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じわ、と傷口にアルコールが染みる瞬間、黒田は「いっ・・・!」とうめいた。
「痛い?」
「痛くねえ」
痩せ我慢しちゃって、とは言わない。足にはアザができ、擦りむいた頬には血が滲んでいる。スピードの出しすぎでガードレールに激突した結果にしては奇跡的なケガの少なさだった。
「救急車呼ぶか」という声に対しても「大丈夫だ」と立ち上がってみせたらしい。医者に見せないわけにはいかないと顧問に怒られ、その前に応急手当てというわけだった。
「歩けそう?」
「ああ、・・・ぐ、」
よろける体を咄嗟にベッドに座らせると、黒田はばたんと仰向けに寝そべった。
「・・・情けねー」
「そんなことないよ」
「荒北さんなら行けてた」
「分かんないよ。黒田は荒北さんを過信しすぎなとこあるから」
「うるせー、スゲーんだよあの人は・・・」
荒北靖友の度胸と身体能力はすごい。だけど見ていて時々ものすごく怖くなる走りだった。
万が一はいつだって起こり得る、今回みたいに。
「ホントに大怪我しなくて良かったよ・・・安心した」
悪い、と黒田は気まずそうに呟く。救急セットを片付けていると顧問の先生が顔を出したため「終わりました」と報告する。
「スンマセン、大丈夫なんで」
ちっとも大丈夫じゃないんだよなあ、なんて思いながら猫背になる背中を見送った。ああいう無茶に出くわすと、”若さ”や”青春”といった単語がちらつく。
控えめなノックの音が聞こえて「はーい」と答えた。
「みょうじさん」
「泉田くん。黒田もう行ったよ」
「そっか。焦ったよ・・・ユキがあんな無茶すると思わなかった」
消毒液の匂いに眉根を寄せて泉田くんは呟く。
「インハイ前だからって気合い入りすぎじゃないかなあ・・・」
「気持ちは分かるんだ。今年のインハイは僕らにとって汚名を返上する機会なんだから」
汚名。
表彰台の一番上に立てなかった悔しさは、原動力になると同時に重荷や足枷にだってなる。だから、見ていて時々つらい。
「(本当なら私はただの部外者なんだよね・・・)」
2年生の春。突然こんな生活になってしばらく経ってから、ミーハーでちょっとよこしまな気持ちを抱いて入部した。当たり前だけど、外側から見る世界とはまるで違う。たくさん泣いたし辞めることも考えた。
「ここまであっという間だったなって思う」
ぽつりと口にすると「うん」と泉田くんも頷く。
「こんなこと言うのは失礼だけど・・・ボクは最初、みょうじさんは辞めると思ってたんだ」
「私も」
「えっ」
驚いたように振り返る相手を見ないまま、
「絶対辞めようと思ってた」
と答える。
嗅覚の鋭い荒北靖友や、観察眼に長けた東堂尽八から入部早々に手痛い洗礼を浴びてズタボロになったハートではもう無理だと思った。実際、退部届だって書いたしいつでも出せるようにカバンに入れていたし・・・今となっては懐かしい話だけど。
「マネージャーを続けてくれてありがとう」
「どうしたの急に」
「なんとなく言いたくなったんだよ」
みょうじさんがいてくれて感謝してる、と泉田くんは笑う。
「みんなもきっとそう思ってるよ」
「そうかなあ・・・そうだったら嬉しいけど」
きつい1日、あっという間の季節、懐かしい日々。この学校で過ごすのも今年が最後。
「私、もうちょっとだけ頑張るね」
目を丸くした泉田くんだったが、ふっと笑顔になる。
「もう部活も終わるし、寮まで送るよ。今日は鍵当番じゃないし」
「ありがとう。だけど大丈夫だよ、まだ明るいから」
彼は「僕がそうしたいんだ」と苦笑してみせた。
「なんだかいろいろ話したくなってさ・・・思い出とか」

***

「うわー・・・凄惨な顔だな」
どんな感想だよ、と黒田はクラスメイトに答える。
「ケンカ?」
「バカ、ンなわけ。落車」
「マジで!?いたそー」
「顔からいったし普通に痛えわ」
そんな会話を耳にしながら席に着く。
「みょうじ」
「おはよ」
「はよ」
大丈夫?と尋ねると「ああ」と短く返ってくる。
「なあなあ、黒田が事故った時ってみょうじもいた?」
「見てないけど、応急処置だけはね」
「やばかった?」
お前らうるせーと黒田はそっぽを向き、ちょうど良いタイミングで先生が来た。
ノートを取りながら考える。もしも黒田が、このまま荒北さんみたいになる練習をして取り返しのつかない怪我をしたら。・・・インハイに、出られなくなったら。
少しだけ隣に視線を向けてみる。黒田のきつい目元にはクマができていた。
ふいに目が合う。すると、かりかりとシャーペンを走らせたノートの端を私に見せてきた。

”あんまこっち見んな”

ごめんね、と書いて向けると、また何か黒田は文字を書いた。

”分かんねえの?”
”今のところ大丈夫、一応”

今度は返ってきたのは絵だった。丸が2つに毛が生えている。

”なにこれ”
”ロードバイクだろ”

へたくそすぎんか・・・?30点と書いて見せると、”描けねえわ”と返ってきた。その時、
「じゃーこの問題を前出て解いてもらおう」
と先生が言った。
「今日は2日だから・・・そうだなあ」
私2列目だ、まずい。
「お、・・・黒田、すごいな怪我」
突然呼ばれて黒田は顔を上げる。
「大丈夫か?」
「あ、はい」
じゃあついでに問題も頼む、と言われてしまい、黒田は不満そうに席を立った。チョークの音、ななめ上がりの数式。
「おー正解。ありがとな」
やっぱり黒田は頭がいいな。いや、私が悪いのかもしれないな・・・。

***
「黒田さん、今日は無理ですって」
「平気だっての、構うなオレに」
構いますよ、と真波は呆れたように言った。ロードバイクに乗ろうとしてバランスを崩す音がグラウンドに響く。
「いて・・・くそ・・・」
「今日は無理だよユキ」
「そーですよ黒田さん」
泉田くんが「傷口が開いたら元も子もないだろう」と起きるのを助ける。
「悪い」
「焦らなくても、ユキなら」
大丈夫と言いかけるのを「焦ってなんかねえ!」と黒田の声が遮った。
「・・・んでそんなこと言えンだよ」
「ボクはユキをよく知ってるから」
冷静な泉田くんの声に黒田は黙る。
「真波、悪いけどユキのバイクを頼むよ。ボクは医務室に連れてくから」
「あ、はい」
ふたりの背中を目で追う。友情だな・・・。 

***

黒田が部活に参加するのは部ミーティングだけという日々がしばらく続いた。それから様子を見ながらの室内トレーニング、そして今日は部内レースの日。
「うっし」
久しぶりにロードバイクに跨る姿は気合が入っている。
「復帰戦おめでとう」
「しばらくちゃんと乗ってねーからな・・・みょうじ、しっかりタイム測っとけよ」
そう言い残して泉田くんたちと一緒にスタートを切った後ろ姿。
かすかにアザが残る脚がぐんぐん加速するのを見てなんだかほっとする。良かった、大丈夫なんだ。
戻ってきた彼らにタイムを告げると、黒田は複雑な顔をした。
「やっぱ本調子じゃねえか」
「あれだけのケガをしたのに短期間でここまで戻したんだからすごいことだよ」
前向きな泉田くんの言葉に頷く。
「また頑張ろうよ」
そう言うと「うっせ」とデコピンが飛んでくる。なぜ。
「いてー・・・」
「オメーはもっと勉強を頑張れ」
「じゃあ黒田は絵を頑張れ」
「絵?」
「こないだ黒田が描いた絵、あとで泉田くんにも見せるね。なんの絵か当てて、」
「おいふざけんな消せ!!」
「まあまあ・・・」


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