砂糖漬けの呪詛 11
ㅤ前世のわたしは確かに、ローブを着ている彼を「ファウスト」と呼んだ。
ㅤ爆発するかのように噴き上がった湖の飛沫が青い空に散り、ガラス玉のような雫は地に落ちきる前に火花へと姿を変え、木やその他の植物に引火していく。頭は真っ白になっているのに目に映る赤色は目を逸らしたくなるほどに鮮烈で、ぼやけていた記憶の輪郭を鮮やかに照らしていた。戸惑うなというほうが無理な話だ。今や何度も夢に見たあの人の姿や声ははっきりと蘇り、夢で見ていた映像も瞬く間に塗り替えられていく。
「ファウスト……」
ㅤわたしの声は、やっぱり彼には届かなかった。穏やかに笑い合うファウストと前世のわたしは赤い炎に呑まれ、炎天下の陽炎のように揺らいではその姿も薄れていく。
ㅤどうして思い出せなかったのだろう。あんなに恋焦がれていた人を、あんなに愛していた人を、どうして忘れようとしていたのだろう。けれどもわたしは、
ㅤ魂はわかっていたのだ。あの時、わたしをフィガロ様のお部屋から連れ出した彼が、わたしに悲しい顔を向けた彼が、トビカゲリの騒動の際に心配してくれていたであろう彼が、わたしの恋人だった人だと。
ㅤ魂はわかっていた。だから、わたしはファウストが告げた彼自身の遺言に無意識のうちに惑わされていたのかもしれない。他でもない
「待って……」
ㅤファウストは前世のわたしと手を繋いでいた。幸せそうにかすかな微笑みを浮かべている彼は、当然わたしには気づかない。誰かがわたしを呼んでいる。けれど、視界を埋め尽くしていく炎を前に足がすくんで一歩も踏み出せない。
ㅤ視界を埋め尽くすような、空高くまで立ち上る炎がわたしを喰らうように呑み込んだ。目の前に迫る炎に思わず目をつぶれば、今度は風の吹く音が聞こえてきた。いかにも冷たそうな、生物も植物も凍りつかせる北風のような音だ。
ㅤ目を閉ざしていても、外が眩しいほどに明るいということはわかる。恐る恐る、ゆっくりと目を開けば一面には生命の息吹すら感じられない銀世界が広がっていた。どこを見ても白色しかない、孤独にも思えるその場所で唯一、手を繋いでいるファウストと前世のわたしの姿だけが生を象徴しているように見えた。
ㅤファウストの鼻先は赤く、吐く息も白くなっている。“わたし”と繋いでいる手も、可哀想なくらい真っ赤になっていた。灰色の空からは花びらのような綿雪が降り続け、この寒々とした静寂にも音があるのではないかと思えてくる。
「僕は寒いのは苦手なんだ」
ㅤ“わたし”はファウストに寄り添い、頭を彼の肩に預けた。空を見上げた彼の頬に落ちた雪がとけていく様を見ると、かつての彼が浮べるやわらかい表情に驚いてしまう。その驚きよりも懐かしさを感じたのはやはり、わたしに未練があったからだろうと思えど、死んでしまったわたしには手の施しようがない。
ㅤ二人は内緒話をする子どもみたいに身を寄せ合い、互いの白い吐息が交わりそうなほどに近い距離で言葉を重ねてはくすくすと笑っている。髪に雪が積もるのも、寒さで指先がかじかむのも、別段気にしていない様子の彼らは静謐を孕む白銀の世界を気に入っているようにも見えた。
ㅤ凍りついた切なさが心の中に降り積る。しかし、踵を返そうとした刹那、視界が真っ逆さまにひっくり返った。振り続けていた雪も地上から天空へと昇る──いや、逆さまになったスノードームの粉雪のように落ちていく。
「ファウスト……!」
ㅤ瞬きをするまでもなく、白の世界が暗闇に蝕まれていった。わたしの存在が消えて彼らも消えていなくなってしまう前に叫んだけれど、そんな声など誰かに聞こえるはずもない。
ㅤ今度は水のせせらぎが聞こえてきた。さっきの、人里からほど近い湖の音とはわずかに違う、もっと静かで厳かな音だ。
ㅤ真夏の夜に流星が翔けた。掴めそうなほどに大きな星がわたしを見下ろしている。わたしは湖のほとりで、彼らを見つめていた。
「掴めるわけがないじゃないか……」
ㅤ呆れたような、有り得ないと言いたそうな、現実主義なファウストらしい言葉が耳を打つ。それでも全否定はしないところが優しい彼らしかった。
ㅤああ、と思い出す。今なら、湖に反射する星を捕まえることができる気がすると“わたし”がファウストに言ったのだ。
「あの星の名前を知ってるか」
ㅤ彼は独り言のように問うた。遥か遠くの、銀河の果てにあるひとつの星。あれは最愛の妻への愛のかたちだった。
「学者が見つけたんだ。最愛の妻への愛を……彼が思う愛の真理を説いた言葉にちなんだ名前らしい」
ㅤ“わたし”は「綺麗ね」と笑った。ふくれっ面で唇を尖らせている子どもみたいに、「僕はきみよりも子どもだ」と告げるファウストはあまりにもいじらしくて、彼の隣に立っている“わたし”は息子を愛す母親のように、弟をかわいがる姉のように笑った。それがきっと、ファウストには面白くなかったのだろう。いつもは眉尻が下がっている彼も、その時だけはキッと両眉を吊り上げて不満げにしていた。
ㅤいかにもな不機嫌面をものともせず笑い続けていた“わたし”は、「真面目に聞いてほしい」と真剣な表情で懇願する彼のただならない様子に、ついに唇を引き結んだ。あの頃、彼の好意に気づいていながら知らないふりをしていた。居心地の悪い静かな空間に、水の音だけが響き渡っている。
「……きみが好きだ。わかってる。僕は子どもだし、アレクみたいに器用なわけじゃ……いや、うん、別にきみと恋人になりたいとかそんな──」
ㅤどんどん気弱になっていく声がついに風にかき消されて、彼は黙り込んだ。声を上擦らせているファウストは顔も真っ赤で、至極居心地が悪そうで、今すぐ立ち去りたがっているように見えた。彼に想いを告げられたわたしが、なんと答えたのかはずっと思い出せなかった。だけど、今ならわかった。
ㅤ愛は、離れたとしてもずっと見守ること。
ㅤファウストが教えてくれた星の名前にはそんな意味がある。
ㅤかの学者は命の短さを嘆き、最愛の妻を置いて逝くことを悲しんでいた。だから星に名前をつけた。妻を見守ることができるよう、魔法使いや魔女たちよりも永くこの世界を見下ろし続ける星に、そんな願いと愛を託した。
「わたし、あの星の名前を呪文にするわ」
ㅤ“わたし”の返事に込められた意味を、同じく魔法使いであるファウストに理解できないはずがない。
ㅤ呪文はよほどのことがなければ変えないし、一生同じ呪文を使い続ける魔法使いだって少なからずいるにはいる。どれだけ綺麗な言葉であれ惹き込まれる言葉であれ、信頼している師や親友、恋人──そういった特別な間柄ではない限り、他人から何を告げられても普通は変えはしない。そのくらい呪文の言葉は、魔法使いたちにとっては魔法の出来を左右する重要なものだ。
「わたしもあなたが好き」
ㅤ目を見開いて信じ難そうに“わたし”を見つめ返していたファウストは、本当なのか、嘘じゃないのか、と何度も口にする。
「いつか、離れたとしても見守っているわ」
「……そんな時は来ないように努力する」
ㅤ嬉しそうに、幸せそうにファウストが笑う。年齢のわりに落ち着いていても、向こう見ずで永遠の愛を信じているところがわたしには眩しかった。歳を重ねれば重ねるほど、わたしたちは誰かに置いてけぼりにされることにも、独りになることにも慣れてしまう。いつか訪れるかもしれない終わりを指折り数えるわたしと、若者らしく希望に満ちているファウスト。決定的な違いは山ほどあれど、それでもわたしは、彼が信じる永遠の愛とやらを信じてみたくなったのだろう。
ㅤ“わたし”が彼の頬に触れようとしたら、視界の端で炎が燻った。穏やかで愛おしい空気は一陣の風と共に去り、耳障りな不協和音のせいで彼の声が歪んでいく。ようやく視界が明るくなったかと思えば、わたしは騒がしい場所にいた。
「ナナ」
ㅤファウストは幸せそうに笑った。彼の声はこの世の幸せという幸せをぎゅっと寄せ集めて抱きしめたみたいなやわらかさを持っていた。抱きしめてもらう温もりも、作った料理をおいしいと言ってもらえる喜びも、わたしに教えた人。ファウストが、そうだった。
「明日にはようやく終わるんだ。……いや、終わりというよりも始まりか?」
ㅤ“わたし”の手を握りしめた手は、男の人にしては華奢で、指の先まで白くて綺麗だった。パチパチと爆ぜる焚き火を前で暖を取る“わたし”は、男性物のコートを肩にかけている。
「気をつけてね」
「レノも、アレクもいるから安心してくれ。……僕も酔ってるみたいだ。ナナは大丈夫か?」
「ええ。……もう休んだほうがいいんじゃない?」
「そうか、よかったよ。いいや、すぐに酔いも覚める。僕よりきみのほうが心配だ」
「平気だってば」
「平気だって? 何を言ってるんだ」
「……まだわからないのに」
「すべての決着がついたらちゃんと医者に診てもらおう」
ㅤ月のものが来ないと言った時、彼は慌てていた。わたしが食事を満足に取れなくなった時、彼は心配そうにしていた。わたしが眠る時、寒くないように抱きしめてくれていた。
ㅤファウストはきっと、なんとなくわかっていたのだと思う。わたしの腹には自分の子がいると、一年もしないうちに父親になると、わかっていたのだろう。
ㅤ目に映るものすべてが幸せに満ちていた。
ㅤ永い時を生きるうちに離れてしまうかもしれないと怖がっていたくせに、幸せすぎて彼のいない世界なんて考えられなくなる。わたしが作った料理をおいしいと言ってくれる彼が好きだった、わたしを抱きしめて眠ってくれる彼が愛おしかった。
ㅤぶわりと一陣の風が吹き、風に乗った火の粉が赤い蛍のように夜空を巡る。月と星が輝く天へと渦巻きながら上っていく赤色は徐々に大きくなって、星雲のように散らばり、やがてわたしの身体を包み込んだ。毒々しい、血潮のような炎に視界が明滅する。熱い、痛い、呼吸ができない。誰かに、ファウストに、がらがらに枯れた声で呼ばれてる。
「ナナ!」
ㅤレノックスに抱えられているファウストは、わたしを探していた。心はもう渇いてボロボロに傷ついているだろうに、彼の両目からあふれる涙はすでに虫の息の“わたし”の頬に落ちては炎の熱気によって蒸発していく。
「いやだ……いやだ、待ってくれ、ナナ……」
ㅤレノックスが、言葉を失っている。いつものようにファウスト様と呼ぶのも忘れて。
ㅤ悲劇の舞台を眺める一人の観客のように、わたしはその場に立って“わたし”を抱きすくめるファウストと、そんなファウストを絶望に染まる表情で見下ろすレノックスを見つめていた。
「ナナ……死なないでくれ……置いてくな、嫌だ、逝くな!」
ㅤ涙が、凍りついた星みたいだった。
ㅤ途切れ途切れに「ファウスト」と呼んだ“わたし”は、涙が流れ続ける彼の顔を撫で、乾燥している唇を必死に動かしている。熱風にすべてかき消されそうな、誰の耳にも届かないようなかすかな声だ。あいしてる、と告げる声が終わりを悟っていることは誰の目にも明らかで、ファウストの目から涙がいくつもいくつもこぼれては消えていく。喉の奥を引きつらせたファウストは大きな嗚咽を漏らした。
ㅤ──僕も愛してる、だから置いていくな。
ㅤ愛しているだなんて、告白を受けた時以来の言葉だった。死にかけているというのに、その言葉を聞いた“わたし”はただの人間の小娘のように穏やかで、幸せそうな表情を浮かべている。
「愛してる、きみが好きだ。頼む、息をしてくれ!」
ㅤファウストはもう一度告げた。
ㅤ口下手で、不器用なところがあるファウストは愛の言葉を囁くような甘い人ではなかったけれど、その行動や声で、表情で、愛情を示してくれる人だった。
「ナナ……いやだ、待ってくれ……」
ㅤやさしい彼の瞳は、憎悪や憤怒ではなく絶望だけを燻らせている。
ㅤあいしてる、ではなくて、わたしは「しあわせになって」と言うべきだった。わたしを愛してくれていた彼が前に進めるように、これ以上苦しまなくても済むように、「わすれて」と言うべきだった。なのに、わたしはできなかった。すべて、わたしのわがままな自己満足だったのだろう。
「死ぬな……! 死ぬな!!」
ㅤファウストの声はあまりにも切実だった。
ㅤ唇に乗せられた想いは願いとなり、不思議の力を宿す呪いとなる。そんな初歩的なことは、魔法使いであれば誰だって知っている。
「死ぬな!!」
ㅤ彼の懇願は、息絶えたわたしを呪うだろう。
ㅤ先生はわたしを呪わなかった。わたしを呪ったのは、わたしを愛してくれたファウストだった。
ㅤけれど、もしも。わたしの「あいしてる」というその言葉が、彼を未来永劫に縛る呪詛の言の葉に成り果てていたとしたら。わたしの悲惨な最期が、わたしとの思い出を振り払えなくする呪いだったとしたら。
ㅤファウストがわたしを呪うよりも先に彼自身を呪ったのは、他でもないわたしだったのかもしれない。