07

 井上織姫という人間がいる。事象の拒絶という、神の領域を軽々と超える力を持つ人間が。彼女に腕を治してもらったためグリムジョーは十刃に返り咲くことができた。つまり彼女のおかげで元の地位に戻り、ひいては錦の隣に再び立てるようになったのだ。
 故にグリムジョーは彼女に対し、借りはあれど恨む筋合いなどはないのだが。
「芦屋さん!?どうしてこんなところに…!」
 この時ばかりは彼女の首をへし折ってでも黙らせようかと考えてしまった。
 グリムジョーは確かに錦の護衛を任されていたし、最近では彼女についてもっと深く知ろうと努力していたりもしたが、彼女と面識のある人間にまで気が回っていなかった。そもそも最初の錦を知っているからこそ、彼女が人間と交流を持つ性格だとは思わなかったのである。
「…?誰だお前は」
「え…?!」
 案の定、井上は怪訝そうにグリムジョーを一瞥し、隣にいるウルキオラを睨みつけた。
「何をしたんですか…」
「お前が知る必要はない」
「そんな…!」
 彼女は納得できないとばかりに唇を噛むと、いまだ当惑している錦の肩を掴んだ。
「芦屋さん、あなたは死神だったんだよ…!」
「! てめぇ…」
 禁句をあっさり言いのけた井上に思わず歯噛みする。しかしこの女に対しても攻撃してこない限り手を出すなという命令を受けているため何もできない。
「たわけたことを言うな」
「なっ」
「私が死神なわけないだろう。人間、お前の勘違いだ」
「違う!」
 井上は彼女の衣服に皺が寄るくらい、強く握りしめた。
「違う、違うよ……あたし、芦屋さんと親しくなかったけど、朽木さんが言ってたもん」
「…朽木?」
「おいてめぇ、いい加減に…」


 その時。
 ――その時、芦屋錦は言いようのない不安に駆られた。彼女の言葉を食い止めようとしてくれるグリムジョー。ただ沈黙してこちらを観察しているウルキオラ。何かを必死に伝えようとする人間の女。それら全てが、錦の世界から切り取られたかのように感じた。
 滲む。脳裏に、じわじわと浸蝕する色。懐古を感じさせるそれは人型になり、ある人物の顔へと変貌する。

『錦、もし緋真の妹を見つけたら、私に報告してくれぬか』
『…貴族の決まりに縛られるつらさは、そなたもよく知っているだろう。そなたにしか頼めない』
『話しかけろとは言わん。きっと彼女によく似ているだろうから、そなたでも分かる筈だ』
『妹の名は――』

「……ルキア…」
「! そう!朽木ルキアさん!白哉さんの妹!」
 殆ど話したことのない黒髪の少女。外をつまらなさそうに眺めていた姿が、印象的だった。彼女によく似た女性……緋真は、ある貴族の長男の妻だった。彼女は流魂街の出身で、家が没落してみすぼらしくなった錦に対して優しくしてくれた。
 ――没落?
「それでね、朽木さん、自分の隊の副隊長があなたのこと…」
 言葉を聞くことなく、錦は彼女を突き飛ばした。存外自分は力を持っていたようで、不意打ちをくらった彼女は尻餅をついた。
「芦屋さ―」
「うるさい!私は何も知らない!!」
「あ、あのね芦屋さん、落ち着いて…」
「私は海燕なんて知らない!白哉も…緋真の妹も…ッ!」
 ――誰だ。
「ルキアのことを白哉に教えたのも私じゃないッ!!」
 ――何を言ってるんだ、私は。
 色んな情報が混濁している。先日出会った男が黒装束を着ている姿から、布団に伏している女性。その隣で小さな笑みを湛えている品のある男性。剃髪と、艶のある髪をたなびかせる二人組。溌溂とした赤毛の男。その両脇にいる男女。笠を被った華やかな男性に、その隣で怒り顔の知的な眼鏡の女性。そして心から信頼していた舎人に、血塗れになっている義母。
「わ……わたし………」
 無意識に何かを口走ろうとした瞬間、腹に圧力がかかった。次いで、大きな浮遊感。下は砂、自分の頬のすぐ隣にはグリムジョーの仮面。抱えられて移動しているのだと知り、ごちゃ混ぜになった感情が一つのものにまとまってゆく。
 涙。
 洪水のように情動が流れ落ち、彼の肩口を濡らす。
「きらいだ」
「……、」
「死神なんか…きらいだ…」
 グリムジョーは何も言わなかった。
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