05
失くした記憶について考えるようになり暫く。錦は一人で散歩に出かけた。最近になれば顔見知りの破面が増え、一人で出歩くのも問題なくなってきていたのだ。「……はぁ…」
ハリベルたちからの慰めによりグリムジョーとの関係はある程度納得したが、目下の問題はアシドの言葉であった。
錦にはここへ連れて来てもらった直前の記憶がない。あるのは、大きな屋敷で幸せに暮らしていた記憶だけ。犬龍と共に暮らし、彼に憧れて武道を教えてもらいながら、義母から疎まれながらも楽しい毎日を送っていた。
その筈なのに――。
ふと過ぎるのは大きな穴蔵。暗い、穴だ。恐ろしい、深い穴。その中心にいるのは白い仮面をつけた化物。その化物の名を錦は知っていた。
化物と共にいるのは―――事切れた義母と使用人たち。
彼らはどうしてそこで倒れているのだろう。
「そんな暗い顔してどうした?」
「――ッ!」
思考の沼に引きずり込まれかけたその時、男の声がかかった。聞き覚えのあるそれに錦の体は固まった。
震える肉体が、意思に反しておそるおそる顔を上げさせる。
「よっ」
照明が差し込まない奥の部屋に、一人の男が立っていた。「辛気くせー顔してんなぁ」苦笑混じりの発言はどこか覚えがある。まるでいつの間にか日向にいるような錯覚をさせるそれは、どういうわけか錦にひどい動揺を与えた。
「グリムジョーにでもイジメられたか?」
「…え……」
「あいつは女心が分かんねえ奴だからな…一々傷ついてたらキリねーぜ?」
からから笑う彼の笑顔はとても人懐っこい。
既視感。
「だ、れ…」
「ハァ!?お前…俺のこと忘れちまったのかよ!うわ、ショックだぜ」
ま、仕方ねえか。などと呟いて彼は後頭部を掻く。
そういう粗雑な動作にも覚えがある。ひどく昔に見たような気がする。屋敷の人間ではない。だが、彼とは親しかった筈だと、誰かが錦に訴える。あんなにも世話になったじゃないかと責められる。
「誰だお前は…」
知っている。黒い装束をまとい十三の副官章を腕に巻き、斬魄刀を握って果敢に挑む彼の姿を、知っている。
思い出してはならない。思い出せば、崩れてしまう。消えてしまう。
しかし錦のそんな当惑など知らず、彼は優しげな微笑みを浮かべて言葉を続ける。
「久しぶりだな、錦。お前が覚えてなくても俺は覚えてるぜ。なんたって俺はお前の師匠だからな!」
「し、しょ…?何の…?」
「何のってそりゃお前――」
彼の声は、一つの殺気を乗せた刃にかき消された。
「何やってんだてめぇ」
男の優しい声音とは随分違う荒っぽい声。だが、それにひどく安堵する己がいた。
「グリムジョー…」
「おいアーロニーロ、何だそのツラは」
「そんな睨むなって」
アーロニーロと呼ばれた男はつまらなさそうに息をつくと、くるりと踵を返した。
「じゃあな錦、次は稽古でもつけてやるよ」
グリムジョーの眼光を気にすることなくアーロニーロはあっという間に消えてしまった。「チッ…」グリムジョーは不愉快そうに舌を打つとこちらに目を向ける。
「何かされたか?」
「………知ってる」
「あ?」
衝動を抑えきれず彼の胸倉に掴みかかる。錦の突然の行為に彼は瞠目した。
「私はあいつを知ってる!何故だ!どうして知ってるんだ!」
「なっ…」
「あいつは屋敷の者じゃない。護廷隊の死神だ!どうしてそんな奴と私は知り合いなんだ!?」
錦は護廷十三隊の死神どころか鬼道衆でさえ、知己の者がいない。唯一知っている者は犬龍だけだが、彼だって護廷隊に正式に所属しているわけではない。
困惑して声を荒げる錦に対し、グリムジョーは珍しく狼狽えているようだった。
「知るかよ俺が…そんなもん…」
そんな彼の様子に錦は逆に冷静さを取り戻していった。握りしめていた彼の服の皺に、漸く気づく。
「…そう…だな……済まない、大声を出して」
「……別に」
やっと服から手を離せば、皺が薄くなった。グリムジョーはそれに気づいていないようだった。ちゃんと直してやろうかと思ったが、やめた。
「帰ろう。もうここにはいたくない」
「ああ…」
動揺のあまり掴みかかってしまうなど情けない。反省しつつ錦はグリムジョーをこっそり盗み見る。彼は、錦が森で鬼道を使えた時と同じ目をしていた。それがどういうわけか、悲しかった。