わたしは、審神者である。名前は、まだない。

 ──冗談だ。この世に生まれ落ちて早幾年、親からもらった名前がちゃんとある。ただ、その名をこの場で名乗ることは決してない。この場所では、己の名は必要不可欠なものではない。現世から隔離された場所、歴史の改変を目論む正体不明の時間遡行軍とやらを殲滅するため、時の政府によって見出された者が送り込まれる場所。モノに宿った魂を呼び起こし、ヒトのかたちへと顕現させ、戦いへと導く者──審神者。
 わたしは、審神者である。名前は、呼ばれることはないがきちんと付けられている。有名な文学作品に則ってみたかっただけだ。ちなみに猫は、とても好きだ。
 審神者といっても新米で、自分の本丸を持ってまだ数ヶ月のぺーぺーである。現在顕現させた刀は十九振り。初期刀は山姥切国広、初鍛刀は秋田藤四郎。戦績は、同期連中の中では良いほうだろうか。出陣、演練、遠征、内番、鍛刀、刀装作り。日々の務めをこなすのに精一杯で、古参の審神者界隈で話題持ちきりの『極』なるものにはまだまだ手が届かないが、よそはよそ、うちはうち精神で、まあなんとかやっている。刀剣男士たちとの関係も、多少難儀する性格の子もいるが、概ね良好だ。
 ただ一振りを除いては。

 その一振りというのは我が本丸に三番目にやって来た刀剣男士である。初期刀、初鍛刀に引き続き、三番目。古株と言っていい。まだ発足して数ヶ月の本丸で古株もくそもないかもしれないが、これからもっと数が増え、規模が大きくなっていけば確実に古株と呼べる存在だろう。それなのに、わたしはその古株さんと良好な関係を築けないでいる。もっと言うと、おそらく嫌われている。最近やって来た大倶利伽羅くんだって、態度はめちゃくちゃそっけないが嫌われているわけではなさそうだとわかってきたのに、古株さんに対して同じことが言えるかというと、まったく自信がない。由々しき事態だ。今はまだそのままで良くても、これから先も同じなら本丸全体の士気にも関わるかもしれない。と、いうのは建前で、ぶっちゃけ悲しいのだ。何かやむにやまれぬ事情や、わたし自身に重大な欠点があるならば致し方ないとは思うが、もしそうでないのなら、わたしは彼と仲良く──なれなくてもいいから、せめて人並みの付き合いをしたい。

 彼の名前は、一期一振という。わたしは一期一振に嫌われている。

 一期一振は、当本丸が現在進行形でぺーぺーである今よりもさらにぺーぺーの頃に二度目の鍛刀でやって来た。そのときは、それはもうはしゃぎまくった。二度目にしてレアリティが最高に次ぐ桜四枚の太刀、それも秋田のお兄ちゃんである。秋田とは手を取り合って喜んだものだ。ビギナーズラックだということは充分に理解していたし、演練に連れていけば羨望の的であると同時に嫉妬の対象でもあり、やっかみや中傷を受けることも一度や二度ではなかったが、まぐれだろうとなんだろうと顕現させたことは間違いない。うるせーと言って、あっかんべーをした。初期刀に頭をはたかれた。解せない。

 一期一振はやさしく穏やかで、物腰も柔らかく、礼儀正しく、笑うと思いのほか快活で、弟思いで、意外と負けず嫌い。巷でのそんな噂通り、うちに来てくれた彼も例に漏れずそんな感じだった。初めはわたしも嫌われているなんて微塵も思わなかった。話しかければにこにこ答えてくれたし、まだ弟たちがほとんど揃っていなかったからか、わたしの世話もよく焼いてくれた。庭で転んだりすれば、すぐさま助け起こし、労わって、手当てをしてくれた。そういえば、わたしは彼が顕現した当初、何もないところで転ぶことがやたらとあった。確かにうっかりすることは稀によくあるが、決してドジっ子属性ではなかったはずなのに。亡くなった祖母が生前持たせてくれたお守りの首飾りを握りしめ、念をこめて祈ってみたりもしたが、転ぶ回数は減るどころか増えた。おばあちゃん、このお守り効果ないんじゃないの。

 一期一振は初めこそ甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたものの、わたしの生傷が増えるにつれ、次第にその頻度は減っていき、また態度も段々と冷たくよそよそしくなっていった。嫌われたかもと考えるようになったのはこの辺りからだ。ドジっ子は彼のお気に召すところじゃなかっただろうか。先天的ではなく後天的なものということで大目にみてもらえないかなと思ったけど、大目にみてはもらえなかった。悲しみ。
 そして、あるとき一等派手に転んで頭を打ち、ひと気のない場所だったために血を流して気絶したまま数十分放置という大怪我を負ってからは、とうとうまともに口すらきいてもらえなくなった。出陣などの任務に関してはさすがに返事も貰えるけれど、弟たちやほかの男士とにこやかに談笑しているところにわたしが通りかかると、そそくさとその場を去ったり、あるいはむすっとした表情でそっぽを向いてしまう。大概のことではへこたれないわたしでも、さすがに堪えるというものだ。ほかの男士たちが一期一振のそんな態度に、物言いたげにはしているが結局みんな黙ったままというのも手伝って。
 彼がわたしにくれる言葉が「はい」か「いいえ」か「そちらは弟に」の三種類ほどに絞られた頃、何もないところで転ぶ現象はぴたりと止んだ。お守りの効果だとしたら、ちょっと効き目が遅すぎやしないだろうか。解せない。



 希少と言われる刀剣男士だけあって、最初は演練に行ってもよその部隊ではさっぱり見かけなかった一期一振だが、最近は少しずつその春空のような出で立ちを見る機会も増えてきた。よその一期一振は、それはもう絵に描いたような王子様っぷりで、女審神者さんがよろけでもしたら即座にその身を支え、にこやかに紳士然と振る舞っている。うちとは雲泥の差だ。いや、うちの一期一振にもあんな時代があったような気がしなくもないが。今もさして月日は経っていないはずなのに、時とは無常だ。
 ちらりと意味ありげな視線を送っても、彼はいつも通り、むすっとした表情でそっぽを向くばかり。一体何をどこで間違ったというのだろう……。

「お、今日当たる部隊にはいち兄がいるんですねー」

 額にひさしのように手を当てて、向かいに並んでいる部隊を見ながらそう言ったのは鯰尾藤四郎だ。彼は我が本丸の初めての脇差で、いつも「なんとかなりますって!」とわたしの背中を叩いて励ましてくれる、強くていい子である。力加減にはもう少し気を遣ってほしいところだけど。

「ああ、ほんとだね。ぽつぽつ見かけるようになってきたもんね。……ってギエエエちょっと待って鯰尾くんやばい」
「どうしました? 蛙が潰れたみたいな奇声あげて」
「一言多いです、それよりも見て、あっちの一期一振の隣にいる、どう見ても子どもなのにデカイ刀軽々担いでる太ももが眩しいかわいこちゃんは……!」
「主もいちいち一言多いですよ、太もものくだりいりました? それはそれとして、聞いたことあります、あれですね『演練の悪魔』」

 ──蛍丸だ。初めて見た。
 今日のお相手はだいたい自分と同レベルの審神者、ひょっとするとこちらが少し先輩なくらいかもしれない。それで一期一振と蛍丸を連れているとは恐れ入る。以前しこたま自分にぶつけられていた羨望と嫉妬の視線を思い出すが、あちらはきっとその比ではないだろう。そういえば、うちにはまだ大太刀自体がいない。
 演練場を包む結界の入口が開き、入場を促される。練度的にはうちの部隊がわずかに勝っているようだが、どうだろうか。

 結果は、惜敗だった。さすが『演練の悪魔』の異名は伊達じゃない。ていうか怖い。一撃がもう怖い。一発重傷がトラウマになりそうだ。怖い。あんなに可愛いのに……。太ももが……素敵なのに……。
 演練だから結界のゲートをくぐれば即座に受けた傷や刀装は元通りになるが、わたしが受けた衝撃はなかなか治まりそうになかった。しばらく短刀たちの太ももを矯めつ眇めつするのも取りやめになりそうだ。

「主」

 初期刀の山姥切に促され、視線を向けると、あちらの審神者さんがこっちへ向かってくるところだった。わたしよりも若い女性──少女と言っても差し支えなさそうな年頃で、やっぱり少し後輩だろう。薄く笑みを浮かべてはいるが、馬鹿にしているとかそういう雰囲気は感じられなかった。

「お疲れ様でした。ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました。いやあ、すごいですね蛍丸」
「ありがとうございます。とても重宝しますよ」

 厭味っぽい言い方になってしまっただろうかと心の中で舌を出すが、彼女も変に謙遜したりする気はないようだった。普段受けている誹謗中傷はこんなものではないだろうに、苛ついた様子もなく、にこやかだ。素直に見習いたいものである。
 今の戦闘のお互いの反省点とか、使っている鍛刀レシピとか、たわいもない雑談をしばらく繰り広げたあと、彼女はふいに視線を落とし、それまでのにこやかな表情を少しだけ曇らせて、ためらいがちに言葉を紡いだ。

「あの……さっきから少し気になっていたのですけど」
「はい?」
「身につけてらっしゃるその首飾り、ひょっとして──」
「失礼。我が主はそろそろ戻らねばなりませんので、この辺りでご容赦を」

 突然ほかから声がかかり、彼女の言葉は遮られる。
 あまり普段聞かない声だな、と思ったら、それも当然だった。声をかけてきたのは山姥切でも鯰尾でもなく、今やわたしの前では三語しか話さないと言っても過言ではない、一期一振だったのだから。

「わっ、ちょっと」

 彼は微笑んで丁寧に目の前の審神者さんに一礼すると、それとは裏腹にぞんざいな手つきでわたしの腕を掴み、引っ張って歩き出した。審神者さんは目をぱちくりとさせている。それはそうだろう、彼女の元にも一期一振がいるのだ。彼がこんな、突然会話に割って入って強引に主を連れ去るだなんて、彼をよく知るからこそ思いもしなかったことだろう。
 一期一振は早足で、ほとんどわたしを引きずるようにして歩いていく。仲間たちのもとに戻るのかな、と思いきや、そこもずんずんと通り過ぎてしまう。山姥切や鯰尾に目線で訴えかけてみるが、彼らも微妙な顔をするばかりで何も言わず、引き留めようともしなかった。解せない。

 演練場の端まで来て、ようやく彼は歩みを止め、わたしの腕を離す。斜め後ろから垣間見える表情は苦しげに歪んでいた。

「一期……?」

 身体を半分ずらしてこちらを振り返った一期一振は、引き結んだ上唇と下唇をわずかに離し、漏れ出た空気に言葉をのせようとしたようだが、結局意味のある何かを吐き出すことはせず、溜息だけをつくと、また踵を返して今度は仲間たちのもとへ戻っていった。彼が一体何をしたかったのか、何故わたしとあの審神者さんとの会話を遮ったのか、まったくもってわからない。

 彼は、何を訴えようとしたんだろうか。いつも見ているような不機嫌な顔じゃない、苦しそうな悲しそうな表情が、いつまでも頭の中に残った。



 祖母の形見の首飾りを失くした。お風呂に入っている間に。

「いや、なんで!?」

 あれを外すのは入浴するときだけだし、ほかで失くしたとは到底考えられない。そもそも脱衣所で服を脱ぐときにはちゃんとあったし、わたしが入っている間は誰も来ないはずだ。さらに、あれは古いものだけれど高価なアンティークなどではない。売っ払ったって二束三文にしかならないやつだ。ああ、でもそんなの見ただけじゃわからないだろうか。いや待て、そもそも、この本丸に盗みを働くような者がいるはずがない。絶対にだ。

 けれど、どう考えても自然消滅してしまったとは考えにくかった。いちばん考えられる可能性としては、五虎退の虎さんたちが悪戯で持っていってしまったとかだろう。カラスは光りものを集める習性があると聞くけれど、虎もそうなのかな。どちらにせよ、探してみるしかない。
 可能性としては高いけれど、証拠もないのに断定してしまっては五虎退に申し訳ないから、事情は話さずにこっそりと彼のもとを訪れ、それとなく観察をしてみた。五匹の虎たちは揃って五虎退の傍でじゃれ合って遊んでいて、当然首飾りなど影も形もないし、風呂場のほうにも近づいていないと言う。「何か、あったんですか……?」と不安そうに問い掛けられたが、こんな天使に一瞬でも疑いの目を向けたなんて、わたしは心が汚れている。スパーンと自分の右頬を引っ叩いておいた。五虎退はさらに怯えて涙目だったけれど、最終的にいたいのいたいのとんでけーをしてくれた。天使。

 彼らと別れ、もう一度脱衣所に戻って隅から隅まで探したが見つからず、念のため風呂の中も覗いたが結果は芳しくなく。服を脱ぐときに見たというのは錯覚で、実は無意識にどこかで外してしまっていただろうかと、自室、執務室、大広間、厨房なども探したが、やっぱりどこにも見つからない。行き交う刀剣男士たちに尋ねてみても、みんな知らないと言う。が、その首飾りを失くしたという話を聞いた途端、みんな奥歯に物が挟まったような、歯切れの悪い返事をしていたのはなんだったのだろう。
 失くしたのはやはり脱衣所で、どこかから猫でも入り込んで持っていかれてしまったのかと、縁側から庭へと下り立った。縁の下にでも潜んでいたりしないかな。みゃあみゃあ声真似をしながら地面に膝をついて覗いてみるけれど、もう暗くなってきているから何も見えやしない。明かりを取ってくるかと、いったん腰を伸ばしたところで、廊下を二振りの太刀が通りかかった。

「主? そんなところで、そんな恰好して何やってんだ?」
「あ、獅子王。一期も」

 獅子王と一期一振だった。これから厨房へと向かうところなのか、二人は野菜の入った籠を抱えている。

「あのね、わたしの首飾り知らない? お風呂入ってる間に失くしちゃって」
「首飾りぃ? ……あー」

 がしがしと首の後ろを掻く獅子王は、ほかのみんなと同じように何か思うところのあるような、歯切れの悪い返事をする。その際、ちらりと視線が一期一振のほうを向いたのは、わたしの気のせいだろうか。

「いや、知らねぇな。おまえは? 一期一振」
「いえ……わかりません」
「そっかぁ。猫でも入り込んで持ってっちゃったのかな、やっぱり。ありがとうね、縁側の下、ちょっと探してみる」
「え、今からか? せっかく風呂入ったんだろ」
「もう汚れちゃってるし。お風呂なんてまた入ればいいし。あ、いつも一番風呂もらってるけど、このあとは一番最後でいいから」
「や、そういうことじゃなくてよ……」

 膝についた土を払い、また縁側へと上がって、二人の傍を通り過ぎる。懐中電灯はどこへ仕舞ってたっけか。

「……なぁ、あれそんなに大事なもんなのか?」

 眉をひそめる獅子王の問いには、苦笑して答えるしかなかった。あんな、高価なわけでもない装飾品ひとつで必死になっている姿は、きっと滑稽に見えることだろう。

「絶対必要ってわけじゃないから、どうしても見つからなければ諦めるよ。でも、ないよりあるほうが嬉しいかな」


 途中で夕食を挟みつつ、縁の下を捜索したが、首飾りも猫も見つからなかった。
 少しだけ、ほんの少しだけショックだったのは、誰もわたしを手伝おうとはしてくれないこと、だった。いや、いや強制するつもりなんてこれっぽちもない。失くしたのはわたしの落ち度だし、私事で主命なんて使えるはずもないのだ。でも、だからこそ、わたしは彼らの厚意を無意識に期待してしまっていた。みんなやさしいから、わたしが必死になって探していれば手伝ってくれるのではと。とんだ自意識過剰だった。恥ずかしすぎて、消え入りたい。

 土と埃まみれになって、庭に座り込み、溜息をつく。月は中天に差しかかり、夜も更けてきた。一通り縁の下をさらったが、やっぱり見つからない。もう外に持ち出されてしまったのだろうか。それとも、まだこの本丸に存在するだろうか。

「……どっちにしろ、今日はもうここまでかな」

 さすがに少し疲れてしまった。このあとまた風呂に行かねばならないが、すでに気力が底を尽きそうだ。立ち上がることもできずにぼんやり月を見上げながら地面に座り込んでいると、背後からざり、と土を踏む足音が聞こえて、思わず振り仰ぐ。疲れ切ったわたしの視界に静かに映り込んだのは、月光に照らされて淡く輝く春空だった。

「……一期? 何か用?」
「……」
「え、」

 一期一振が黙ってわたしへと差し出したものを見て、一瞬言葉を失った。大きな手のひらが掴んでいるものは、今日の夕方からわたしが散々探し回っていたものだった。祖母の形見の首飾り。触れれば、じんわりと皮膚に馴染み、体温を移していく。

「すごい、見つけてくれたの? どこにあった? ううん、もういいや、探してくれてありがとう……!」
「……っ」

 受け取って、胸に抱く。絶対必要なものではないと豪語したものの、思った以上の安心感が身体の中心を突き抜けていった。一期一振を見上げて再度お礼を言おうとして、彼がまた、あの演練のときに見たような、苦しげな表情をしていることに気がつく。庭に置かれた石灯籠の明かりに照らされて、眉を下げ、瞳を歪ませ、唇を引き結んで、彼は何かに苦しんでいる。それは、なんなのだろうか。
 嫌われているのだと思っていたし、今でも思っている。でもひょっとしたら、そこには何か大きな理由があるのだろうか。

「……猫を……見かけて」

 ぱちぱちと瞬きをして、一期一振の言葉の続きを待った。一期一振の、言葉だ。ほかの誰でもなく、わたしに話しかけている。「はい」でも「いいえ」でも弟に関することでもない。それ以外でわたしが彼の声を聞ける機会があっても、それは先日の演練相手の審神者さんに向けてだったり、今日一緒にいた獅子王だったり、とにかく別の相手に対するものだった。でも、今は違う。一期一振が話しかけているのは、彼の主たる、わたしだ。

「庭の隅の、植え込みの中へ入っていったので、追いかけたら……そちらが。少々土に汚れておりましたが」
「全然いいよ、そんなの。それより一期の服のほうが汚れちゃってるね。お風呂もう入った? まだならすぐ行ってね」
「いえ……いえ、私などよりも、主がお先に」

 主、と。彼に面と向かってそう呼ばれるのはいつ振りだろう。頬が緩むのを止められない。嫌われていることに理由があってもなくてもどちらでもいい、ただわたしは彼と話をしたい。ずっとそう思っていたのだということに、今この場で気がついた。
 現金なもので、さっきまでの疲れなんて吹っ飛んでしまった。すっくと立ち上がり、首飾りを首にかける。ずっと明後日の方向を向いていた一期一振の視線が、吸い寄せられるようにそこへ向けられた。指でなぞって、かたちを確かめる。

「もう諦めようかと思ってた。見つけてくれて、本当にありがとう」
「……そちらは、大切なものなのでしょうか」
「うん、そうね。祖母の形見なの。わたし、早くに両親を亡くしたから祖母に育てられてね。その祖母もわたしが十八歳のときに亡くなって、財産はほとんど親戚が持っていったから、わたしに残されたのは祖母が若い頃祖父にもらったっていう、このお守りの首飾りだけ」

 これまでにも、首飾りについて聞かれたことはあった。でも、こんな話を聞いたって反応に困るだけだろうから、誰にも話したことがなかった。初期刀にだって教えてない。なのに今は嬉しくて、つい口が軽くなっている。

「……そうですか」

 一期一振の返事はそっけないものだったが、わたしはまったく気にならなかった。連れ立って部屋へ戻る際の、人ふたり分ほど空いた距離だって、もう悲しくはなかった。わたしは浮かれていた。たった一度やさしくされただけで、明日もきっとこんなふうに話をすることができて、これから仲良くなれるのかもしれないと夢を見ていた。

 首飾りが見つかったことよりも、一期一振が話しかけてくれたことのほうが何倍も何倍も嬉しかった。



 久しぶりに、庭の何もないところで盛大に転んだ。

「あー……久方ぶりの……世紀末感……」

 古いアニメの主題歌が、俯せに寝そべったままのわたしの頭の中をつらつらとよぎっていった。久方ぶりではあるが、すでに何度も体験している『世紀末』である。

「ちょっとちょっと、久々に派手にやってるじゃないですか、もー」

 わたしがすっ転んだところをばっちり見ていたのだろう、誰かが縁側から庭へと下り立って、こちらへと駆けてくる気配がする。この声は鯰尾か。身を起こそうとする前に、脇の下へと手が差し込まれ、ぐいっと抱き上げられた。視界に濃紺のジャージと赤い紐リボン、ひょこりと跳ねた黒髪が映ったかと思うと、傍にあった大きな腰掛け石の上に座らされる。身長はわたしとおっつかっつで、細身も細身なのに、やっぱり刀剣男士なんだなあとなんだか感慨深くなった。

「いち兄、救急箱ください」

 鯰尾の後ろには一期一振がいた。見上げれば、彼は顔色を青くして、呆然とわたしを見つめている。その手に携えられた救急箱は、わたしがしょっちゅう庭で転ぶため、すぐ手当てができるようにと庭に面した部屋に常備されるようになったものだった。最近はそれにお世話になることもなくなっていたのになあ。

 いち兄、と弟に再度促され、一期一振ははっと顎を上げると、手に持ったものを鯰尾へと手渡した。そのまま一歩後ろへと下がり、どこか憤るように眉根を寄せ、唇を引き結び、ふいっと顔をそむけてしまう。──おとといまで、散々見てきた彼の様子だ。そうだ、彼はわたしがこうして転ぶたび、粗忽者など大嫌いだと言わんばかりに突き放す。これまでずっと、そうだった。そうだったじゃないか。

 鯰尾は救急箱を受け取ると、中から薬や道具を出して、てきぱきと手当てをしてくれた。今日はキュロットを穿いていたから両膝とも剥き出しで、大惨事だ。それでもいつかの、頭を打ったときよりはましだろう。あれは本当に死ぬかと思った。

「薬研は遠征中ですから、帰ってきたらきちんと治療を受けてください」
「うん、ありがとう」

 石に腰掛けたまま、またちらりと一期一振を見上げる。彼は黙って俯いたまま、わたしのことなどまったく見てはいなかった。悲しくなる。昨日のことがあったから余計に。昨夜のあれは、彼の気まぐれだったというのだろうか。わたしが、ひょっとしたら明日からはもっと歩み寄れるかもしれないと思ったのは、ただの愚かな幻想に過ぎなかったのか。

 初めは、わたしが転べば彼は手を差し伸べて立たせ、手当てを施し、やさしい声音で「痛みますか」と聞いてくれたのに。たった数ヶ月前のことなのに、遥か遠く昔の出来事のようだ。

「痛みますか?」

 鯰尾に同じことを聞かれる。わたしは、ふるふると首を横に振った。

「ううん、平気」

 本当は、痛い。とても。膝じゃない、どこかが。


 その夜のことだ。不思議な光景を見聞きした。
 乱藤四郎に借りていた雑誌を返しにいこうと思い立ち、粟田口派の大部屋を目指して廊下を歩いているときだった。昼間に怪我した両足をひょこひょこと引き摺りながら、庭に面した渡り廊下へと差し掛かったとき。ぼそぼそとした低い話し声が聞こえてきて、歩みを止めた。そっと柱の陰から庭を窺えば、誰かと誰かが石灯籠の明かりに照らされて闇の帳の中にぼうっと浮かび上がっている。少し距離があるが、判別はついた。一期一振と、鯰尾藤四郎だ。
 一期一振は、昼間わたしが鯰尾に手当てをしてもらっているときに座っていた腰掛け石の上に、頭を抱えるようにして座り込んでいた。鯰尾は、そんな兄の背を撫でて、慰めるみたいに話しかけている。

「私の、私のせいで主がまた……」
「いち兄のせいじゃないって。最近はちゃんと言うこときいて大人しくしてただろ。気まぐれに決まってる」
「違うんだ、違う、昨夜私が……、……を……、」

 何を、話しているのだろうか。風向きが変わってしまったのか、一期一振の声は低く小さくなっていき、よく聞き取れない。鯰尾の声も「昨日そんなことがあったんですか?」という少し驚いたような言葉のあとは、こちらへ届くこともなく闇に溶けていく。
 昨夜、というのは、例の首飾りの件だろうか。そういえば鯰尾は昨日遠征に行っていたから、わたしの失せ物探しのことは知らないのかもしれない。でも、一期一振のせいとはなんのことだろう。何が彼のせいだというのか。彼はわたしの大切なものを見つけてきてくれたのに。

 しばらく二人の会話は続いたようだが、最後にまた風の向きが変わってこちらへと声が届くまで、何を話しているのかはわからなかった。

「こんなにお慕い申し上げているのに、御身を気遣うことすら刃になるというのか」

 見えずとも、あの苦しげな表情がありありと目に浮かぶ、悲痛な声音。どうしてそんなに苦しんでいるのか。何故わたしには何も、言ってくれないのか。お慕い申し上げているというのは誰のことだろう。誰の身体のことを気遣っているの?

 わたしのこと、なのだろうか。



「石切丸という。病気治癒がお望みかな? ……おや、参拝者ではないのか」

 とある日。短刀、脇差、打刀、太刀ばかりだったこの本丸に、二十振り目にして初めての大太刀がやって来た。
 鍛刀をしたのは秋田藤四郎である。初めての大太刀の顕現に、頬を紅潮させ、可愛らしいドヤ顔で鼻息を荒くしてピースサインをする秋田は控えめに言って天使だった。何がなんだかわかっていないらしく目を白黒させている石切丸の前で二人でイエーイとハイタッチをしていたら、初期刀に頭をはたかれた。当然の如く、お咎めはわたしだけなのが解せない。いや、短刀に手を上げないというのは解せるけど。

「んん……失礼しました、石切丸さん。わたしがここの主で、審神者です。よろしくお願いしますね」
「……」
「……あの、どうかしました?」
「……ああ、いや」

 咳払いをして挨拶の口上を述べるわたしをまじまじと見やり、石切丸は一瞬妙な顔をしたが、すぐにひとの良さそうな温厚な笑みを浮かべて「こちらこそ、よろしくお願いするよ。精一杯励むとしよう」と言ってくれた。
 はしゃぐ秋田が「みんなに紹介してきます!」と石切丸の手を引いて鍛刀部屋を出て行ったあと、自分の頬を手のひらでぺたぺたと触ってみる。わたしは、そんなに見るに堪えない顔をしているだろうか。そりゃあ美人ではないと思うけど、二目と見れぬほど崩れた顔立ちでもない……と思う。いや、顔面偏差値バカ高い刀剣男士たちと比べたら、出がらしのようなもんだけど。

 横に立つ初期刀の麗しいご尊顔を眺めながら「まんばくんは綺麗だねえ」と褒めたら、頭をはたかれた。照れ隠しにしたって、うちの山姥切国広はちょっとよそより脳筋すぎやしないだろうか。解せない。


 石切丸に本丸の中をざっと案内し、質問なんかに答えながら色々と説明をして、大広間へやって来たらちょうど昼食の時間だった。新しい刀が来たときは、食事はしばらくわたしの隣の席でとってもらうことにしている。反対隣に燭台切光忠が座り、箸の持ち方や食べ物の説明などをするのだ。石切丸は神社暮らしが長いと言うだけあって、人の営みには慣れているようだった。さすがに食物を摂取すること自体は初めてのようで、目を白黒させながら漬物をぽりぽりと咀嚼している姿は、大きな身体に見合わず小動物みたいで、なんだか微笑ましかった。

 食事が終わり、食後のお茶が振る舞われる。今日の昼食も美味しかった。わたし、山姥切、秋田の三人だけだった頃は台所事情はそれはもう目も当てられない状態だったが、さすがに二十振りも揃う頃になれば様々なものが淘汰されてくる。戦いが本業の刀剣男士たちにも、好みや向き不向きがあるのが面白い。誰とは言わないが、台所出禁をくらっている者もいるのだ。石切丸がそうはならないことを祈るばかりです。

 こうして大太刀・石切丸の初めての食事は恙なく終えられた──はずだった。

「そういえば、主」
「はい?」
「先ほどから気になっていたのだけれど、君が身につけているその首飾り、何かよくないものが憑いているね」

 大広間に響き渡っていた、がやがやとしたざわめきが、突然ぴたりと止んだ。
 示し合わせたかの如く訪れた静寂。湯呑に口をつけたまま視線を向ければ、みんな一斉にじっとこちらを見つめている。思い思いに繰り広げられていた雑談がいきなり駆逐され、妙な沈黙へと変わってしまったことは、石切丸に言われた言葉そのものよりも遥かにわたしの動揺を誘った。

 湯呑を置き、隣に座る大太刀を見上げ、言われたことを反芻する。首飾り。首飾り? そういえば、少し前にも同じようなことがなかっただろうか。似たようなことを言われなかったか? 首飾り、演練、大太刀の蛍丸、一発重傷、眩しい太もも──いや、それは関係ない、置いておこう。あのとき相手の審神者さんも、わたしの首飾りを見て、何か気になることを言っていなかっただろうか。そうして、誰かに、言葉を遮られて──。

「……石切丸どの、おやめください」

 あのときと同じ、一期一振が斜向かいから石切丸をほとんど睨みつけるようにして固く告げた。口調は静かだし言葉も丁寧だが、その声は普段発しているものよりも数段低く、琥珀色の瞳は冷徹に眇められている。水を打ったように静まり返っている室内で、その冷たい声はわたし自身に向けられたわけでもないのに、まるで喉元に刃を当てられているような心地がした。

 当の石切丸は至って涼しい顔をしている。三番目に来た一期一振と二十番目に来た石切丸とでは、それなりに練度にも差があるが、彼はそんなものどこ吹く風のようだった。ふむ、と何かに納得したように顎に手を当て、一期一振の顔とわたしの首飾りとを交互に眺めている。

「なるほど、それに憑いているものは、そこにいる一期一振に執心している女の悪霊のようだね。だから彼が主にやさしくすると、嫉妬心から彼女に悪戯をする」

 喉元に刃を当てられたまま、今度は石か何かでガツンと頭を殴られたような心地がした。
 これまでの、数ヶ月間の出来事が、まるで走馬灯のように頭の中を駆け巡っていく。

 初めはやさしかった一期一振。よくわたしの世話も焼いてくれた。庭で転べば、すぐさま助け起こして手当てを施し、労わってくれた。でもそのやさしい一期一振は、転ぶ回数が増えていくにつれ、次第に姿を消していった。馬鹿みたいに生傷をこさえていくわたしを見たくないと言わんばかりに、彼は冷たくよそよそしくなっていった。ある日とうとう頭を打ち、血を流して大怪我を負ったわたしを、彼は見限ったのだと思った。嫌われたと思っていた。道理でその後、あれだけ転んでいたのが嘘みたいにぴたりと止んだわけだ。そもそもわたしはドジっ子属性じゃないし、そう、決して。

 ガチャン! と大きな音がして、はっと斜向かいを見やる。食器が並ぶ食卓を拳で思いきり殴りつけたらしい一期一振は、眉根を寄せ、眉間に皺を刻み、食いしばった歯の間から苦しそうに息をこぼして、憤怒の表情で石切丸を見据えていた。

「やめろと、言ったのが、聞こえなかったのか……!」

 憤っているのに苦しげな顔、苦しげな声。あの演練で、相手の審神者さんが首飾りについて言及したのを遮ったときも、彼はとても苦しそうだった。何かを言いたげにしていた。ああ、わたしはなんて馬鹿で鈍かったんだろうか。どうして何も、気付かなかったのか。

 お風呂に入っている間に首飾りがなくなっていた理由も。必死になってそれを探すわたしのもとへ、一期一振が見つけて持ってきてくれたことも。彼だけでなく、本丸のみんなが首飾りの話になると言葉を濁していたこと。誰も一緒になって探してはくれなかったこと。身勝手ながらショックを受けていたけれど、みんながその悪霊とやらのことを知っていたなら当然だ。こんなもの、見つからないほうが良かったに違いない。

 首飾りをわたしへと返した翌日、久々に盛大に転んだわたしを見て、一期一振は生きた心地がしなかったことだろう。真っ青になっていた。報復を恐れた。わたしが昔話なんて、祖母との思い出話なんて語ったから、首飾り自体をどうこうするという選択肢は消え失せてしまった。だから、歩み寄れるかもしれないというわたしの幻想を打ち砕いた。彼はやさしい。やさしいがゆえに、わたしを再び突き放すしかなかった。

 あの夜、庭で、鯰尾の前で苦しんでいた。わたしを気遣いたくても気遣えない、それすら刃になると。
 これまでのことが、パズルのピースのように、すべて繋がっていった。──そういうこと、だったのか。

「石切丸さん、これは祓えるんですか?」

 刀剣男士同士の、ぴりぴりとした空気の中に小娘如きが口を挟むのはおっかなかったが、意を決して隣に座る石切丸へと身体を向け、尋ねた。卓を挟んだ向こう側で息を飲む音がしたのは、たぶん一期一振なんだろう。

「祓えることは祓えるけれど、首飾り自体を斬ってしまわなければならないよ」
「あ、できるんですね。良かった」

 主君、という驚いたような、悲しげな声は秋田だろうか。

「構いません。斬ってくれますか?」
「お望みなら、石でも斬ってみせよう」

 立ち上がると、石切丸も立ち上がった。ほかのみんなが内番服で丸腰なのと違い、彼は顕現してそのままこの場へ来たから、本体である刀もすぐ後ろへと置いてあった。さすがにこの場所で大太刀を振り回してもらうわけにもいかないだろう。室内戦に向くのは短刀、脇差、せめて打刀までだ。

 障子を開けて、縁側から庭へと靴下のまま下りる。ざっと辺りを見回して、例の腰掛け石が視界に入った。そちらへ向かおうとして、ふいに何かに足を取られ、転びかけたところを後ろから伸びてきた手に支えられた。「やれやれ、油断も隙もあったものではないね」という石切丸の声。足の下には、別に何もなかった。よく知る感覚だ。これまでのそれらはすべて『悪戯』であり、今のは最後の抵抗といったところか。首飾りを外し、目の前にぶら下げてみた。はっはっは、と笑いがこぼれた。ねえねえ今どんな気持ち?

「唯一残ったおばあちゃんの持ち物だから、壊せないと思った? ざーんねんでした」

 腰掛け石の上にそれを置く。ざり、と足音を立てて、石切丸がその隣に立つ。
 彼も、あの演練で出会った審神者さんも、どうやら一目見てこの首飾りに何か憑いていると気がついたようだが、こうして改めて眺めてみてもわたしは全然何も感じないし、禍々しくも見えない。いつからこれに女の悪霊とやらが憑いていたのかわからないけど、おばあちゃんは気付いていたんだろうか。たぶんわたしと同じで、何も知らなかっただろうなあ。悲しいかな、うちは霊感皆無の家系で、そっち系はからっきしである。付喪神を呼び起こす才能はあるのに、なんでだ。

「危ないから、離れていなさい」
「はい」

 すらりと石切丸が刀を抜く。非常にうつくしい立ち姿だ。顕現したばかりで、まだ出陣も演練も経験していない彼の剣捌きを直に見られるとは、なんとも役得なものである。

「主、主! おやめください、祖母君の大切な形見でしょう! 残されたものはそれだけなのだと、あんな、あんなに必死になって探していたではないですか! 大切な、思い出の品なんでしょう!」

 一期一振が真っ青になりながら庭へと下り立ち、わたしの肩を掴んだ。こんなにも引き留めようとしてくれているのは、彼が刀というモノに宿った付喪神だからだろうか。それとも『思い出』という、彼にとっては特別なのであろうそれに、固執しているからだろうか。

 どちらだかわからないし、たとえその両方だったとしても、わたしは。

「ありがとう、一期一振。でもごめんね、わたしは『思い出』よりも『今』を大事にしたい」

 石切丸が大太刀を勢いよく振り下ろし、首飾りは粉々に砕け散った。
 ついでに腰掛け石も真っ二つに割れた。名が体を表すとは、さすがだ。


 わたしの肩を掴んだまま、一期一振は呆然と石切丸を見つめている。
 ほんの少しだけ迷ったあと、力を入れることを忘れてしまったらしい彼の指を振りほどき、目の前の身体にぎゅっと抱きついてみた。ほどかれた指が空を掻き、軌跡を描くように跳ね、彷徨う。

「今まで、たくさん嫌な思いさせちゃって、ごめんね」

 迷い子のように宙に浮いていた腕が、おそるおそるといったようにわたしの背中へまわされた。しばらく経ってから、もう触れたって大丈夫なのだと理解したのか、ぎゅうっと力が込められる。耳元で、溜息とも呻きとも嗚咽ともつかない、息と声の中間のようなものがこぼされる。

 ずっと、ずっと、苦しかったんだろう。わたしに冷たく振る舞わないといけなくて、でも理由も言えなくて、その原因を取り除くこともできなくて。やさしい彼は、どれほど心を痛めたことか。

「ずっと、気付いてあげられなくて、ごめんなさい」

 少し痛いくらいにわたしを抱きしめながら、一期一振は必死に首を振っている。春空のようなうつくしい髪が揺れ、わたしのこめかみをやさしくくすぐる。

「……やさしいあなたは、そうやってご自分をお責めになる。だから、本当のことを言えるはずもなかった」

 こんな鈍感で愚かでどうしようもないわたしをやさしいなどと言ってくれるなんて、とんだ思い違いだ。でも、口を挟むことは、できない。だって、一期一振がわたしに、わたしだけに、話しかけてくれている。わたしはずっと、彼と話がしたかった。嫌われたままでもいいから、そうしたかった。

「日に日に、あなたの傷は増えていく。頭に大怪我を負ったときには、脅しに過ぎんだろうとはもう思えませんでした」
「うん……あれは自分でも死ぬかなって思った」
「あんな態度を取るしかできない私を、いっそ刀解してくれとも思いました。でも、あなたが私を見限ることはなかった」
「うん。いや、どんな理由があっても刀解はないよ、さすがに」
「あれが無くなってしまえばいいと思った。主の入浴中に、あれをくすねたのは私です」
「うん、さっき気付いた」
「必死になって探しておられる姿に、己の愚かさを思い知りました。お咎めを覚悟で、お返ししに行ったのに、それなのに、」
「うん」
「それなのにあなたは、私が盗んだのだとは微塵も考えず、あまつさえお礼まで……詰られたほうが、ずっとましでした」
「うん……ごめん、本気でわかってなかった……」
「いいえ……結局、あなたの傷を余計に増やしただけで……己が身を恨みました。憎みました。呪ってやりたかった」

 怨念こもった口調に、ひえ……と少し身震いしたが、口には出さない。だって、わたしが『思い出』よりも大事にしたいと思ったのは『今』この瞬間だ。どんなかたちであれ、わたし自身が望んだことだ。

 あの首飾りは、わたしを女手一つで育ててくれた祖母の、唯一無二の形見の品だ。寝ている間も肌身離さず身につけていた。大事なものだった。それは嘘じゃない。でも、わたしはそれよりも、彼が、一期一振が、本来わたしに与えてくれるものがなんなのかを知りたかった。わたしの身に、わたしの耳に、ぽろぽろと降らせてくれる言の葉が、いったいどういうかたちをして、どういう色をしているのか。知りたいと思った。

 だからぜんぶ、受け入れる所存だ。たとえ呪詛の類であろうとも、どんとこいである。

「……なんでも、致します。主が失くされた『思い出』の代わりは到底務まりませんが」

 そんなことはないと、まずは伝えなければ。あと、なんでもするなんて安請け合いしたらダメってことも。
 かたちを整えて、色をのせて、言葉に尽くしていくべきなのは、わたしも同じ。
 これから、そうしていけばいい。時は無常で『今』は次の瞬間からもう『思い出』へと変わっていくけれど、そこから繋がる『未来』はきっと、わたしたちが思う以上に広がっているから。

「……で、俺たちはこのいちゃつきを、いつまでこうして眺めてればいーんですかね」

 縁側に立つ誰かから声が降ってきて、斜め上を見上げれば鯰尾が今にも砂を吐きそうな顔でこちらを見下ろしていて。まるっと十九振りから生温かい視線を送られていることに気がついたのは、顔を真っ赤にした一期一振がべりっと効果音でも付きそうなほどにわたしを引き剥がした直後のことだった。

 何故か大慌てで弟に弁解を試みる一期一振から離れ、とりあえず部屋の中に戻ったら、初期刀に頭をはたかれ──ることはなく、ただくしゃくしゃとやさしく撫でられた。いったいどうしたというんだ。解せない。思わず「まんばくん脳筋返上……?」と呟いたら、いつも通りにはたかれた。理不尽!



 しばらくぶりに演練へと顔を出した。

 演練で、また見かけることの増えてきた一期一振は、相変わらず優雅で品がある。ロイヤルでエレガント。凛々しく、清々しい。女審神者さんのところは言わずもがな、男審神者さんのところでも──いや、あっちは、なんだか若干塩対応に感じる気もするが、まあきっと気のせいだろう。よその女審神者さんに声をかけようとした男審神者さんの首根っこを掴む、その笑顔が怖いけど。きっと気のせい……気のせい……ひえ……。

 うちの一期一振はといえば、わたしが誰かにぶつかったり躓いたりするたびに、慌てて手を差し伸べようとしては、反射的に真っ青になって引っ込めるということを繰り返している。長く培われたものはそう簡単には覆せないらしい。誠に遺憾だが、傍に寄ってそっと手を握れば、遅れてそっと握り返してくれる。少しずつ、変化は訪れている。彼がぽつぽつと雨垂れのように降らせてくれる言葉が溜まって『思い出』となり、まだ見ぬ『未来』が『今』へと姿を変える。

 先日の、最後に転んだ際の膝の傷がちょっとだけ引き攣るので、繋いだほうとは逆の手で触れて気にしていたら、わたし以上に気にしているらしい彼の声が隣から降ってきた。

「……痛みますか?」

 色もかたちも、不安を表している。だからそれを吹き飛ばせるように、わたしも精一杯、言の葉に色とかたちをのせる。

「全然、ちっとも。大丈夫だよ」

 心底ほっとしたように、一期一振は微笑んだ。まるで宝物を扱うかのように、ふうわりと、眦を色付かせ、琥珀色の瞳をとろ火で燻らせて。魅惑的に弧を描いた、そのかたちの良い唇からこぼれる台詞を想像するなら、なんだろう──「安心しました」とか「次はお傍でお守り致します」とか、あと、ほら、あれ──「お慕い申し上げている」みたいな。

 きゅうう、とわたしの胸のあたりが痛んだ。あれ? もうどこも痛くないはずなのに。膝も、それ以外の部分も、どこにも怪我なんかしてないし、冷たくされているわけでもないのに。おかしいな。いったいどうしたということだろう。

 最近のわたしは、一期一振が微笑んでいるところを見たり、彼に触れられたりすると、やたらと胸がきゅうきゅうしてしまう。もしや今度はわたしでも感じ取ることのできる悪霊に取り憑かれたのではと、石切丸に相談してみても、御神刀さまは笑顔で「それは私にも祓えないものだね」とのたまうばかりだ。

 ──解せない。

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