わたしには、ひとに言えない秘密がある。

 とは言っても、誰かに話したら自分が死ぬだとか、相手が死ぬだとか、時間遡行軍が時間を遡行しなくなるとか、はたまた地球が滅ぶだとか、そんな大それた秘密では決してない。現に、わたしの初期刀であり、近侍であり、良き友で家族である加州清光だけは、その秘密を知っている。ただ、もし清光以外に知られることがあった場合、わたしは物理的に死ぬことはなくとも、心情的に、あるいは社会的に、死ぬかもしれない。その「かもしれない」を、試してみたいとは決して思わないけれど。

 わたしには、ひとに言えない秘密がある。
 この秘密は、自身の墓まで持っていく所存である。



「あるじさま、おだんごくださーいな!」
「あっ、主さんオレもオレも!」
「僕も欲しいです、主君」
「俺も団子ー!」
「はいはい、押さないで。たくさんあるからね」

 至福の時間だ。
 あたたかな秋晴れの、午後。お八つ時。庭先の縁側に座って、持参した万屋特製団子を箱から取り出すわたしの周りにわらわらと短刀たちが集まる。今剣、愛染、秋田、お菓子と人妻が……いや今は人妻は関係ないか、お菓子大好きな包丁。そのほかにも藤四郎を中心とした、身体の小さな者たち。みんな甘いものは大好きだから、お団子の数はみるみるうちに減っていく。反対に、きゃっきゃという嬌声を聞きつけて短刀たちの数は一人また一人と増えていった。あ、いや、短刀じゃない男士もいるけど。筆頭は蛍丸だけれど、彼はむしろこの輪の中にいないほうが不自然だからいいとして、鯰尾と浦島……も絵面的に可愛いから良しとするが、身長120cmから150cmの子どもたちの中に杉の木よろしく混じっている御手杵という図はどうだろうか。目立つ身の丈のわりに違和感がゼロのうえ、後ろで遠慮がちに俯いていた小夜の背を押して「ほら、遠慮すんなって」と団子を差し出してあげているのが微笑ましいから良しとしよう。君がめいっぱい頬張っているその団子はわたしが買ってきたやつですけどね!

「だがしかし、君らだけはどうしても解せぬ」
「ん? 駄菓子が欲しいのか? 団子を食べている最中だというのに、主は業突く張りだなあ」
「ちっがーう! こういうときばっかり空耳ひどいうえに、ひとを食いしん坊呼ばわりしないでくれます!?」
「主、それよりも俺に茶のお代わりをくれないだろうか」
「君は清々しいくらいに自分の欲望を隠さないね!」

 解せないとはほかでもない、縁側に座るわたしの両側をいつの間にやら陣取って、茶と団子をしっかりと頂戴している、この爺様二人だ。
 声を大にして突っ込みを入れるわたしを爺様二人──三日月宗近と鶯丸は「はっはっは」と軽く笑っていなし、三日月は「そのように眉間に皺を寄せてばかりでは嫁の貰い手がなくなるぞ」と言い、鶯丸は「まあそういきり立つな。ところで茶はまだか」と言う。心の底から余計なお世話だし、マイペースっぷりについていけないしで、わたしの頭の中は非常に忙しい。だいたい、三日月と鶯丸を同時に相手にするだなんて、忍耐を試されるにも程がある。わたしは我慢強いほうじゃないのだ。
 突っ込みきれなくなったわたしを見かねてか、結局お茶に関しては「それなら僕が淹れて参りましょう」という大天使平野の気遣いにより、事なきを得た。本当に、粟田口の子たちはみんな良い子ばかりで頭が上がらない。今度長兄に教育論を論じてもらうことにしよう……。

 どれもう一つ、と伸ばされた三日月の手から団子の箱をひょいと取り上げ、中身を数える。鳩が豆鉄砲をくらったかのように『何故俺の団子を取り上げる……!?』という表情をしているが、この団子はさっきも言ったとおりわたしが買ってきたやつである。まだ部屋に予備があるけれど、そろそろ打ち止めにしないとほかのみんなに行き渡らないかもしれない。今日は本丸通して全日休みの日で、出陣も遠征も演練もおこなっておらず、全員が本丸に残っている。身体の大きな者たちの中には甘いものが得意じゃない者もいるから、全員に配るわけではないが、やっぱりここらでお終いにしておかないと。
 じゃあここまでね、とわたしが箱の蓋を閉めて言うと、聞き分けの良い短刀たち(じゃないのもいるけど)は「はーい」と色好い返事を大きな声でしてくれる。恨めしそうな顔をしているのは三日月だけだ。まったく、業突く張りはどっちなんだか。

 じんわりと耳に沈むような、低く心地好い美声がふいに聞こえてきたのは、そのときだった。

「おっ、どうした、賑やかだな」

 その声を聞いて、わたしの身体はびくりと跳ね、そのまま空に縫い付けられたかのように動かなくなる。硬直し、首を巡らすこともできず、ただ黙って俯いて聞き違いであれと願うが、わたしの耳と脳がほかでもないそのひとの声を間違って認識するはずもなかった。

「おお、鶴丸か」

 三日月がのんびりと、廊下の向こうから姿を現したらしい彼の名を呼んだ。

「なに、主が団子を振る舞ってくれてな。おまえもこちらへ来てどうだ?」
「いや……俺は別に」
「まあそう言うな。なあ、主」
「え、あ、あの……はい……」

 顔を上げることもできないまま、煮え切らない返事をするわたしを意にも介さず、三日月はよいせ、と掛け声を上げていったん立ち上がり、わたしと少し距離を空けてまた縁側に座り直した。悲鳴を上げそうになる。だって、そうしたということは、そこを空けたということは、つまり。

「……じゃあ、失礼するぜ」

 視界にふわりと真白な衣が映り、わたしの周りの凍り付いた空気をその裾がひらりと柔らかく切る。少しだけ顎を上向かせると、彼は優雅としか言いようのない所作でわたしの隣に腰を下ろした。金穂の瞳がこちらを捉えそうになり、慌ててまたそっぽを向きながら、手に持った箱の蓋を再び開けて差し出す。

「あの、よかったら……どうぞ」
「ああ……ありがとうな」

 身体中の体温が上がっていくし、箱を持つ手は細かく震えているし、声が今にもひっくり返りそうで死ぬほどぶっきらぼうな言い方しかできないしで、もう散々だ。そのうえ、おそるおそる目線を上げてみて、またこぼれそうになる悲鳴をどうにか喉の奥で押しとどめた。色の白い繊細な、それでいて節くれ立った男らしい指が団子をつまみ上げ、口元へと運び、桜色の薄い唇がぱくりとそれにかぶりつく。それだけでも大層せいて……いえ、絵になるというのに、繊細な見た目に反してわりと豪快な食べ方とか、それでいて決して見苦しくならないところとか、極めつけに粉の付いた指先をぺろっと舐め取る様とか……、わたしは小鹿のようにぷるぷると震えて、襲い来る荒波にただただ揉まれるしかなかった。
 なんでこんなことに、と全ての元凶であるかの爺様を軽く睨み付けると、ちょうどその藍色の衣から伸ばされた手がひょいっとわたしの手元から団子を一つ掴み上げた。

「あっ、こら、三日月!」
「はっはっは、油断大敵、というやつだな」

 さてはこうなるのを見越してのことか、と思っても既に遅い。三日月は団子をすかさず口の中に放り込むと、残っていたお茶をすすりながらまたのんびりと笑っている。「あるじさまはもうおしまいっていったのに三日月ずるいです!」と今剣にぽかぽかと叩かれていても意に介していない。普段はのほほんと好々爺然としているくせに、なんという策士だ……。
 まったくもう、とわたしも立ち上がり、今剣と一緒になって三日月の背をぺしぺしと叩きながら、ふと視線を横に向けて、みたび悲鳴を飲み込んだ。鶴丸は右足の甲を左の太ももにのせ、その右の膝に頬杖をつくという、まるで彼のためにあるような堂に入った座り方でじいっとこちらを見ていた。その口元はまるで子や孫の遊んでいる様子をやさしく見守るかのように微笑み、金穂の瞳は柔らかく、けれどどこか切なげに眇められている。まって。なんだろうこれは。わたしは、わたしは今、宗教画を目にしているのだろうか。

 ──あ、むり。もう耐えられない。

「あのすみませんわたしちょっと清光に用があったの思い出したのであのちょっと行ってきます」

 頭の悪すぎる言い訳を一息に告げ、すっくと立ちあがるとわたしはその場をあとにした。
 いや、取り繕うのはやめよう。ほぼ脱兎の如く逃げ出していた。その証拠に、わたしは死守しようと思っていた団子の箱を傍にいた鶯丸の手に押しつけるという真似をしてしまった。不思議そうにこちらを見上げる鶯丸の曇りなき松葉色の瞳は明らかに『それよりも茶……』と物語っていたが、知ったことではない。平野、頼んだ。
 全速力で廊下を走るわたしの背に、三日月のあくまでも好々爺然とした「はっはっは」という笑い声が掛けられる。くそう、策士爺様め、覚えてやがれ!



「たのもう!!」
「うわっ、びっくりした」

 目的の部屋の襖をスパーンと開け、中をざっと確認する。部屋の中は目的の人物(いや刀物?)のみで、ほかには誰もいないようだった。都合がいい。わたしは自分がこれから晒す姿を、目の前の彼以外には誰にも見せるつもりはないのだ。わたしの本心を知ってしまっているらしい三日月にだって、とてもじゃないが見せられない。
 この本丸におけるわたしの初期刀であり、近侍であり、戦友で家族で良き理解者である彼──加州清光は、読んでいた雑誌から顔を上げて驚いた顔をしていたけれど、襖を後ろ手に閉めてきょろきょろと辺りを見回すわたしの様子からもう察したのだろう。手元の雑誌に再び視線を落とし、なんてことはない、とでもいうようにのんびりと問い掛けた。

「なに、またいつもの発作?」
「……ハイ……」

 発作。そう呼ぶほかはないのだろう。わたしは常にこの発作に見舞われており、なすすべはなく、我慢もできず、しかし清光以外の誰かに見られることも絶対に耐えられないので、対処としてはこうして一刻も早く彼の元へと駆け込むくらいしかない。清光にとってはいい迷惑だろうが、どうかこれだけは諦めてほしいと思う。ほかのことならいくらでも、彼を初期刀として振る舞うにふさわしくなれるよう努力するから。
 全速力で走ってきたため、ぜえぜえと息を切らしたまま、わたしは清光が座っている座布団の傍に膝をつき、そのままごろりと寝転がった。両手で顔を覆い、しばらく呼吸を整えて、それからすうっと大きく息を吸う。

 わたしには、ひとに言えない秘密がある。それを知られたら誰かが死ぬわけでも、ましてや自分が死ぬわけでもないが、心情的、あるいは社会的に抹殺されることはあるかもしれない、秘密。うん、想像しただけで真っ先に羞恥と罪悪感で死ねるわ。この『死ぬ』は比喩表現として。

 わたしには、ひとに言えない秘密がある。それは。

「……むり……」
「はいはい、無理だね」
「あああああああああああんんんんんんんんんんんむりいいいいいいいいいいい鶴丸国永とうとい鶴丸国永とうとい」
「ははは」

 楽しそうに乾いた笑いをこぼす清光の隣で、ごろんごろんと畳の上を転げまわり、あらん限りの声量で──叫ぶわけにはいかないので、一応部屋の中でしか聞こえないように絞っている。それでも、あらん限りの心を込めているつもりだ。

 つまり、そう、いや、もう、とにかく、あれだ、こう、うん、ああ──。
 要は、鶴丸国永という存在が、すごくとても大変大層しこたまめっちゃ、尊いということだ。語彙力など知らぬ。

「なんなのもうほんとなんなのなんであんな美しすぎるの綺麗すぎるの死ぬほど恰好いいし儚げなのに朗らかで快活だし、し・か・も! あのすべての生きとし生けるものを包み込むかのような微笑みの爆弾はなんなの召されるかと思った宗教画だった天使か菩薩の」
「宗教ちゃんぽんはともかく、その微笑みは包み込むのか爆発四散なのか」
「あとお団子食べてるだけなのになんであんな性的なの? ストイックなのにいやらしいってどういうことなの? 死ぬの?」
「首落ちて?」
「死なないけど! んんんんでも孕みそうあの声聞いてるだけで孕みそうもう孕んでるかもしれないしんどいつらいすき尊いあああああああああ鶴丸国永ああああああああああ」
「主、俺は?」
「うちの清光は世界一可愛いよ!!」

 がばりと跳ね起きて間髪入れずにそう叫べば、清光は「ま、当然かな」と自信ありげにふふんと笑う。それでいてわずかに頬を染めた顔は明らかに嬉しそうで、ああもう、うちの初期刀さまは本日も大変麗しく、世界一可愛いです。

「で、主は今日も鶴丸さんの前から逃げ出してきたの?」
「ウッ」

 そしてまた、うちの初期刀さまは本日も世界一わたしに厳しかった。

「もう今さら主の危ない趣味嗜好にどうこう言うつもりないけどさー」
「あ、まって、清光さん待ってください、あの、確かに褒められた嗜好じゃないのは重々承知してるし、自分で言うなって話だけど、その、実害はないから! まだ罪は犯してないから!」
「犯してたらさすがにドン引きだよ。いや、既にドンドン引きくらいはしてるけどな」
「き、清光さーん?」
「まあ、その話はおいとくとして。鶴丸さんが顕現してからこっち、まともに会話もしたことないってどうよ?」
「ううっ」
「あのひと、なーんにも言わないし平気そうな顔してるけど、やっぱり思うところがないわけじゃあないだろうし」
「ううう……」
「明らかに俺たちに対する態度と違ううえに、あっちは主の本心を知らないわけだからね。嫌われてるって思ってても不思議じゃない」
「嫌いだなんて……!」

 なったことないし、これから先もなるわけがないが、清光の言い分はすべて正しく、今それに反論できるものをわたしが一切持たないことも確かだった。
 でも、でも無理なのだ。あのかみさまと対峙すると、わたしの身体はかちんこちんに硬直し、視線は泳ぎ、喉は引き攣り、言葉は詰まり、それでいて思考と心中には、花咲かじいさんよろしく桜吹雪が絶えることがない。常に桜重ね付け状態、遠征大成功、小判ざっくざくだ。気持ちだけ。

 わたしのもとに、鶴丸国永が現れてくれてから、ふた月あまり。桜の舞い落ちる中にその姿を認めた瞬間からわたしは彼に魅せられ、現在に至るまで常にこの調子である。清光の言うとおり面と向かって会話したこともないし、話しかけられようものならしどろもどろになって逃げ出してしまうし、それでいて物陰からこっそりとその姿を拝しては、ひとり身悶えている。そして清光の元へ駈け込んでは如何に推しが尊いかを語り尽くしている。なけなしの矜持と羞恥心により、こんな姿を晒せるのは清光くらいのものだから、彼にはいつも頭が上がらない。たとえその対応の塩分濃度が徐々に濃さを増してこようとも。
 たとえば美しい刀剣男士は鶴丸のほかにもいて、というか彼らはタイプは違えどみんな見目も気立ても良いけれど、わたしがこんな気持ちを抱いているのも、こんな奇怪な行動を取ってしまうのも鶴丸に対してだけだ。かと言って恋仲になりたいだとか、あんなことやこんなことをしたりされたりしてみたいだとか、そんな大それた欲望は決して……、いや無きにしもあらずなんだけど、でもそれはあくまで妄想の産物であって、実際には遠くから眺めつつ床を転げまわりながら、きゃーきゃー言っていたい。まさしく『推し』なのだ。たぶんわたしのような審神者は少なくないはず。

 ただ、わたしのこんな態度が、当の鶴丸に困惑を与えているということも、わかっては……いる。

「わかって、わかってはいるの。こんなの自分のためにも周りのためにもやめたほうがいいって、何より鶴丸に対して失礼だって」
「主……」
「でもね清光……あなたなら自分の推しに対して『ちょっと羽織の匂いくんかくんかさせてください』って言いそうになるの、抑えられる?」
「もう一生そこで転がってなよ」

 わたしが鶴丸を嫌っていると彼に勘違いさせているだなんておこがましい。あんな態度を取り続けているわたしのほうが、鶴丸に嫌われているんじゃないかと危惧して然るべきなのだ。



「この甘味は、驚くほど美味いなあ」

 ひらり、ひらりと。一枚の桜の花弁がわたしと彼の間を隔てる空気を柔らかく切るように、あるいは包み込むように、ゆっくりと舞い落ちて、わたしの足元へと運ばれた。

 ぽかぽかとしたあたたかい陽気、気持ちのよい風、微かに漂う甘い香り。うつくしい庭先を背景に濡れ縁に座して佇む、真っ白な着物の後ろ姿。しゃらりと絹を擦り合わせるような音を立てる鎖型の飾り、輝く白銀髪、じんわりと耳朶に染み込んでいく低い美声。ああ、今日もわたしの推しが素敵に尊い。思わず伏し拝みたくなるほどだった。
 わたしの本丸に鶴丸国永が顕現してから、半月ほど経った頃だったろうか。その日、彼は旧知の仲だという燭台切光忠と大俱利伽羅とで集まって、旧交をあたためていた。燭台切は自分が持参した、ちょっと高級らしいチョコレートを鶴丸に振る舞い、少し離れたところで柱を背にしてそっぽを向いている大俱利伽羅にも、苦笑しながら勧めている。その際、チョコレートの銘柄が見えた。うん、そこのチョコ少しお高いけど美味しいよね、わかる。
 わたしはそのときどこで何をしていたかって? いやいや、旧友水入らずの空間に空気も読まずに割り込むなんてことはしていない。ただ、ちょっと離れた物陰から推しの様子を観察していただけだ。景観台無しとか言わないでほしい。わたしが楽しむ景観にわたし自身は映らないから、それで良いのだ。

 喜色を滲ませた驚きの声をあげる鶴丸に、燭台切がにこにこと笑いかける。

「チョコレート、気に入ってくれたみたいで良かった。甘味は疲れを癒す効果もあるから」
「そうなのか」
「食べすぎは良くないけれどね。もう一つどうかな?」
「ああ、もらおうか──」

 そのとき、ひら、と鶴丸から桜の花弁が舞い落ちた。
 幼い子どもがおやつを与えられたときのような喜色に満ちた声と表情。期待を膨らませて伸ばされた手。その手は燭台切の持つチョコレートの箱に辿り着く前に突如ぴたりと動きを止め、そのまま下ろされる。「鶴さん?」という伊達男の不思議そうな声に、「光坊」という真摯な声が続く。ずっと思ってたけど、あだ名で呼び合ってるの羨ましいなチクショウ。

 鶴丸は行き場をなくした手を誤魔化すようにひらひらと振ると、そのままくしゃりと笑って肩を竦めた。

「いや、やっぱり俺は一つだけでいい。俺にくれる分がまだあるなら、それはあの子にやってくれ」
「あの子?」
「主だよ」

 え、という声が意図せず漏れ出て、慌てて口を両手で覆って身を固くしたけれど、燭台切もまったく同じ音の声を発したらしく、二人にわたしの声が聞こえた様子はなかった。
 ただ、二人から少し離れたところで柱に寄りかかって座り込んでいる大俱利伽羅だけがわたしに気がつき、胡乱気な視線を向けてくる。人差し指を口に当てて「しー」と囁くと、面倒くさいと言わんばかりに目を逸らされた。黙っていてくれるらしいのは有難いが、その反応はあるじ若干傷つきます、伽羅ちゃん。

 いや、いやそれよりも、鶴丸は今なんと言っただろうか。あるじ、と言ったのだろうか。この本丸に、主と呼ばれる存在は一人しかいない。それは、わたし。わたしは、主。なんだか哲学的な思考になってきたが、そんなことより、何故、どうして──。

「話しかけると何故かいつも逃げられちまうから、俺の見当違いかもしれねえが、いつも顔つきが固いから、ひょっとしたら疲れが溜まっているんじゃないかと思ってな」
 ──だから主にも、その甘味を分けてやってくれるかい。

 ひらり、ひらりと。一枚の桜の花弁がわたしと彼の間を隔てる空気を柔らかく切るように、あるいは包み込むように、ゆっくりと舞い落ちて、わたしの足元へと運ばれた。
 先ほどチョコレートのおかわりを手に取ろうとした鶴丸が出した、刀剣男士特有の誉桜。気分が高揚したり、かなり調子が良いときなどに発せられるもの。緩やかな風にのせられ、わたしと彼をつなぐ遠いようで短い、近いようで長い距離を旅してきたそれを、つまんで持ち上げる。この桜の花びらは、彼らの心と身体の在り様そのもので、決して嘘をつかないものだ。嬉しそうな声と表情同様に、ほんの少しだが桜を出すほど、鶴丸はチョコレートをお気に召したのだろう。でも。

 つまんだ花弁は、ふわりと空気に溶けるようにして消えた。何も驚くことなどない、これはそういうふうにできている。
 けれど、その瞬間にわたしの胸は、指先は、喉は、視界は、まるで世界を小さな瓶の中に仕舞って詰めて無理に押し込んで弾け飛んで割れてばらばらに飛び散ってしまったかのように、ぎゅーっと痛んで、痺れて、引き攣って、ちかちかと眩く瞬いた。

 ああ──なんということだろう。顕現以来、あまりに尊すぎてまともに彼の顔を見ることすらできないわたしを悪し様に言うどころか、疲れているんじゃないかと気遣ってくれたうえに、誉桜が出るほど気に入った好物を分け与えようとしてくれるなんて!

「え、ああ、これはもともと主にも差し入れるつもりで、別に取ってあるんだけど」「そうか! さすが光坊は気遣いのできる男だな、俺が出しゃばるまでもなかったか」「いや、その、うん……たぶん鶴さんは盛大な思い違いをしていると思うんだけどね……」という会話を聞くのもそこそこに、わたしは脱兎の如くその場をあとにした。最後に心底呆れ返ったような大俱利伽羅の声で「……茶番だな」と聞こえてきた気がしたけれど、それどころではない。
 まず当然わたしは清光のところへ駆け込み、遠慮なく盛大に『発作』をぶちまけたあと、自室に立てこもってパソコンを立ち上げ、大手から口コミ人気に至るまでチョコレートブランドの通販ページを片っ端から開いては吟味した。その日、わたしのクレジットカードが火を噴いたことは言うまでもない。

 数日後、大量のチョコレートを前にして、正座で燭台切にお説教をくらうわたしの姿がそこにはあった。これぜんぶ鶴丸にあげたい、とチョコレートの山を見せたときの、いつも温厚な燭台切の顔が般若に取って代わるのを目の当たりにしたのは、後にも先にもこのときだけだ。

 一個だけなら、というお許しが出たので、厳選に厳選を重ねた珠玉の一種を選び、わたしの名前はくれぐれも出さないようにと頼み込んで、燭台切から鶴丸に渡してもらえるようお願いした。「主が自分で渡したほうが、きっと鶴さんも喜ぶのに」と呆れ返ったように言われたけど、考えるだけで動悸息切れが凄まじくて到底できそうもないし、やっぱりわたしは遠くからこっそりと眺めているだけのほうが性に合っている。
 ああ、でも。いつも逃げられてしまう、と言ったときの彼の表情が、わたしの妄想か幻でなければ、ほんのちょっと寂しそうに見えたから、いつかわたしがもっと打たれ強くなれたら、きちんと向き合って、あのうつくしい金穂の瞳をじっと見据えて、せめて数分間だけでもお話を、してみたいものだと思う。

 そんな小さな望み、小さな思惑──自分だけが知る、幼い頃によく見たスノードームのようにキラキラした小瓶の中の小さな世界を、ずっと夢に見ていた。



 なんだか、いい香りがする。

 深くて甘い、落ち着いた、品の良い香り。柔らかな秋の陽射しにじんわりと溶かされるような、やさしげな匂いだ。どこかで嗅いだ覚えもある気がする。何かのお香だろうか。歌仙に聞いたらわかるかもしれない。
 漂う香りに誘われるようにして、うとうとと微睡んでいた意識が浮上していく。ああ、でも、まだ目覚めたくない。夢の中へ戻りたい。だって、いい夢だった。鶴丸がいた。顕現して間もない頃の。チョコレートを食べて密やかに桜の花弁を舞わせていた鶴丸。限定的にコミュ障拗らせたわたしをやさしく心配してくれた鶴丸。勘違いでなければ、わたしに逃げられることを寂しいと感じてくれていた鶴丸。むり。尊いが過ぎる。

 数週間経った今も彼の尊さは変わらず、むしろその輝きは増すばかりだが、それに比べてわたしの成長のなさといったらどうだろう。数分間会話するだけという小さな小さな目標は、達成するどころか夢のまた夢と化している。あんな態度を取られ続けたら、どんなひとも控えめに言って良い気分にはならないだろう。いや、現実逃避という名のオブラートに包んで言うのはやめよう。絶対、嫌われてる。泣きたい……。

 夢の続きを見たいという、現実からの逃避はまたしても許されることはなく、わたしの意識はどんどん鮮明になっていった。鼻腔をくすぐる甘く深い香りも、その濃さを増す。この香り、もう少しで思い出せそうな気がする。深くて、あたたかくて、やさしくて、上品な香り。そう、まるで鶴丸にぴったりな──。

「……あ、れ?」

 かちり、と脳内でパズルのピースが当て嵌まったと同時に、ぱちりと視界が開ける。わずかにぼやけた視界は時が数秒刻まれるごとに徐々に鮮明さを増していく。見慣れた自室の天井。昨夜は遅くまで書類仕事をしていたから、午後からちょっと眠くなってしまって、少しだけ昼寝をしようと座布団を丸めて枕にして横になったんだった。どのくらいそうしていたんだろう、今は何時だろう。いや、いや、待ってわたし、たぶんきっと、今それどころじゃない気がする。ものすごいことが起きている予感がする。
 ふわ、と漂う甘い香り。身体を包む、あたたかなもの。寝ている間に誰かが掛けてくれたらしい、その布を、おそるおそる手繰り寄せ、寝そべったまま眼前まで持ち上げた。香りがまた、つよくなる。そして視界いっぱいに広がる清らかで静謐な、いっそ暴力的なまでの──白。

 鎖型の飾りが、しゃらりと絹を擦り合わせるような音を立てた。

「……おー、まい、がー……」

 あまりの衝撃に何故か英語が口をついて出たが、わたしのゴッドは間違いなく彼である。
 ああ──なんということだろう。いや、なんということだろう! とんでもないことが起きてしまった。これは夢の続きなんだろうか。それとも、わたしは寝ている間に衰弱死して天国へと運ばれてしまったのだろうか。まさか、まさか直にこの羽織に触れられる日がやって来ようとは。このまま召されてもいい。もう召されているのかもしれないけど。

 羽織を持つ手が震え始めた。もしこれが夢でも幻でもなく、わたしが召されたわけでもないのなら、それはそれでとんでもないことが起きたものだ。だって、そういうことだろう。どういうことって、そういうことだろう。彼が、ここへ来た。何か用があったのか、偶然通りかかっただけなのかわからないが、わたしが昼寝をしているのを知り、身体に何も掛けていないのを見て、寒くならないようにと、あるいは風邪をひかないようにと、自身の着ていた羽織を脱ぎ──。
 あ、だめ、むり。むりむり。

 辛抱たまらなくなり、わたしは手にしたその羽織をぎゅうっと抱きしめて、フードにあたる部分に顔を突っ込んだ。深く、甘く、やさしい、秋の夕べのような香り。きっと何かのお香を焚き染めてあるんだろう。すぅっと吸い込むと、それだけで胸がいっぱいになって、全身になんとも言えない甘い痺れが伝わった。わたしの中の、小瓶に詰めた小さな世界が、溢れる想いでどんどん膨らんでいって、メモリが足りないと言わんばかりに窮屈さを訴えて、躊躇いも遠慮も何もなく、突然ぱん、と弾けて割れる。

「……むり……」

 だってだって、わたしあんな感じ悪い態度しか取れないから、てっきり嫌われているもんだと思ってたのに、それが突然こんな、そんなこんなあなや、

「むっ、むりいいいいいいいいいいウワアアアアアアアアアアンンンンやさしいいいいいいいいいいふえええええええすきすき鶴丸だいすきーーーーーーーー」

 羽織を抱きしめたまま、もはや様式美とも言える流れでごろごろと畳の上を転げまわる。ついでに好機だとばかりに、顔を突っ込んだままの衣に焚き染められた香りをくんかくんかし、すーはーすーはーした。これはまさに命の洗濯だ。心が洗われる。わたし生きてる。これで明日からも生きていける。わたしの推しがこんなにも尊い。ありがとう、嗚呼ありがとう、ありがとう。審神者渾身の一句である。きっとわかるひとにはこれですべて伝わる。
 わかるひと、という、わたしにとってのいちばんは当然初期刀さまだ。ああ、もう早くこの感動を清光に伝えなくては。床をのたうちまわる状態からうつ伏せになり、浜に打ち上げられた魚よろしくピクピクと跳ねながら、そう思い至った矢先のことだった。

「あ、あーるーじー……」

 上方から降る、どうしたものかといったふうな声。紛うことなき、わたしの世界一可愛い初期刀さまの声だ。え、伝えなきゃって思った瞬間に現れてくれるなんて、もうこれって運命なのでは? 世界がわたしと鶴丸を祝福してくれているんでは?
 顔に付いているパーツというパーツを駆使して幸せを満喫し、『喜色満面』という四字熟語をそのまま貼り付けたような顔面をがばりと起こす。──わずか一瞬あとには、その四字熟語が『顔面蒼白』へと取って代わるだなんて、わたしは、夢にも思わずに。

「聞いて清光たすけて死にそうなの鶴丸の羽織くんかくんかの夢がね今こ……こ、に……、……」

 血の気が引く、というのは例えでもなんでもなく、本当にまるで死んだみたいに全身の血液が冷たくなるときのことを言うのだな、と思った。

 うつ伏せに寝転んだ状態から首を擡げても、そこに立つ彼──彼ら──の顔までは目線が届かず、視界に入ったのはまず清光の黒と紅を基調とした洋装。内番服じゃないのは、今日は朝から遠征に行っていたからか。部屋の襖は開けられ、彼は廊下に立っている。そして、そして、その後ろに佇んでいるのが見える、清光の装いとは対照的な、白を基調とした、和装。薄墨色の、袴。ああ──それを今この瞬間ほど視界に入れたくないと思ったことがあっただろうか。いや、ない。絶対にない。
 目線をそこからさらに持ち上げ、わたしは清光の顔を見た。その顔は完全に一言で説明できるものだった。その一言とは即ち「あっちゃー」である。それ以外になかった。そして、わたしは悟る。初期刀さまのその反応から、『先ほどのわたしの一連の所業は見られてもいないし聞かれてもいなかった』という可能性は、万に一つもないのだと。

 まどろっこしいことを言うのはやめよう。要するに、こうだ。──何もかも、終わった。

「いや、あの、ごめん。一応外から声かけたんだけど、反応なかったから」
「……」
「まあ、うん。遅かれ早かれ、いつかはこうなるべきだと俺は思ってたから。じゃあ頑張って」
「……」

 獅子は我が子を千尋の谷に落とすという言葉があるが、うちの初期刀さまもそのタイプらしかった。わたしは人間だし、清光は刀だし、わたしたちは親子じゃないけど。
 わたしを盛大に崖から突き落とすと、清光はその場をあとにし、去っていった。骨も拾ってくれないなんてひどすぎる。いや、灰と化しているこの状態で骨が残るはずもないんですけれども。

「……」
「……」

 重苦しい沈黙が流れる中、わたしはもう何もかも諦め、のそのそと起き上がり、正座をした。羽織は軽く畳んで膝の上にのせたが、もうわたしにそれを触られることだってきっと嫌だろう。ああ、せっかく彼が気遣ってくれたのに。あんな態度を取り続けていたわたしを許してくれたばかりでなく、さらに大きなやさしさまで与えてくれたというのに。わたしは、それらをぜんぶ踏みつけてしまった。如何に彼の懐が深かろうとも、これにはさすがにドン引いただろう。あ、自分で言ってて悲しくなってきた。もう消えたい。それかミトコンドリアになりたい。

 願望という名の現実逃避が渦巻く中、とにかくまずは謝罪をすべきだろうと、鉛でも詰め込んだのかというほど重々しい口を開いたときだった。思いもよらない言葉が、頭上から降ってきたのは。

「……良かった」
「……?」

 聞き違いかと思い、おそるおそる視線を上げる。わたしを見下ろすその顔は、さぞ青く引き攣っているか、侮蔑に歪んでいるかと思ったのに、実際に目にするそれはそのどちらでもなく、あろうことかうっすらと朱に染まり、嬉しそうな、ほっとしたような──そう、安堵の表情を浮かべていた。

「俺は、きみに嫌われているわけじゃなかったんだな」
「……」

 今わたしが目にしている彼の表情。もしくは今わたしが耳にした彼の言葉。そのどちらかだけでも、わたしの予想通りのものであったなら、もう片方も夢か幻か自分自身のバグだと断定することができるのに。目と耳と両方コンボで決められては、もはやなすすべなどない。なんだろう、これは。なんだろう、これは!!
 感じの悪い態度しか取れないわたしのことを悪し様に言うどころか、気遣って親切にしてくれたうえ、さらには本性を目の当たりにしてしまってもドン引かず、あまつさえ「嫌われてなくて良かった」だと?

 天使か? はたまた菩薩か?

「圧倒的……光……!!」
「うぉっ」

 わたしは正座をしたまま、前のめりに倒れてその場でごつん、と額を畳に打ちつけた。

「うっ、ウゥッ……」
「大丈夫か、きみ? 泣いているのか?」
「鶴丸尊い……一生推せる……」
「押せる? 押す? というのはよくわからんが……、とにかく悪く思われてはいないようで安心した」
「KAWAII……」

 おせる、の漢字変換が明らかにできていないっぽいところも、もう尊いが過ぎて、一言で言って、もうむり。清光、戻ってきて。そしてわたしの思いの丈を聞いて。対応の塩分濃度がどれだけ濃くなってもいいから。
 畳の上に倒れ込んだ態勢のまま、膝に抱えた羽織をぎゅっと握りしめる。甘くて深い、秋の夕べのような香り。わたしをこの上なく落ち着かせてくれるのに、くらくらと酔わせてもくる、麻薬みたいな、鶴丸の香りだ。

「羽織をありがとうございました……」
「ん? ああ。転げまわるほど喜んでもらえたんなら、俺も嬉しい限りだ」
「うっ……ほ、本当に引いてない? 気持ち悪くない?」
「驚きはしたが、それだけだなあ。それより主、俺からもひとつ礼を言わせてくれ」
「はい?」
「ちょこれーとをくれたのは、きみだったんだな」

 思わずがばりと身体を起こし、鶴丸を見上げた。真っ白な肌が微かに上気して、頬から首元にかけてうっすらと色付いている。羽織を着ていないと首や襟足がよく見えて、大層せいて……いえ、絵になる……いや、もう何もかも発覚してしまったのだ、取り繕うのはよそう。性的だ。えっちだ。尊い。かわいい。かっこいい。すき。

「光坊の口ぶりからしてきみだと思ったんだが、避けられてもいるし、よくわからなくてな。だが、ようやく本当のことが知れて良かった。あのとき俺が美味いと言っていたのを見て買ってくれたんだろう? ありがとうな。美味かった」

 見た目は天使、言動は菩薩、微笑む姿は聖母かな?

 耐えられなくなり、今度は畳に倒れ込む代わりに両手で顔を覆う。なんということだろうか。顔中が熱い。いたたまれない。消え入りたい。逃げ出したい。そして何より、恥ずかしい。先ほどわたしの性癖が発覚してしまったときとは、似ているようで違う。さっきはとにかく青くなって絶望するばかりで、こんな恋する乙女のような羞恥に見舞われることはなかった。今はただ、とにかく恥ずかしい。
 あのときチョコレートを堪能する鶴丸をこっそりと見ていたこと、気を遣ってくれたやさしい彼を喜ばせようとチョコレートを届けたことのほうが、床を転げまわって叫んだり羽織の匂いを嗅いだりしていたのがばれたことよりも恥ずかしく思うような秘密になろうとは。いや、もう秘密でもなんでもないんですけど! それと燭台切にはあとで文句を言いにいきます!

「……この秘密は墓まで持っていくつもりだったのに……」

 ぽそりと囁くように吐き出した言葉に、すかさず返答が被せられる。

「そいつは無理な相談だなあ」

 するり、と衣擦れの音がした。着物と畳が触れ合う音。おそるおそる指を少し開いて隙間から眼前を見やれば、鶴丸はわたしと目線を合わせるようにして腰を下ろし、そして──もう先ほど以上はないと思っていた、圧倒的光属性爆弾発言を、どうあっても避けようのないゼロ距離から、まともに被弾させてくれた。

「俺は、きみの墓に一緒に入る心づもりだぜ?」

 しゃがみ込んで、頬杖をついて、小首を傾げ、からかうように、でもどこか照れくさそうに、にんまり笑ってそう告げる鶴丸を前にして、神はわたしに試練を与えたもうたに違いないが、仮に勝敗を分けるとするならば、その結果はきっと天地が分かたれる前から、この世が男と女で構成される遥か前から、決定付けられていたに違いなかった。

「……むり……」

 これまで散々酷使されて、木っ端微塵に割れては弾け飛ぶことを繰り返してきた、わたしの中の小瓶に詰められた小さな世界が、これ以上の修復は不可能と言わんばかりに「いい加減にしろよ!」と叫び出す。
 畳に突っ伏す、両手で顔を覆う。その程度でわたしのこの『発作』が治まるはずもないのだ。やはり、やっぱり、わたしの最後の砦は初期刀さましかいない。ぷりーず、かむばっく。ぷりーず、かむばっく!!

「清光ー!! きよみーつ!!」
「おっと」

 開け放されたままの襖に手を伸ばして叫ぶも、その襖はあっけなくぱたんと閉じられた。

「俺の一世一代の告白を前にして他の男の名を呼ぶなんて、無粋じゃあないか」

 凄絶な美貌がにっこり微笑む(と書いて『すごむ』と読む)のと、襖の向こうの遥か遠くから「加州清光は今から休暇に入りまーす」という無慈悲な声が聞こえてきたのとは同時だった。

「さて、時間はたっぷりある。邪魔も入らない。というわけで今からゆっくりと、きみの話を聞かせてもらうとしようか」

 ああ、ああ、もう。今日はなんて日だろうか。わたしの小さな世界は一変してしまった。いつか目を見てお話できたらいいな、くらいのささやかな望みしか持っていなかったのに、もはやそれどころではなく、一足どころか百足も千足も飛び越えた、まさかの墓入り宣言である。池で鯉に餌をやっていたら突然キリンが現れたみたいな勢いだ。いや、もうなにがなんだか自分でもわかっていない。こんなのわかるわけがない。
 ただ、あまりの目まぐるしさに気が遠くなりそうな中でも、わたしはわたし自身を失ってはいないらしい。これから休暇に入るという清光の「主、ほんとブレないね」という声が聞こえた気がする。

 ぱちり、と鶴丸と視線が合った。チョコレートのお礼を言う際に見せてくれた、慈愛に満ちた聖母のような微笑みではなく、小悪魔的な、意地悪で楽しげな、どこか見下しているようにも見える、笑み。
 新たに知った鶴丸国永の魅力を、わたしは己のメモリにしかと刻みつけた。

 ──ああ、その顔、すきです。

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