その日は胸騒ぎがした。吾輩は落ち着かず、ずっと屋敷の前をうろうろしていた。どういうわけか今日は知り合いの猫にも会わず、一匹で過ごした。
 今日はご主人は塾にずっと居た。銀時や小太郎、晋助はそれがたまらなく嬉しかったようで笑顔を絶やさなかった。だが吾輩は、それに違和感を覚えた。何故か今日に限って吾輩はそれを疑わずにはいられない。ご主人の微笑を見ていたら、それが最後のようにしか思えなかった。
 今日は吾輩の勘は外れてくれ。

 願ったその晩、吾輩は見た。

 燃える松明。黒服。笠。男たち。――ついに来たのだと、確信した。
 平穏が崩れる。ご主人はバクフだとかいう連中に連れ去られるのだと、すぐさま分かった。
 たわけが。ご主人、貴方の役目はここで潰えるようなものではないことは、貴方が一番知っているだろう。こんなところでこの餓鬼共を放ってどこかへ行けるほど、餓鬼共は出来ていない。ご主人が居なければこの者たちは潰れてしまう。そのことは、貴方が一番知っているだろうに。
「テメらァァァァァァ!!!」
 ほうれ見てみろ、銀時は奴らに立ち向かって行くではないか。目の前の大切なものを護ろうということしか考えておらぬ。奴らがどういう立場なのか理解しておらぬ。
 ご主人、こ奴らには貴方が必要なのだ。
「シャ――ッ!!」
「ンだこの猫は!?」
 人間のややこしい事情など吾輩の知ったことではない。そんなこと吾輩は興味がない。
 ――だが、餓鬼にこんな顔をさせるぬしらを、吾輩は許すわけにはいかぬ。餓鬼はただ笑っていればいい。餓鬼を血色に染め上げるぬしらの喉笛は、吾輩が掻っ切ってやれば良い話だ。だから銀時、そんな顔をして剣を振るおうとするな。
「名前っ!!?」
 吾輩も甘くなったものだ。そう思った瞬間、吾輩の腹に鋭い衝撃が襲った。力が出ず、その場に倒れてしまう。
首を僅かに上げれば、ご主人がひどい顔をしていた。人間とは顔で様々な感情を表現する。その時見たご主人の顔は、今まで見たことのない感情を出していた。
「名前っ…名前!!」
 小太郎の涙声が耳を震わせる。そうか、こいつは猫が好きだったな。好きなものがこんなみっともない姿をしていては嫌だろう。済まぬな、しくじった。
「猫如きに抜刀するな。蹴り殺せば良いものを…」
「おい、俺の脚を見てみろ。このクソ猫の所為で血が出てやがる」
 誰がクソ猫だ。そう言ってもう一度噛んでやりたがったが体が言うことを聞かなかった。か細い声しか出ない。だが触覚は生きているようで小太郎の冷たい手が触れる感触がする。それと、熱い痛み。目玉を動かしてみると、小太郎が涙をボロボロとこぼしているのが視界に入った。これも人間の特徴の一つだ。吾輩ら猫は涙など流さない。
「小太郎、早く名前の手当てをしてあげなさい」
 ご主人の声。少し小さく聞こえる。「せ、先生…」「私は大丈夫ですから。ね、早く」二人の会話が遠い。もう少し大きな声で喋ってくれぬか。
 視界の端では銀時がバクフの連中に捕えられていた。杖で前を拘束されている。その後ろでは晋助が茫然と場を凝視していた。
 ふと、自らの主人を護ろうとして殺された猫を思い出す。吾輩は馬鹿にした。吾輩ならもっと上手くご主人を助けてやれる。そう思っていた。…が、そう簡単にはいかぬものよ。
「先生ェ―――――ッ!!!」
 銀時の叫び声に吾輩の意識は現に覚醒する。ご主人は月を掲げて凛とした態度でこの場を去って行った。
 待て、行くな。そう言ってやりたい。駆け出したい。捕まえたい。想いを吐露したい。この時、吾輩は生まれて初めて、心の底から人間になりたいと思った。
 もう小太郎の吾輩を労わる声も、銀時の慟哭も、晋助の怒声も何もかも聞こえない。耳が良い筈の吾輩にはもう、何も聞こえなかった。
 暗い夜の筈だった。だけどどういうわけか吾輩の視界には昼間の暖かい日差しに座るご主人が映っていた。ご主人、ご主人。鳴くと、ご主人は振り向いて、吾輩に笑顔を向けてくれた。それに安心したのだろうか吾輩の体は重くなり、目蓋が落ちてきた。

 あたたかい手に撫でられる感触を味わいながら、吾輩は静かに目蓋を閉じた。
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