しとしとという雨音で目が覚めた。仄暗い部屋の中、私と慈郎のほかにはなにも息づいていない。ただ雨粒の地面を叩く音だけがかすかに響いている。朝だというのに、そんな雰囲気を露ともみせない重い曇り空が窓の外に広がっていて、気持ちがちょっとだけ沈む。枕元の時計を見ると、すでに1限が始まっている時間だった。
ぼんやりとした頭で、今日は2限からでよかった、と改めて考える。寝息をたてる慈郎を起こさないように、そっと布団から体を起こす。慈郎が実家から持ってきたというその敷布団はすっかりぺらぺらになっていて、年季というものをありありと感じさせる。布団から剥がれたばかりの体は少し皮膚が湿っていた。テーブルの上にはビール缶が3つ、中身のこぼれたおつまみの袋がふたつ乱雑に置かれたまま、洗濯物もとりこみっぱなしのままだった。洗い物も水に浸け置いた状態で片付けるのを忘れていることだろう。
また部屋のことをうやむやにしたまま、ふたりで寝てしまった。自分の所ではこんなこと決してしないのに、慈郎の部屋となるといつもこんな風に流されてしまう。思い当たる理由はたくさんある。何かしようとするたびに慈郎がいつも私を布団の方に手招きして、ずるずるとその腕の中に沈めこもうとすることが、いちばん大きいだろう。私が勉強を始めようとするときも、携帯を触っているときも、そのたびに私を腕の中に閉じ込めようとする。慈郎の腕は柔らかい。抱きすくめられると何も言えなくなってしまう。
「ん…。あれ、起きてたの?」
寝ぼけたような慈郎の声が背中の方から聞こえてきた。半分落ちている瞼を擦りながら口を曖昧に開いている慈郎がこちらを見ている。まだ夢から覚めたばかりのようで、このまま返事もせず頭を撫で続けていたらまた向こうの世界にゆるゆると戻っていきそうな頼りない様子だった。その綿毛のような髪に手を添えて、小さい声で言葉を返す。頬には薄っすらと寝跡がついており、まるで子供みたいだと思う。もう成人までしているのに、慈郎はいつまで経っても昔のまま変わらない。
「ごめん、起こしちゃったね」
「んー…、ううん、大丈夫」
「水飲む?」
「いや、いい…」
そっと時計に視線をずらす。30分後には2限が始まる時刻だった。慈郎の部屋は比較的大学に近いけれど、それでもこのままぼやぼやしていたら遅刻してしまうだろう。それに、この曇り空ときている。雨に濡れながら大学に行くというのは実に憂鬱なことだと思う。慈郎に構うのをやめて、今すぐ歯を磨いて髪型を整えて学校へ行く準備をするべきだ。立ち上がろうと体勢を変える。するとそのとき、その逸る気持ちを見透かしたかのように、慈郎が私の手を前触れもなくぎゅっと掴んだ。しまった。
「じ、慈郎」
「どこ行くのー…」
こうなってしまったらもうどうしようもなかった。慈郎の力はなかなか強く、簡単には振りほどけない。授業があるということは薄々気づいているだろうに、それでいて邪魔をしようとする。慈郎の癖のようなものだった。慈郎はいつもこうやって、私の目が自分以外のものに向かないようにする。それも昔から変わらなかった。
「行かないでよー」
「でももうすぐ授業始まっちゃうし…」
「俺もあるけど行かないもん」
それは全く理由になっていない。慈郎と付き合いはじめてから、こういう分かりにくいところで理不尽な答え方をするのだと、私はいつの間にか学習していた。慈郎が私の手を両手で包み、胸元に抱え込む。いくら言ってもこの状態の慈郎に敵うはずもなく、私は時計と窓の外を何度か見比べてから、しぶしぶ諦めるのだった。そんな私を見て、慈郎は口元をゆるめながら満足そうに私の手に鼻先を擦り付ける。閉じられた瞼は、長く黒い睫毛で濃く縁取られている。子供体温のその手も、温かいというよりも熱かった。そして私は無気力になっていた。
慈郎がまた寝息をたて始める。私の手を強く握ったまま、ころりと布団に横になってしまった。私は再び曇った窓の外に視線を送り、今日の授業のことを考える。単位が足りるかとか、このままで本当にいいのだろうかとか、そのようなことを。雨で煙る世界を眺めて、静かに考える。いつもこの繰り返しだ。
まずはたまった食器を片付けよう。その次は洗濯物をたたもう。テーブルの上を綺麗にしよう。しなければいけないことが、頭の中に絶え間なくわいてくる。 泊まりが決まった時点で、私が家事をするのは当たり前のこととなっていた。それじゃあ私の家に慈郎が泊まりに来たら家事をしてくれるのかというと、そうでもない。慈郎の寝顔に視線を落とす。明るい髪から覗く、無邪気で優しい寝顔。肌はほんのり赤みがさし、寝息に合わせて胸のあたりが弱く上下している。子供のようでいて、そうでない。今の慈郎はまさにそんな感じだと思う。
慈郎といると時間の経過というものを忘れてしまう。考えることを、放棄してしまいがちだった。ただ寄り添う形でそばにいるだけ。私達の関係は昔からずっと変わらない。柔らかいその手は私にとっても心地が良く、ふたりが揃っているだけで本当に心の底から幸せだった。何も考えず、手を繋いで一緒にいる。夢のように穏やかな関係。
でも、それはふたりにとっていいことなのではないと、既に私は気づいていた。気づいていて、それを口にするのが怖いだけだ。