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「おはよ・・・」
「はよ」
ヒデー顔だな、と田所くんは言った。
「ひどいーなんでそんなことはっきり言うの」
「いいから鏡で自分の顔見てみろよ。目の下、クマすげーぞ」
知ってる。コンシーラーでこの立体感は隠しきれなかった。
「なんか、いろいろ考えちゃって」
「マネージャーのことか?」
「それも含めいろいろ・・・進路のこととか」
あー、と彼は言葉を濁す。
「なんか悪ィな。時期も時期だし、正直言って無理だって気持ちも分かるんだ」
気持ちに針が刺さったみたいだった。シュン、と音を抜けてガスが抜けていく。
「いや、うん・・・そうだよね」
「だめならだめって言ってくれりゃ諦めもつく。そんでオメーは自分のやりたいことを頑張れよ」
やりたいこと?
くり返しそうになるのをぐっとこらえる。
先生が来て、形式的な挨拶をして、着席してからもずっとさっきの言葉が頭の中でぐるぐるしていた。
この世界で私がやりたいことってなに?
ないよ、そんなの。
「(そんなの、帰りたいに決まってる)」
なんだか急に気持ちが悪くなり、身を固くしたまま吐き気をこらえるのに必死でいると、隣の田所くんが「おい」と小さな声で言った。
「##NAME2##、大丈夫か?顔色悪ィぞ」
「あ、うんなんか、」
「スイマセン!」
どうしたー田所と先生が振り返る。
「##NAME2##が気分悪いみたいッス」
教室中の視線がつき刺さる。
「大丈夫か?保健室行けるか?」
「はい、行けますすいません」
ありがとう、と田所くんに感謝をして席を立つ。
限界だった。
見慣れたと思っていたはずの校舎がまるで迷路のようだ。
田所くんが、みんなが私をこの世界の##NAME2####NAME1##だと思って声をかけ、優しくしてくれる。
でもそれは本当の私にじゃない。そんな図々しいことを言えるわけがない。
だって、なんて言う?絶対に頭がおかしくなったって心配されるに決まってる。
私がこんなに一生懸命頑張ってることを、誰も知ってはくれない。
保健室に向かう途中で涙がこみあげてきた。くそう、また。昨日あんなに泣いたのにまだ泣くか。
ふと振り返る。
窓の外の空が綺麗だった。
「(屋上、行こう)」
そう考え、降りかけた階段を戻る。
休み時間以外は施錠されているドアを開け、冷えた空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
酸素音速肉弾頭、なんつって。
フェンスに近寄って景色を眺める。裏門、そびえる山、聖地でいっぱいだ。
いや、そもそもこの学校が聖地なんだった。忘れてたけど総北高校だよ、ここ。
「・・・ばかばかし」
やめた。もう悩むのやめた。好きに生きよう。
そう考えた瞬間、なんだか軽くなる気がした。
いきなり飛ばされたんだから、いきなり帰れるかもしれない。
もしかしたら帰れないかもしれないけど、今は考えなくたっていいことにしよう。
それから少しの間、昼休みのチャイムが鳴るまでずっとぼんやりしていた。
「あ、」
ポケットの内側で携帯が震える。田所くんだ。
"保健室にいねえのかよ”
屋上の前の階段にいるよ、と返事を返す。
すると、しばらくして田所くんがやってきた。パンのいい匂いがする。
「おいコラサボり」
「サボってないよ」
なぜか巻ちゃんと金城もいる。
コツ、と骨ばったゲンコツが軽く頭をぶった。
「田所っちから聞いたぞ。気分悪いっつって授業抜けたんショ」
「うん、外の空気吸ってたの」
「もう具合はいいのか?」
隣に座った金城が顔を覗きこんできた。距離が近い。
「うん」
「つかここ寒くねえの?」
「どうかなあ」
「女子はぜってー寒ィに決まってるショ、んな足出して」
そう言って彼はブレザーを脱ぐと私の膝にかけた。
「お、なんだよ優しいな巻島」
「具合悪いんショ?風邪ひかれんのもやだしな」
俺からはこれ、と田所くんはパンの袋を差し出す。
「え、え?」
「お見舞い。いや差し入れか?今朝は多めに焼き上がったらしくてよ、持ってけって言われてたんだ。やるよ」
どうせ購買行くつもりだったんだろ、そう言われて頷く。図星だ。
「ありがとう巻島くん、田所くん」
「いーって。##NAME2##の具合悪ィの、俺らのせいでもあるみてえだしな」
「ハァ?なんで?」
「マネージャーのこと、そんだけ真剣に考えてくれたらしい」
そうか、と金城は呟く。
「ありがとう」
「いや、でもまだ考えただけだから全然」
「んで?やるの、やらねえの?」
巻ちゃんが目の前にしゃがんだ。
「なァ、オイ」
「カツアゲみてえだからやめとけ巻島」
やりたい。そう答える前に、私は気になっていることを尋ねた。
「どうしてそんなに誘ってくれるの?」
どうせ来年は幹ちゃんが入部する。私みたいなど素人とは大違いの、知識があって素直で可愛い後輩が。
もちろんドリンクの準備をしたりタイムを測ったりあれこれするのは大変だけど、サポートは彼女ひとりだけが行うわけじゃない。
「・・・##NAME2##さんは言っていたよな」
俺たちが自転車に乗ってるのを見るのが好きだって、と金城は言った。
「うん」
「もっと近くで見たいとは思わないか」
見たい、と私は答える。
巻ちゃんはクハッと笑った。
「俺たちがテッペン獲るとこ、一番近くで見てえだろ」
見たい。巻ちゃんのダンシングを間近で見たい。
思いを乗せた黄色いジャージが一番にゴールする瞬間を見たい。
もしも、イレギュラーな存在が近くにいたって変わらない未来を見せてくれるのなら。
「私、マネージャーやってみたい」
私の答えに3人は「おお!」「マジか!」「やったぜ」と声を上げた。
「ようやく##NAME2##を口説き落とせたなァ」
田所くんは私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「うわ!ひどい、」
「バーカ。いいんだよ」
いいのかよ。全然良くないよ。
「なんでずっとオメーが暗い顔してっか知らねえけどよ。なんかあったら言えよ」
友だちだろーが、と田所くんは言った。
「友だち・・・」
「おい、まさかそうじゃねえとか言うんじゃないだろうな」
友だち・・・ジーン。胸に沁みる。
「友だちだと思ってくれていたなんて・・・」
「クハッ!今さらッショ、やっぱ##NAME2##は変わってんなァ」
「巻ちゃんに言われたくない」
「あァ?巻ちゃん?」
じ、と目つきの悪い顔が見つめる。
「どっかのうるせえヤツと同じ呼び方してんなショ。・・・まァでも」
##NAME2##が呼びてーんならいいケドよ、と巻ちゃんは言った。
巻ちゃん呼び、ついに公認を戴いてしまった。尊い。
「お世話になります」
私は彼らに頭を下げる。
「ああ。よろしく、##NAME2##さん」
「任せとけ」
「しょうがねえからきっちり教えてやるッショ」
後悔はない。もう決めた。できることはなんでもする。
あの勇姿をこの目に映すために、私ができることを。
「そだ、パン食え食え。食えば元気も出る」
「出た、田所っちの謎理論」
その時ごそごそと金城がポケットから何かを取り出した。
「はい。よかったら」
ココアだ。
「て、手品・・・?すごい、ありがとう」
「ンなわけあるか」
「人肌にしてたんショ」
秀吉かよ、と巻ちゃんは笑った。
***
自転車競技部のマネージャーがやりたいと言ったら電話の向こうの両親にびっくりされた。
「これまで運動とは無縁だった娘がいきなりそんなことを言うとは」ということらしい。受験のことも心配されたけど、思っていたよりもあっさりいいよと言ってくれた。
通話が終わったばかりの手の中の携帯を見つめる。
燻っているのは罪悪感か、時間ばかりが過ぎることへの焦燥感か。少なくとも、今はうまくやれているはず。勉強以外は。
「・・・宿題しよ」
***
入部届を提出するとピエール先生はにこっと人のいい笑顔を見せた。ヨロシクお願いシマスね、と送り出された足で部室の前に来ている。
「(緊張する・・・)」
みょうじなまえ入りまーすって言うんだよね?というか、私が入部するってことは知られているのかな?ああー気まずい・・・
「なーに止まってんショ」
「うわ!」
かくっと膝が折られて思わず声を上げた。
「さっさと入れよ、みょうじも今日からうちの部員なんだから」
巻ちゃんは「入るぜェ」とカラリと戸を開ける。
「お疲れさまです巻島さん」
「おーお疲れ。あとから話あると思うけどよ、コイツ今日から入ったみょうじ」
よろしくお願いします、と眼鏡をかけた長身の子が頭を下げる。古賀だ。
「よろしくお願いします、興味本位で入部したんですけど一生懸命やります」
「オメェそれ言ってること矛盾してんショ・・・」
着替える、そう言って巻ちゃんはこちらに背を向けた。
「いったん外出るかあっち向いてろショ」
「出ます出ます!」
入口の前に立っていると、田所くんと金城くんが一緒にやってくるのが見えた。
「あ?なにやってんだみょうじ」
「巻ちゃんが中で着替えてる」
金城くんは「ああ」となにかに気付いたような顔をした。
「みょうじさんが来るのはも少し遅くてもいいかもしれないな。オレたちと着替えの時間がかぶるから」
だな、と田所くんはうなずく。
「その後で鍵かけてパッと着替えてもらえりゃいいよな」
悪かった、と謝る金城くんに「いやいや!」と私は答える。
「出直したほうがいいかな?」
「いや、そこまでしなくても」
その時、ガラリと扉が開く。
「悪ィなみょうじ・・・お」
よう、と田所くんが声をかける。
「今日から1人増えたな」
「手嶋たちがどんな顔するか楽しみッショ」
やっぱり伝わっていなかったのか。
「すまないみょうじさん」
もうしばらく外で待っていてもらえないか、と金城くんは申し訳なさそうに言った。
***
「んでコッチがフロントディレイラーで、あー、コレがチェーンリング」
並んで背中を丸めて巻ちゃんのロードバイク初心者講座を聞いている。
「たくさん名前があるんだねー」
「別に無理に覚えなくてもいいショ。メカなら古賀が強いし、寒咲さんもいるしな」
寒咲さん。あれからお店を覗いてはいない。ばれているとは思っていなかったためなんとなく気まずいのだ。
「あの子来ねえなーって言ってたショ」
「えっそうなの?」
「ああ。妹だっけ?うち志望してンだよな」
あっという間に先輩になっちまうなァ、と巻ちゃんは笑う。
幹ちゃんだけじゃない、今年は小野田くんたちが入部してくるのだ。もう私、いろいろな意味で死ぬかもしれない。
「巻ちゃん、私を見捨てないでね」
「大げさショ。みょうじって東堂みたいな時あるよなァ・・・」
東堂、という単語にぴくりと反応する。
「東堂さん」
巻ちゃんは「ハコガクのクライマー」とだけ言って立ち上がった。
「うう、さみィ・・・さすがにもう手嶋たちもも来てンだろ。行くショみょうじ」
「あ、うん」
身を切るような空気の中を歩きながら彼は尋ねた。
「そういや1年の時にこっそり飼ってた猫、アイツ元気かよ」
ぎく。こっちが知りたい。
「元気なんじゃない、かなあ・・・」
「もらわれてったんだよな確か」
あ、そうなの?よかったと胸を撫でおろす。
「真面目なみょうじが校庭の隅っこでこっそり動物飼ってるって、担任びっくりしてたショ」
私の知らないみょうじなまえの断片を知るたび複雑な気持ちになる。
「ねえ巻ちゃん」
「なん」
「私、真面目な子だった?」
知らね、と彼は呟く。
「別に仲良かったワケでもなかったしよォ・・・むしろ今こうして会話してるほうが不思議ショ」
「そうなんだ・・・」
こっちの私ってどんな子だったんだろう。今のところ、自転車とは無縁、勉強が得意で真面目という印象しかない。
社会人の私はちゃらんぽらんなところもあるし、成績は可もなく不可もなくという感じだった。
嘘をつくのは得意じゃない。だから、真面目な自分を演じきる自信もなかった。
「ケドよ、」
オレは今のほうがイイと思うショ、と巻ちゃんは言った。
「あ、変な意味じゃなくてよ。なんつーの、中身みてェな」
「うん、分かってる」
ありがとう、と私は小さく答えた。なんか嬉しかったからだ。
嬉しいけど、大きな声で感謝するようなことでもないような気がしたから。
そうして部室の前に着くと、巻ちゃんは躊躇なくドアを開けた。
「入るぜ」
「おう巻島」
「着替え終わったかよ」
ああ、と金城くんの声がする。
「悪かったなみょうじさん」
「いやいや、お構いなく」
集合!と号令がかかる。
「今日から自転車競技部にマネージャーが入ることになった。みょうじさん、挨拶をしてくれ」
い、いきなり・・・!?全員の視線が刺さる。
「2年のみょうじなまえです。初心者ですがよろしくお願いします」
頭を下げると「よろしくお願いします!」と元気な声が返ってくる。なんだかくすぐったい。
「今日の予定だが、前半は各自トレーニングを行う。それから、後半はみょうじさんの歓迎会だ」
「えっ、えっ?」
動揺する私に巻ちゃんは「しごいてやるから覚悟しろショ」とニヤリと笑う。
スパルタ教育・・・いや、でもそれくらいじゃないとついていけない。ひいひい言っている余裕はないのだ。
「ご指導よろしくお願いします」
田所くんは「んなかしこまんなって」と言った。
「誰だってはじめは初心者なんだからよ」
「田所の言うとおりだ。今はオレたちがみょうじさんをサポートして、」
「ゆくゆくはオレらをサポートしてもらわねェとな」
彼は金城くんの言葉をさえぎって続けた。
「そういうことだ。よし、では各自トレーニングに入れ」
入学したばかりの小野田くんたちが圧倒される実力を持つ彼らが、今は地道にローラーを回したり筋トレをしている。
そうやって一歩一歩、確実に力をつけているのをこの目で見てなんだか胸が熱くなった。
「みょうじさん、マネージャーの仕事を説明するからついて来てくれ」
「うん!」
やる気だな、と金城くんは笑った。
「あの先輩さ、やっぱ入部したな」
ペダルを回しながらオレは青八木に話しかける。
「ああ」
「なんとなくだけど、入ってくれたらいいなあって思ってたんだよな」
どうして、と青八木は尋ねた。
「なんかいい人そうじゃん。そう思わねえ?」
「オレは・・・よく分からない」
分かんねえのはオレもだけどさ。すると、
「教えてもらってる時、なにかをメモしていた」
「メモ?へー」
そういえば時々めくっていたような気もする。手のひらサイズの小さいやつ。
その時、
「おうおう手嶋!青八木!のんびりペダル回してんじゃェぞ!」
「田所さん!」
すげえ、オレらよりずっと後に出たのにもう追いつかれちまった。思わずギアを一段上げる。
「そんなペースじゃさっき平坦で引き離してきた巻島にも抜かれるぜ」
巻島さんのクライム。思わず息を飲んだ。
「ついでだから乗ってけ。ついて来れんならな」
田所さんの言葉を聞いて青八木が加速した。オレも負けじと追いかける。
マネージャーの先輩は頭の中からあっという間にどこかへ飛んでいってしまった。
***
今日は天気がいいため、気分転換なのだと言って田所くんたちは自転車に乗りに行っている。金城は走り込みをするのだと言って、私は古賀に託されたのだった。
「シーズン中はロードバイクに焦点を合わせたメニューばかりだったから、この時期は筋肉のバランスを整えたり体力作りを重視したトレーニングが中心なんです」
なるほど、やみくもにペダルを回せばいいってものでもないらしい。
古賀は優しい口調でひとつひとつ丁寧に教えてくれる。後輩だけど、なんていい先輩なんだ。
メモをとりながら聞いていると「みょうじ先輩」と彼は驚いたように言った。
「わざわざ書いてるんですか?」
「うん、素人だから」
「へえ・・・えらいなあ」
なんにもえらくない。新入社員の研修みたいなものと思えばメモは必須、これがないとついていけない。
すると彼は言った。
「あの、気になってることがあって」
「ん?」
「先輩は興味本位で入部することにしたって言っていましたよね。何に興味を惹かれたんですか?」
ぎくーっ、なんだそのピンポイントな質問。
古賀のまっすぐな視線がメガネの奥から向けられる。
「あの、えー・・・インハイです・・・」
「インハイ?」
間違ってはいない、ウン。あのレースを肌で感じたくて入部したようなものだ。
「もしかして去年も観に来てたんですか?」
「いや、去年まではちょっと勉強が忙しくて・・・」
苦しすぎる。そしてとてもじゃないけど勉強の話はできない。古賀は頭よさそうだからなー・・・いや絶対いい。でないとあんなに機材に精通できない。
「へー・・・すごい角度から興味を持ったんですね」
うんまあね、なんてさらりと返事をしたものの内心ひやひやだ。
「インハイか」
そう呟いた声が耳に残る。
複雑な気持ちだった。今年のインハイに彼は出ない。・・・出られない。未来が変わらない限りは。
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