ある朝、ひとりの女子生徒の机の上に花瓶と百合の花が飾られていた。明らかに異質な空気を放つそれは教室の中で実に浮いて見える。ホームルームの時間。先生が申し訳なさそうに告げる。生徒たちは水を打ったかのように一層静かになり、困惑しながらもその話に耳を傾ける。普段ばか騒ぎしかしない男子もさすがにこのときばかりは大人しい。その亡くなったという女子生徒は生前から影が薄く、悲しむというより、ただただ驚いたに尽きる。それは皆同じことのようだった。
あの子いじめられてたんかな。お弁当を食べているとき友達がぽつりと言った。皆口には出さなかったものの、彼女の亡くなった経緯を内心気にしていたらしい。朝のホームルームからずっとクラスはお通夜状態だったけれど、やはりその話題を口にしたい人もそれなりにいるみたいだ。それぞれ顔を見合わせた後、恐る恐るといった様子で少しずつその話について触れ出していく。私の周りでは誰も彼女と深く付き合った人はおらず、なぜ彼女が死んだのか、生きていたときはどんな子だったのか、そもそも自殺なのか事故なのかすらもわからなかった。先生はただ亡くなったと告げ、葬式は親族だけで行うこと、命は大切にしなければならないというような決まりきったことしか教えてはくれなかった。
「やっぱり、いじめ?」
「いやー、クラスにそないな奴おらへんし」
「…事故やったらかわいそうやね」
私は友達のひそひそとした会話を聞きながら、黙ってお弁当を口に運ぶ。その子について何も知っていることはないし、なによりそのことを口に出すのがなんとなく怖いと思ったから、余計に話に交わりにくかった。霊的なものなど信じてはいないものの、やはりなんとなく憚られる。少し前まで彼女はこの教室内にいたはずなのに、何が起こるかわからない。その奇妙さがますます私を怖がらせた。
「そういやあの花瓶、日直が水かえるんやって」
その言葉を聞いて、私はちらりとあの子の机に置いてある花瓶の方を見た。白い百合が3輪、細い綺麗な花瓶に生けられている。いつもはなんとも思わない花だけれど、こうして教室の真ん中にぽつんと置かれていると異様な不気味さがある。明らかにそこの周りだけが浮いていて、皆近寄ろうとはしなかった。亡くなった人がどんな子だったか薄く残っている記憶を頼りに考えるけれど、思い浮かぶのはただ俯いてばかりの後ろ姿だけだった。
先生が皆の前であのことを話してから2週間、最初は張りつめたような雰囲気だったクラスもだんだんと活気を取り戻してきているようで、少しずつ少しずつ、元の日常へと近づいているのがわかった。それでもやはり、完全に前と同じにはなりそうもない。腫れ物に触るような空気がそこにはあった。
「なまえ、今日は中庭で弁当食べん?」
「あ、うん。ちょっと待ってや」
それは少し夏の暑さが落ち着いて涼しくなりつつある日のことだった。天気がいいため、友達に教室ではなく中庭でお昼にしようと声をかけられ、急いで4限の教科書やノートを片付けていたときの話だ。あと1ヶ月もしたら衣替えかな、なんて思いながら制服の襟を正してお弁当を取り出す。先程の現国の時間は驚くほど退屈であったが、終わるとその分解放感も大きい。空っぽのお腹を満たそうと自然に行動も早まった。昼休みが始まった途端、授業中の静けさとうってかわり生徒の声でクラスが大いに賑やかになっていた。
「ごめん、お待たせ」
「ええで。行こ」
「うん」
お弁当と水筒を持って友達のもとへと駆け寄った。西側のベンチにしよか、なんて話しつつ教室を後にしようとする。今の時間だとちょうどいいくらいの陽気だろう。彼女はお弁当を抱え、早く食べたいと繰り返した。教室後方のドアに手をかけ、廊下へと抜ける。そのとき、予期しない鋭い音が、背中の奥から響いてきた。
その瞬間を見ている人は殆どいなかったと思う。激しく床に叩きつけられた花瓶の音。クラス中が瞬く間に凍りついた。教室の中で割れるものといったら、窓の他にそれしかないことに全員が気づいている。割れた花瓶を見つめ、皆ただただ呆然と立ちすくむ。花瓶から投げ出された百合の花が床に無惨にも横たわり、水がじわじわと辺りを侵食し始め、広がっていく。砕けた破片が散らばっていた。誰かが誤って落としてしまったらしい。花瓶のすぐそばにいた男子たちが、互いに相手を指差し声を荒げる。
「お、お前が落としたんやろ」
「はあ?いや、俺ちゃうし!」
「俺もちゃうで。落としたやつはよ拾えや」
「触りたないやろ、あんなの」
言い分はひどくても、気持ちはわからないでもなかった。誰だって死んだ生徒の机に飾ってあった花瓶になど触れたくない。理屈ではなく、心理的にどうしても避けたくなってしまう。触れたくない。でも片付けなければなおさら縁起が悪い。当事者の数人の男子たちを除いて、そのほかの皆は他人事のように、事の顛末を外野から見守ろうと距離を置いてその光景を眺めていた。重たくなった湿っぽい空気が首から胸元にかけて纏わりついてくる。誰もがその席に近づくのを躊躇して、割れた花瓶を中心に皆それぞれ間合いをとっている。
「こら、片付けんなら向こういっといてや」
白石くんのよく通った声が、男子たちを一喝した。突然入り込んできた彼に、皆引き寄せられるみたくいっせいに視線を向ける。手で彼らを制して、何のためらいもなくその場にしゃがみこみ、白石くんは割れた花瓶の破片を拾っていく。男子たちも、他のクラスメイトもただ黙ってそれを見ているだけだった。
「謙也、なんか拭くもん頼めるか?」
「え、ああ、任しとき。ついでにごみ袋と新聞紙でも持ってくるわ」
忍足が勢いよく教室を飛び出していく。白石くんは大きな破片と百合を集め、花瓶の破片はその子の机の上に、百合は束ねて、大事そうに胸元で抱えた。大体の破片を拾い終えると、彼は百合を水道で軽く綺麗にした後、丁寧に揃えて新しい花瓶にへと入れてみせる。そして戻ってきた忍足と一緒にその子の机と周りの床を拭き、細かく砕け散った破片も箒で掃いて片付けた。無駄のない淡々とした処理に、皆はただ呆気にとられていた。誰も触れたがらなかった、いわば訳ありのものだったというのに、彼はひとつも困った表情なんて見せず当たり前のような顔で事態を収拾させた。
「…皆、気をつけなあかんで。割ったままは可哀想やろ」
優しい声で呼び掛けてくる。咎めるような言い方でなく諭すような響きだ。視線を向けられた私達クラスメイトは気まずく頷いて、ただ心の中で彼に感謝をしていた。白石くんのことは前々から只者ではないとは思っていたけれど、このときほどその冷静さが浮き彫りになったことはなかった。
彼らの行動は女子のあいだでも話題になり、今まで白石くんをいけ好かないと言っていた少数の人間はあっという間に手のひらを返し、前々から彼を支持していた子たちは、それみたことかと嬉しそうに笑みをたたえた。忍足は元々の愛想の良さ、接しやすさもあって、評価がうなぎ登りということはなかったけれど、白石くんがよくできた人だと言われる理由は身にしみてよくわかった。あの見た目で中身も完璧だなんて、恐ろしいほどにけちのつけようがない。
白石くんは見れば見るほど清廉潔白な人間だった。もちろん外見だけではなく、その全てがそうだと言えるくらい性格の良さが滲み出ていた。誰に対しても平等に優しくて非の打ち所がない。まさに理想的な人間。あの行動からますます女子に好かれることも多くなったらしく、昼休みや放課後に告白されているところをたびたび目撃するようになった。
夏はすっかり終わりを告げ、ほんの少しの肌寒さも感じるような季節がやって来た。あの子の49日も残りあと数日、花瓶もそろそろ置かれなくなるだろうとの噂も流れ始めていた。花瓶に対して毛嫌いすることも少なくなり、以前のような空気に近づきつつあるようだった。そんな落ち着いた日々がいくらか経ったところで、私に転機が訪れる。白石くんと同じ日直の日があったのだ。
「ええなー、白石くんと同じ日直。代わってや」
女子が皆、茶化したように言う。簡単な言葉とは裏腹に目が本気だったことを私は見逃さなかった。今まで学生生活を送ってきた中でこれほど日直が楽しみだったことはなく、日直が同じになる日の前夜は身支度と興奮でうまく眠れなかった。白石くんと会話はしたことがあっても、意識し始めてから長く関わることはなかったので、緊張も驚くほどに大きかった。
「ほな、今日はよろしゅうな」
「あ、うん!こちらこそ」
当日の朝、登校してきた私に白石くんがさらりと声をかけてくれた。女子たちの目がこちらを刺すように見ている。私はなんとなく優越感でいっぱいになって、心の中でこっそりと笑顔を作り、表面では努めて平静を装った。日直なんて実に小さなことだけど、白石くんと一緒というだけでこれ以上ないくらいのイベントに感じてしまう。なんて運がいいんだろう。このときばかりは神様に祈ってもいい気分だった。
何気ない一日でも私にとっては特別な日で、黒板消しをするときや配りものをするときでさえも楽しくてしかたがなかった。プリントを渡した際、微かに手が触れたときにはもう洗いたくないとまで真剣に思ってしまうほど浮かれていた。普段はただ一言交わすくらいの関係でしかなかったのに、彼は想像以上にいい反応を見せてくれる。会話をするたび今日が終わらなければいいのにと思った。休み時間が訪れるごとにトイレへ飛んでいき、馬鹿の一つ覚えみたいに髪を細かく整えリップを塗った。少しでも白石くんに醜く思われないよう見た目にも全部気を付けたかった。
「ずいぶん楽しそうやんか」
お弁当を食べているとき、釘を刺すように友達が言葉を漏らしてきた。それは陰湿な空気を纏っているわけではなく単なる羨望からきているようで、言った本人もそれほど悪い顔はしていなかった。白石くんは雲の上の存在だから、最初から私とどうこうなんて思い付きもしないのだろう。私もその流れを壊さないよう、わざと嬉しそうな態度は出さずに、言葉を返す。
「いやー、迷惑かけへんように気遣うで」
「ふーん」
「白石くん優等生やし」
嘘はついていなかった。実のところ、足を引っ張っているような気もしている。気を遣うのも、彼が優等生なのも、何も間違ってはいない。おもしろくなさそうな顔をしていた友達が、ずいと身を乗り出して小声で囁いてくる。
「なあ、もし時間あったらなんで彼女作らへんのか聞いてみて」
「え?」
「気になるやろ、そこんところ」
確かに、白石くんに彼女がいたという話を聞いたことがない。本当は彼女のひとりやふたりくらいこっそりいたことがあるのかもしれないが、それらしい様子すら表にはださず、そういった内容の話も、今まで口にしたことはないようだった。
「な、なんで私?」
「ええやーんせっかくのチャンスやで。これで仲良くなれるかもしれへんし」
「でもそんな仲やないんやけど…」
「いけるいける、白石くんええ人やし!」
気になるけれど、自分から聞くのはリスクが大きすぎる。私は単なるクラスメイトでしかない。そんな人間から、普段まともに長い会話もしないような人間から踏み込んだ話をされたら、白石くんは嫌な気持ちになるのではないだろうか。友達は私のそんな考えを知ってか知らずか、呑気に肩を叩いて笑ってみせた。
放課後、私と白石くんは少しの時間教室に残って日直の仕事をしていた。仕事といってもそれほど大したことではなく、窓閉め、机の整列、簡単な掃除、掲示の張り替えなど実に細々としたものばかりだ。他の皆は部活や下校で教室を後にしていて、私と白石くんはふたりきり。夕焼けに染まる白石くんはとても綺麗だった。例えるなら、なにか神聖な絵でも見つめているような気分。彼はまた淡々とひとつひとつの仕事を丁寧に片付けて、なんでもないような態度で私に接してくれる。
「俺、後ろの棚の整頓するわ」
「あ、うん。ありがとう」
白石くんが別の作業をしている間、私は日誌を書いた。殆どがすぐ埋められるものだったけど、白石くんとの日直の時間が終わるのが寂しくて、ついつい、ゆっくりと文字を書いてしまう。私の目しかないというのに、振り返れば白石くんは真面目に棚の片付けをしている。そういうところからも人間性を垣間見ることができ、やっぱり人間ができてるなとしみじみ感心した。 明日にはこんな風に会話することもなくなるだろうと思うと、今日の出来事は、全部夢だったようにも感じる。夢かもしれない。
「…白石くんって、ええ人やんな」
「え?」
「あ、いやいや、なんでもない」
頬杖をついてぼんやりとしているうちに、思わず口をついて出てしまった。白石くんがきょとんとした顔で、こちらに振り向く。慌てて否定して日誌に視線を落とすものの、わけの分からない恥ずかしさで体が燃え上がりそうだった。ばかだ、ばかみたいに当たり前なことを言ってしまった、と頭の中で後悔の念がぐるぐると駆け巡る。シャーペンを握る手に力が入りすぎて芯が幾度となく折れてしまった。
「俺って、ええ奴なん?」
白石くんの品のある声が届く。おずおずと顔を上げて彼を見ると、棚の整理をすでに終えていたようで、今度はあの席の花瓶に触れていた。恐らく水をかえるのだろう。白い百合の花を指先でなぞるその姿は、恐ろしいほど似合っている。窓辺から漏れてくる夕焼けの光が、その柔らかい髪を鮮やかに彩る。綺麗な横顔はただ百合の花をじっと見つめて、整ったまま崩れることはない。私は気まずさをごまかそうと、更に言葉を足した。
「う、うん。めっちゃ評判ええし、ええ人やで」
「ふうん」
白石くんはどこか不満げに、またはどうでもよさそうにその百合の花を見つめている。今までに感じたことのない雰囲気で、少しの居心地の悪さが足元から仄かに漂ってくる。彼がこちらを見ないまま、視線を一点に向けて呟いた。
「俺、どう見えてるんかな」
「え?」
「どんな感じ?」
どう見えている、というのは私の主観で答えてもいいのだろうか。どくどくという心臓の音が体に響き渡り、私を揺らす。廊下の向こうに人の気配はなく、辺りは息を殺したように静かだった。不思議な気持ちもあったけれど、やはりなにか言い出さずにはいられない。
「白石くんは、全部綺麗で完璧な人やと思う」
「完璧?」
「うん。誰よりもまっさらで、その、彼女いないのとかおかしいくらい」
私の陳腐な言葉が、歯切れ悪くその場に落ちる。耳の奥で金属の擦れるような鋭い音がして、足先がだんだんと痺れていくのがわかった。耳鳴りだ。耳鳴りが奥歯を軋ませている。
「まっさら、なあ」
白石くんが私の言葉を繰り返す。彼が触れている花瓶は、私が白石くんを好きになるきっかけだったもの。あのとき、砕けた花瓶と放り出された百合の花を、誰よりも早く助けた白石くんに私は恋をした。その花を指先で撫で、労るように形どっている。彼が夕日を背に受けているせいか、百合の花はただ薄暗い影を抱えて花弁を開いていた。白石くん。あの日のことでも思い出しているんだろうか。
「…俺な、醜いものが苦手なだけやねん」
そうして彼は、あの子の机に飾ってあった百合の花を、首元から簡単に手折ってしまう。青々とした茎から切り離されて、白く濁りのない花は机の上にあっさりと落下する。ぱさ、と、紙が落ちるくらいの小さな音がした。目を見開き、白石くんをただ見つめる。気味の悪い鼓動が、警告するかのように体を揺さぶる。逃げ出したくなったけれど、足は意思に反して全く動こうともしない。白石くんは顔色ひとつ変えずちぎれた百合の花を見つめ、やはり愛おしそうに手を添えて笑っていた。私は白石くんが、分からない。