09

 芦屋錦は己の外見について以前から疑問を抱いていた。記憶にある限りの己と鏡に映る外見の歳の隔たりも気になっていたが、それ以上に頬に刻まれた傷痕にどうしても納得がいかなかったのである。
 ――こんな傷、一体どこで……?
 大切に育てられた自覚はある。それも、特に舎人とねり(貴族に仕え護衛・雑用に従事する者のこと)にだ。錦は妾の娘で、義理の母親に良くしてもらった記憶はないものの、父親や下働きの者たちにはそれなりの気を遣ってもらっていた。そんな彼らが、錦の頬にこんな目立つ傷痕を残すなど黙っていない筈だ。
 貴族の覇権争いの最中につけられた傷なのだろうか。
「私は本当にどうして……」
 目覚める前の記憶が思い出せないというのは、なんともどかしいことか。大切なことを忘れている自覚があるのに寸でのところで黒い靄が邪魔をする。まるで思い出してはいけないと、第三者が警告するかのように。
「なに辛気くせえツラしてんだ」
「グリムジョー…」
「てめぇのツラなんか見つめてどうした」
 錦の部屋には鏡がある。女性だからという理由で、藍染が気を利かせたのだ。
 藍染には感謝している。己を助け、少々手荒い性格とはいえグリムジョーという護衛役までつけてくれたのだから。
 しかし何かが腑に落ちない。藍染の目を見ていると真っ黒な沼の底を覗いているような感覚に陥る。途轍もない大きな穴に手を引かれているような恐ろしさ。彼を信用してはならないという、誰かの囁きが聞こえるのだ。その声の主を、錦はいまだ知ることができない。
「…傷が気になってんのか?」
 錦の指先が傷痕をなぞっていることに気づくグリムジョー。くだらねえとばかりに眉根を寄せる様が、安易に想像できた。
「ンなもん一々気にしてたらキリねえぞ」
 ――やっぱり。
 相変わらず女心が分かっていないなと苦笑する。
「そんな小せえことに構うことなんかねえだろ」
「……小さくなんてない。目立つ」
「あァ?ンなもんあろうがなかろうが関係ねえだろ」

『姫様は姫様です。もっと自信をお持ちください』

 ――嗚呼そうだ。
 そうして彼も、慰めてくれた。
 漸く思い出せた。拗ねていた己を窘めて慰める姿。あのあたたかい掌も、微笑みも。厳しさも優しさも。いつでも助けてくれる、頼りになる彼を。
「グリムジョー」
「何だよ」
 半ば面倒そうに応じる彼。
「私は本当に、記憶が混濁しているだけなんだろうか」
「……!」
 そこで彼が気を引き締めたのが分かった。先程のいい加減な空気など皆無で、錦の次の言葉をじっと待っていた。
 グリムジョーもやはり、彼とは種類が違うが優しい。
「…いや済まない。変なことを言ってしまった」
「……」
「いつまでも記憶が戻らないから不安になったんだな、きっと」
 そう言って笑みを浮かべてみたが、グリムジョーの表情は芳しくなかった。
 本当は記憶の喪失だけでない。どれだけ時が経過してもやって来ない彼やその他の重臣。瀞霊廷と連絡が取れないという違和感。情報の不足。虚との同居。何もかもが異常だ。
 しかし錦は目を逸らした。逸らすことで、精神を保つ道を選んだのだ。
「今日は何を作ろうかな」
「……、」
「どうしたグリムジョー、浮かない顔をして。今度はお前が鏡を見てみるか?」
「…要らねえよ、馬鹿野郎」
 一番の信頼に値した舎人の名は、犬崎 劉聖けんざき りゅうせいといった。錦は彼を犬龍と呼んで慕っていた。今はそれだけを、思い出した。
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