラ空きですよ! あと早くうちの本丸にも来てくださいね鶴丸国永さん!

 演練と万屋と定例会議くらいでしか見たことのない真白いかみさまに思いを馳せつつ、わたしはまじまじと一期一振を見つめた。彼は終始顔色も表情も変えることなく、この状況でそれがふさわしいのか一瞬わからなくなるほど優雅に一礼すると「失礼致しました」と言って扉を閉め、風呂場から出ていった。着ているものがジャージだろうと貴公子然として見えたのは、何もわたしの色眼鏡だけじゃないだろう。やっぱり、かっこいい。散り散りになったオトメゴコロがちょっときゅんとした。すぐにそれらが何故爆発四散したのかを思い出してしまったけれど。

 そろそろと視線を下げ、上半身を覆い隠していたバスタオルの隙間からそこを見る。断崖絶壁だった。えげつないほどの角度だった。知ってはいたが、こうして改めて見ると本当に、無い。無いものは無い。「もう少しふくよかなほうが」なんて、一期一振は随分と柔らかな表現を使ってくれたものだ。気遣いが身に染みて、端的に言って、泣きたい。

 意中の男性に素っ裸を見られたばかりでなく、そのひとから「あなたのことは女として見ていません」という死刑宣告まで喰らってしまった。いや釣り合わないってことは重々承知だったけど、胸とか関係なしに! 関係なしに! でもわたしだって女子の端くれなのだ、少しばかり夢を見ることだってあった。何もそんな大それた夢じゃない、恋人になりたいだなんておこがましいことは思っていなかった。ただほんのちょっと、意識してもらえるようなイベントやなんかが起きたらいいなって、よく考えたら今回のこれはまさにうってつけのハプニングだったのに、持って生まれた貧しさのせいでこんな惨事になろうとは。
 きっと風呂場で遭遇したのがGの付くアイツだったりするほうが、よほど一期一振の動揺を上手に誘えたのだろう。来世は元気に黒光りするGとなって、人々から忌み嫌われよう……。

 生まれ変わった先のライフスタイル計画に思いを巡らせつつ、半分泣きながらバスタオルで身体を拭き終えたときだった。風呂場の外から何かを思いきり引き倒したようなすごい物音と、どこかで聞き覚えのある裂帛の気合とも言うべき「ずぇりゃっ!!」という野太い掛け声が聞こえてきたのは。

「えっ、何事……」

 すわ敵襲か──まずわたしの脳裏によぎったのはそれだ。時間遡行軍が審神者と刀剣男士たちの拠点である本丸へと攻め込んでくるというのは、滅多に聞かないがまったくない話というわけでもない。過去に起きたときには結界の運用が見直され、対処として資料が配られ、一斉研修がおこなわれた。定例会議の際に襲撃があったなんて話もある。
 ひとつ深呼吸をし、バスタオルを身体に巻きつけ、服を手に取った。着るのは誰かと合流してからでいい。とりあえず身の安全を図ることが最優先だ。

 風呂場の外から聞こえた、あの低い掛け声はたぶん薬研藤四郎だろう。一期一振も、ここから出ていったあとそんなに時間は経っていないから、まだその辺りにいるかもしれない。敵が来たとわかったなら、真っ先にわたしのもとへと駆けつけてくれるはずだ。そう、思いたい。
 戸を開けたらすぐ目の前に遡行軍がいましたなんてホラーな展開になりませんように、と祈りながらおそるおそる風呂場の扉を開ける。そっと首を巡らせて辺りを見回すと、目当ての短刀の姿はすぐに見つかった──が、その光景は予想だにしないものだった。

「……な、何事……?」

 薬研は床に仰向けに寝転がっていた。ただ寝転がっているのではなく、その華奢な身体の下に一回り大きな体格の誰かを押さえ込んでいて、相手の右腕を取り、両脚で挟み込んで反らし、極めている。これはそう、格闘技全般で言うところの、腕挫ぎ十字固めというやつだろうか。薬研の身体の向きに対して相手の身体の向きがちょうど直角で、確かに十という字に見える。
 押さえ込まれている相手は屈強な敵かと思いきや、床にうつくしく散らばる浅葱色の髪はどう見ても薬研が兄と呼ぶ存在だった。抵抗する様子もなく、ぐったりとしている。いや、本当に、どういう状況なの、これ。

 傍にはもうひとり、短刀が立っていた。彼らの兄弟のうちの一振り、可憐な容姿とスカート姿が印象的な乱藤四郎だ。余談も余談だが、初めて彼と一緒にお風呂に入ったときは衝撃だった。それはもう色々と。
 兄弟が長兄を関節技で見事に極めている真っ最中だというのに、乱は止めるでもなく、逆に嬉々としてカウントをとるでもなく、ただのんびりと二人を見下ろしている。頭の整理が追いつかないまま、ふらふらとわたしが近寄ると、こちらに気がついた彼は眼下の状況よりよほど驚いたような表情を見せるので、ますますわけがわからなくなった。

「わ、どうしたのあるじさん、そんな恰好で。よくないよ、女の子なんだから」
「いや、うん、ごめん……敵襲かと思って……」
「ああ、そうか。大丈夫、何も心配する必要ないから。たとえ敵が来てもボクがちゃあんと、あるじさんを守るからね」

 可愛いしかっこいいし頼もしくて何よりなんだが、今は心配事しかないです、乱さん。

 このまま乱と話していても埒が明かない予感しかしなかったので、薬研の足の傍に膝をつき、彼を覗き込んだ。薬研は一期一振の腕を極めたまま、少し上半身を起こして応えてくれる。

「おう大将、騒がしくして悪いな。風呂の時間だったか」
「ちょうど出たとこだったからそれはいいんだけど、あの、いったいどうしたの? なんでこんな状況になってるの?」
「それが俺にもよくわからん」
「はい?」
「風呂場の前を通りかかったらいち兄と出くわしたんだが、突然『重大な過ちを犯したので腹を切るから本体を貸してくれ』ってまくし立てられてな。『よしきた目ェ覚ませ』ってんで、こうした」

 予想以上に頭が痛くなる返答だった。
 そのあとに続けられる「よりにもよって、この俺に腹を切らせようなんざ笑っちまうじゃねぇか、なあ?」というブラックジョークなのかなんなのか判別のつかない豪快な笑い声にも、どう反応を返したらいいのかわからない。乱以上に埒が明かない予感だ。かといって、本人を問い質してもいいものなんだろうか、これは。

 重大な過ちというのは何か。先ほどの風呂場でのわたしとの遭遇とみて間違いないとは思うが、何が彼を、弟の短刀で切腹を図ろうとするほど追い立てたのか。曲がりなりにも主であるわたしのささやかな胸部をうっかり本音でディスってしまったことに対する後悔と自責の念だろうか。それともあれか、風呂場でバッタリラッキースケベという一種の男の夢の、その相手がボインの美女ではなくこんなちんちくりんだったこと自体が彼の矜持に触れたのだろうか。どっちにしろ、泣く。盛大に惨めすぎて泣く。本当に、もう本当に、なんでよりによって一期一振だったんだ……。わたしが何をしたというんですか?

 知っている。わかっている。わたしがこうして嘆いているように、一期一振のほうだってわたしに遭遇したくてしたわけじゃないし、見たものをうっかり本音で批評してしまったことだって言うなれば不幸な事故だ。彼は普段は本当に礼儀正しくてやさしいのだ。あれは事故、あれは事故。忘れよう。明日からまた、身の丈に合った夢だけを見て、ばらばらになったオトメゴコロを繋ぎ合わせて生きていくんだ。

 薬研から視線を下げ、一期一振を見た。彼は未だ弟に腕の関節を極められたまま、まんじりとも動かないし、何も話さない。顔を横向きに俯けており、重力に沿って流れる春空の髪に覆われて表情も判然としていなかった。大丈夫だろうか。これ、気絶とかしてない?

「あの、一期さん? 大丈夫ですか……?」
「……」
「あんまり大丈夫じゃなさそうな……薬研、とりあえず離してあげてくれない?」
「それもそうだな」
「一期さん、起き上がれます? どこか痛みますか?」
「……ありがとうございます」
「はい?」

 ひとまず意識はあったようで、どこかぼんやりした返事が一期一振から返ってきたが、前後の文脈となんとなく繋がっていない。どこか痛むかと聞いて、何故イエスでもノーでもなく、お礼を言われているんだろうか。最初に大丈夫かと聞いたことか、それとも腕を離してあげてと薬研にお願いをしたことに対してか。よくわからないが、口は動いていても視線はまったく動くことなく、彼は顔を横向きに俯けたままだ。わたしに言葉を投げかけたのなら、こちらを見上げてくれてもいいものを、いったい何をそんなに熱心に、

「あるじさん。離れて座るか、服着たほうがいいよ」
「え?」
「いち兄の顔の位置から、たぶん全部見えてる」

 横から声をかける乱が、そこ、とバスタオルに包まれただけのわたしの身体を指差した。彼が差した方向と、寝転がった一期一振の視線の先が交わるであろう場所におそるおそる視線をやると、そこは床に両膝をついたわたしの脚の間で、うあ、うああ、

「わああああああああああ」

 色気もへったくれもないが、今度こそ口から悲鳴がこぼれ出た。
 恥も外聞も忘れ、四つん這いで高速で移動し、一期一振の足のほうへと逃れてその場にぺたりと座り込む。バスタオルの上から身体を掻き抱いて、ぜえぜえと息を切らしながら視線を向けると、ようやく弟の拘束から解放された粟田口の長兄は身を起こしてこちらを見ていた。胸を見られたときと違い、その顔は真っ赤に染まっていて、かたちの良い唇は固く引き結ばれ、眉は困ったように下げられ、琥珀色の瞳は例えようのない熱と潤みを帯びていた。

 だからなんで、せっかく、せっかくさっきのことは不幸な事故として忘れようと思ったのに、こんなのあんまりすぎる、何が悲しくて好きなひとに上半身素っ裸の状態を目撃されてやんわり「勃たない」と言われた挙句、こんなこんな──だから神様わたしが何をしたっていうんですか!?

 端的に言う。死にたい。

「た、た、たいへん……お見苦しいものを……」

 それでもまだギリギリ自我を保っているわたしを誰か褒めてほしい。気持ち的には木っ端微塵になったオトメゴコロに合わせて身体もばらばらになってしまいたいところだ。
 一期一振は真っ赤に染まった顔にゆっくりと両手を埋めた。手のひらの向こうで何か小声でぶつぶつと言っている。だが「やっぱり見苦しかったですよね」とわたしが涙目で訴えるのもそこそこに、食い気味に「いいえ」と強く否定を被せてくるので、一瞬ぽかんとしてしまった。

「見苦しいなんてことあろうはずもございません。むしろ僥倖です」
「は……?」
「僥倖です」
「ぎょうこう」
「もしこの栄誉に浴した者が私ではなかったらと思うと、妬ましさで身が焼き焦がれそうだ」
「えいよによくす」

 言葉の意味はわかるけど彼が何を言っているのかはわからないという、なんとも不可解な状況になってしまい、大人の言葉をオウム返しする幼児みたいになってしまっている。しばらくあっけにとられていたけれど、すぐに風呂場での出来事を思い出し、わたしはやっぱり涙目になって彼を睨めつけた。

「だ、だって、わたしの胸見ても平然としてたし勃たないって」
「誰がいつそんなことを言いましたか曲解せんでくださいお願いですからうら若き乙女がそんな言葉を使われますな!」
「うら若き乙女の裸を前にして胸をディスるのはいいの!?」
「あれは方便ですこれ以上ないというほど動揺していたんです仕方がないでしょうどうして札もかかっていないのに扉を開けたら好いた女性が据え膳よろしく全裸で待ち受けていると思いますかその場で襲いかからなかっただけでも良しとしてください!」

 顔を覆っていた両手をぱっと離して、肌を上気させたまま一息にそうまくし立てる一期一振と、目が合った。

「……」
「……」

 覚えのある沈黙。微妙な空気。ばらばらになったまま繕われるのを今か今かと待っているオトメゴコロの欠片たち。
 ──それらが今、天井まで飛び上がって仰け反って強制的に黙らされてばらばらとこぼれ落ちるような、ものすごいことを、言われた気がする。

「……ですが、嘘とはいえ主の尊厳を傷つけてしまったことは、深くお詫び致します……」
「え、あ、はい……」
「ちなみに私はあなたの乳房が大きかろうと小さかろうと関係なく、どちらも等しく愛でます」
「……」

 その情報いるやつだったかな、と混乱の極みにいる中でも一筋の冷静さがわたしを揺さぶる間、一期一振はまたゆっくりと両手を顔に埋め「それから」と言葉を続けた。今度は指の隙間が少し開いていて、琥珀色の視線がじっとこちらへ注がれている。
 その視線を己の両の眼で受け止めた瞬間、ぞわ、と背筋が粟立った。ひ、と悲鳴がこぼれる寸前のように喉が引き攣り、口内に唾液が溜まり、それをこくんと飲み込んで、座り込んだまま後退った。……つもりだったが、たぶん床につけた手もお尻もただの1ミリも動かせてはいなかっただろう。

 すう、と指の間の琥珀の瞳が狭められて、その熱をわたしへと寄越す。

「先ほどから、さも当たり前のようにタオル一枚巻いただけの姿で過ごされていますが、私は弟たちではありません。私の頭の中でご自分がどれほどあられもない恰好をさせられているか、これ以上妄想を進められたくなければ、今すぐ衣服を身につけることです」
 ──今度こそ、私が狼藉を働かぬうちに。

 そう言った一期一振の顔は、指の隙間からでもわかるほど、ギリギリまで追い詰められた捕食者のような、普段の余裕や穏やかさなど欠片もない、蠱惑的な『男』のそれだった。
 視線だけで絡めとられて、鷲掴みにされてバリバリと頭から喰われてしまうような心地がした。

 ここ数分の出来事が頭の中で整理できない。理解が追いつかない。彼は何を言ったのか。妄想されたくなければ服を着ろ。胸の大小は関係ない。お詫び。好いた女性。風呂場でのことは方便。僥倖と栄誉。……頭が、くらくらする。
 今はもう、38分の1という確率で神様が彼を選んだことに感謝すべきなんだろうか。あのときは悪意しか感じなかったし、よくよく考えてみて今も悪意しか感じないような気もするが、こんな展開が待っていようとは思ってもみなかった。この状況から鑑みるに、あの風呂場での遭遇は間違いなく一期一振にとってのラッキースケベだったに違いなくて、でもたぶんそれだけでは、こうまで色々と判明はしなかっただろう。風呂場の外をたまたま薬研と乱が通りかかったからこういうことになって、そういえば弟の本体で腹を切ろうとした本当の理由もここにきて判明したわけだが、あれ、えっと、そういえばその二人、は。

 今、一期一振の頭の中でわたしはどんなとんでもない姿になっているのか、知りたいような知ってしまうのが怖いような、そんなじっとりと注がれる視線から逃れるようにして、こちらの目線をそろそろと彼の背後へとやる。薬研も乱も、きちんとその場に立っていて、たぶん一期一振は弟たちも同席しているということをまるっと綺麗さっぱり忘れている。
 薬研と目が合った。彼はすべてわかっているとでも言いたげに真面目な顔でわたしに向かって頷くと、両手を持ち上げて指をわきわきと動かし、まるですべてわかっていない発言をさくっと投下してくれた。

「まどろっこしいな。いっそのこと妄想と言わず、今この場で乳でも揉んどけば話が早くて済むんじゃねえか」

 ──ようやく弟たちの存在に思い至った一期一振が目を剥くのと、繕いかけのわたしのオトメゴコロがその努力も空しく再び粉々に砕け散るのと、乱が薬研の後頭部を思いきり引っ叩くスパーンという小気味いい音が辺りに響き渡るのとは、同時だった。

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