6月の花嫁
ㅤ西の国の、泡の街という小さな街にはこんな言い伝えがある。6月の花嫁は、邪悪な魔法使いに攫われる。そんな言い伝え。
ㅤ10年くらい前、男の子と約束をした。その子は年齢のわりには痩せっぽちで、小さくて、女の子みたいだった。彼は仕立て屋の息子だったけれど、魔法が使える彼は奥の裁縫部屋にいつも閉じ込められていた。狭くて、物置部屋みたいな小さな部屋。お客として初めてお店に行った時、彼は裁縫部屋からこちらを覗き込んでいて、このあたりにしては上等な服を着ているわたしをキラキラと輝く目で見つめていた。綺麗で、宝石みたいで、近くで見てみたかった。近くで見たらもっと美しいに違いない。
ㅤだけど彼の父親は、あの子と遊びたい、と言うわたしに「お嬢様のようなお方には……」と渋り、取り合ってはくれなかった。だからその部屋の窓を叩いた。背伸びしてちょうどいいくらいの、小さな窓を叩いた。
「きみは誰……?」
「ナナ。あなたは?」
「ク、クロエ……」
ㅤようやく窓を開けてくれた彼の両目はやっぱり綺麗で、お母様のブローチみたいに輝いていた。まるで絵本の中の王子様みたいだと、彼が笑ってくれたから、わたしはすぐに彼が好きになった。幼いわたしはお姫様に憧れていたけれど、彼があんまりにも笑うから、彼があんまりにも喜んでくれるから、わたしは彼のためになら王子様になってもいいと思えた。
「クロエは何してるの?」
「あ……お、おれは……」
「話すの苦手? わたしのお父様もよ。だからわたしとお母様に嫌われてるの」
「ごめん……」
「クロエのことは嫌いじゃないわ。かわいいし、綺麗だから」
ㅤかわいい、綺麗……と繰り返したクロエはそんな褒め言葉も知らないみたいだった。彼は不思議で、泡の街のどんな子どもたちよりも話すのが下手くそだった。燃え上がる夕日のように赤いやわらかな髪も、世界一の職人が作った宝石細工よりもずっと美しいアメジストの瞳も、他の子どもよりも洗練されていて綺麗なのに、大人たちは知らないふりをする。子どもながらに、彼を狭い部屋に閉じこめる大人たち──彼の両親が、わたしの優しいお母様とはまったく別の、奇妙な生き物に見えた。
ㅤ彼の家族に隠れて会うにつれて、彼はわたしと友達になってくれた。笑顔がかわいい。手先が器用。それから、本当は、魔法使い。
ㅤわたしに秘密がバレた時、彼はこの世の終わりみたいな顔をしていた。どうして? と聞いたら、彼は泣き出して、おれはふつうじゃないから、と小さな両手で顔を覆った。魔法使いは怖い。だけど、彼は悪い魔法使いには見えなかった。大人が勝手に押し付けた価値観よりも、わたしにとっては目の前の痩せっぽちの子どものほうが大事だった。
「クロエに作ってほしいものがあるの」
「おれに……?」
ㅤ涙で濡れた目でわたしを見上げた彼は、こてんとかわいらしく首を傾げた。
「わたしのウェディングドレス、作って」
「おれが?」
「わたし、お父様が決めた人と結婚するの」
「えっ!?」
ㅤクロエが大きな声を出すものだから、わたしは慌てて窓の下に引っ込んだ。彼はカーテンを閉め、何事もなかったかのように部屋の中で雑用をしているだろう。彼の親や姉には見つかりたくない。
ㅤしばらくして、カーテンが開く。どうやら、家族の誰かが来ていたようだ。
「父さんが来たんだ……」
「あなたが大声を出すから」
「ごめん……でも、」
「結婚のこと? 生まれた時から決まってたの。わたしと結婚する頃には相手はおじさんよ。もうサイアク。でも、どうせなら、ドレスくらい好きなものを着たいから」
ㅤクロエが考えた服はとてもかわいくて、お洒落だ。何度かデザイン画を見せてもらったけれど、お店に並んでいたら思わず手に取って来てみたくなりそうなくらい素敵なのだ。
「作ってくれる?」
「いいよ、でも……」
ㅤ変えられない運命を受け入れたわたしよりも、クロエは悲しそうで、広い森の中に取り残された子どもみたいに寂しそうだった。胸がきゅっとなる。かわいくて、綺麗なこの子がわたしの結婚相手だったら。
「……クロエだったらよかったのに」
「泣かないで、ナナ」
ㅤ今度はわたしが泣いて、クロエがおろおろする番だった。優しいこの子が好きだ。多分、一目惚れだった。
「た、助けに行くから」
「えっ!?」
ㅤ次はわたしが大声を出してしまった。慌てて窓の下に引っ込み、クロエがカーテンを開けてくれるまで待つと、しばらくしてカーテンがまた開いた。
「ごめんね。大丈夫だった?」
「うん、誰も来なかったよ」
ㅤだから気にしないで、と笑った彼は頬を少しだけ赤くさせている。じゃあつまり、さっきわたしが聞いたことは夢じゃなかったということだ。
「本当?」
「?」
「本当に、来てくれる?」
「……うん」
「約束してくれる?」
ㅤ控えめに頷いた彼は、赤い顔で恥ずかしそうに笑っている。本当に? 嘘じゃない? と何度も聞くわたしに、本当だよ、嘘じゃないよ、と言って。
「わたしを、攫ってね」
「うん。約束だよ」大好きなクロエがそう言ってくれたから、わたしは安心できた。ずっとずっと憂鬱だった未来も、子どものままでいいのにと願っていた今も、笑える気がした。
「好きだよ」
ㅤ恥ずかしがるでもなくそう告げて、背伸びをして彼の頬に口付けたら、彼は髪の色とおんなじくらい真っ赤になった。でも、彼はいなくなった。わたしと約束をしてくれた次の日に、おかしな魔法使いに攫われて。
ㅤその日から、あの子を忘れたことはない。あの子はどこにいるだろう。あの子は何をしてるだろう。ずっとずっと毎日のように考えて、わたしはいつの間にか大人になって、お父様に決められた相手と結婚する日になった。
「ナナ、幸せになって」
ㅤお母様の声が、白いドレスを着ているわたしの耳に届く。いくら優しいお母様でも、わたしの運命は変えてくださらなかった。名誉と富にしか興味がないお父様の分まで愛情深く育ててくださったお母様を恨んでいるわけではない。感謝しているつもりだ。理解しているつもりだ。
「一人にしてくださりませんか?」
「……ええ、わかったわ」
ㅤドレッサーの前に腰かけ、純白のドレスに身を包んでいるわたしは世界一不幸な花嫁に見えた。一人になった広い控え室は、静かで物音ひとつしない。この切なさの深度を誰かに測ってもらいたいわけじゃないけれど、憂鬱で仕方なかった。
「うそつき」
ㅤ誰かを責める言葉が口をついて出る。あの日、約束をした男の子に向けたものなのに、大人になって聞き分けがよくなったわたしの声には怒りも悲しみもない。ただ、諦めだけがある。
ㅤ不意に、不自然な風が吹く。窓は締めきっているはずなのに、温かい風がダイヤのついたピアスを揺らし、薄いカーテンを揺らしている。誰かがいる気配がする。けれど部屋の中には誰もいない。
「振り向かないで」
ㅤ男の人の声がした。知らない人の声だった。なのにわたしは、声の主を知っている気がした。10年の月日の思い出に置き去りにした、あの子がいる気がした。
「……クロエ? 来てくれたの?」
「うん。俺だよ。勝手にいなくなって、ごめんね」
「いいの。あなたは、あの家じゃ幸せになれなかった」
ㅤごめん。それは安心したような、泣きたくなるくらいに切ない声だった。クロエがいなくなったと知った時、心配で心配で仕方がなかった。約束を破られたと怒るより、生きているかもわからない彼のことが心配だった。絶望するより、怒るより、この広い世界のどこかで生きていてほしかった。彼の姿は見えない。それでもどこかに、この部屋のどこかにいる。
「攫いに来たよ。俺と、来てくれる?」
「うん……」
「後悔しない?」
「しない」
ㅤわたしが泣き出したからか、戸惑っているような気配がした。クロエがドレスを作ってくれるんでしょう? うわ言のように言えば、わたしだけが映っていたはずの鏡の中に一人の青年が姿を現して、大きな目を懐かしそうに優しく細めた。彼は、わたしの背後にいたのだ。燃え上がる夕日のように赤いやわらかな髪、世界一の職人が作った宝石細工よりもずっと美しいアメジストの瞳。
ㅤドレスの裾を持ち上げて、彼のもとに走った。もう、折れそうな痩せっぽちの身体じゃない。抱きついたわたしをふらつきながらも抱きとめて、背中に腕を回してくれている。
ㅤ──花嫁が攫われた。悪い魔法使いだ。花嫁を助けよう。空を見上げ、口をぽかんと開けている人々は口々に言う。「賢者の魔法使いに助けてもらおう」と。
「きみがクロエの初恋の子なんだね」
「も〜! 恥ずかしいことは言わないでってば!」
「素敵じゃないか。ずっと──」
「わー! わー!! 言わないで!」
ㅤラスティカと名乗った魔法使いは、クロエの背中にしがみついているわたしに笑いかけた。彼が10年前にクロエを攫った魔法使いらしい。悪い人に見えなくて困惑していると、色っぽい男の人がくすくすと笑いながら地上の人々を見下ろした。
「人間は愛らしいものですね。私たちがその賢者の魔法使いだというのに」
「そうだね! 俺たちが賢者の魔法使いなのにね!」
ㅤえあにゅー、なんとかと唱えた男性が空中でくるくる回り、色っぽい男性は色っぽく笑っていて、人間たちを楽しそうに見下ろしている。クロエは真っ赤な顔でラスティカさんに怒っていた。
ㅤきっとわたしは、この世界で一番幸せな花嫁だろう。
***
ㅤ西の国の、泡の街という小さな街にはこんな言い伝えがある。6月の花嫁は、邪悪な魔法使いたちに攫われる。そんな言い伝え。
ㅤわたしはその言い伝えが書かれている本を見かける度に、笑って、黒いインクでこう書くのだ。
ㅤ6月の花嫁は、綺麗でかっこいい、優しい魔法使いと幸せになる、と。