07
どうして逃げなかったんだという言葉は出てこなかった。それよりもまず、記憶を取り戻した彼女が変わらない瞳をこちらへ向けたことに対し、どこかで安堵した自分がいた。変わらないでいてくれたと、思ってしまったのだ。こうして当然のように治療をする彼女に縋りそうになる。
「………お前といると自分が虚だってことを忘れんだよ」
ヘラヘラ笑ってどうでもいいことで礼を述べる彼女がひどく煩わしかった。それを当然のようにするから苛立った。彼女の世界では力が一番ではないことに困惑した。
ただ普通に、隣にいてくれたら良いだけということが、こんなにも柔らかいだなんて。
どうでもよかった筈だ。それなのに、ザエルアポロに狙われ、ノイトラから興味を示され、アーロニーロにからかわれ、孤独な死神に拐かされ、人間の女からは記憶を突かれて。
『私はあいつを知ってる!何故だ!どうして知ってるんだ!』
『ルキアのことを白哉に教えたのも私じゃないッ!!』
『死神なんか…きらいだ…』
錦に嘘をつくことが、心苦しくなっていった。
ただ笑っていてほしい。彼女が笑いさえすれば自分の空いた孔が塞がってゆくのを感じる。彼女と同等の存在でいられると勘違いする。ずっと隣にいられると、錯覚する。
全然、これっぽっちも違うというのに。
「てめぇは死神、俺は虚。負けた側は皆殺し」
あの忌々しい死神代行に吐き捨てた言葉を、彼女にもかける。或いは、自分自身に対しても。
「千年も前からそう決まってんだよ」
「………」
独りで
「頼む。俺を虚のままでいさせてくれ」
己を癒やす彼女の手を掴み、そっと地に下ろす。これ以上は不要だと分からせる為。訣別させてくれと懇願する為。自分一人では決断できない弱さを見せる為。
もう片方の手で空間を引っ掻く素振りをすれば、彼女の背後で黒腔が開いた。天挺空羅からそれなりの時間が経っている。現世は戦場かもしれない。それが分かっていて尚、グリムジョーは黒腔を開いた。
錦はその美しい墨色の瞳を伏せたが、すぐに視線を戻し、立ち上がった。手が離れる。
彼女がどういうこと行動を取るのかは、理解できていた。
背を向けた彼女は一歩踏み出したところでふと足を止める。まさか迷っているのかと思ったが「グリムジョー」と名前を呼ばれた。
「ありがとう」
たった一言。それだけ述べると彼女は暗闇の中へと入っていった。小さくなる黒い背中。記憶の中だけで生きることになる彼女の笑顔。ただそれだけを思い浮かべ、グリムジョーは、風の通る孔を抱えて目を瞑った。