04
甘い匂いが充満する。普段ならその匂いもわくわくと心躍るものだったが、やはりそういう気分にはならなかった。こんな時にお菓子作りなんてするんじゃなかったと錦は息を吐いた。少しの気晴らしにでもなればと思いやってみたのだが、どうやら失敗に終わりそうだ。そもそもこれを思いついたのはディ・ロイとの会話を思い出したからだ。あれからグリムジョーと帰ってこない彼らに、一体何があったのだろう。最悪の情景が思い浮かぶ。生クリームと真っ赤な苺が綺麗に入っているロールケーキとは裏腹に、錦の心は灰色になった。
(…そういえば、私っていつからこんなもの作れるようになったんだ…?)
屋敷で現世の菓子など作った経験はない。とするならば、ここで作ったとしか考えられないが、錦はずっと眠っていたのだ。作る機会などない。一体いつレシピを調べて作ったんだ?それも、覚えられてしまうほど。
――何か忘れている気がする。
途端、急に恐ろしさが襲ってきた。身震いして身を抱くが、あまり意味がなかった。
「よォ」
黒い海に沈んでいた意識が引っ張りあげられる。聞き覚えのある声に肩を跳ねさせて振り返ると、三日月の笑みを浮かべたノイトラが佇んでいた。
「こんなとこで何してんだよ」
「…っ」
彼は以前、グリムジョーが傍にいない時に襲撃してきたのだ。あの時の光景を思い出して緊張に胃が締め付けられる。錦はいつその大きな武器が振り下ろされても良いように身を固くした。
しかしノイトラの視線は錦でなく、その背後に注がれていた。
「何だそれ」
「え…」
ひょいと細い手で持ち上げられたロールケーキ。彼の凶悪な風貌と似合わないそれに、何だか緊張が解けてしまいそうになったが気を引き締める。しかし次の瞬間、ノイトラが大きく口を開けてロールケーキを頬張ってしまったため「へぁ」と間抜けな声が漏れ出てしまった。彼は錦のそんな声など聞こえなかったのか、一度もぐもぐと咀嚼したあと、何故か思案顔をしてもう一度それにかぶりついた。
「おい」
「な、なに」
「これの名前は」
洋名なのにこの洋菓子の存在を知らないのか。「ロールケーキだけど」戸惑いながらも教えてやれば、ノイトラは何とも言えない顔をした。「テスラ」いつの間にいたのか彼の背後に従属官が控えている。
「はい」
「これの作り方をこいつに教えてもらえ」
「…はっ!?」
テスラの顔が歪むが、それを一瞥さえせずにノイトラは出て行ってしまった。取り残された彼の纏う空気は悪い。声をかけて良いものか迷っていると「おい」と先に呼びかけられた。彼の表情は声音とよく合っていた。
「時間が惜しい。さっさとやり方を言え」
涼しい顔で、テスラは言い放った。
*
「くっ…何故上手くできない!?」
先程の涼し気なそれとは真逆の顔をして、テスラは苛立たしげに後頭部を掻きむしる。
「いやでも初めてにしては上出来なんじゃ…」
「だがお前が作るものと味が違うじゃないか!」
テスラは確かに錦の言われた通りの手順でロールケーキを作った。しかし泡立て方や味の感じ方など、人それぞれだ。だから人によって味が変わってしまうのも致し方ないことである。どの辺りに納得がいかないのかいまいち分からないため、つい愛想笑いで場を誤魔化す。
「最初なんだから思い通りにいかないのも無理ない。これから上手くなれば良いのではないか?」
これでも充分美味しいのではないかという疑問は飲み込む。
テスラは形の良い眉の根をグッと寄せていたが、やがてそれを解いて息をついた。
「そうだな…では明日も手解きを頼む」
「えっ!?」
「なんだ、何かおかしいか?」
「だって……もしかして、納得がいくまで毎日作るつもりか…?」
「当然だろう!?」
ノイトラ様に半端なものを召し上がっていただくわけにはいかない!と意気込むテスラ。そんな姿にどこか既視感を覚える。彼のような真っ直ぐな目を、知っている。
(そうだ、私の傍にはいつも…)
錦は自分の世話役のことを思い出した。いつも己の背後をついて回る口煩くも優しい世話役。
何故今まで彼の存在を忘れていたのだろう。
――名前は、確か……ええと……。
「…おい、聞いているのか!」
「――っ、え?」
「だから!明日も同じ時間にここへ来るから、準備をしておけ」
「そっ…そんな勝手に…!」
文句を連ねようとしたがテスラはあっという間にいなくなってしまった。なんて横暴な奴なんだ。(いやそれより…)疑問も悩みも増える一方だ。こんな時グリムジョーがいてくれたらと悔やむが、仕方がない。まず錦は目の前のロールケーキをどう処理すべきか考えることにした。