五.さらさらと絹を擦り合わせるような雨の音で、目が覚めた。

 雨が降っているのに、春の陽射しのような匂いがする。
 ふわふわと漂うその香りの輪郭を辿るようにして意識を浮上させる。瞼も、唇も、頭の中も、手足の先も、まるで鉛を流し込んだみたいに重くて、身体全体が疲れ切っていることは曖昧な意識の中でも明白だったけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。心地好い香りのおかげだろうか。どこかで嗅いだことのある匂い。ぽかぽかとしてあたたかくて、それでいてどこか、雨に濡れて匂い立つ花のような。

 ふるふると震える瞼を持ち上げれば、嗅覚だけでなく視覚も情報を求め始め、シナプスへと繋がっていく。意図せずぴくりと空を掻いた指先から段々と覚醒を始める身体を、どこか他人事のようにわたしの意識が俯瞰していた。
 カタンという微かな物音。耳を穿つ雨音がほんの少し大きさを増す。部屋の障子を開けたのだろう。組んだ腕の上に頬をのせたままで視線を彷徨わせると、藍色の寝間着に身を包んだ彼が障子に手をかけて雨景色を背景に佇んでいるのが見えた。

「……そんなところに、そんな恰好でいると冷えちゃうよ」

 前にも同じようなことを、彼に言った気がする。
 一期一振がこちらを振り返った。以前は目を見開いたあと、悔恨に顔を歪ませていたが、今はもう少し落ち着いた表情をしていた。

「……その言葉は、そっくりそのままお返し致します」

 言われ、ようやく身体を包む香りの正体に気がついた。床几に突っ伏して寝入っていたわたしに、手入が終わって目を覚ました彼が掛けてくれたのだろう。濃紺の上着はどこも土や埃や血で汚れた形跡はなく、洗い立てのようだった。弟たちが替えを持ってきてくれたので、と彼が続ける。ふわりと漂う春の陽射しは、彼ら独特の香りなのだろうか。

 手伝い札を使って空けた手入部屋に三日月が担いだ一期一振を乱雑に放り込み、ほとんど半泣きになりながら手入を施して、どれほどの時間が過ぎたのだろう。太刀は時間がかかるから、少なくとも数時間は経ったはずだ。入れ違いに部屋を出た国広が運ばれてきた一期一振を見て、軽く息をついたのを覚えている。彼にも色々と面倒をかけてしまったから、あとで話をしに行かないと。

「傍へ……」

 目線を上げる。身じろいだ拍子に肩からずり落ちそうになった彼の上着を、胸元で掻き合わせて言葉を待った。

「お傍へ、寄ってもよろしいですか」

 雨に煙る灰色の景色に、一期一振の明るい空色の髪がよく映えて、綺麗だった。
 頷けば、二、三拍の間をおいて、きし、と畳の藺草がたわんで足音を立てた。ゆらゆらと降り落ちる影。座り込んだわたしの眼前にゆっくりと膝をつくその姿は、あのときと同じようでいて、きっと何もかもが違う。わたしの方でも、彼の方でも。

 わたしたちがこんなにも長く遠回りをして、互いが互いを扱いかねて、すれ違ってきてしまったのは、たぶん、肌を重ねたせいではなく、そのあとで他に重ねるべきものを重ねてこなかったのが原因なんだろう。それは視線であったり、想いであったり、或いは時間であったり。

「一期」
「はい」
「触っても、いい?」

 何よりも、言葉を重ねなかったのが、いちばんいけなかった。

「……はい」

 一期一振が差し出す右手にそっと触れる。あたたかな体温。ごつごつした指先は男のひとのそれだった。ヒトの持つ温度だった。これが正しいことかなんてわたしにはわからない、それでもあの宴の席で彼に手を振り払われたとき、わたしはとても悲しくて辛くて、今はとても、安堵している。

「あなたに再び触れることを望むなど、到底許されないものだと思っておりました」

 繋いだ指先にぎゅっと力が籠る。空いた彼の左手が触れるものを求めて虚空を彷徨って、しばらく逡巡したあと意を決したようにわたしの頬に触れた。言葉を紡ごうと口を開ければ、その端から彼の琥珀色の瞳が何度も輪郭を曖昧にしていくから、どんな顔をすればいいのかわからなくなる。

「わたしは……わたしは一期に避けられて、冷たくされて、悲しかった」

 頬に触れる指がびくりと跳ねて離れていこうとするのを、わたしの空いた右手で引き寄せた。血の通った、あたたかな手のひら。震え、戸惑い、躊躇いながら、それでも彼は触れたことを悔いていないと言った。己を許すことはないままに。

「何かわたしに望むことがあるなら、言ってほしい。わたしも、ちゃんと言うから」

 一期がぐっと唇を引き結んで、泣きそうな表情をつくった。こくりと嚥下する喉仏を見て、ああ男のひとだと、また思う。
 両手を重ね合わせる。それから、視線を。同じようにして言葉を、時間を、想いを重ね合わせていけば、身体を重ねたことですれ違い、失ってしまった様々な何かを取り戻すことはできるだろうか。

 かたちの良い唇が主、とわたしを呼んだ。もう二度と、そんなふうに呼びかけられることはないと思っていた。

「主」
「はい」
「私は嫉妬深い男です。おそらく誰よりも狭量です。それをご理解いただきたい」
「うん……?」
「あなたは山姥切と親密に過ぎる。もっと距離を置いてください。盃の回し飲みなど、もってのほかです」

 ひょっとして、あの宴の席での出来事はそういうことだったのかと、わたしがぱちぱちと瞬きをしている間にも、彼はどんどん言葉を重ねていく。堰を切ったように溢れ、こぼれ落ち、ぐるぐると廻り、降り積もる。雨のようだった。

 お慕い申し上げている、と。一期がいちばん肝心なそれをようやく紡いだ頃には、わたしはすでに涙目になって、これ以上ないほど顔中に熱を集めており、こちらの頬に引き寄せていたはずの片手はいつの間にか彼の頬へと寄せられ、どこにも逃げ場などないと言わんばかりに強く握り込まれていた。
 開け放たれたままの障子の向こうでは、まるで彼の勢いに辟易したとでもいうように雨足がその勢力をずっと弱めて、ただ空と地とをときどき繋ぐだけとなっていた。

 ──きっと、もうじき梅雨が明けるのだろう。

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