一.天候は曇り。畑にて。
脳内で、何度もシミュレーションを繰り返す。
預かった差し入れの飲み物を渡すだけだ。なんにも難しいことなどない。子どもだってできる。いや、今の状況で言うなら子どものほうが数倍うまくやるに違いない。でも、わたしにだってやれるはずだ。お疲れ様と声をかけるだけ。光忠から差し入れをもらってきたから休憩にしない? と提案するだけ。手に持ったそれを渡して去るだけ。完璧だと、そう思う。けれど、きっと初めに声をかけるところからシミュレーション通りにはいかないだろうと、そうも思う。
上にのせたものを落とさないように盆を片手で支え、もう一方の手を心臓の辺りに当てる。きゅ、とブラウスを掴んで、息を落ち着けた。大丈夫。やれる。だって、こんなことなんでもないのだから。
裏の畑へと続く庭に縁側から下り、あらかじめ用意されていた靴を履く。雨続きで地面があちこちぬかるんでいるからだろう、出されていたのはショート丈のレインブーツだった。わたしは靴を出しておいてほしいと頼んだだけだ。今日の近侍を務めてくれている平野藤四郎のあたたかな気遣いに、緊張を訴える胸が少しだけ軽くなった。
泥を踏みつけながら畑へ。土と水、それから緑の混ざり合う匂いが濃くなっていく。農作業具などを仕舞う納屋の角を折れると、それらの気配が視覚にも濃くなる。真っ先に映った大きな緑はそろそろ収穫も終盤のサヤエンドウで、背丈はわたしの身長を軽々と超えているが、今その前に立って籠を手にしているひとは背が高いから、まったく見劣りしていなかった。紺の作務衣の背中を見て、声をかける相手が想定とは変わったことに安堵し、ほっと息をつく。そのあと弱虫、と自己嫌悪に陥りはしたけれど。
「三日月さん」
大きく彼の紋が入った明るい黄のバンダナの端を揺らめかせ、天下五剣の一振りであるそのひとはゆっくりとこちらを振り返った。凄絶な美貌に浮かぶ笑みは滔々としているようで人懐こくて、そのギャップに慣れるにはまだまだ時間がかかるようだ。
「おお、主。いかがした」
「お疲れ様です。お茶を持ってきたので、休憩にしませんか」
「それは有難いな。もう喉がからからだ」
ははは、と三日月宗近はのんびりと笑う。よく声に出して笑う刀だと知ったのは、彼を迎えてすぐのことだった。
手にした籠と鋏を邪魔にならない端の石垣の上に置くと、三日月は「よっこらせ」と声を上げて腰に手を当て、伸びをした。美しい容貌に見合わない『じじい』を自称する彼のそんなしぐさも未だ慣れることはなく、わたしの目にはひどく奇異なものに映る。本人はわたしの視線など露ほども気にしていないようだけれど。
そよそよと初夏の風に揺れる背丈の大きなサヤエンドウ畑の向こう側に、穏やかな声がかけられた。
「一期、一期一振」
カサ、と風によるものではない、葉の揺れる音。まるで声をかけられて初めて気がついたというような態で、でもきっと違う。たぶんわたしが三日月を呼んだところから、もっと言えばわたしが歩いてくるところから、彼は気付いていただろうし、それでいて意識の外に追いやろうとしていただろう。
さくさくと土を踏む音が聞こえて、緑の陰から見知った人影が姿を現す。同じように籠と鋏を手にして、紺と白のジャージは少し土で汚れている。口元は笑んでいるが、おそらく本当に笑ってはいない。目線は三日月だけを捉え、こちらのほうなど見てもいない。
一期一振は、今日も決してわたしを見てはいなかった。
「どうされました、三日月殿」
「主が茶を持ってきてくれたぞ。休憩にしよう」
「ああ、有難いですな。ですが、どうぞお二人で召し上がってください。私は収穫したものを厨房へと運んで参ります。三日月殿、あなたの分も」
「ふむ……そうか」
すっと流れるような所作で彼は三日月の置いた籠と鋏を拾い上げると、かたちばかりだけの礼をわたしにして、その場を静かに離れていった。
予想はしていたが、ここまでそっけない態度だったのはこの場にいたのが三日月だけだったからだろう。今もわかる通り、引き留めようとも咎めようともしなかったこの刀は非常にマイペースで、周囲の様子をさほど気にしない。もしここにいたのが三日月ではなく、藤四郎兄弟の誰か、長谷部、清光、歌仙辺りだったなら、一期一振の態度はもう少し違っていたはずだ。
わかっていたことだった。彼がわたしを見ることはない。ましてや笑いかけることなどあるはずもない。シミュレーション通りにいかないなんて予想済みだった。彼がわたしの持ってきたお茶に手をつけることがなかったのも、すぐにこの場から去ってしまったことも。うまくいけば、もしかしたらなんて願望は願望以外の何にもなることはなく、剥き出しの現実は無情にもただの現実、それでしかなかった。
「主よ」
いつも気持ちよく笑っている、穏やかな声。今その声はどんな類の笑いも含ませることはなく、彼がその名を冠する月の光のように、どこかやさしくわたしを気遣っている。
「茶を頂こうか。相伴にあずかってくれるか?」
「……はい」
一度だけ、ちらりと目線を横へと逃がす。紺と白のジャージの裾が納屋の角を曲がって見えなくなるところだった。
*
今日も茶が美味い、と三日月宗近はのんびりと言った。
「だが、今日の茶は不思議な味だな。緑茶、麦茶、ほうじ茶……どれも違うようだが、これはなんの茶だ?」
「これは……ルイボスティーですね。最近、光忠さんがよく出してくれるんです」
「るいぼす……ははあ、西洋の茶か」
「西洋とはまた少し違った気がしますけど……とても身体にいいんですよ、カフェインが入ってないから」
「おお、かふぇいんとやらは知っておるぞ。長谷部がよく摂取している、あれだな」
う、と言葉に詰まる。審神者としてわたしは決して仕事を疎かにしているわけではないと思うが、月末など事務仕事が多いときや決算の絡む時期などはどうしてもひとりでは手が回らず、長谷部や博多や薬研や堀川などで近侍をローテーションして手伝ってもらっている。馬当番や畑仕事もこなすとはいえ、刀剣男士たちは戦闘が本職、事務や経理にまで携わることのできる者は多くない。加えて薬研と堀川は全体的に手先が器用だからほかの分野も受け持っているし、見た目通りの年齢ではないとわかっていても短刀である博多を長時間拘束するのはあまりに気がひける。よって、長谷部への負担が大きくなっていることは、充分に理解している。コーヒーばかり摂取させて本当にごめんなさい。
はははは、と三日月がまた笑う。本当に、よく笑う刀だ。
「難儀なものだなあ。ここへ来た当初はただ戦えばよいのかと思ったが、そうもいかん」
「……返す言葉もございません。皆々様、いつもありがとうございます……」
「はは、すまんすまん意地悪で言っているわけではないぞ。俺とて同じだ、世話をされるのは好きだからな」
カラン、とグラスの中の氷が音を立てた。本格的な夏はまだ先だが、この梅雨特有のじめっと蒸した空気の中、ひと仕事終えたあとに飲むアイスティーはさぞ身体に染み渡るだろう。
石垣に腰掛けてグラスをあおる三日月がふと空を見上げた。色の濃い曇り空。また一雨来そうだな、と彼が呟き、まるでその言葉が引き金となったかのように、わたしの頭の中にこびりついた雨音が耳を穿つ。
「人とは本当に難儀な生き物だな」
雨粒ひとつひとつが土を屋根を草を叩く音が、あのとき子守唄のようだった。
「人は生きるために食べ、眠り、思考を繰り返し、感情を露わにする。血を流し続ければ死に、病にかかっては死に、やがては老いて死に至る」
「……」
「だが、どこかの鶴の言葉を借りるなら、人生とは驚きに満ち溢れている」
「……人生には驚きが必要だ、ではなかったですか?」
「なに、同じことだろう。限られた謳歌がもたらす、人を人たらしめる生の、なんとも鮮やかに彩られていることよ」
刀の神様。ヒトの身を得た付喪神。食べて、眠って、考え、笑い、泣き、怒る。彼らは老いることも、おそらくは病にかかって死ぬこともないだろうけれど、たくさんたくさん血を流し、流し続ければやがてヒトと同じように死ぬ。刀剣だから破壊と言うのだろうか。そうなってしまえば、分かたれた分霊のひとつは魂の流れに乗って本霊へと還るんだろうか。
「……三日月さんの刃生は、今どうです?」
「俺か? そうだな、恵まれているぞ。じじいだが、ここでは新参者だからな、色々なことが新鮮で楽しい」
「それは何よりです」
「主よ、俺は新参者ゆえ、おぬしと一期一振の間に何があったかは知らん」
思わず三日月の顔を見た。緩く首を傾げ、曇天を見上げるうつくしい横顔。一幅の絵画のほうが見劣りしてしまいそうなほど凄絶な、でも血の通った美貌。彼はその通り、刃生を謳歌しているのだろう。食べて、眠って、考えて、笑って……泣いたり怒ったりしたところはまだ見たことがないけど。
その皮膚の下には血が通い、触れればあたたかい。──あのひとと、おんなじように。
「この先も知ろうとは思わんが、ただな。あまり溜め込むな。痛いときは痛いと言わねば、やがては取り返しがつかなくなる」
「……」
「俺たちは戦って血を流す、血を流せば痛い。痛みは人体における大切な信号だと薬研が言っていた。それは心も同じだろう」
「……はい」
「あやつのしていることは解せんが……おそらくは思考と感情がちぐはぐなのだろうよ。江雪などもそうだな。あれは戦いは嫌いだと言いながら、戦いの才に秀でている」
「……そうですね。おかげで出陣に頼ることも多くて、実はちょっと心苦しいんですけども」
「はっはっは、よきかなよきかな。思う存分こき使ってやるとよい」
最後に勢いよくグラスを傾けて中を空にすると、三日月宗近は立ち上がった。作務衣姿ということを忘れそうになるほどの優雅なしぐさで傍らの盆の上にグラスを置き、どんな筆もキャンバスも表現できそうにない、見る者を陶然とさせてしまううつくしさで微笑む。
「ご馳走様。燭台切の作るものは何でも美味いな。飲食がこれほどまでに心を豊かにしてくれるとは思わなんだ。これも人の生の醍醐味であろう」
さて、もうひと仕事してくるとしようか。そう言って、彼は再度畑の中へと戻っていく。
話はこれで、終わりらしかった。
「……」
紺の作務衣の後姿を見送り、わたしもグラスを盆の上に置いた。カラン、と氷が奏でる音。空を見上げれば、立ち込める雲が今にも雫を落としそうで、遥か遠くの雨の気配を嗅ぎとった気がした。水の匂い、土の匂い、緑の匂い。今ここには存在しないはずの埃と微かな血の臭いが鼻腔と海馬を行き来して、ゆるゆると記憶を刺激する。
痛みが人体の信号で、心もそれに倣うというなら、彼は、一期一振は今、全身で痛いと言い続けているんだろう。
痛みの原因であるわたしを拒絶して、避けて、遠ざけているということだろう。
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