体が大きくなって体力もついたというのに、小学生の頃の自分のほうが、遥かに元気があったように思える。ランドセルを背負って、無邪気に走り回っていた時期。毎日夜遅くギリギリまで土まみれになって遊んで、休みの日でもお構い無しに朝から家を飛び出すくらいエネルギーに満ち溢れていた。あの頃に比べたら、だいぶ大人になってしまっている。今の俺は落ち着きも備えているし、なにより背格好も成人のものにぐっと近づいてきている。たった数年でここまで成長できるのかと、柄にもなく物思いに耽ってしまうほど今の俺は思春期真っ只中だった。
「ブン太、今年あんまり伸びなかったね」
俺の机から何の躊躇いもなく健康診断の表を取って、なまえが困ったような顔をする。人が気にしてることをあっさりと言ってのけるのは付き合いが長いからか、はたまた鈍感だからなのか。健康診断が終わったばっかりの教室はジャージ姿の生徒で溢れかえっていて、あちらこちらの席で診断結果について話に花を咲かせている。女子は体重を気にしているだろうが、男にとっては身長のほうが死活問題だった。痛いところをつかれた俺は、つい語気を強めてしまう。
「うるせーな、あっち行ってろ」
「冷たいなー」
目の前で笑うなまえも、小学生の頃と比べるとだいぶ身長が伸びている。昔は本当に寸胴というか 日に焼けた浅黒い肌のそこらへんのガキだったが、今はありふれた普通の女子って感じだ。色気付いてるのかなんだか知らないが、最近薄く化粧をしている気がする。肌が少し白い。
「そういえばさ、ブン太」
「なんだよ」
「…こないだ告白されてたらしいね?」
何故か得意な様子。自信ありげに唇の端を持ち上げ、声を忍ばせるように顔を近づけて囁いてきた。スカートから見えるこいつの膝には、昔作ったすり傷の跡が色濃く残っている。
「いいなあモテモテで」
「…ちげーだろ」
その膝の傷は、小さいときにふたり乗りをして作ったものだ。なまえが自転車の後ろに乗るのはやっぱり怖いと言い、走ってる最中に無理矢理降りて、転んでできたんだ。モデルとか女優の足に傷跡ひとつ見当たらないのはなぜなんだろう、とぼんやり考える。なまえが前の席に腰掛けた。俺は視線を落としたまま答える。
「あー、で、なに」
「返事した?」
「…お前に関係なくね?」
「いやいや、幼なじみだから関係あるよ」
タッチの話でも、双子が告白されたら南ちゃんも少しは関係してくるでしょ?と目を輝かせて訴えてくるが、如何せん俺は達也でも和也でもない。お前も南ちゃんっていう柄じゃねーだろと心の中で悪態をつく。笑えてきた。なんか、あまりにもしょうもない会話過ぎて。そもそも俺達の間で意味のある会話なんてなかったけど。
「まあ今度遊ぶ約束はしたかな」
「えっ!」
なまえが目を大きく見開いて飛び上がったとき、間を割るように4限のチャイムが滑り込んできた。アホみたいな顔をしたままこっちを見ているが、面倒なので顔をあげず、手で小さくあっちへ行けと合図をする。シッシッと追い払えばさすがに従わずにはいられないようだ。去っていく後ろ姿を見送り、机から端の曲がった教科書を無理やり引っ張り出した。
ガキの頃からの知り合いだと、どうもこう緊張感がなくなってしまう。向こうもそれは同じらしく、人目も憚らず昔と変わらないテンションで接してこようとする。同じ小学校出身のやつはまだ理解があるものの、そうとも知らない人間にとっては俺たちの関係は少し異質に映るだろう。もしかしてふたりは付き合っているの、なんて今まで何回訊ねられたことか。もちろんそんな事実はないし、お互いそんな感情はない。と、思う。ぼんやりと意識の波が揺れる中、告白してきた女子のことを考えていた。カヤコちゃんは、隣のクラスの喋ったことのない女子だった。
部活が終わり、ジャージから少し皺の走った制服に着替える。柳生や柳なんかは制服をきっちり畳んでいるか、ハンガーにかけているかしているものの、単純な俺は急いでいるとついつい投げやりにロッカーに突っ込んでしまう。部室は、粉っぽいツンとした土の匂いが染み付いていた。鼻の中がむず痒い。部活が終わった瞬間、糸が切れたみたいに体が重くなる。地に足がついてるようなずっしりした感覚。汗がひいてほんのりと肌寒い。ホワイトボードになにか落書きをしていた仁王が、あ、と脈絡もなく声を出した。並んでいる掠れた文字。インクが切れたらしい。部室の隅で日誌を抱えながら、ジャッカルがうんうんと唸っている。俺の当番は来週だ。
「あ、丸井先輩」
「ん?」
「さっき水道行くとき見かけたんスけど、あの人待ってましたよ」
やっぱりデキてるんスか、と赤也は笑う。あの人というのが誰を指しているのかは明白だ。無邪気なその表情に少し、苛立ちを覚えてしまう。シャツのボタンに指をかけて、俺はただ「あっそ」とだけ答えた。わざと素っ気なく返事をして、ぴしゃりと流れを断つ。この手の質問をしてくるやつは、餌を見せびらかさなきゃすぐに興味を失ってくれるのだと経験から学んでいた。
「え、それだけ?」
「だって付き合ってねーもん」
「ええー」
横に並ぶ赤也の背はもう俺を越していた。こいつも入学当初に比べて成長したな、と改めて思う。中身以外は。赤也はちっとも納得していないようで、「あんなに一緒にいるのに、」と荷物を片付けながらぶつくさ呟いている。一緒にいるだけで付き合っていることになるなら、男女の友情なんてなくなってしまうだろう。俺だって完全にそれが成り立つとは思っていないが、物心つく前から側にいるとどうもそういう目で見ることができない。妹と付き合ってるの?と言われるのと同じくらいの居心地の悪さを感じる。
「…大体俺、彼女いるし」
「ええっ!?」
「だからお前、変な口出しすんなよ」
嘘だった。ただこれがベストだと思い、ついでまかせを言ってしまった。案の定赤也はぽかんと、まるで午前中のなまえのように口を開けて、呆然としている。それ以上つつかれるのが嫌で、かばんを掴み足早に部室を抜け出した。
俺を待っているというその例のやつは、いつも正門のすぐ側に突っ立って時間を潰している。小学生の頃からの習慣で、並んで帰るのがいつの間にか恒例となってしまっていた。俺の姿を捉えた途端、弾けるように笑顔を作るその姿はやはり昔から何も変わっていない。日も傾いてそろそろ暗くなる時間帯だというのに、犬のように待つだなんて馬鹿のすることだ。
「ブン太!お疲れさまー」
「…先帰ってろっつったのに」
「まあいいじゃん。さ、帰ろ」
にこにこと、何も考えていないような顔で笑っている。なんだか胸の辺りが嫌な感じになって、ごまかすようにそっぽを向いた。先ほどの赤也とのやり取りがまだ頭の隅にこびりついていた。
「しかも人目につきやすいとこで待つとか」
「大丈夫、私ブン太と違って有名じゃないし」
「…そういう問題かよ」
俺がさっさと歩きだせば、なまえもつられるように後ろをついてくる。敢えて早歩きをして距離をとると更に慌ててこっちに向かってくる。遅れないように頑張って俺を追ってくる様は、傍目から見て少し滑稽かもしれない。夕暮れの住宅街にふたつの影がのびる。帰宅途中のサラリーマンはいるものの、学生達の姿はほとんど見当たらなかった。遠くでチャイムが鳴っているのが聞こえてきた。
「ねえ、部活どうだった?」
「別に…ふつー」
「普通かあ」
「んー」
歩みを止めて何度か後ろを振り返ると、その度になまえは頬を緩ませる。もうすぐ15歳になるというのにこいつは小学生のときと何も変わっていない。馬鹿みたいに俺を慕っている。その純真すぎる顔にますます薄ら寒くなって、思わず足元に視線を落とした。
「ブン太、優しいね」
「なにが?」
「置いていかないように、ちゃんと注意してくれてる」
優しい、という言葉も今の俺には腑に落ちないものだった。赤みがかった空が向こうの方から段々と暗くなっていくのが分かる。夕陽を背にしているなまえの髪はほのかに発光していた。風に揺れる髪が頬を撫で付けている。俺はわざと、お前を置いていこうとしていたんだけど。喉まででかかった言葉を口にすることはない。
「お前さ」
「うん?」
「…彼氏つくれば」
代わりにでた言葉は、なまえの瞳を微かに震わせた。俺はそれを見逃さずに、畳み掛けるように続けて言う。
「付き合ってねーのに、こんな風に帰ったりするのもそろそろおかしいじゃん」
「え、えっと、何言ってるの」
空気を変えようと、大袈裟になまえは作り笑顔を浮かべる。どうしちゃったのさと笑顔で聞かれても、俺はどうもしていない。不安そうに揺れているふたつの目がこちらに向く。前からずっとこの話をしなければと勝手に考えていたから、なまえにとっては寝耳に水だろう。俺からしたら腹に決めていたことだけど。
「…今までよかったのに?」
「来年から高校生だし、もう潮時だろ」
もっともらしい理由をつけると、なまえはさっきまでの元気が嘘かのように力なく俯いた。その姿を見て、何も思わないわけではない。泣いているのかと思って咄嗟に手を伸ばしたけど、すぐに引っ込めて振り切るように背中をむけた。いつかこうしてちゃんと言わなければならないと思っていた。ずっと一緒にいたせいで、お互いの感覚が麻痺している。普通の男女ならここまでべったりすることもない。潮時、と思うのも本心からだった。なまえはなにも言い出さない。
艶やかな唇から、柔らかい声が漏れでる。頬に手を添えて優しく撫でると、カヤコちゃんは更に瞳を潤ませた。かび臭い準備室とは対照的に綺麗に巻かれた髪からは甘い匂いがする。窓の向こうでは体育を受けている生徒の声が忙しなく響いていて、今自分のクラスは現国の時間だったな、と漠然と思い出す。薄暗い教室にいると目の前の女子もますますかわいいように見えてきた。肩を引き寄せると、カヤコちゃんは嬉しそうに口角をあげた。夢みたい、とぽつりと呟く。
「なんで?」
「だって、振られると思ってたから…」
えへへ、と花が綻ぶような微笑みは実に女の子らしい。スカートで見え隠れする白い膝には傷ひとつ見当たらない。くりくりした大きい目を長いまつげが縁取り、頬はほんのりと赤みがさしていた。告白してきたときもこんな顔をしていた気がするが、うまく思い出せなかった。
「でも本当に不思議だよ」
「ん?」
「私てっきり、みょうじさんと丸井くんが付き合ってると思ってて…」
顔には出さなかったけれど、名前を言われて柄にもなく動揺してしまう。カヤコちゃんの小さい肩に頭を預けて、平静を装いながら「よく言われる」とだけ答えた。彼女もずっとその存在に引っ掛かっていたのか、話題をそのまま続けていく。俺としてはあんまり触れてほしくない部分だったが、カヤコちゃんは気づいていない。
「ちょっと前から一緒にいないよね?」
「んー」
「なにかあったの?」
「いや、別に」
帰り道にあの話をしてから、俺となまえは口をきいていなかった。何度か向こうが話をしたそうな雰囲気を匂わせていたが、すぐにその場を離れてしまっていて、最後まで聞くことはなかった。周りも俺たちの変化に驚いていたが、以前喧嘩をしたときに同じ状況になったこともあり、また喧嘩だろうということで深く追求されることはなかった。カヤコちゃんとの関係はふたりだけの秘密にしている。彼女は「いつか公表できたらいいなあ」と悲しそうに言った。
彼女と付き合いだしてから、昔のことを思い出す時間が増えていた。まだ小学生でおぼつかなかった頃の自分が、ふとした時に頭をよぎっていく。昔の記憶といえばやはりなまえも一緒にでてきてしまうことが多かった。小さかった頃のなまえが俺のあとをずっとついてきて、無邪気に笑いかけてくる。そんな記憶ばっかり。幼なじみなんていいもんじゃないと今の俺ははっきりそう思ってしまう。同性ならまだしも、異性の幼なじみはトラブルの元だ。もう子供じゃないんだから、あんまり一緒にいてやることもない。
カヤコちゃんのことを、かわいいと思う。キスしてみたいし、その細い体を抱き締めてみたいと思う。それ以上先のこともしてみたいと考えたりする。なまえと違って、そういう目で見ていい対象だとちゃんと思える。柔らかな髪に手を滑らせて、あいつ今泣いてるのかな、なんてどうしようもないことを考える。深く息をすると、不自然なくらい鼻の奥が痛くなった。