砂糖漬けの呪詛 13
「きみが亡くなってから、僕は東の国にある嵐の谷という地に留まった。精霊が多くて、静かな土地だ」
ㅤレノックスに匿われていた小屋から逃げ出したんだ、と言って区切ったファウストの声は平坦だった。声色を押さえつけているようにも、わざとらしく落ち着かせているようにも思える。
ㅤ嵐の谷という場所なら、わたしが今のわたしとして生まれる前、世界中を放浪していた頃に近くを通った覚えがある。確か、土地に馴染みのない者が近づくだけで場が狂乱する、精霊の力が強い谷だったはずだ。
「人も魔法使いも滅多に寄り付かない。それが僕には心地がよかった」
ㅤ彼や仲間を裏切った人間たちへの憎しみや怒りは400年が経った今でも燻っているのかもしれないけれど、その表情からは汲み取れなかった。繋がれたファウストの手に力が入り、少しだけ痛い。
「100年、きみの亡骸は僕のそばにあった。自由にして、どこか心休まる場所で眠らせるべきだとわかっていたがどうしても手放せなかった。……すまない」
「……」
「100年間、ずっと誰かの気配を感じていたんだ。きみがそばにいてくれている気がしていた」
ㅤ石になったわたしを、ぼろぼろの手で包んでいたファウストの背中を思い出す。春も、冬も、晴れの日も、雨の日も、厄災が近づく日も、彼はわたしの亡骸に声をかけていた。わたしはその悲しいうしろ姿をずっと見ていた。
「きみはいたんだろう。僕のそばに、いてくれたんだろう」
ㅤ──愛は、離れたとしてもずっと見守ること。
ㅤ愛の真理を説いた星が、頭の中に不意によぎった。けれど夜空には星の輝きもない。
「あの星を呪文に選んでくれたきみを思い出して、僕は亡霊となったきみに縋った」
ㅤわたしは死してなお、ファウストのそばにいたのだろうか。だから、この世に取り残されたわたしの魂は知っていたのかもしれない。自然豊かな谷で彼が一人きりで泣いていたことも、彼がわたしとオルゴールを黄昏の丘に埋めたことも。
「……恨んでる? あなたに呪われたくせに、未練がましくそばにいたわたしを」
ㅤ見なければいいのに、顔を強ばらせる彼を見てしまった。その反応こそが肯定そのものに思えて、腹の奥から熱い何かがせり上がってくる。
ㅤ怒り、絶望。
ㅤ悲しみ、寂しさ。
ㅤ胸にあるのはどんな感情なのかわからない。境界も曖昧なほどにまぜこぜになっているのか、それとも麻痺してしまっているのか、簡単な言葉ひとつで表現できなかった。
ㅤ悪意を持って佇む沈黙が、水の音に侵食された。わたしの両肩にファウストの指が沈み、骨の軋む嫌な音が間近で鳴る。強い否定と揺らぐ眼光がこちらに降りかかっていた。
「僕は確かに、きみを呪ったんだろう。きみの魂をこの世に引き留めた。安らかに眠るべきだったきみの魂を、僕は僕のエゴで傷つけた。すまなかった。きみを苦しめて、傷つけて、すまなかった」
ㅤあの時代が誰かの嘘で、ただの夢で、幻だったらどれだけよかっただろう。わたしの肩を掴んでいる指の力が徐々に弱まっていく。彼の声は、真っ暗な深い森に一人きりで残された子どもみたいに震えていた。
「死んでほしくなかった」
ㅤ強い風が吹き、ファウストの目元にかかっている前髪が揺れた。整った顔立ちの中に様々な思いが入り乱れ、瞳の奥に眠っているであろう感情もさっきよりも生々しく感じ取ることができる。
「きみに死んでほしくなかった。きみにも、お腹の子にも、生きていてほしかった。何度だって考えたよ。きみがいて、僕の子もいる……そんな生活を」
ㅤもしも、と何度も考えた。わたしが作ったガレットを口元を汚しながらも頬張る子どもと、そんな我が子を微笑ましく見守るファウストを。
ㅤもしも、と何度も夢に見た。家族三人で一緒に眠る温かい夜のことを。
「愛していたから、なんて理由で僕がしたことを許してもらおうとは思っていない」
「……ファウスト」
「愛していた。……どうか、きみの人生を歪ませた僕を許さないでくれ。それから、」
ㅤファウストの両手は離れ、触れていた場所が寒く感じられた。終わりとは、いつも呆気ない。今この瞬間こそが、本当の別れなのだと本能的に悟った。
「きみをまっとうに愛せる誰かと幸せになってほしい」
ㅤ涙は出ない。前世の記憶に引きずられていつもみたいに泣いてしまうと思ったが、今夜の寒さにやられて涙も凍りついてしまっているらしい。彼の手元に現れた箒を無感動に眺めながら、他人事のように考える自分が妙に冷静でなんだかおかしかった。
「魔法舎に戻ろう。フィガロにも連れ戻すように言われてるんだ。僕の箒でいいか」
ㅤ言われるがまま箒に乗せてもらうと、爪先や服から滴る水がガラス玉のように下へと落ちていく様子がよく見えた。もどかしいくらいにゆっくりと上昇した箒はスピードを上げることもなく、魔法を覚えたての子どもみたいにのろのろと空を飛ぶ。何も言わないファウストに、わたしも何も言えなかった。互いに別れが名残惜しく思えて、わざとゆっくり飛んでいたあの頃はもう戻ってこないのに。
「……ファウスト」
ㅤ黄昏の丘を抜け、森を抜け、とうに眠りについた家々が見えてくる。わたしの前に座って箒を操作しているファウストの返事はなかった。
「わたしも、愛してた」
ㅤわたしが死んでからも、苦しみ続けた彼に「愛している」なんて今さら言えるはずもなかった。それ以上に、今のわたしが抱えている愛情が偽物か本物か、それすらもわからない。だってわたしは、前世とは違う父母から生まれた、わたしであって“わたし”ではないのだから。
「僕もだよ」
ㅤ水滴が落ちていく。爪先から、服の裾から、ガラス玉のような雫が音もなく落ちていく。愛していたと、過去形で愛を告げた彼の言葉が今になってちくちくと胸に突き刺さっている。
「幸せになって」
「……ああ」
ㅤ400年越しに訪れた別れのやり直しは、朝露のように儚く散った。前世のわたしがいっとう望んでいたのは、こんな結末だっただろう。
ㅤ不器用だね、とフィガロ様はおっしゃった。彼は真夜中に帰ってきたわたしの部屋を訪れ、何杯か酒を飲んでからご自身の部屋へとお戻りになったものの、すべてを見透かしていたと思う。ああいうところは少しだけ苦手だ。
ㅤだけど、魔法舎に戻ってから随分と気も楽になった。一人であれこれと考えるよりも仕事に没頭していたほうが楽だと気づいてからはなおさら。だからと言うわけではないけれど、先生を恨んでいるであろう魔法使いたちもここにいるということをすっかり失念していた。
ㅤわたしの首根っこを掴んでいる北の魔法使いミスラはなんとも思っていなさそうな表情でわたしを見下ろし、魔道具のドクロを右手にかざしている。わたしに話しかけてきた時に「アルマンは腹の立つ男でしたよ」と言っていたので先生に恨みがあるのだろう。
「いつか殺してやろうと思っていましたが……まさかもう死んでいるとは。誰に殺されたんです? そう簡単にやられる男ではないでしょう」
「寿命よ。〈大いなる厄災〉の襲来に耐えきれなかったわ」
「そうですか」興味がなさそうに答えるわりには、わたしを解放する気配もない。ミスラはオズ様に次ぐ実力者だと聞いているし、反抗すれば殺されるかもしれない。
「ミスラさん! 女性に何してるんですか!」
ㅤミスラの片眉がわずかに動く。面倒くさそうに背後を振り返ったミスラはわたしの首元から手を離し、ドクロも仕舞った。どうやら、談話室に南の魔法使いたちが来たらしい。わたしの仕事をよく手伝ってくれるルチルやミチルとはそれなりに交流はあるものの、レノックスと顔を合わせるのは気まずかった。
ㅤルチルのお説教をミスラが真面目に聞いているのか聞いていないのかはよくわからない。多分後者だろうなと思いながら二人を見ていると、心配そうに眉を下げているミチルがわたしのそばに駆け寄ってきた。遅れて、レノックスもやって来る。
「ナナさん、大丈夫ですか? フィガロ先生に診てもらいますか?」
「念の為、診てもらおう」
「大丈夫よ」
ㅤわたしの返事に不満を持ったのか、ミチルとレノックスは顔を見合わせた。二人の優しさは嬉しいけれど、痛くもなんともない首を見せてフィガロ様のお手を煩わせたくない。
「……俺が診よう」
「え」
ㅤわたしのそんな気持ちを察してくれたと思っていたら、そうでもなかった。わたしの手を掴んだレノックスは談話室を出て部屋へと向かった。
「レノックス、待って」
「軽い処置くらいなら問題はない」
「そうじゃなくて……」
ㅤそうじゃなくて、二人きりになるなんて気まずすぎて耐えられない。レノックスはわたしがファウストの恋人だった魔女だとおそらく気がついているし、なんならここ数日のぎくしゃくした雰囲気にも勘づいているだろう。レノックスは純粋にわたしを心配してくれているだけで、悪気はないとわかっている。彼は昔から、善意と優しさに満ちた魔法使いだった。それは今でも変わっていないのだと思う。けれども、わたしとファウストの関係性を知っていることだけが何よりも耐え難いのだ。
「……本当に、平気だから」
ㅤ立ち止まった彼がわたしを見下ろしている。感情の起伏が少ない人だから、何を考えているのか予想もできない。
「少し、話がしたかった」
「話?」
「ああ。思い出話をしたかった」
「あなたと話せることなんて……」
「それでもいい」
ㅤレノックスの頑固さはよく知っている。革命軍にいた頃のレノックスは、対等を望んでいたファウストにあくまでも従者として接し続けていた。それほど頑固で強情な彼に、何を言っても聞き入れてはくれないだろう。
「……少しだけよ」
「ありがとう」
ㅤ通された部屋は物が少なく、綺麗に片付けられている。実直な彼らしい部屋だった。
「茶でも飲むか」
「まだ仕事が残ってるから遠慮するわ」
「そうか。忙しいのにすまない」
ㅤこんな風に、ファウストや他の魔法使いたちもレノックスに根負けしていた。何百年と経っても、彼はずっと変わらなかったのかもしれない。室内をそれとなく見渡すとベッドに横たわっている羊のぬいぐるみに目が行くものの、南の兄弟からの贈り物なのかもしれないと考えれば、レノックスの部屋にかわいらしいぬいぐるみがあっても至って自然なことのように思えてくる。
「首のほうは、本当に大丈夫か」
「ええ」
「なら、よかった」
ㅤ鷹揚とした、起伏を感じられない声色の中に穏やかな彼らしい優しさが滲んでいる気がした。