四.梅雨が終わる兆しはなく、雨は長く降り続いている。

 手入部屋に名札を掲げると、息をつく。気怠い疲れが全身を覆っていて、すぐにでも部屋に帰って休みたいという欲が頭を擡げるが、すぐに打ち消した。肉体も精神もすり減らしているのはわたしじゃない。実際に得物を手にし、戦っている彼らだ。
 今日の出陣は江戸・白金台だった。ここは難易度が高いから、出陣に割く部隊はひとつだけ、練度もできるだけ高い者で揃える。顔なじみだという太鼓鐘貞宗の顕現を心待ちにしている光忠を筆頭に部隊を組んだ。練度が上限に達していても、刀装が意味を為さなくなって怪我を負うことが多い戦場だから、場合によっては撤退を余儀なくされる。誰かが重傷になったら即刻帰城するよう言ってあるのだが、帰ってきた彼らのほとんどがどこかしら傷を負っていることなどざらで、段々と強さを増していく敵方に背筋が薄ら寒くなる思いだった。重傷どころか、軽傷の者だってそのまま放置していたくはないから、手入部屋はすぐに満室になる。手伝い札を使って部屋を空けることも、しばしばだ。

「主さま」

 掲げた名札に触れたまま、ぼんやり雨の音を聞いていると、ふいに横から声を掛けられた。廊下に立つ人影はわたしよりもずっと小柄で細い。改めて、こんな子どもの姿をした彼らを戦場へと送り出すことに良心が咎められる心地がするけれど、きっとそう思うことは彼らの誇りとも言うべきものを踏みにじることになるのだろう。

「平野、どうかした? 手入が良くなかった?」
「いえ……」

 平野藤四郎は口ごもり、俯いた。いつもはどちらかと言えばなんでもはきはきと受け答えをしているので、何かあったかと足を向けて彼の目の前に立つ。顔を覗き込めば、榛色の瞳はゆらゆらと揺れて明らかに何かを言いたげだった。
 今日の出陣で彼は中傷を負っていた。三日間の修行を終え、極となって帰ってきた平野は様々な能力が格段に跳ねあがっていて、つい頼ることが増えてしまっているのだけれど、負傷することも増えているから何か思うところがあるのかもしれない。それとも、手入にかかる時間が最も短いのだから自分は最後でいいと突っぱねる彼を、光忠と鶴丸と国広が問答無用でいの一番に手入部屋の中に放り込んだことだろうか。それにはわたしも加勢したのだが。

 ──それとも。

「あの……兄のことなのですが」

 平野の指す『兄』とは、ほかの短刀の藤四郎でも、脇差の兄弟でもなく、長兄のことだとすぐにわかった。平野はいつも、どこか哀しそうに、苦しげに、彼のことを話すから。
 行儀のいい粟田口の子らは、一期一振とわたしのぎくしゃくした関係について真正面から尋ねてきたりはしない。それでも当然何かを感じ取ってはいるのだろう。詳細までは知らずとも。

「一期のこと?」

 問えば、平野は瞳を伏せたまま、躊躇いがちに頷いた。小さな薄い唇が、申し訳ありませんと言葉を紡ぐ。それは何に対しての謝罪だったのか。確執があるとわかっていて、それでも尚、わたしに何かを託すことだろうか。

「おそらく怪我を負っていると思うのですが……どこにも姿が見えないものですから」

 今日の出陣のメンバーには彼も入っていた。弟が手入部屋に押し込まれるのを見届けて、そのままふらりとどこかへ行ってしまったから、汚れているのは返り血でほぼ無傷なのだと思っていた。そうではなかったということなのか。軽く唇を噛む。
 教えてくれてありがとう、わたしも探してみるから。不安げな平野の頭をそっと撫でて、手入部屋の前を離れた。申し訳ありませんと再び謝罪の言葉を紡ぐ平野は、それでも先ほどよりは榛色の瞳に安堵の色を浮かべていた。
 謝らなければならないのはこちらだったが、卑怯で臆病なわたしの喉は相変わらず然るべきものを紡ぐことはない。

 雨に穿たれる庭に面した廊下を進み、様々な場所を渡り歩く。彼の自室、粟田口派の大部屋、厨房、大広間、執務室、鍛刀場、厩。多くの弟たち、歌仙と堀川、次郎と岩融、長谷部と清光、愛染と蛍丸、鳴狐と鶯丸。誰に尋ねても、一期一振の居場所は知らないと言った。すれ違う誰かに訊いてみても同じだった。
 一通り回ってみて、収穫を得られずにしばらく逡巡してまごついていたわたしの足は、やがて雨音に誘われるようにしてとある場所へと向かった。まるで別の生き物のように自然と、意思によらず、勝手に動くそこは、本当は最初から彼の向かった先をわかっていたのかもしれない。ただ、臆病なわたしの喉と同じように足も手も目も耳も、自らの弱さを認めることができなかっただけで。

 本丸の端の、あまりひとの立ち入らない静かな区画。書棚や雑貨が乱雑に置かれた、少し埃っぽくて昼間でも薄暗い空間。その納戸の扉にそっと触れ、耳を澄ます。わずかな衣擦れの音と、押し殺した息遣いが中から聞こえた気がした。
 若干立て付けの悪い扉を開けるのに、気付かれないようにするのは無理だから、もう気にせずにガタガタと音を立てて横開きの扉を引いた。そっと足を踏み入れれば、中の空気がぴり、と拒むように少し揺れるのがわかったけれど、わたしを抑制できるほどの強さは保たれていなかった。
 雨の音。雨の匂い。微かに布の擦れ合う音、埃っぽい空気、密やかな呼気。──わずかな、血の臭い。
 いつかと同じように、一期一振は奥の書棚に背を預けて床に座り込んでいた。恰好もあのときと似たり寄ったりで、濃紺の上着を脱ぎ、ワイシャツのボタンは全て開けられ、ネクタイは首に引っかけただけ。ただ、あの日床へと投げ捨てられていた真白い手袋は、今は彼の節くれ立った指と大きな手のひらを覆ったままだった。

「……一期……?」

 小さく声を掛ければ、ふるりと肩が揺れ、薄暗い中に溶け込む空色の髪の下から、鈍く光る琥珀色の双眸が覗く。先ほどの空気と同じように拒むような色を湛えているけれど、やっぱり、わたしを完全に抑え込むまでには至らない。その理由はすぐに知れた。晒された肌の、腹の辺りは大きく包帯で覆われ、ワイシャツで隠れるか隠れないかというぎりぎりのところにわずかに血が滲んでいた。わたしの視線を受けて、乱雑にシャツの前身頃を閉じた彼の息は、綺麗に押し殺せてはいなかった。

 怪我を負っても申告せずに、こんなところでひとり隠れてこっそりと、自ら手当てを施していた理由はひとつしかない。
 手入でわたしに、触れられたくないからだ。

「……」

 少し距離を置いたところで膝をついて座り込む。一期一振はいつになくばつが悪そうに眉根を寄せると、目線を逸らしてまた息をついた。手袋を嵌めたままの指先が器用にワイシャツのボタンを留めていく。顕現した最初の頃の不器用さを思い返して、ほんの少し感慨深くなる。

「手入を……」
「結構です」

 おそるおそる口にした提案は間髪入れずに撃ち落とされた。にべもなく言い放たれて、自然とまた唇を噛む。

「……お気になさらずに。軽傷ですし、慣れていますから」

 良心が咎めたのか、この間三日月に叱られたことが尾を引いているのか、本当にいつになく気まずそうに続けられる。ぽつりと吐きこぼされた声はどこかやさしく、弱々しかった。
 慣れているというのは、痛みがないということにはならないだろう。傷ついて血を流せば、彼らだって痛いのだ。たとえ、ヒトとは違うやり方でその傷を癒すことができるとしても。
 いつものただつっけんどんなだけの態度とは違う、不器用なそのやさしさと弱さは確かにわたしの気を大きくさせた。先日の、振り払われた手を忘れたわけではない。彼がわたしを許したわけじゃないのは重々承知している。それでも、愚かで考えなしなわたしは己のそんな部分を未だ切って捨てることができないでいる。

「一期、やっぱり手入部屋へ行こう……?」

 手に汗が滲むのを、膝の上のスカートの布地を握りしめることで拭った。

「慣れていたって、痛いし辛いでしょう」
「……」
「わたしに触れられるのが嫌だってことはわかっているけど……なるべく触らないようにするから、お願い」
「……」
「どうしても嫌なら、せめて薬研を呼んで……」
「あなたは、」

 ふいに強い語調で言葉を遮られ、目線を上げた。どきりとするくらい真っ直ぐと、射抜くように、こちらを見据える琥珀色。どこか呆然と、絶望を湛えているようにも見えた。薄闇の中で、その宝石にも似た瞳が次第に色を失っていく。
 耳の奥の奥、脳髄のその先まで、記憶と現実の両方から雨音が入り込んでは、わたしを翻弄してやまない。

「あなたは、この場所で私に何をされたか、お忘れになったのですか」
「……いち……」

 ご、と最後まで音を紡ぎきる前に、素早く伸びてきた手に腕を取られ、引っ張られたと思ったら視界がぐるりと反転した。

「いっ……!」

 硬い何かに背中を打ちつけて、短い悲鳴がこぼれ出た。息を吸っているのか吐いているのか、一瞬どちらだかわからなくなって、咳き込んで眦にじわりと涙が浮かんでからようやく冷たい床の上に引き倒されたことに気がつく。髪に触れていた真白い手袋が離されて、顔の横できゅっと拳をつくった。それを見て、ああ頭を打ちつけないようにしてくれたのだなと、まるで見当違いなことをぼんやり考えた。
 頬にぱさりと何かが当たる感触がした。ゆらゆらと揺れる黒。首に引っかけられただけの彼のネクタイがわたしの肌をなぶり、ただただ、記憶を刺激する。

「あなたは本当に、何もわかっておられない……!」

 苦しそうな、慟哭にも似た囁き。至近距離で細められる瞳は熱を持ち、今にもどろりとかたちを崩しそうなほど。彼の背後で微かに埃の粒子が舞っていた。見下ろされ、身体が意図せず震える。それを見て彼がまた、琥珀色の輪郭を曖昧にしていく。

「触れられるのが嫌なのは、怖いのは、主、あなたの方のはずだ」
「……」
「好きでもない男に犯されてあなたは嫌がっていたのに、泣いていたのに、傷ついていただろうに」
「……」
「刀解でもなんでもすべきところを、あなたはまるで腫れ物のように私を扱って、挙句の果てに的外れなことを言う……」

 顔の横で握られていた白手袋が、ゆっくりと移動して床の上に投げ出されていたわたしの手首を押さえつけた。
 あのときと違って布越しに触れるそこは、それでも確かな熱を宿していた。

「この身も、この心も、この想いも何もかも、あなたに心砕いていただくだけの価値などありはしません」
「……一期」
「あんなかたちであなたを抱いて、それでも、」
 ──それでも後悔していないから、自分を許せんのです。

 押さえつける手のひらに力が籠る。脳内で記憶がフラッシュバックする。
 耳を穿つ雨の音。雨と混じり合う埃の匂い。湿った息遣い。衣擦れ。──血の、臭い。



 その男は政府の役人だった。会議や研修でたびたび会ったことのあるひとだったから、油断していた。
 梅雨入りしたばかりの、雨の降る昼下がり。抜き打ちの監査だと言ってやってきた。顕現した刀剣や進軍記録に虚偽の申告はないか、刀剣男士たちの状態は良好か、資材等の隠匿はないか。簡易なものではあるが、予告なしのそういった監査は年に数回ある。だから、そのときも特に不審には思わなかった。ただ、いつもは二人で組になっておこなうものだったので、単独でやって来たその男を不思議には思ったけれど、人手が足りなくてと人当たりのいい笑顔で言われてしまえば、どこも大変なのだなくらいにしか思うことはなかった。

 記録を見せ、行き交う刀剣男士たちに会わせ、お茶を出してもてなした。ここは良い本丸だと褒められれば、悪い気はしなかった。もっと奥まった場所も見てみたい。そう言われても、なんの疑問も抱かなかった。わたしはひどく愚かだった。どうしようもないほどに。
 その己の愚かさに気付いたのは、ひと気のない納戸に引っ張り込まれ、馬乗りになられたときだった。
 それまでの人のいい、にこやかな表情などまるでどこにもなかったかのように男は豹変し、興奮し、息を荒くしてわたしを押さえつけた。声を出せば殺す。そう脅され、口を手で塞がれたが、わたしは自分の身に突如降りかかった恐怖と絶望から、何をすることもできなかった。男がブラウスのボタンを引きちぎり、にやにやと下卑た笑みを浮かべながら肌をまさぐるのを、抵抗らしい抵抗もできずにただ震えながら見ていた。
 さらさらと絹を擦り合わせるような雨の音。それに混じってカタンとどこかで微かに立てられた物音に、わたしを蹂躙する行為に夢中になっている男は気付かないようだった。涙で滲んだ視界に、濃紺と空色の影が一瞬映り込んだ。
 次の瞬間には耳をつんざくような、聞くに堪えない金切り声が雨音を掻き消す勢いで辺りに響き渡った。

 びしゃ、と傍の書棚に血飛沫が飛んだ。悲鳴は続いていた。何が起こったのかわからず、いつの間にか押さえつける手がなくなって自由になった身体を起こすと、わたしに不埒な真似を働こうとしていた男は肩を押さえながら床にもんどりうって倒れ込んでいた。傍に立つ濃紺の人影と、鈍く光る抜き身の刀、そこから滴り落ちる血。頭の中の、凝った部分を削ぎ落とした上澄みの思考だけがぼんやりとわたしの口を動かしていった。

「殺しては、だめ」

 わたしは、わたしを助けてくれたのが誰なのかもわからないまま呟いた。答えはすぐに、返ってきた。

「殺しは、しません」

 わたしはこの声をよく知っている、けれど一体誰なのかがまったくわからない。そんなふうに思った。穏やかで、やさしげで、耳に心地好い、ぞっとするほど冷たい声。目線を上げた。薄暗い納戸の中に凛と咲く、清廉な花のような立ち姿。浅葱の髪、濃紺の軍服、腰に提げられたうつくしい朱色の鞘。一期一振、とそう思う頃には、彼は優雅としか言いようのない所作で長い足を振り上げ、床にうずくまる男の胸を踏みつけていた。

「腕を斬り落とされたくなければ、今すぐその耳障りな金切り声を止めろ」

 刀の切先がすぅっと腕の付け根をなぞると、男は悲鳴を呻き声へと変えた。荒い息はほとんど泣き声混じりだった。わたしは床に座り込んで、一期一振が誰かに命令口調で話しているという稀有な状況をただ声もなく見ていた。

「二度はない。今後一切我が主の前にその汚い面を晒すな。次は殺す。わかったら失せろ、下種」

 穏やかなのに微塵もあたたかさを感じない声は恐怖を煽るものでしかなかったのだろう。胸を踏みつける足がどかされると、男は一目散に、這う這うの体で逃げ出した。それはわたしの嫌悪と憤りを帳消しにできるほど、憐れで同情を禁じ得ない姿だった。

 静寂。雨音。衣擦れ、呼気、空気の揺らぐ気配。
 白手袋を嵌めた指をゆっくりと刃に滑らせ、血を拭うと一期一振は自らの本体を鞘に収めた。とん、とん、とまた空気が揺らいだ。ぱさ、と一際大きな衣擦れの音は彼がマントの留め具を外したものらしく、おそらくそれをわたしの身体に掛けようと向けられた足がぎくりと震えて止まった。
 じっと視線を注がれるのがわかり、わたしも自分の身体を見下ろした。引きちぎられ、乱された服。晒された肌。こく、と小さく喉を鳴らす気配がした。目線を上げると、薄明かりの中で鈍く光る琥珀色とぶつかった。間違いようもなく熱を持っていて、でも、先ほど感じた嫌悪も憤りも今度はわたしの中のどこにもなかった。

 ──あるじ。穏やかで、やさしげで、耳に心地好い、ぞっとするほど熱を持った声がわたしを呼んだ。腰に佩いた刀をゆっくりと外した彼が、殊更ゆっくりと目の前の床に膝をついた。もどかしそうに血のついた手袋を脱いだ指が頬に触れて、熱を移していった。彼からわたしへ、わたしから彼へと。
 は、と熱い息をこぼす彼に噛みつくように口付けられ、押し倒され、乱れた衣服をさらに乱されていっても、わたしは先ほどと同じように、けれど全く違う理由で、抵抗らしい抵抗もせず、ただ受け入れた。この行為はわたしの本意ではないが、それ以上に一期一振の本意でないことはわかりきっていたからだ。彼が出陣から帰還したばかりであろうことをわたしは思い出していた。戦果の報告をするためにわたしを探していて、この場に居合わせたのだろう。ただでさえ気が昂っているところに、今度は人を斬る羽目に陥ってしまった。その血で興奮し、本能のままに女を抱きたいと思ったとして誰が彼を責められようか。
 責められるべきは、迂闊だったわたしだ。この一連の出来事はすべて、わたし自身が招いたもの。

 濃紺の上着が乱雑に放られ、しゅる、と緩められた黒いネクタイがゆらゆらと揺れてわたしの頬をなぶった。熱い吐息が首筋にかかり、視線をそむけた先、床の上に投げ出された自分の手のひらの向こうに打ち捨てられた白手袋が見えた。
 まだ始まったばかりのこの行為の、終わったその先のことをわたしはずっと考えていた。これは事故のようなもので、彼の本意ではない。すべてが終わったあと、彼は悔やむだろう。己を嫌悪するだろう。わたしを許すことはなく、それ以上にきっと、自分自身を許しはしないんだろう。

 あたたかな体温に身体を割り開かれながら、ずっと、そんなふうに思っていた。



 視界の端にちらと映る空色。彼の肩越しに見える天井近くの明り取り用の飾り障子、その空間に浮かぶ埃の粒子がきらきらと舞っている。

「……一期……?」

 わたしにのしかかったまま、ぴくりとも動かなくなってしまった一期一振におそるおそる声をかけるけれど、返事はない。手首を押さえつける手のひらはそのままで、でもそこからは完全に力が抜けていた。耳の傍で立てられる浅い呼気は苦しそうだった。かろうじて自由になる手を動かすと、彼の脇腹に当たった指がぬるりとべたついて、もう散々嗅ぎ慣れてしまったあの金臭さが鼻をつく。

「一期……、いちご、お願い目を覚まして」

 体重をかけられた身体は大きくて重くて、到底わたしの腕では動かせない。なんとか下から這い出ようと試みても、怪我を負っている彼をさらに傷つけそうで怖くなって途中で躊躇ってしまう。どうしよう早く手入を、と気持ちばかりが逸って、動けないのなら誰かを呼ぼうと声を上げかけて、ここが滅多にひとの立ち入ることのない場所なのを思い出して唇を噛む。それをさらに助長する雨音を、今ほど煩わしく感じることはなかった。

 泣きたくなる。どうして、と思う。後悔しているとばかり思っていた。わたしを厭い、嫌悪し、拒絶して、全身で痛みを訴えているのだと。わたしを避け続けることは、そういった意味でしかないのだと思っていた。
 彼はさっき、それは違うと言ったのだろうか。

 突然ガタンと物音がして、身が竦んだ。肩にうずめられた一期一振の頭に妨げられて首を巡らすことができないから、視線だけを左右に動かす。雨音に混じる、衣擦れの音。きしきしと床を踏む足音がすぐ傍でぴたりと止まって、上からひょっこりと、うつくしさの暴力と言っても差し支えないほどの美貌が顔を覗かせた。

「ははは、これはまた、面白いことになっているなあ」
「み、三日月……」
「どれ、さぞ重かったであろう。今どけてやるから少し待っていろ」

 よいせ、と掛け声がして、身体を覆っていた重みがすべてなくなっていく。三日月は引っ張り上げた一期一振の身体をいったんわたしの隣に寝かせた。起き上がって顔を覗き込めば、色を失った面は血の気が引き、整った眉根は苦しげに寄せられていた。汗で額に張りつく前髪をよけてやると、小さく呻いて吐息がこぼされる。ワイシャツに滲んだ血が、その染みを徐々に広げていく。

「ようやく『痛い』と口にできたか、馬鹿者め」

 わたしと同じように一期一振を見下ろす三日月の顔は慈しみに溢れていた。痛みは人体における大切な信号だと彼は言った。心も同じことなのだと。
 どうしてこの場所がわかったのかとか、何も知らないと言いながら本当はすべてわかっているんじゃないかとか、色々聞きたいことはたくさんあったけれど、どれも口にする前に三日月はまたよいせと掛け声を上げて、再び一期一振の身体を持ち上げた。米俵を担ぐようにして肩にのせるものだから、ついはらはらしてしまう。

「あ、あの三日月さん、傷に障るからあんまり乱暴にしないで……」
「はっはっはっ、案ずるな、死なせはせんよ。この程度で死ぬなら、それまで」

 恐ろしいことを口にしながらものんびりといつも通りに笑う三日月宗近は、どこまでもうつくしく、優雅で、そしてあたたかかった。

「我らが主を長く悲しませた報い程度は受けてもらわねばな」

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