恋をするまで二千年 01
ㅤ師匠が幼い子どもを連れて帰ってきた時、その子どもは随分と厭世的な目をしていた。人のいい笑顔を貼り付けながら、冷淡で残酷な、大地を凍らせる氷のような瞳を見せるのだ。従順なようでそうではなく、穏やかなようで冷酷で、心の中に冷えきった氷を抱いている。まだ生まれて十数年も経っていない、わたしたちからすれば赤ん坊ほどの年齢の子どもはおどけた道化師のようにいつも笑っていた。
ㅤわたしは一応、彼の姉弟子だったけれど、彼は師匠とわたしを頼りにしているという体裁を保ちながらも、深くは踏み込んでこなかった。彼は執着心がない。お気に入りのものを奪われたとしても、壊されたとしても、「いつかそうなると思ってた」と笑って受け入れる。そういう、無常のものに対する諦観だけをひそめている。あくまでも平坦なのだ。太陽が沈む地平線の向こう側のように起伏がなく、至極簡単にすべてを諦める。
ㅤだからだろうか。わたしは彼が苦手だった。わたしよりも強大な魔力を持っているからだとか、年齢にそぐわない頭脳の持ち主だからだとか、そういうのではなく、わたしと彼は単純に気が合わなかった。おそらくそれは彼も感じ取っていたのだろう、わたしよりもずっと立ち回りが上手い器用な彼はちょうどいい距離感を保ち続けた。けれど、彼がわたしたちのもとに来て数年が経った頃、彼は親しい友人と談笑を交えるかのようにわたしに話しかけた。
「ナナさんはなんで双子先生に弟子入りしたの」
ㅤ話題は、そんな拍子抜けするようなものだった。あれから幾星霜もの月日が経った今でも、その質問を思い出せるのだから当時のわたしが受けた衝撃は計り知れなかったことだろう。ちゃんと答えたのか、適当にはぐらかしたのか、それは覚えていない。とにかくわかっているのは、わたしの返事が彼の気分を害してしまったということだけだ。
ㅤなぜならば、それから2000余年あまりにも及ぶ殺し合いが始まったからだ。あんな質問ひとつで命を賭した諍いに発展するとは思っていなかったために、なんの準備もできていなかったわたしはその時の殺し合いで半殺しにされた。「ねえ、殺してもいい?」質問のあとに続いたその一言が本気だと思うはずもない。ふと思い立ったと言わんばかりの様子で彼はのたまい、スノウ様とホワイト様からいただいたオーブを出現させたのだ。
ㅤ何が彼の逆鱗に触れてしまったのかは今に至るまでわかっていないが、彼が南の国に根を張ってからは、頻繁に命を狙われることもなくなった。今は温厚で優しい、ちょっとダメな感じの医者をしているらしい。2000年ものあいだわたしを殺そうとしていたくせに、人は助けたいなんて奇妙な話である。単純にわたしを石にして食べようとしたのか、羽虫のように目障りに思えたのか、おそらくそのどちらかだろう。いくら人のいい笑みで騙していても、気質はどっぷり北の魔法使いだ。気まぐれに命を奪っても何も思わない。人間からすれば、その程度のことで人を殺すなんて、と思えてしまうようなくだらないことが彼のような北の魔法使いにとっては立派な理由になる。
ㅤわたしは北の魔法使いにしては人間に近い倫理観を持っていると自負しているけれど、やはり中央や南の魔法使いたちと会うと彼らの明るさや真面目さに気後れする。至って凡庸な人間のように、善良なふりをしていたって、わたしも少なからず北の気質を持っているのだ。結局、彼と同じだ。人の社会に擬態している彼と、雪に閉ざされた大地に生きるわたしは、どう足掻いても人間にはなれない。
「お姉さん、寄ってって! 安いよ!」
「こっちの魚は今朝獲れたてだ!」
ㅤわたしが魔女だとも知らない人間たちを追い越し、追い越され、煩わしい雑踏を突き進めば、北の国とは違う陽気な音楽が聞こえてくる。かつて中央の国で暴政を働いていた支配者を倒さんと進軍していた革命軍が歌っていた、自由を象徴する歌だ。皮肉なことに、魔法使いと人間の共栄は果たされなかったけれど。
「ナナじゃ」
「ナナじゃの」
ㅤ懐かしい声が聞こえて振り返ると、師匠は幼いお姿のまま高い笑い声を上げた。北の国以外の土地で会うとは思っていなかったので少し驚いたが、わたしが北の国に引きこもりすぎているだけで、世界中を旅していたお二人が中央の国にいらっしゃってもおかしくはない。それにしたって、寄せては返す人混みの中で再会するなんて珍しいこともあるものだ。
ㅤ立ち止まったわたしを見上げる金の瞳は、相変わらず悪戯っぽい。
「お久しぶりですね」
「薄情な子じゃ。もっと喜んでくれてもいいじゃろう」
「かわいい子じゃ。どれ、おいしい昼食を奢ってやろう」
「いえ、遠慮しておきます」
ㅤ薄情じゃのう、とまた声を揃えておっしゃったお二人はわたしの手を掴み、片手間に箒を出した。オズをボコボコにして連れ帰ってきた時のことを思えば、大人しく従ったほうが身のためだと思うも、彼らは賢者の魔法使いだ。前回の〈大いなる厄災〉の襲来で南の魔法使いが全滅し、新たに賢者の魔法使いが選ばれたという話は知っている。もちろん、その中にフィガロという名の魔法使いがいることも。
「久々に会えたかわいい師匠のお願いを無下にはできんじゃろ?」
「ナナちゃんお願〜い」
「……どこに行く気ですか?」
ㅤ他人をからかいたがるお二人が、そこらの料理屋に連れていってくださるはずがない。加えてここは中央の国だ。彼らが居着いている住処まで、そんなに離れていない街だろう。
「魔法舎じゃ。おいしい料理を作る者がおる」
ㅤ答えてくださったホワイト様は続けておっしゃった。
「心配せずとも、フィガロはおらぬ。南の魔法使いたちと出かけておる頃じゃ」
「本当ですか?」
「本当本当、信じてよナナちゃん」
「疑っているわけではありませんよ」
ㅤフィガロと殺し合うことはあっても、師匠とは大体500年ほど顔を合わせていなかった。ちょうど、ホワイト様が亡くなられた頃だ。その500年のあいだに心優しい魔法使いになられたわけではないだろう。それに、どれだけ断ってもあの手この手で丸め込まれるとわかりきっているし、最終的には武力行使も考えられる。抵抗するだけ無駄だ。早々に諦めて自分の箒を出すと、子どもらしい笑い声に似つかわしくない、老獪な瞳がにんまりと細められた。
ㅤ何千年も前に、オズという子どもが来て、そのオズがいなくなるとフィガロもいなくなった。オズと手を組んで世界征服を目論み、中央の国の聖者に手を貸し、またどこかへと姿を消す──フィガロは渡り鳥のような男だ。どこにも羽を休めない、広すぎる海の上、孤独に抱かれる夜空を翔ける鳥。
ㅤそう感傷的になるのは、懐かしい人々と再会したからだろうか。
「なぜおまえがいる」
ㅤ数百年ぶりに会った弟弟子はわたしを見るなり顔をしかめ、中央の王子をその背に隠すように、さりげなくわたしの前に立った。わたしも一応は北の魔女の端くれだから、警戒しているのかもしれない。北の国に捨て置かれた王子を育てたという話は知っているが、オズは随分と変わったように思えた。今の彼を見て、世界を混乱と恐怖に陥れた魔王本人だとは誰も思うまい。
「スノウ様からのお誘いで」
「あの男を殺しに来たのかと思ったが」
「まさか」
ㅤわたしに、フィガロを殺せるはずがない。魔法舎の食堂は見知らぬ魔法使いがいて落ち着かないが、こんなところで大乱闘を起こす気はないし、ましてフィガロと会うつもりもない。
ㅤオズは「どうだかな」と言いたげにわたしを見下ろす。スノウ様たちに引きずられながら彼がやって来た頃には、毎日のようにフィガロと殺し合いをしていたわたしの言葉なんて信じられなくて当然だ。疑心に満ちた双眸は鋭く、わたしを射抜くように睨みつけている。今こそスノウ様とホワイト様にはおそばにいてほしかったのだが、生憎と彼らはキッチンにいるらしい料理人のもとに行かれている。オズとの沈黙は別に嫌いではない。それでも、東や西、中央の魔法使いが周囲にいるこの状況では刺すような沈黙が痛かった。
「あの……」救世主よろしく沈黙を打ち破り、控えめに声を発したのは、オズのうしろにいる王子だった。
「お名前を伺ってもよろしいしょうか? オズ様と旧知の仲のようですが……」
「あれは北の魔女だ」
ㅤそんな紹介はあんまりだろう。昔から言葉数が少ないと思っていたけれど、王子に近寄らせたくないからと言って2000年近くにも渡る仲を一言で片付けるなんて。王子に知っておいてほしい情報は特にないものの、年若い彼はオズの雑すぎる紹介にかえって混乱したようだった。
ㅤスノウ様たちのお戯れに少し付き合えば、どうせすぐにここを立ち去る。自己紹介する必要性を感じなかったので二人の様子を静観していると、キッチンに消えたお二人がお戻りになった。
「ごめ〜ん、ナナちゃん。フィガロちゃんたちそろそろ帰ってくる時間だって!」
「ごめんねナナちゃん! 我らのかわいさに免じて許して!」
「……帰ります。フィガロと会ってもろくなことはないですから」
ㅤこの顔は、いつ頃帰るか知っていてわたしをここまで連れてきたに違いない。
ㅤここ数百年を南の国で生きてきた彼がわたしを殺そうとするとは思わないが、殺し合う以外の方法でどう接すればいいのかなんてとうに忘れてしまっている。フィガロはわたしが嫌いなのだ。あのフィガロが無関心以外の、“嫌い”という感情をわたしに対して抱けているのならそれはそれで素晴らしいことなのかもしれない。けれど、わたしには彼を殺せない。わたしはただ、殺されることを待つしかない。
「不器用じゃのう」
「下手くそじゃのう」
ㅤ何が、と問わずともスノウ様とホワイト様がおっしゃっている言葉の意味はわかる。2000余年にも余る殺し合いの行く末に興味があるというわけでも、わたしとフィガロの命を案じているというわけでもない。だけど、そう。そんな風に言わずにはいられなかった──そんな表情で、穏やかな双眸をこちらに向ける。
「ここで殺し合いなんて見たくないでしょう? ……失礼します」
ㅤわたしたちの関係はいびつなのだ。北らしく冷淡で、人間が思い描く普通を得るために擬態しているフィガロと、凍てついたままの凍土に根を張って生きているわたしは不器用で、下手くそだ。
ㅤ食堂から出ても、愛らしい師匠様はわたしを追いかけなかった。