夜明けまで
(男賢者視点)
ㅤ魔法舎にはカナリアさんの他に、お手伝いさんがもう一人いる。お手伝いさんでもあり、南の国育ちの魔女でもあるナナは真面目で勤勉な働き者だ。彼女は俺がこの世界に来て初めて会った魔女だが、人形みたいにかわいらしい顔立ちは魔女のイメージからかけ離れていて、人間の、普通の女の子みたいだ。いや、魔法舎の魔法使いもなんだかんだで人間らしいところがあるけれど(飛び抜けた顔面の良さは置いといて)、なんだか魔女は、とんがり帽子をかぶっている黒衣の老婆のイメージがあるし、禍々しい毒薬がなみなみに入った大鍋をかき混ぜているイメージがある。見事なまでの、現代社会のファンタジーやフィクションに毒されたステレオタイプな先入観だけども。
「賢者様、お茶はいかがですか?」
「あ……。じゃあ、お言葉に甘えて……」
ㅤ御伽噺に出てくるお姫様みたいな微笑みがこちらに向く。ちょうど彼女のことを考えていたからか、本人に話しかけられて驚いた。「今日は冷えますからね」と穏やかに笑った彼女の、固く閉ざされている両目がどんな色をしていて、どんな光を放つのかはわからない。その双眸を見てみたいと思う。けれど、祈りを捧げるように目を瞑り、色づきのいいふっくらとした唇に微笑みを乗せる姿は聖母像のようで美しい。彼女が目を閉ざしている理由を知れば、たとえ心の中ででもそんな風に称賛するのは不謹慎だったと思えども、穢れを知らない無垢な雰囲気は可憐な容貌に美しさを足している。
ㅤ四六時中、目を閉ざしている彼女は、幼い頃に人間たちによって監禁され、呪い屋を商いとしている魔法使いに呪いをかけられたらしい。その呪いは彼女の視力を奪い、彼女を暗闇の中に閉ざすものだった。
ㅤ南の国はお人好しで優しい魔法使いが多い。監禁されていたナナを引き取り、愛情深く育てた魔法使いは賢者の魔法使いに選ばれると、一人で国に残してしまうことになる彼女を心配して魔法舎まで連れてきたそうだ。
「賢者様、火傷にはお気をつけて」
「はい、ありがとうございます。ナナの淹れるお茶、おいしくて好きです」
「ありがとうございます。カナリアさんも同じように褒めてくださるんです」
ㅤナナは嬉しそうに笑い、ティーポットをテーブルに置いた。彼女とカナリアさんは姉妹のように親しい。仕事のことで話し合う以外にも、談笑している姿をよく見かける。
ㅤ賢者の書にも、一応書いておいた。魔法舎で様々なことを手伝ってくれている彼女たちにだって、嫌なことや苦手なことはしてほしくない。
「ナナ、少し話せませんか?」厄災と共に戦ってくれる魔法使いの情報は一通りまとめ終えているが、俺はナナとも仲良くなりたい。そう思って声をかけると、顔をこちらに向けた彼女が「もちろん」と頷いた。
「ナナは南の国で育ったんですよね?」
「はい。先生が助けてくださったんです」
ㅤ先生、とはフィガロのことではない。彼女を育てた、先の〈大いなる厄災〉との戦いで命を落とした南の魔法使いのことだ。俺が賢者として異世界に来た時にはもう、彼はこの世にはいなかった。しまった、と口を噤むのも手遅れで、言葉に詰まった俺の雰囲気に気づいたらしい彼女はなんでもなさそうに笑った。彼女は南の魔女らしく穏やかでありながら、この世界の魔法使いや魔女らしい有無を言わせない妙な迫力を感じさせることがある。ふと、生まれは南の国じゃないのかもね、とのたまったフィガロを思い出した。確かに、彼女が時おり見せる遠慮がちな拒絶は南らしくない。けれど、彼女の生まれを詮索すれば、苦しくてつらい過去を思い出させることになる。フィガロやファウストに呪いを破ってもらい、呪いそのものは浄化されたとは言え、彼女の心には未だに後遺症が残っている。監禁される前に見ていた悪意と害意だらけの世界を見るのが恐ろしい、という後遺症が。
「どうかなさいましたか?」
ㅤ穏やかな、春の昼下がりの風のような笑みが花開いた。優しい、姉のような、母のような笑顔だ。年若い魔法使いが懐く理由もわかる気がする。
ㅤ彼女は南の国にいた頃はルチルに文字や学問を教えてもらっていたそうで、魔法舎の談話室でもミチルやリケを交えて4人で勉強している。目が見えない彼女のためにミチルが本を読んであげたり、リケが彼女の手のひらに文字をなぞってあげたり。ミチルとリケは誰かに物事を教えるという行為が楽しくて、嬉しいのだろう。
「いえ……ナナは若い魔法使いと仲良いなって」
「わたしが一人で歩いていると、彼らはいつも手を握ってくれるんです。優しい子たちでしょう?」
ㅤ暗闇には慣れているのですけど、と控えめに笑った彼女は申し訳なさそうにしながらも、嬉しそうだった。スノウやホワイトが言うには、魔法を行使して空気の流れで空間を認識し、自在に行動できるらしいが、目を閉ざしたまま魔法舎の階段を上ったり下りたり、厨房で料理する彼女の姿にはこちらもハラハラしてしまうから、手助けしたくなる気持ちはわかる。
「たまに、ヒースクリフも手を貸してくれるんです」
ㅤ意外な名前に、俺は目を瞬かせた。内気で引っ込み思案なヒースクリフが自分から女性を手助けするなんて意外に思ったが、思慮深く優しい彼が「あの……」と顔を俯かせたまま彼女に声をかける様子は容易く想像できた。二人が一緒にいるところを俺は見たことがないだけで、それなりに親しいのかもしれない。
「ヒースクリフとは仲良いんですか?」
「……どうでしょう。最近は、話しかけてくれる気がしますが……」
「あんた、ヒースのことをどう思ってるんだ」
ㅤ突然、なんの前触れもなく、俺の隣にどっかりと座ったシノはティーカップを持っているナナを見据えた。なんとも自由気ままな彼らしい登場だ。片や、食堂の入口ではヒースクリフが顔を真っ青にさせたり真っ赤にさせたりと器用なことをしている。シノを引き留めようとしたのか、彼の右手はこちらに伸ばされたまま停止していた。これはもしかして。もしかするんじゃないだろうか。
「シノさんもお茶を飲まれますか?」
「飲む」
ㅤ恋の予感にテンションが上がりそうになる俺の脇で拍子抜けするような会話がなされ、温かい紅茶をすすったシノがもう一度、どう思ってるんだと問うた。なんだか、とんでもない瞬間に立ち会っている気がする。こんな甘酸っぱい空気感を味わうのは、学生時代以来だ。
「優しい人だと思います」
「そんなことオレのほうが知ってる。他にないのか」
ㅤなぜそこで張り合う。ヒースクリフの恋(仮)に協力しているのかそもそも邪魔をする気なのか、どっちだろう。
「彼の目を通した世界は、とても綺麗だと思います」
ㅤティーポットの持ち手から離れた華奢な指先は、ティーカップの細かな装飾をなぞるように、繊細に動いた。
「朝焼けも、夕焼けも、どんなに美しいか言葉を尽くしてくれます。夜にまじる朝の色も、昼にまじる夜の色も、とうに忘れてしまいましたが……わたしもいつか、もう一度見てみたいと思うくらいヒースクリフの言葉は綺麗です」
ㅤ不器用ながら、彼女のために言葉を選んで紡ごうとするヒースクリフが目に浮かぶ。それはまるで、影に寄り添おうとする光のようだ。ヒースクリフが彼女に世界の美しさを伝えたように、彼女はヒースクリフに世界にあふれる音の美しさを伝えているのかもしれない。
ㅤ面白くなさそうな、不服そうな顔をするシノと、真っ赤な顔を手のひらで覆ってしまったヒースクリフを見比べ、俺は気づかれないようにそうっと息をついた。
「余計なことをしないでくれ! 俺は彼女が好きだなんて一言も言ってないじゃないか……!!」
「ヒースが本気を出せば落ちない女なんていない」
「そういうことじゃない!」
ㅤまさに暖簾に腕押し、
「ふん。あいつと仲良い南の魔法使いが気に食わないくせに」
「なっ……」
「それに、朝っぱらから話してるだろう。朝は弱いのに」
「早朝に、ナナと会ってるんですね」そう言うと、ヒースクリフの顔がこれ以上ないほど赤くなる。今にも爆発しそうだ。シノに暴露されたからか、それとも二人でいるところを見られていたとは思っていなかったからか、彼は薄い唇をぱくぱくと動かして、綺麗な髪をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。
「どんなところが好きなんですか?」
「賢者様まで……」
「顔か?」
「違う!」
ㅤシノの言葉を聞くなり否定したヒースクリフは、もう降参だと言いたそうに両手を上げ、深い溜息をついた。
「俺はそういうの、嫌いだって知ってるだろ……」
ㅤ苦々しそうに呟くヒースクリフを見て、なんとなく、相手の美醜で好き嫌いの判別をしないナナに惹かれたのかもしれないと思った。自身の綺麗な顔を褒められたがらないヒースクリフにとっては、顔を見られることのない相手だからこそ、ナナのそばは心地よくて、そのまま好きになったのかもしれない。誰かの言葉に耳を傾けるのが得意な彼女との相性は確かに良さそうだ。
ㅤふん、とまた鼻を鳴らしたシノは苛立たしそうに席を立ち、俺の手を掴んで歩き始めた。なぜ俺まで連行されているのかはわからないが、彼は俺に何か言いたそうな様子だ。魔法使いたちに言いたいことや要望があるなら俺はそれをちゃんと聞きたいし、叶えたい。大人しくついていくと、シノは自室に戻って部屋に入るなり、こう言った。
「ぽっと出の女にヒースを奪われるなんてごめんだ。でも、あいつと話しているヒースは幸せそうだ」
ㅤなんだかんだ、ヒースクリフが大好きなんだよなあ。
ㅤほっこりしそうになる俺を睨みつけたシノは悔しそうで、寂しそうだった。
「どうすればヒースはナナに告白すると思う」
「へ?」
「へ? じゃない。賢者ならさっさと考えろ」
「だ、だって……ヒースクリフをとられたくないんじゃないですか?」
「とられたくないに決まってる」
ㅤシノは、けど、と目を伏せた。
「ナナが言っていた。去年──たまに魔法舎に来る度に、ヒースはブランシェット家の小間使いや幼馴染の話をたくさんしていたと。どっちもオレの話だ。オレ以外に有り得ない」
「それがどうして告白させようという流れに……?」
「オレの話を自慢げにしてくれたなら、ナナがそばにいることでヒースはオレをもっと褒めてくれるかもしれない」
「……」
ㅤシノはどこまでいってもシノである。主に褒められたいから恋を応援しようだなんてあまりにも不純な動機に思えたけれど、逆にそれが、ヒースクリフが大好きなシノらしくて笑ってしまった。
「ヒースに好きだと言われて頷かない女なんていない。いたとしたらそいつは人間でも魔法使いでもない」
「とんでもない自信ですね……でも、二人は俺たちが何もしなくてもくっつきそうですよ?」
「そうか……さすがヒースだ」
ㅤ謎の感動を覚えているらしいシノは、不意に暗い表情を浮かべた。悲しいような、寂しいような、そんな。
「でも、魔法使いでいることを恥じるあいつが、魔女に告白できると思うか?」
「それは……」
ㅤ口を噤んだ俺を、シノの揺らぐ瞳が射抜く。あまりにも愚直で、あまりにも正直な彼の両目は、目の前の俺ではなく、恋に悩んでいるであろうヒースクリフのことを心配しているように思えた。
「シノが、ヒースクリフの道を作るんでしょう?」
「……」
「ヒースクリフが魔法使いとしての自分を恥じないように、シノが誰よりも誇らしいと思っているヒースクリフが誇りを持てるように、道を」
「……そうだ」
ㅤきっと俺の言葉は気休めにもならない。けれど、どうか届いてほしいと思った。暗闇に取り残されてしまったナナの心にヒースクリフの言葉が届いたように、深く広い、海の底に陽の光がさすように、俺の言葉も届いてほしかった。
「ゆっくりでいいと思います。シノが道を作ったあとに、ヒースが胸を張って告白できれば──それで十分だと思いませんか?」
「……名案だな、賢者」
ㅤシノは年相応に笑った。
ㅤ待ち遠しくなるくらいゆっくりでいいのだ。彼らは俺とは違う。ゆっくりと、ゆっくりと、星の一生のように長い時間を生きていく彼らには、孤独を感じる時間も、愛を知る時間も、たくさんあるのだから。
***
ㅤ翌朝、早めに目が覚めて部屋から出ると、談話室の明かりがついていた。そこにはヒースクリフとナナがいて、ヒースクリフは彼女の小さな手のひらの上で指を動かしている。何を話しているのかは、彼女の手のひらに何を書いているのかは、わからない。けれど、二人のあいだに流れる空気はシーツに落ちる陽だまりのように優しい。
ㅤいつか、ヒースクリフは偉大な魔法使いになるだろう。シノも俺も、そう信じている。
ㅤなんだか二度寝する気にもなれなくて、食堂の椅子に腰かければ、朝食の準備のために下りてきたらしいネロは俺を見てにやりと笑った。
「若いってのはいいね」
ㅤキッチンの中に姿を消した彼が、何について言及したのかは考えるまでもない。若者同士の恋をからかうなんて、悪い大人だ。
ㅤ談話室の、オレンジ色の滲むような明かりを思い出しながら、暗い夜に朝の気配がまじる朝焼けの空を見た。彼女が次に朝焼けの空をその目で見る時は、優しさと愛しさに満ちているといい。