ついこのあいだまでは夏休みだったはずなのに。夏休みだったはずなのに、部活のおかげで、少しも休めた気にはならなかった。焼かれるような暑い日差しのもとせっせと学校へ通い、蒸し蒸しした廊下でひたすら楽器を吹いた記憶ばかり思い出せる。これがもし私立の中学だったら、クーラーのきいた部屋で練習のひとつでもできたかもしれないけど、うちの学校は残念なことにありふれた公立中学だ。当然簡単には使えない。それに比べて今は、日が高くなればそれなりにほんのり温かいくらいだし、もう汗を滴らせることもお風呂に入って肌をヒリヒリさせることもなかった。秋が近くなっている。
音楽室の開け放った窓からはぬるい空気だけが入ってきて、少し遠くに、テニス部のコートがぼんやり見えてくる。それは元々あったものじゃなくて、新生テニス部がいちから作り上げた手作りのコートらしい。夏休みの間でも、彼らは朝から夕方まで果てしなくテニスの練習を続けていた。そのボールの跳ねる音を聞きながら、友達と部活をこなすのが好きだった。
同じクラスの神尾とは、そこそこ話す方だと思う。小さく息を吐きながら、何かを思い返すようにどこか遠くに視線を投げ出している。相変わらず綺麗に切り揃えられた前髪のその奥で、そっと目を細めている。夏休み前に比べて、神尾のその肌はすっかり浅黒い色味を増していた。
「早く部活行きてーなー…」
足をぷらぷらと動かしているのは、どうにもこうにも落ち着かないかららしい。騒々しい生きた雰囲気のクラスの中で、神尾はまだ夏を引きずっていた。頬づえをつき続けているせいか、私の手はじんと滲む。
「好きだねー、部活」
「そりゃあな。楽しいもんよ!」
はつらつとした笑顔で答えられると、なんだか、その純真さにこっちもむず痒くなってくる。テニスは大変だけど楽しいと、惜しみなく語る神尾は何よりも輝いていた。
「あ。そういや、こないだ部活やってなかったか」
「ん?」
「日曜。楽器の音ずっとしてたぜ」
校舎から放たれる音は、遥か遠くのテニスコートまで届くほど大きいようだ。うん、やってた。そう答えると、神尾は相変わらず頑張ってんなーと呟く。私なんかよりずっと部活に精をだしているはずなのに、そんなこと億尾にも出さず、さらりと感心してしまうのが神尾の人間ができているところ。
「そっちこそ、ずっと練習してるでしょ」
「いや、んー、まあな…ハハ」
「照れてるなー」
「う、うるせっ」
私の言葉に神尾は視線を伏せて、頬を弱く掻いた。褒めるような言葉に弱いのもいいところだ。こっそり尊敬しているのは、内緒の話。テニス部が誰よりも練習を頑張って休みなく努力し続けていたのを、多分、多くの生徒が知っている。神尾からみた楽器と一緒で、テニスボールの跳ねる音も同じようにだいぶ遠くの校舎までずっと聞こえてきている。繰り返し聞こえてくるボールの音が、その練習量の多さを物語っていた。きっとやっている本人達は、音がこっちまで大きく届いていることに、あまり気づいていないんだろう。
「神尾」
どこか重たく、少し棘のある声が聞こえてきた。聞き覚えのある声に、私と神尾は揃って視線を向ける。教室の入り口、ドアのすぐそばに、隣のクラスの伊武くんが立っている。じいっとこちらを見つめて、何を考えているのかよくわからない表情を見せていた。
「お、深司どうしたー」
すかさず神尾が手をあげる。その勢いでイスが床を強く擦り、少しだけ派手な音が鳴ったけれど休み時間の喧騒の中では誰も気にしていない。私は伊武くんの友達ではないので、そっと視線を泳がせつつ、なんとなくその成り行きを観察する。伊武くんがこちらにゆっくり近づいてきた。
「これ、部活の」
「おお。わりーな」
伊武くんの無愛想さに反して、神尾の表情はだいぶ明るい。机の前に彼はすっと立ち、横にいる私の存在なんてまったく気にしていないみたいに話を続ける。友達の友達が現れたら一気に居たたまれなくなる、という話があるけれど、あれはまさにこのことかもしれない。練習メニューの話、練習試合の話。どこの部活も世代交代を始めているようだ。手持ち無沙汰。
「なあ、お前らって確か去年同じクラスだったよな」
「え?」
ここで神尾が私を気遣ったのか、それとも何も考えていないのか、くるりと顔をこちらに向けて、脈絡なく話を振ってきた。ぼーっと頬杖をつき続けていた私は、咄嗟のことにうまく反応を返せない。伊武くんも横目で私を見ている。細く艶やかな髪の隙間から、視線を透かしている。
「うん、まあそうだけど…」
「こいつ1年のときからこんなんだから、大変だったろー」
「いやあ、そんな…」
本人の前でそんなことを聞かれても。たとえ本当のことだったとしても、頷いたりなんてできやしない。曖昧に笑うと頬が少し重かった。
「いいっていいって。正直に言ってやれ」
「…神尾うるさい」
伊武くんがぼそりと呟いて、呑気に笑っている神尾を向かいからじっとり睨みつける。伊武くんの視線がそれてくれたことで、私はなんとなく、ほっとしてしまう。正直、話すこともあんまり多くはなかったし、その辛辣な物言いやら態度やらのせいで、どうしても近寄りがたかったから。きっと伊武くんは、私のフルネームすら知らない。同じクラスになったことがあるといってもこんなものだ。
「…アンタも、ごまかすくらいならはっきり言えばいいのに」
「えっ」
「やんなるよなあ…」
伊武くんの鋭い視線が、思いがけず、私に向けられる。真っ直ぐ途切れることなく目が合って、頭がまっしろになった私は何も言い出せない。空気を裂くように予令のチャイムが鳴ると、伊武くんは小さく「それじゃ」と言い残し、私達の前からするりと離れていった。神尾はまあ気にすんなよといつも通り笑うけれど、当人の私は、気が気でない。もしかして怒らせてしまっただろうか。
校舎の端にある外の非常階段は、普段ほとんどの人が通らず、静かで、とても居心地の良い場所だと思う。そこで楽器の練習をすると、室内で吹くのとは違ってなんだかより一層清々しい気分になれる。夕陽に染まる校舎脇の木々を眺めながら、風にくすぐられて楽器を吹く。最近は秋の匂いが薄っすらと混じっているようだ。
放課後。部活が始まり、私は楽器を手に非常階段へと真っ先に向かった。校舎内には人が疎らに残っていて、校庭からは部活動に励む他の生徒の掛け声なんかが聞こえてくる。パート練習がない日などはひとりでマイペースに練習することができて、あまり気負うこともなく楽に吹くことができる。階段のコンクリートの手すり壁に身を乗り出して、遠くの景色を眺めながら楽器を口元に寄せた。そばにはハンドタオルを常備。飲み物も忘れない。
しばらく吹き続けて、きりの良い所で休憩を入れた。テニスボールの跳ねる小気味いい音が、相変わらず滑り込むように耳に届いてくる。校舎裏に目を向けると、テニス部の人達が練習しているのが見えた。神尾もどこかにいるはずだ。少しばかり目を凝らして、テニスコートをじっと観察する。黒のジャージばかりだからか、なかなか思うように見つけられない。
「あっ」
そばに置いていたハンドタオルに、腕が触れた。少しだけはみ出すように置いてあったタオルは、反動であっけなくバランスを崩す。手すり壁の外へとあっという間に消えていき、その間数秒、スローモーションでその光景はしっかり目に焼き付いた。私は何もできずに、ひゅるると下に落ちていくタオルを、ただ見つめていることしかできない。軽いものだから、落ちた音すらしなかった。やってしまった。変なところになければいいけど。少しの間呆然とした後、仕方なく、階段を下りることにした。
伊武くんとの出来事は、すっかり頭の片隅に追いやられていた。普段関わることもほとんどなく、接点がないから全然不思議なことではない。早く忘れてしまおう、とさえ思っていた。ただ、本人と対面してしまうと、やはりどうしても思い出さざるを得なかった。ハンドタオルは外階段付近の地面に落ちていて、そのすぐ横には水道が並んでいる。そしてなんと、ジャージ姿の伊武くんが、その水道に向かって歩いてきていたのだった。私の頭の中に、あの日のやり取りが一瞬で引き戻される。伊武くんがこっちに気づいた。
「お、おつかれ」
避けるのもどうかと思い、さっと拾い上げたタオルを後ろ手に隠し、おそるおそる、声をかけた。緊張している。伊武くんの何考えているか読めない目が、私をしっかり捉えていた。
「…なんだ、アンタか」
「う、うん」
伊武くんは、やっぱり私の存在なんて少しも気にしていないように、そのまま水道の前に立って蛇口を捻りだした。流れ出た水が、水道のコンクリートに激しくぶつかる。伊武くんが手を洗っている隙に、さりげなく階段の登り口に寄る。あまり長居して、気まずい思いをするのも嫌だった。この場を離れてしまおう。
「ちょっと」
すると、今度は、彼から声をかけてくる。肩が大げさに揺れた。何を言われてしまうんだ、と不安な気持ちでいっぱいになり、苦い作り笑いしか浮かべられない。きっと今の自分を表現するなら、冷や汗がこめかみの辺りにたらりと垂れているに違いなかった。
「あ、えっと、なに?」
「…どうでもいいんだけどさ」
伊武くんの独特な話し方が、余計に私の不安を煽ってくる。たとえ良いことを言われようと、雰囲気がそう感じさせてはくれない。
「アンタ、吹奏楽部だっけ」
「う、うん」
「ふうん」
「……」
沈黙。お互いに沈黙。彼はなぜか、口を閉じている。何か続けて言われるかと思ったのに、伊武くんはしらっとした顔でただこっちを見ているだけだった。なんだろうこれ。なんなんだろうこれ。私の頭の上ではハテナの嵐が飛び交っている。呆気にとられて、ついついぽろりと言ってしまった。
「そ、それだけ?」
「…別に、悪くないだろ」
「うん、そうなんだけどさ、何か続きはあるのかなって…」
「はあ、なんだよ。俺が悪いみたいにさあ…」
わざわざ呼び止めて、部活を聞きたかったのだろうか。それとも、何か気を利かせて、無理やり話題を捻り出したのだろうか?彼の意図はさっぱりわからない。私は、伊武くんのことを何も知らないままだった。整った髪がさらさらと風に揺れて、綺麗な艶を映し出している。
「…アンタも休憩中?」
「そ、そうだよ」
「神尾は、あっちにいるけど」
「そうなんだ…へえ」
神尾の名前を出されても、肝心の本人が今ここにいないのであれば特に意味はなかった。しどろもどろになりながら、どうやってこの場を乗り切ろうかとばかり考える。ぎゅっと結んだ手のひらには、嫌な汗が滲んでいる。
あの日以来、というより、ずっと前からかもしれないけれど、私の頭の中には伊武くんはこわいイメージしか残っていなくて、今ここで向かい合っているだけで、心臓もどうしようもなく落ち着かない。どうすれば、いちばんいいんだろう。視線を泳がせるのにも限界があった。伊武くんはこちらをじっと見続けているが、向かい合う私は、みっともなく冷汗をダラダラかいてあちこちに意識を飛ばしている。そんな私をついに見兼ねたのか、彼はおもむろに口を開いた。
「…そんなに嫌ならもう行っていいけど」
伊武くんの少し棘のある声が、視線と共に真っ直ぐ私に刺さってくる。その突き放した言い方に、私の焦りはさらに増していった。
「え、嫌って…」
「俺と話すの、嫌なんだろ。だからもうどっかに行っていいって言った」
「いや、その、」
今度こそ、怒らせてしまったかもしれない。なんてはっきりしないやつだと今度こそ呆れられてるかもしれない。きつく細められた目は、私を睨んでいるようにも見える。ただでさえ普段の伊武くんにも圧を感じるのに、今この状況は、さらに苦しい。どうしよう。何を言おう。また頭が真っ白になってしまって、喉がカラカラでへばりついて、うまく声をだせない。何か、何か、言わなければ。こういったとき、頭の回らない私は、言葉を上手に取り繕うことはできなかった。
「こ、今度もっと話せる!?」
口からついて出た言葉は、今時小学生でもあんまり言わないんじゃないか?ってくらい、至極単純なものだった。
「は?」
「ほら、休憩ももうすぐ終わるし、休み時間とかお昼休みに、もっと喋ろうよ!」
「……」
「私、伊武くんと話すのが嫌とか、そんなんじゃないから…」
何言ってんだこいつ、というような表情を伊武くんは見せているけれど、混乱している私は言葉を慎重に選び直すとか、冷静に対処するとか、そういったものを考える余裕すらなかった。熱い。顔から勢い良く、火を吹いてしまいそうだ。馬鹿だ。馬鹿だ私。本当に何言ってんだろう。自分でもよくわかっていなかった。
私が口を閉じれば、またお互いの間に再び沈黙が訪れる。伊武くんの表情からは、やはり何を考えているのか、読み取ることはできない。足先から頭にかけていっせいに熱を持ち、力を入れすぎたせいで、少しの震えが出始めた。なにか、伊武くんからなにか反応をもらえなければ、どうしようもなかった。早く助け舟をだしてほしいと、自分勝手にも思ってしまう。
「…それじゃ、また今度行くから」
「え、え?」
教室。小さくぼそっと呟いて、伊武くんはいつものように興味なさそうな態度で、そっぽを向いてしまう。そしてそのまま、部活に戻ると言い、こちらを振り返ることなく行ってしまった。どうやら怒っているわけではないようだけれど、なんだか、とてつもなく変なことをやってのけたかもしれない。