愛は少々
ㅤ一度だけ、血迷って世界最強の男に抱かれたことがある。あっちもかなり血迷っていた。かなりどころか、彼の世界が終わりそうな勢いで血迷っていたに違いない。朝に目覚めて同じベッドで眠る彼の寝顔を見た時は死ぬことを覚悟した。窓から差し込む朝日の眩しさに彼が身じろいだ時は雷がわたしに落っこちることを覚悟した。世界最強の、魔力が強くて顔も好みの男に抱かれたならいいじゃないか、なんて馬鹿を言ってはいけない。恐ろしい出来事だ。世界が滅ぶより先に、わたしが死ぬような。
ㅤわたしが起きた数分後に目覚めた本人が「手違いだ」と言っていたので血迷ったということで間違いない。徹底的に他人と交わらず、誰とも話そうとしない彼が、数百年ぶりにわたしと交わしてくれた会話がそれ。お互いに人間だったなら平手打ちを食らわせていたところだ。でも命は惜しいから呪うだけに留めておいた。偉い。あいつはとんだクズ野郎だけど力だけはある。命は惜しい。
ㅤ多分、一度くらいは女を抱いてみてもいいと思ったのかもしれない。彼に人間の男のような性欲があるとは思えないが、気まぐれだったんだろう。魔法が使える者同士ではよくあることだ。人間を相手にするよりも魔法使いと魔女同士で気まぐれに交わるほうが気が楽だから。
ㅤけれど、わたしは確実に相手を間違えた。彼もそう。チレッタに言い寄られていた時に彼女を抱けばよかったものを、と恨みがましく思いつつ、彼との関係に変化が訪れなかったことに安堵した。世界最強の魔法使いといかがわしい関係なんて洒落にならないし、単純に中身が好みじゃない。わたしは純粋で素朴な、平凡な人間の男のほうが好きだ。
「弱くてすぐに死ぬ人間が好みだなんて、変わってますね。イカれてますよ」
ㅤたまにわたしを殺しにくるミスラはどこかで狩った蛇を食べながらそう言った。なんともご丁寧な暴言だ。世の中の人間は猛毒持ちの蛇を食らうミスラのほうがイカれていると思うに違いない。
「オズの女になった時もイカれてると思いましたが」
「うるさい。わたしはオズの恋人じゃないってば」
「そうですか」
ㅤ北のミスラが中央と北の国境あたりで生まれた魔女であるわたしを殺そうと躍起になるのは、わたしを殺そうとやって来たその日がちょうど、オズに抱かれた夜の翌朝だったからだ。獣のように鼻がいい彼は「こんにちは」と挨拶したそばから呪文を唱えようとした直後、くしゃっと顔をしかめた。《アルシム》のアを唱えるか唱えないかの瀬戸際で「オズの匂いがします」と憎々しそうに呟き、奇妙なものを見るような目で、頭おかしいんじゃないかこいつと言いたげな顔で、わたしを見下ろしたのだ。その日以降、わたしが
「オズのどこがいいんだか……」
「どこもよくない」
「ああ、そんなに下手だったんですね」
ㅤミスラはこの手の話になると口が回る回る。
ㅤ約100年に渡るミスラの勘違いというか思い込みは未だに続いている。やめてほしい。一夜限りの関係なんて、嫌われ者のわたしたちにはよくあることで気にすることでもないのに、オズの弱みを見つけたとばかりにミスラはわたしを嗤う。嫌いな奴の弱点を見つけてそこばかりをつつく悪ガキみたいだ。
ㅤミスラに何度か殺されかけながらもさらに100年が経った頃、オズが子どもを拾ったらしい。ついに明日には世界のひとつやふたつ滅ぶのかと身構えたものの、何年経っても世界は滅ばなかったし、毎年猛吹雪に見舞われる北の国では天気のいい日が増えた。子どもは北の双子にかわいがられ、南に生活の拠点を移したフィガロにもかわいがられているらしい。確かに、無垢で純粋で、世界最強と謳われる男にでさえも懐く子どもならばそれはそれはかわいらしいことだろう。
ㅤ実際、オズが拾った子ども──アーサーは穢れを知らない明るく優しい子だった。ひねくれと不器用の権化のような男であるオズに育てられたのによくもまあいい子に育ったものだと感心したのも束の間、突然わたしの家に姿を現したオズに連れ去られたかと思えば、「病人用の食事を作れ」と言われて驚いた記憶がある。その時のアーサーは熱を出していた。熱なんて魔法を使えばすぐに下がる。なのに、オズはアーサーの熱を下げたあとにでさえ、わたしをわざわざ城まで連れてきて身体にいい食事を作らせたのだ。過保護すぎる。これにはアーサーの診察のために南の国から引っ張り出されたフィガロも爆笑を通り越して苦笑いしていた。
ㅤアーサーと一緒にいるあいだ、オズはただの人間で、ただの父親だった。どうして? と聞くアーサーの疑問に誠実に応えようとする、いい父だった。そこらのボンクラ親父よりもずっとずっと立派だ。あやふやに答えそうな疑問にも、オズは真摯に向き合う。
ㅤかつてわたしが愛した人間の男みたいに、彼は優しい光をその鋭い双眸に滲ませるようになっていた。淡い陽の光に雪がとけて、凍えるような寒さを耐え抜いた花が咲くような、優しさを。
ㅤだからと言って、アーサーと離れ離れになったオズのそばに寄り添えるわけではなかった。オズが求めているのはアーサーであって、わたしの慰めの言葉ではない。かつてないほどに心を閉ざしたオズに無闇に近づけば、今度こそ命を奪われる。わたしはオズを恐ろしいとも思わないアーサーとは違う。怖がらずにはいられないのだ。オズ本人にも見透かされているであろうこの恐怖心を抱えて、気休めにしかならない慰めをしたならば、わたしは物言わぬ石にされるに違いない。
ㅤオズの心の氷をとかすのは、雪が降り続ける曇天に晴れ間を覗かせるのは、オズが愛したたった一人の子どもしか有り得ないのだから。
「ノーヴァという魔法使い? 聞いたこともないし会ったこともない」
「そうですか……」
「そいつは何かしたの?」
「それは……その、」
ㅤ賢者さんは途端にもごもごと口ごもった。どうやら極秘らしい。賢者さん直々に辺境の魔女をわざわざ呼ぶくらいだから、〈大いなる厄災〉関連のことでまず間違いないだろうが、いつかのように突然目の前に現れたオズに連行されたわたしは面白くない。今度は「来い」の一言だけだった。また子どもでも拾ったのかと少しわくわくしたわたしが馬鹿だった。オズが大事にしているのはアーサーだけなのに。
「まあいいけど。賢者さんも大変ね」
「いえ、みんなが助けてくれるので……」
「あのオズも?」
「はい」
ㅤぱちり、と瞬きする。オズが賢者さんを助けるなんて、明日には世界のひとつやふたつ終わるかもしれない。そういえば、オズがわたしを
「オズと知り合いなんですよね。フィガロとも知り合いですか?」
「そうかも」
「そ、そうかも……?」
ㅤ賢者さんは困惑気味だった。面白い反応を見せてくれるから、こういった善良な人間をからかうのは楽しい。
ㅤ賢者さんの反応を楽しんでいるわたしを、どこかでむしり取ってきたらしいハニーオレンジを皮ごと貪り食べているミスラがじろりと見やった。何か企んでいる表情だ。わかってしまう。ずっと昔から、あの表情が一番嫌いだった。
「その女はオズの女でしたよ。ほとんどの魔法使いが知ってますけど」
ㅤほら言った。若い魔法使いたちは驚いているけれど、古株の魔法使いたちはどうでもよさそうに軽食を食べている。楽しそうに笑っているのなんて、北の魔法使いとフィガロくらいだ。
ㅤ椅子から飛び上がった賢者さんはわたしとオズを交互に見比べた。ミスラを殺してしまいたいが命は惜しい。どう誤解を解くべきか考えるわたしの前で、オズはなんとも言えない顔をしていた。アーサーがここにいなくてよかったと安心しているのかもしれない。
「オズと恋人になった覚えはないってば。そんなに甘い男じゃないもの。賢者さん、わかるでしょう?」
「えっ……いえ、あ、えと……私はお似合いだって思いますけど……」
ㅤ夫婦みたいで、と余計な言葉を付け足した賢者さんについにフィガロが吹き出した。
「いいねえ、オズ。奥さんだって」
「今ここで消し炭にしてやってもいいが」
「冗談だよ」
ㅤフィガロは笑っているがわたしは笑い事じゃない。いくらオズが怖いからって命令に従わなければよかった。こんなところ、来るべきではなかった。あの時のことはお互いに水に流して、一切話題に出そうとはしなかった。なのに、ミスラのせいで──
「この女は人間の男に惚れていた。男が死んだあとも、100年はうるさかった。私の恋人ではない」
ㅤわたしがミスラに文句を言うより先に、オズが口を開いた。寿命で死んでしまった彼を想って泣いていたわたしを覚えているなんて思ってもいなかった。だって彼は、一言も話してくれなかった。わたしが一方的に話しかけるだけで、耳を傾けているようには見えなかった。
「わたしは一途なの。力ばかり強い親馬鹿男より優しくて平凡な男のほうがいいし」
「おまえも始末してやろう」
「冗談が通じないとこ、本当に好きじゃない」
ㅤ言い返したわたしを、血のように赤い彼の瞳が見下ろす。相変わらず、この世の終わりみたいな色をしてる。顔が好みなだけに腹立たしい。もっとこう、オズ自身の伝説に登場するような有り得ないくらいに毛深くてもじゃもじゃな巨人みたいだったらよかったのに。
「嫌いとは言わないんですね」
ㅤわたしたちの言い合いを静観していた賢者さんは、やや間を置いて口を開いた。珍妙そうな、探るような目付きをしている。「嫌い……?」と賢者さんの言葉を反芻したオズと顔を見合わせ、この人間は妙なことを言うものだと思った。
「別に嫌いじゃないから」
「そうなんですか……?」
「嫌いだったら好きな男の惚気なんて聞かせないでしょ?」
ㅤそう告げたら、賢者さんは不思議な顔をして、フィガロはやれやれと肩を竦めた。
***
ㅤ中央と北の国境あたりに住んでいるらしい魔女と、オズが中庭で話している。こちらに背を向けているオズの表情は見えないけれど、彼女が笑っているということは楽しい話でもしているのかもしれない。家に帰ろうとしていた彼女にスノウとホワイトが「アーサーも会いたがる」「会っていかぬのか?」と引き止めたため、オズと同じようにアーサーを大事にしているらしい彼女はしばらく悩んだあと、仕方がなさそうに魔法舎に残った。
ㅤ二人を見やったフィガロがコーヒーカップを傾け、私の顔を覗き込んで「気になる?」と言った。意地悪な聞き方だ。そんなに興味津々な顔をしていただろうか……。
「あの二人はね、何百年も前からもどかしいことをしてるんだよ。つかずはなれず、それなりに近くにいるはずなのにその理由を考えようとはしない」
「どうしてですか……?」
「ナナはかなり変わった魔女でね。オズを怖がるわりには話しかけたり世話を焼いてやったり、色々してた。変に素直で、変に意地を張る。変わってるから、オズも彼女がそばにいたって気にかけない。それがいつの間にか二人の当たり前になって、今になった」
「なんか、ナナさんが変わってるっていうのはわかります」
「オズとナナは恋人じゃないって否定してるけど、片方が死んだら気づくんじゃない? なんとなく特別だったって」
ㅤこの人は笑顔で怖いことを言う。片方が死んだら気づく関係なんて、悲しい。悲しいけれど、それが二人が積み重ねてきた関係なのかもしれない。何十年も何百年も、時を重ねてようやく完成した関係に、私や他の魔法使いが間に入る隙なんてないのだ。
「意外とすんなり、恋人同士に落ち着くかもしれないけどね」
ㅤフィガロの本気とも冗談ともつかない言葉に、私は寄り添って手を繋ぐ二人を見てみたいと思った。