--ななしの心


(ナーザ様の日おめでとうございます/内容はお祝いに程遠い)

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成程と思った。いざ芽生えてしまえばどうしようもないようだ。
どうするか。どうするべきか。名をつけるのならば。

「わらわも欲しい。ねえ、」

奇しくも聞こえたのは己の心境に重なる言葉。妹の言葉でひとつ合点が行く。
妹に手を引かれる女が一人。連れられるままに歩き行く姿に、また一つのざわめきが増える。

俺はあれが欲しいのだ。
何処にでも行ってしまうだろうから、縛り付けてしまいたいのだ。
手元に閉じ込めてしまいたいのだ。

知らず知らずのうちに口角が上がる。であれば、もうそうしてしまう他にない。いつの間にか一人で佇む姿に手を伸ばして、





「……途中で、眠っていたのか」

夢を見た。細かい部分はどうにも忘れてしまったが、己の心臓が煩く鼓動するほどの高揚感を孕んだ夢。だのに思い出そうとすると、微かに嫌悪感を覚えるのは一体どういうことなのか。
女の姿が記憶に掠めたような気もするが、さて。

未だに跳ね続ける鼓動を落ち着かせるべく、顔を覆ってため息をついた。しかし女を夢に見ようとは、バルド、貴様、悪癖を俺にまで移してくれたのではあるまいな。
少し閉じた瞼の裏で、義兄が悪癖なんてそんな――等と喋り始める前に目を開く。一瞬意識が遠くなりかけていたので。
これは気を抜くとまた眠ってしまいそうだ。書き物を途中で駄目にするくらいであれば、少し早いが休んだ方が良いだろう。

すっかり暗くなった窓に向かって立ち上がった拍子に、からりと何かが滑り落ちた。拾い上げようと腰を落とす。使っていた筆か何かであろうと思い、確かに間違いではなかったが。
――燭の灯りが鈍く照らした筆の柄は、すっかりひしゃげてしまっている。酷い力で握りつぶされたのであろうそれに、咄嗟に己の手を見やった。

夢を見た。脳裏で誰かが薄らと笑っている夢。何かを追う夢。名付けようのない感情を、恐らく膨れる程に孕んでいた夢。

そんな夢で、俺は一体何を掴もうとしていたのだ。




「ナーザ様、この後はいかがいたしますか。私は見回りに出ようかと思うのですが」
「バルドか。そうだな…」

二度目の目覚めは平常通り。
今日は珍しくも、騎士団内で差し迫って対処を要する案件が無い日である。皆、日毎の当番事を除けば各々自由に過ごせる一日だ。自分も昨日終わらなかった分の事務を片付けた後、別の案件を片付けに向かう予定であったのだが。
早々に事務が片付いた頃合で掛けられた言葉に、昨夜の事を思い出した。


「今日は、俺も街に出よう」
「では、途中までお供いたします。今日はメルクリア様達も買い出しを担当されておりますので、街で会うやもしれませんね」
「そうか」
「しかし、また一人で調査に出向かれるかと思っていました。何か入用の物が?」
「…気に入りの筆を駄目にしてしまったのでな」


どうせ買い直すのであれば手に馴染むものの方が良い。よく使うものであれば尚更である。別に使えれば何であろうと構わないとは思うが、地味に作業効率は落ちる。生前に散々物を書き付けるにあたって、合わない筆を使っていた時期のことを思い出して眉を顰めた。


「ちなみに、他には何か買うものが?」
「いや、特に無いな。見つけ次第すぐに戻る」
「本当に?」
「…何が言いたい」
「いえ…申し訳ございません。てっきり、そろそろ彼女に贈り物でもされるのかと思っておりました」
「彼女?メルクリア…ではないな。誰のことだ」


この時のバルドの表情だが、まさしくぽかんという言葉がぴったりだった。何故そんな顔をされなければならないのか意味がわからない。むしろこちらが同じ表情を浮かべても良い筈だ。何故俺が誰かに贈り物をする…と思われているのか。妹への贈り物や、普段の皆の労苦に報いる褒賞をというのであればわからないでもないが、特定の個人、とは。


「…その心底信じられないというような顔をやめろ。鬱陶しいぞ。言いたいことがあるならはっきり言え」
「じゃあ、ウォーデン。それは本気かい?無いとはわかっているけれど、照れ隠しとかではなく?本当に気づいていないのかい?」
「だから、一体なんだ」
「言っていいものかわからないけれど…彼女のことだよ、」


告げられたのは、今朝方もすれ違った人物の名である。妹が実の姉のように慕う彼女は、最近では目の前の臣下に言い寄られることのないよう立ち回れる…という意味でも貴重な人財になりつつある女性だった。


「きみ、ずっと彼女を目で追っているだろう。自覚は無かったようだけれど。彼女と他の人とが話す時の視線も…てっきりそういうことかと思っていたよ」
「馬鹿馬鹿しい…!ある訳ないだろう、お前でもあるまいに。そんな事を考えていたのか?」
「割と本気で考えていたよ。…この不肖の義兄に限らず、他の皆もそれなりに同じことを思っていたんだけど」
「…なんだと」


もう一度、馬鹿馬鹿しいと吐き捨てる。

ずっと姿を追っている?
他の者と話す都度に視線を向けている?
確かにすこし、視線が合いやすいような、そんな気であれば多少はするが。妹と共にいる事の多い存在であれば自然と目にも入ろうと言うもの。
そうでなくては、まるで、己が死者の分際で、或いは浅ましい感情を抱いているとでも。


「彼女が他の誰かと添うことを想像して、許容できるのであれば…いいだろうけれど。でも、もし難しいのであれば…それは、」
「…馬鹿馬鹿しいと言っているだろう!」


ぐらりと頭が煮えたような感覚。脈打つ鼓動を無視して三度吐き出した言葉と共に、いつの間にか握りこんだ己の拳を開く。
薄らと跡の残る掌の中に、ぐしゃりと歪む何かを幻視した。




良い品揃えをしていると、素直にそう思う。良い書き味の筆を見つけ、手早く品を包んだ店主に代金を渡して店を出た。

思ったよりも早くにこの買い物が終わった。これならば元々予定していた案件の対処にも向かえるだろう。
時折の戯れ言や女性絡みの問題を除けば優秀な臣下を見送り、己は早々に拠点に戻るべく踵を返そうと、したはずだった。

目の端に映った人影に視線が向かう。
少し距離が離れているが、あの後ろ姿は見覚えがあった。そういえば、買い出しに来ているらしいと言っていなかっただろうか。


(ずっと彼女を目で追っているだろう)


…続けて思い出された言葉に顔が歪む。
偶然であるのに、こうなってくると酷く気まずくなるものだ。一声かけようとした足が止まり、その隙に彼女は妹の傍らに辿り着いていた。
何を話しているのかまでは聞こえないが、楽しげな表情の妹に対して、穏やかに笑う姿が見えた。決して不穏さの欠片もない筈なのに、どうしてか酷く緊張して、喉が渇く。似た光景を、何処かで見たことがあるような。

不意に、彼女の空いた左腕を妹が掴み、何かを指して言葉を発した――瞬間、脳裏にひらめいた。


(「わらわも欲しい。ねえ、」)


聞こえるはずのない声が聞こえる。あそこに立つメルクリアはきっと、そんなことは言っていない。この言葉を発していたのは…夢の中の、妹だ。
連れ立って歩き出した現実の二人に、夢の中の光景が重なった。
あの夢の中で、この後、俺は一体、どうしたのだったか。何を思って、この手に、何を。

細い腕を思い切り握りこんで、他に目を向けられないようにしたいと、――駄目だ。

思い出すな。気づくな。きっとこれは、ならぬ物だ。
そう思っている時点で手遅れであるとは、だれが唱えているのだろうか。






薄々わかってはいる。認めてはならないものである故、意図して無視しているに過ぎない。そんなことはわかっているのに、それすら無視した無意識があるとはもう、どうしようも無いのかもしれない。
戻ってすぐ、寝台の傍らに転がしていた例の筆をばきりと折って捨てた。本当なら出払うべきところを、そこから立ち上がれずにいる。

頭と腹がふつふつと煮えていた。どろついたこんなもの、抱えて歩むべきではないというのに。
目を瞑って、夢を見た。今度は夢とわかっている夢だ。



――欲しいものがあるのだと、妹が誰かに訴えている。

「どこにもやりたくないのです」

誰かが微かに笑っている。ではどうするのかと問いかければ、またその腕を引いて歩き出す。

「掴まえてしまえばよいでしょう」

妹の姿は既に無い。
そう言った誰かの姿が、己以外の知らぬ人影に連れられて少しずつ遠くなる。動かない足に酷く焦燥する間に、いつの間にかその姿は目の前にあった。
安堵する心と、知らぬ感情が喚き散らす。

「他にやってしまうくらいならば、早く閉じ込めてしまえ」

伸ばそうとした右手の中には折れた筆。
小さな声が、最後とでも言うように、「許されるわけがない」と囁いている。そうだ、俺は許さない。許さない。許されない。死者と、生者。交わらない概念。であれば決して、踏み越えてはならない。

誰ぞに似た声が揶揄うように告げる。

「なら、何故もう、その手を掴んでいらっしゃるのです」

彼女の腕を掴んで、酷く酷薄な笑みを浮かべているのは。遠くへ誘おうとしていたのは。
――己の姿に間違いがなく。







ここまであからさまな夢を見なくてもいいだろうに。

じっとりとした汗をかいて目が覚める。支離滅裂、急な切り替わりばかりの継ぎ接ぎな所は夢らしかったが、今回は全てはっきり記憶してしまっていたのが問題だ。

とりあえず、夢の中ですら揶揄うような臣下については、現実の本人に少し八つ当たりをさせて貰おうと思う。こんな夢を見たのも間違いなく、余計なことを言ってくれたお陰である。最早一周まわって何も考えたくない。寝起きであることも手伝い、らしくもなく頭が全く回らなかった。
深深とため息を吐いた時、コンと控えめに扉が鳴る。咄嗟に開いていると応えてしまったが、いや、今の鳴らし方は。


「ナーザさん、夕餉の支度が…珍しい、お疲れでしたか?」
「いや…疲れは、ない」


タイミングを考えて欲しいなどと、ここまでくると誰に八つ当たりをしたものか。燭を灯しながら微笑む姿を見つめて頭を抱えた。


「もう少しお休みになりますか?」
「いや…ただ、湯浴みまでいかないが、少し水でも被りたい気分だ」
「水…?あ、お水、飲まれます?喉乾きますよね」


文字通りに水を被りたいだけだったのだが。
差し出された水差しを受け取りながら、近くに伸ばされた腕をつい目で追いかける。
この腕を引いて歩く誰かが、いつか現れるのだろうと思う。生きている誰かが、きっと。

そう思うと、許せない。
――気づけばその手首を追いかけていた。勿論夢の中よりは緩やかな力で…何せ、ともすると筆よりも折れやすく思えるので。

馬鹿もの、と内心で己を罵った。掴むな。何故掴んでいる!
気づいた時には既に遅く、見上げた彼女が首を傾げていた。


「水、もう少しもってきますか…?」
「…、何でもない。ぼうっとしていた。他意はない。…ひとまず、先に戻ってくれ。すぐに行く」


(「彼女と誰かが添い遂げる姿を許容できるか」)
戯言を。こんな有様で、許容出来るわけがないだろう。

けれど、だったらどうしろと言うのだ。己で引いた線引きを踏み躙るような真似をできるはずがない。世の理に反することなのだから当然だ。答えの出ない自問自答を無理やりに切り上げ、大きく深呼吸を繰り返す。
ままならない感情が、今も暴れ回っている。意地でも名付けてはならないそれは無理やりにでも押し流せ。

掴んだ腕の細さを思い出して未だ目眩がする。
部屋を去る彼女を見送って、備え付けの浴室で今度こそ水を引っ被った。

――忌まわしき我が執着よ、そこの水溜まりで溺れてしまえ。


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