三.また、雨が降り出した。

 襖という襖を取っ払って作られた大広間に、さざ波のような騒めきと、笑い声、お酒と食べ物の匂いが充満している。すでにあちこちで出来上がっているグループの間を光忠と歌仙と堀川が忙しそうに行き来して、お酒を足したり、空になったおかずの皿を片付けたりしており、休む暇もないように思える。見かねて手伝いを申し出たけれど、行儀悪く徳利から直接お酒を飲もうとした兼さんの首根っこを掴みながらにっこり微笑む堀川に「主さんは座っているのがお仕事です」と言われては引き下がるほかはない。うちの本丸で絶対に怒らせてはいけない刀、二位以下を大きく引き離して堂々の第一位が堀川国広なのだ。

 お酒にはあまり強くないから、光忠が作ってくれたノンアルコールカクテルをちびちびとやりながら自分の席へと戻る。フロリダという名のこのカクテル、わたし好みに甘さが少し抑えられていてとても美味しいのだけれど、あの刀はいったい何を極めようとしているのか気になるところではある。とは言え、台所についてはとっくにわたしが口を挟める領分ではないので、もう好きにしてという感じだ。

「兄弟に、袖にされたようだな」

 わたしの右隣では、今日の近侍の山姥切国広が魚の切り身を器用に箸でほぐしながら、お猪口から日本酒をあおっていた。見慣れてしまった彼のトレードマークとも言うべき布を今も身につけてはいるが、フードをかぶることはなく、照明の下で揺れる金糸がうつくしく光り輝いている。アルコールを通す喉がこくりと震え、どこか悩ましげに息を吐き出すその様は、刀剣男士も変われば変わるものだとわたしを感慨深くさせた。わたしと一対一で向かい合って膳を前にしていた頃は口数もほとんどなく、終始下を向いて心を閉ざしていたのに。

 まじまじと見やるわたしの視線が気に食わないのか、国広は不愉快そうに眉をしかめて「なんだ」と言った。答えずに手を伸ばして、そのさらさらの髪を撫でてやれば、ますます眉根は寄せられて若干訝しげな視線が寄越されるけれど、手を振り払われることはない。本当に、変わったものだ。なかなか懐かなかった猫がようやく心を開いてくれるようになったというようなこの感じ、誰かわかってくれるだろうか。

「カッカッカッ、おぬしらは本当に仲が良いなあ。結構結構」

 この独特な笑い声は、と見上げれば、山伏国広が立っている。呵呵大笑という言葉が誰よりも似合う彼は酒とつまみを調達したところだったのか、右手に一升瓶、左手に盆を抱えていた。盆の上には茹でた枝豆ときゅうりの漬物、唐揚げ、それと何故か団子がのっている。短刀とでも呑んでいるのかな、と思った矢先に「三日月殿のご所望である」と問わない問いの答えが返ってきて、なるほどと思う。三日月がこのところ、秋田や五虎退や乱などと一緒に縁側で団子を食しているのをちょくちょく見かけるので。

「山伏さん、三日月さんと呑んでるの?」
「うむ、数珠丸殿も一緒であるぞ。主殿と兄弟も、こちらへ来てはどうであろうか」
「あ、数珠丸さん、そこにいたんですか」

 この宴会の名目は、今この本丸に於いていちばん新しく顕現された数珠丸恒次の歓迎会となっている。とは言っても、一部の酒豪たちはとりあえず呑めればなんでもいいので、名目などあってないようなものだ。さすがに最初にわたしが乾杯の音頭をとって、数珠丸にお酌をしてしばらく会話を続けたけれど、五十人以上の男たちが集まって繰り広げる宴などすぐにしっちゃかめっちゃかになってしまうから、その後の所在はよくわからなくなっていた。同派のにっかり青江としばらく一緒に呑んでいたようだけど、それももう一時間以上前の話だ。

 審神者として、主としては新しくやって来た刀剣男士とはきちんとコミュニケーションを取っておきたいから、山伏の誘いに一も二もなく頷き、グラスを持って立ち上がった。国広はどうするかなと思えば、彼もお猪口と魚をのせた皿を両手に持ち、立ち上がる。俺はひとりでいい、とか言うかと思ったのに、本当に変わったものだと三度思う。

 箸を口にくわえながら歩く国広を遠くから目敏く見つけた堀川の「兄弟、行儀が悪い!」という怒号にわたしが肩を竦め、山伏が相も変わらず呵々と笑い、当の国広は涼しい顔のまま、わたしに箸を持ってくれと目線で訴えかけてくる。仕方がないのでそれを口から抜き取ってやり、そのままわたしが持って山伏の後ろをついていって、大広間の端、縁側ぎりぎりのところで集まっている三人のところへ辿り着いた。
 三日月と数珠丸だけではなく、そこにはもうひとり、短刀の薬研藤四郎が少年のなりとは到底思えない堂に入った胡坐姿で鎮座ましましていた。右手には山伏と同じように一升瓶を軽々と持ち、それを三日月と数珠丸の持つ盃に注いでやってから、左手に持つ自分の盃に──いや、あれ、盃じゃない。枡だ。枡に注いだ酒をやっぱり少年のなりとは到底思えない堂に入ったしぐさでぐいっと一息にあおると、どんっと畳の上に一升瓶を置く。瓶のラベルには『名門の粋・魔王』。どこから突っ込んだらいいのかわからないが、とりあえず彼に対して黄色い悲鳴を上げる審神者が多発しているというのも頷ける話だ。しかも性別を問わないというのだから、たちが悪い。

「カカカ、良い呑みっぷりであるなあ、薬研藤四郎よ」
「おう、邪魔してるぜ、山伏さん。ああ、大将と山姥切も来たのか」

 わたしと国広を見るなり立ち上がり、隅に積んであった座布団を二枚持ってきて傍に並べる。本当になんというか、できすぎて怖いくらいの刀だ。

「ありがとう、薬研。その芋焼酎、どこから調達してきたの」
「ん、これか。これは燭台切が厨房の床下の奥の奥に隠してた、とっておきでな。この日のために引きずり出したら、膝から崩れ落ちて泣いてた」
「目に浮かぶようだよ」

 隣に座った国広が無言で差し出す左手に箸を渡すと、わたしは薬研が畳の上に置いた一升瓶を手に取った。まだなみなみと中身が入っているから重くて、わたしでは両手でしか持てない。手弱女のような細腕なのによく片手で持てるものだと、見た目によらない短刀の腕力に感心しながら数珠丸と三日月のほうへ身体を向けた。三日月は山伏に差し出された団子を嬉しそうに頬張っている。

「数珠丸さん、盃もう空いてますね。どうぞ」
「ええ、ありがとうございます」
「数珠丸殿はいけるクチだなぁ。燭台切の涙は俺には少し強かったようだ。団子のほうが美味い」
「カッカッカッ、燭台切殿の涙とはまた言い得て妙である」
「伊達男の涙なんざ、そうそう見られるもんじゃねえからな。とっくと味わってくれ」

 数珠丸にお酌をするわたしの隣でのんびりと三日月が笑い、山伏と薬研がそれに乗る。すっかり酒の肴にされてしまった光忠は耳聡く自分の名を聞きつけたのか、少し離れたところで「薬研くん、次は絶対にないからね!」と息巻いている。歌仙や長谷部と一緒に小休止を取っていたらしく、そちらの二人は盃を傾けながら苦笑いだった。わたしも賭けてもいいが、多分次も光忠の完敗だと思う。

 食べ物の好き嫌いと同じように、聞こし召す酒の強さや種類にも刀剣男士たちには差があるようだった。三日月が言った通り、数珠丸は顕現したばかりだというのにかなり強いほうらしく、わたしが注いだ一杯がもうなくなりかけている。焼酎だからアルコール度数はそこそこあるはずだが、顔色ひとつ変えず呑んでいるからまるで水みたいだ。お酒に強くないわたしも、なんだかちょっと気になってきた。ほんの少し、お猪口一杯分くらいならいける気がする。

「薬研、わたしも光忠さんの涙もらってもいい?」
「ああ、構わんが……大将はあまり強くないだろう、少しにしておけよ」
「わかってるよ」

 手にしたグラスには例のノンアルコールカクテルがまだ半分以上入っていて、一息に飲み干すには若干つらいものがあるし、そもそもこれは使えないだろう。かと言って近くに空いた杯の類はなく、たぶん離れた卓の上か厨房まで行けば確実に手に入るのだろうけど、そこまでするのも億劫だ。相変わらず少し離れた場所で「僕の涙を定着させるのやめてくれる!?」と息巻いている光忠の抗議をやんわりと聞き流しながら、わたしは右隣に座る国広の空になったお猪口を指差した。

「国広、それ貸して」
「……俺のを使う気か。俺が呑みたいときはどうしろと言うんだ」
「これあげるから」
「嫌だ、そんな甘ったるいもの」

 わたしが差し出すグラスを眉をしかめて一瞥するが、お願い、と重ねて言えば、渋々頷いてお猪口と交換してくれた。「僕の自信作だからね、それ!」と内容が変わっている光忠の抗議が働きかけてくれたのかはわからないけれど。
 お猪口を受け取ると、薬研がまた軽々と一升瓶を持ち上げてお酌をしてくれた。細い腕が器用に傾ける瓶から注がれる液体を、お猪口を少し揺すって目に楽しませたあと、そっと口を付ける。こく、と燃えるような熱いそれが喉を通り、食道を通過していくのを皮膚の上から感じる、そのときだった。

 ──がしゃん、と。小さいような大きいような何かの音が、近くのような遠くのようなどこかでふいに立てられた。

「おっと、呑みすぎか? 一期一振」

 その声に、反射的にわたしの顎が持ち上がって視線が彷徨う。正確には声自体にではなく、その声が発した名前にだ。
 この少し低くて、じんわりと耳に沈む声は鶴丸国永だろうか。とん、とん、と点を線で繋ぐようにして視線を動かす。視界に映る、白。光忠たちがいるほうとは別方向で、でも思いのほか近くにそれは見えた。白の隣に、見慣れた空色。俯き加減に、普段身につけている手袋を介さない大きな手のひらが卓の上を所在無げに彷徨っている。

「……申し訳ない、すぐに片付けます」
「いや、やめておけ。今のおまえさんじゃ怪我をするのがオチだろう」
「一期さん、盃割っちゃった? ああ、素手で触ったら駄目だよ、軍手と新聞紙持ってくるから動かさないでね」
「燭台切殿、すみません……」

 いち早く立ち上がって廊下へと出ていく黒のジャージの後ろ姿をぼうっと眺めたあと、また視線を白と空色へと戻す。卓の上に散らばる盃の破片と、ぽたぽたと伝って畳の上に落ちていくこぼれた酒。相変わらず所在無げに彷徨う手も、わずかに濡れて光っている。
 わたしの目の前に座っていた薬研が「大将、ちょっとすまねえな」と言って立ち上がった。翻される白衣が空気を切るのを目で追い、反射的にわたしも腰を浮かせた。行ってどうする、とすぐに自分を戒める言葉が脳裏をよぎったけれど、結局抗えず、意識の赴くまま足を動かす。手にしたままのお猪口をどこかへ置こうとする前に、伸びてきた国広の手がそれを受け取ってくれた。本当に、わたしの初期刀がこんなにもわたしを理解してくれていて、頼もしいったらない。

 薬研が一期一振の肩に手を置いて、何か話しかけている。大丈夫か、とか、呑みすぎだ、とか、きっとそんなことなんだろう。自分の心臓の音が皮膚を突き破って鼓膜へと到達しそうなおかげで、正確な言葉は聞こえなかった。吸い寄せられる視線の先の、一期一振の横顔はひどく赤い。本当に酔っているのかもしれない。
 わたしの中で、あわよくばという下心が生まれ出た。

「……一期、大丈夫? 怪我は──」

 なかった? という問いは、きちんとした問いのかたちになることはなかった。
 代わりに、ぱしっという乾いた音が、わたしと彼の間でかたちを成しては一瞬で割れて境目をなくす風船のように空気を揺らした。
 もう記憶の中にこびりついてしまった、あの雨の音が、また強くなっていく。

「……触れないでいただきたい」

 とん、とん、とまた、点を線で繋ぐように視線を動かす。振り払われた自分の手、薬研と同じようにして触れようとした彼の肩、明らかに拒絶を滲ませている彼の琥珀の瞳。理解が及んだ途端、カッと顔が羞恥で熱くなった。わたしは、わたしは何をやっているのだろう。相手は酔っているからわからないだろうと、そんな淡くて愚かな期待を根拠もなく振りかざして。
 いつの間にか、大広間は水を打ったように静まり返っていた。喧騒がなくなって、水を打つという言葉通り、さあああと雨が地を穿つ音だけが鳴り響いている。記憶だけでなく、今この瞬間も現実に降っている雨の音。口を開けて言葉を取り出そうとしても、からからに渇いた喉は何も錬成してはくれない。まずい、何かフォローを、と思うのに。ふざけ合っていたでもなんでもいいから、何か言い訳をしなくてはと頭ではわかっているのに、身体は心ばかりに直結してひとつも思い通りにはなってくれなかった。
 そんなわたしの惨状を、誰よりもよく察したのだろう。静寂を終わらせたのは国広の声だった。

「一期一振、今のはいくらなんでもあんまりじゃないか」

 彼が言葉を投げるのは、大抵いつも自分自身の内側へと向けるものだった。とくにこんな、突っかかるような物言いをすることは、ほとんどないと言っていい。有難さと申し訳なさといたたまれなさが、わたしの中をぐるぐると渦巻いていく。

「主はあんたを心配して……」
「頼んでおりません」
「……おい、いい加減にしろ」

 にべもなく言い放つ一期一振に、国広の声のトーンが明らかに変わる。低くなっただけでなく、冷たさと鋭さを孕むそれは今にも周りの空気ごと喰らい尽くしてしまいそうな節があった。ひやり、と背筋が冷たくなる。今ここにいる全員が内番のときの衣服で、当然丸腰なわけだが、刀の鯉口を切る音が今にも聞こえてきそうだった。何人かが、すぐに動けるよう臨戦態勢を取ったような気さえする。堀川、山伏、薬研、鶴丸だろうか。

 けれど、実際に膠着状態にひびを入れたのは、その誰でもなかった。

「山姥切の、よせ」

 いつものんびりと笑っている、ゆったりとした声。鶴の一声ならぬ、月の一声とでも言うべきだろうか。三日月宗近は平素と変わらぬ穏やかな声音で、ただし一切の有無を言わせることなく鋭敏に、冷徹に、国広を諌めた。顕現が遅かったとはいえ、三日月の神格には誰もが一目置いている。国広は気圧されたというわけではないようだけれど、一度ちらりと視線をそちらへ向けて息をつき、殺気を緩めた。わたしの額から途端に汗が噴き出していく。

「だが一期一振、おぬしも大概にしろ。皆まで言わねばわかるまいか?」

 一期一振の顔が、酒のせいでなくカッと紅潮した。いつもマイペースで、好々爺然とした三日月に子どものように叱られては、羞恥を感じるしかないだろう。普段三日月が誰かを咎めたりすることなどないのだから、余計に。
 すっくと立ち上がり、彼は若干ふらつく足取りで大広間を出ていった。薬研がまた申し訳なさそうにわたしに断りを入れて、兄の背中を追いかけていく。粟田口のほかの子たちはほとんど部屋に下がったあとで良かったとぼんやり思う。多くの弟たちにこんなところを見られたくはなかっただろうから。

「主よ、場の空気を悪くしてすまんな」

 三日月がいつも通りの柔らかな空気で述べる。はっと顎を持ち上げて、唇を湿らせた。あんなに出るのを渋っていた言葉は、まるで解放されたかのようにするすると空気の中に連なった。

「いえ、こちらこそ……。わたしよりも、数珠丸さん、ごめんなさい」
「おお、そうだった。数珠丸殿、せっかくおぬしが主役であるというのに相すまぬ」
「お気になさらずに」
「みんなも、急にごめんなさい。どうぞ宴を続けて」

 わたしの言葉を受けて、雨の音に侵食されていた大広間がぽつぽつと喧騒を取り戻していく。厨房からちょうど戻ってきた光忠がまだほんの少し尾を引いている微妙な空気を嗅ぎ取ったのか一瞬怪訝そうな表情をしたけれど、鶴丸に促されて卓の上の割れた盃を片付け始めた。手伝おうかとも思ったが、結局その気にはなれず、ふらふらと自分の座布団へと戻ってぽすんと座り込んだ。

 国広が、無言でお猪口を再びわたしへと寄越す。それを受け取って窺うが、彼はそっぽを向いたまま。弱虫なわたしの喉はまた、ありがとうもごめんなさいも紡いではくれない。

 その夜、一期一振も薬研も宴の席に戻ってくることはなかった。
 乾いた音、手指の痛み、歪んだ琥珀色。記憶と現実を侵していく雨音は、ずっと、わたしの頭の中にこびりついたままだ。

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