不埒な楽園
ㅤ気がつけば、生まれてから1000と500年が経とうとしていた。いや、正確には1200年とか1300年とか、そのくらいなのかもしれないけれど、生まれたあとのことはよく覚えていない。というか、今が何年の何月何日かも知らないのだから自分自身の寿命については考えるだけ無駄である。
ㅤ時間の概念も希薄になるような、太陽の光も人工的な明かりも何もない、埃臭くて黴臭いじめじめとしたこの空間には大体100年ほど前には飽き飽きしていたが、わたしは無気力に今の生活をただただ享受している。逃げ出そうと思えば容易く逃げ出せる。わたしを拘束している手枷や足枷を外し、見張りの人間を殺し、この塔だか地下だかの施設の中にいる人間を皆殺しにしてしまえばいい。ただ、それを実行しないのは、面倒くさいだとか、気力が出ないだとか、そういった云々の話ではなく、大昔にこの生涯に飽きてしまったからだ。人間に嫌われたり尊ばれたり、擦り寄られたり愛されたり、他の魔法使いたちと似たり寄ったりのどうせつまらない生涯である。何をしようがしょうもなくて面白くないわたしの一生は変わらないので、いっそのこと流れに身を任せてみることにした。そうしたら、頭が狂った教団の信者に捕まり、かれこれ150年は幽閉されている。信者はわたしを「聖女様」と大仰に呼ぶが、月のような光を宿すこの瞳そのものに心酔しているようだった。彼らが〈大いなる厄災〉を崇拝し、異教徒が神を愛すのと同じように〈大いなる厄災〉を愛していることは知っているものの、わたしは亡国の救世主ではなく、どこかの国で生まれた魔女でしかない。要するに、彼らが何を企んでいようがわたしにはまったく関係がないのだ。
ㅤそれに、わたしが気にかけているのは〈大いなる厄災〉ではなく友人のことだ。ここに幽閉される前までは年に数回は会っていたレベッカは子どもを無事に産んだのだろうか。夫だった人間のほうはとうに死んだ頃だと思うが、魔女であるレベッカはまだまだ健在かもしれない。
ㅤベッドから足を投げ出すと、重たい足枷が硬いマットレスや冷たい床に当たって金属同士が擦れる音が響いた。眠りこけそうになっていたらしい見張り役が飛び起きるような大きな音が聞こえてきたけれど、どうせすぐにまた眠りにつくだろう。わたしを見張るくらいならば手付かずの夕食も下げてほしいと思いながらも溜息をつけば、白い息が暗い部屋を漂った。休息も食事もしばらくのあいだならば必要ないと言っているのに、この部屋にはいつも味付けの濃い料理が運ばれてくる。朝昼晩の三食、次の食事の時間になるまでトレーに載せられた料理は下げてもらえない。いくら言っても聞き入れない頑固さにはもちろん飽き飽きしているし、うんざりしている。でも、まだ殺すほどではない。
ㅤ
「……何?」
ㅤ不意に牢の外が騒がしくなり眉を寄せたものの、すぐに静かになった。コツコツコツ、と革靴の音が気密性の高い空間に反響し、静寂が波打つ。信者のうちの誰かの気配ではない。こちらに近づいているのは人間ではなく魔法使いだろう。
ㅤやがて牢の前までやって来たその人物は、立ち止まってしゃがんだ。逆光で顔はよく見えないけれど、体格から察するに相手は男のようだった。
「あんたが“聖女様”か?」
「驚いたわ。わたし以外に魔法使いが来るなんて」
「質問に答えてくれないか?」
「カルト教団の信者たちが崇め奉っている魔女ならわたしのことよ」
ㅤ男はそれきり黙り、しばらく沈黙を味わったあと、ぞろぞろと他の魔法使いが姿を見せた。自分以外の魔法使いを見たのは随分と久しい気がするものの、いまいち状況が呑み込めない。まさか、いかにも強そうな魔力の持ち主である彼らがイカれた教団員に捕まったとも思えず、訝しく思ってしまう。
「とりあえず、あんたは俺たちが保護することになった」
「ふぅん」
「それだけか?」
ㅤ男は拍子抜けしたと言わんばかりに気の抜けた声で問うた。
ㅤ今までも、これからも、流れに身を任せて生きていくと決めている。そもそも、抵抗したところであまりにも分が悪い。相手側には4人もの魔法使いがいる。あちらの命令を拒否すればただでは済まないだろう。
ㅤ大人しく立ち上がると鎖に繋がれた足枷が嫌な音を立て、甲高いその音を久方ぶりに不愉快に思った。
***
ㅤ教団の地下牢でわたしに話しかけた男はカインという気のいい魔法使いだった。彼は賢者の魔法使いで、元騎士団長らしい。
ㅤそういえば〈大いなる厄災〉に立ち向かう魔法使いたちがいたな、とはるか昔のことを思い出すように懐かしんだのは彼らが宿泊する施設である魔法舎に連行されてからのことだった。ああ、あったあった、魔法舎とかそういうとこ。彼らに対する気持ちと言えば、そんなものである。保護という名の幽閉には慣れたもので、小さな魔法使いたちによる世話焼きにもすっかり慣れてしまった。齢1000越えの老婆が子どもに叱られるのは心苦しいものがあるけれど、リケとミチルが楽しそうだからなんとも言えない。現在の賢者だというアキラはわたしを気にかけ、1時間に一度はわたしが生活している部屋に顔を出している。
ㅤそんなに監視しなくても逃げはしない。そもそも監視してまでわたしをここに引き留める価値があるかどうかすらも危うい。彼らにとっては、〈大いなる厄災〉を崇拝する怪しいカルト教団に捕らえられても逃げもせずにのうのうと生きていたわたし自体が怪しくて仕方ないのだろうが、本当に、わたしは魔女としての生活に飽きて流れに流されていただけである。教団内でわたしがやっていたのは適当な予言を告げ、適当な言葉をでっちあげることだけだ。
「……またあの子ね」
ㅤ空が白み始めている早朝、控えめとは言い難いノック音に目を覚まし、まどろみから抜け出して扉を開けると、予想通りの人物が顔を出した。
「触ってもいいか?」
「ええ」
ㅤ頬に伸びてきた手の、革手袋の冷たい感触は少しだけ苦手だ。カインは〈大いなる厄災〉の傷だとかで、触れるまで相手を認識できないらしい。すべてが見えなくなるよりはいいと思うけれど、人間や魔法使いが見えないとなると気苦労も多いだろう。
ㅤ朝早くにわたしの部屋を訪れた彼は、北の魔法使いたちよりもずっと紳士的で優しい。デリカシーというものがまるでない北の魔法使いたちは、わたしが着替えている最中だろうが裸になっていようが、ノックもなく容赦なく扉を開けるのだ。
「おはよう、カイン」
「ああ、おはよう」
ㅤ部屋の四角い窓から射し込む朝日がカインの長い髪を照らした。誰も起きていないような時間に、彼が毎日のようにわたしの部屋に来る理由はわかっているようで、わかっていない気がする。ようやく視線が交わったあとも彼はわたしの頬に触れたまま、子どもみたいに笑った。きっと、こういうところがモテるのだろう。自身の美点や他人からの評価をそれなりに理解していて、臆面もなく、許されるラインギリギリの馴れ合いができる。計算でもなく、打算でもなく、至って自然に振る舞える──そんなところが。
「あんたは受け身になりすぎる」
「人助けにも人殺しにも飽きたのよ」
「生きることにも?」
「そうね」
ㅤ歳若い、赤子と言っても過言ではない幼い子どもは面白くなさそうにわたしを見下ろした。
「子ども扱いには飽きないのか?」
「そうね。坊や、こんな朝早くからどうしたの?」
「よしてくれ。笑えない」
「……こんな老いぼれを口説いて飽きないの?」
ㅤ何が理由でわたしを気に入ってしまったのかはわからないが、カインはわたしに気があるらしい。多分とか、おそらくとか、そんな形容詞がつく不明瞭さはあるものの、わたしのこういう勘だけは昔から外れないのだ。事実、カインは口を噤んで肩を竦めるだけだった。彼は嘘のつけない実直な男である。変なところで器用じゃない。
「ああ、飽きないね。ちっとも」
「……」
ㅤその切り返しは予想できていなかった。開き直るなんて、思ってもいなかった。驚いて見上げれば、いつもとは違う笑顔を浮かべているカインが目に入る。
「物好きね。もっと若くてかわいげのある女なんてごまんといるわ」
「それはそうだが……」
「少しは否定しなさいよ」
「なんだ、俺に褒めてほしかったのか?」
ㅤそんなことは誰も一言も言っていないし、思ってもいない。どうにもこの男は、物事をいいほうに捉えようとする傾向がある。
「とにかく、わたしは坊やには興味ないの」
「だったら、興味を持たせるまでだ」
ㅤ嫌な男、と悪態ついたわたしに、カインは心底愉快そうに笑ったのだった。
「それに俺は、年上の女性は嫌いじゃない」
「生意気な子」
「なんとでもどうぞ、聖女様」
ㅤカインは自信ありげに微笑んだ。今の人生には飽きている。今さらいくつも年下の、気が遠くなるほど年下の男にはなびかない。
ㅤなんて、言い張っていたものの。
ㅤ無様に組み敷かれて、赤ん坊だとばかり思っていた子どもに大泣きさせられるのはずっとずっと先のことである。彼にいいように抱かれた翌朝に、流れに身を任せて生きてきた過去を後悔することになるとは、思ってもいなかった。
「あなたなんて大っ嫌い」
「どうして。昨日はあんなに甘えてきたのに」
「そういうところよ!!」