人の名前って忘れやすい


 一人の店番は意外と楽しい。仕事が入っていなければ趣味でガチャガチャと絡繰を造れるし、のんびりお茶を飲むことだってできる。とはいえ仕事ゼロは困る。趣味も程々にいかにも仕事してます風を装い、燕は外に出してあった備品を室内に入れた。
 その時であった。草履の音が背後から聞こえた。チラと見ると、笠をかぶった男が立っている。
「えっと…もしかしておやっさんにご用ですかい?ちょっと待ってください」
 もしかしたら予約を入れていたのかもしれない。机に置いてあった手帳を取って、パラパラとページをめくったのと同時に、その男はくつくつと喉で笑い声をあげた。

「相変わらず、飄々としてんなァ」

 低い、声。煙管。紫煙。男が、笠を取る。
 煙の匂い。
「久しいな」
 隻眼の男。この男に燕は見覚えがあった。ただし記憶が正しければ、その時の彼は両目がちゃんとあった筈だが。
 自分はこの男を知っている。無い筈なのに、どこからか冷たくて掠れた空気の匂いが漂ってきた。
「あんたは…」
「思い出せないか?」
 男は無遠慮に奥の客間へと足を踏み入れた。それから彼は懐をまさぐり、あるものを机に置く。「直せ、すぐに」断りを許さない声音だった。燕は戸惑いつつも工具を準備し、修理に取り掛かった。
 その絡繰はとても小さなものだった。二つの小さな小さな車輪、背中にはぜんまいが付けられており、体の中心部には時計が埋め込まれている。人のかたちなどしておらず、何かのミニキャラクターのようなデフォルメされた出で立ちだった。燕は慣れた手つきでそれを解体してゆく。
「懐かしいだろ、それ」
 お前から貰ったモンだ。そう言って彼はまた紫煙を吐き出した。
「いやあの…あんたがあっしから奪ったんでしょうが、これ」
「ククッ。細けェことは気にすんな」
「大体まだこれ持ってたんですねェ、高杉さん」
 呆れ口調の燕に、もう一度喉で笑う高杉。
「漸く思い出したか」
「まあ…別に完璧に頭からすっぽ抜けてたわけじゃないですけど…」
「ククク、どうだかな。…いつからこっちに居るんだ」
「少し前から。最近ですよ、最近。高杉さん、随分有名になってるんですねェ」
 江戸に来る前に居た田舎では、都会の情報など碌に回ってこなかった。燕が一つの場所に留まらず転々としていたからでもあるが、それにしたって昔会ったことのある者が大物テロリストになっていたなら誰だって驚く。
 絡繰を修復してゆく燕の横顔を鋭い視線で射抜きながら、高杉は不意に静かに訊ねる。
「…お前、親戚の家に居たんじゃなかったのか」
「はいまあ」
「何で江戸に来た?」
 真意を測るような声音に、つい燕の指先が冷たくなる。だが動揺を悟られないように燕は部品の接続を続けた。
「別に良いじゃないですか。気まぐれですよ」
「ただの気まぐれで“こんな危険”を冒すもんかよ。だとしたらオメーはよっぽどの馬鹿だな」
 吐き捨てる高杉に燕は無音で微かに笑う。それが気に食わないのか彼は舌打ちを一つしてまた紫煙を吐いた。煙が辺りを漂って、一帯を霞ませる。
「相変わらずわけ分かんねえ奴だな」
「スミマセン」
 諦めたような高杉の口ぶりに、燕は取り敢えず詫びを入れる。その次にできましたと声をかけ、絡繰を彼の手前にそっと置いた。
「ん」
「え?」
「金」
 封筒をポンと置かれ、燕は驚く。封筒の厚さは彼女の労働ときっと比例していない。呆然とそれを凝視する燕を気にせずに高杉は再び絡繰を懐にしまうと、立ち上がって客間から出た。
「またな、燕」
 笠をかぶって外に出る。彼を追うも、すぐに人ごみに隠れて分からなくなってしまった。手に持っていた封筒の重みを感じながら、燕は言った。
「あっしの名前、知ってたんだ」
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