仁王はにこりとも笑わない。私の前では微塵も笑顔を見せない。
真っ暗な部屋に、仁王の青白い顔が浮かび上がる。暗いところで携帯を触るのはよくないといつも注意しているのに、私の言葉となれば途端に関心を失ってしまうようで、なかなか直らない。寝ないの?と聞いてみても、仁王は明確な言葉で返さず、適当に反応を示して、また携帯に視線を落とすだけ。仁王のうなじと、耳から顎にかけてのラインをすっかり覚えてしまうほど、私達の間には壁がある。部屋の片隅にある水槽から、照明の鈍い光が漏れていた。水を濾過する装置の音が妙に心地いい。
仁王の生活はほぼ夜型といってもよいもので、夜勤のバイトがない日でも、しきりに携帯を触って夜更かしをしている。パソコンで動画なども見ているらしく、私が朝目を覚ましたときでもまだ起きていることが多い。そして私と入れ替わるようにベッドに潜り込む。私が泊まっていないときにはどんな生活をしているのかと気になったこともあったが、どうせ聞いても答えてはくれないので彼の裁量に全てを任すことにした。もしかしたら女のひとりやふたりを連れ込んでいるかもしれないが、証拠さえでてこなければ大丈夫だと、自分に常々言い聞かせている。
「もう冷められてるんじゃないの?」
せっかくのお昼時なのに、友達は耳が痛くなるような言葉を投げ掛けてくる。冷えたご飯粒を弁当箱から箸で剥がしながら、私は曖昧に笑って返す。こういう風に言われるのは実によくあることでもあった。大学で出会う子達はうわべばかり取り繕って、しかも相手があの仁王だから更に容易に辛辣な言葉を向けてくる。心配しているのか小馬鹿にしているのか検討もつかないくらい、みんな上手によく笑う。
「仁王くんて、普段どんな感じなの?」
「うーん、無表情、かな」
「記念日とかどうしてるの?」
「特になにもないよ」
愛されていない、大事にされていないということを示すことで、みんなは途端に安堵の表情を浮かべる。それは仕方のないことだ。
「別れた方がいいと思うけどなぁ」
「うーん、まあ」
望まれる形で答えなくとも現実でも仁王の反応はひどいものだし、あながち彼女たちの考えは間違っていないように思う。どうして付き合うに至ったのか、はたして大事にされているのか、なんて考えること自体が不毛なのだと私は学習した。貼りついた喉に無理矢理お茶を流し込む。ただ見張るためだけにあるような昼食の集まりは、とても居心地が悪い。冷められているのではないかなんてこと、私がいちばん自覚している。彼女たちの会話はとどまることを知らず、次々と手を換え品を換え展開していく。
今日泊まりに行ってもいいかとメールしたら、夜中までバイト、とだけ返ってきた。これは多分、駄目だということなのだろう。仁王の返事を確認してから黒板に再び目を向ける。近代哲学が、演繹法が、とか先生が前で説明するもののうまく頭に入ってこない。元々自分のことをそれなりに真面目だと思っていたけれど、意外とそうでもないようだ。 私の性格のせいなのか相手が相手だからなのか。ノートにシャーペンで小さく絵を描く。仁王の似顔絵、魚の絵、適当な落書き。そういえばと、水槽の中で一際目立つ黄色い姿の一匹の小さな魚を思い出した。
受信通知で携帯がかすかに光る。差出人の文字を見て、私はすかさずメールを開いた。仁王からだ。先ほどの会話の続きのようで、「一応鍵開けとく」とのみ書かれていた。単純な私は、これだけでも心を動かされてしまう。四限までの講義を受け終わったら、近くのスーパーで材料を買ってなにかご飯をつくって待っていようと思う。仁王は気を抜けばいつもカップ麺の食事が多くなるから、これぐらいでしか役に立てそうにないのだ。
仁王の部屋にはいるときはいつも緊張する。それは甘い響きのものでは全然なくて、もし知らない子がいたらどうしようなんていう虚しい想像からくるものだった。玄関に女物の靴がないことを確認して靴を脱ぐ。部屋に入る瞬間、いつもシトラスのいい匂いがする。空っぽの冷蔵庫に先ほど買い込んだ食材を詰め、一息ついてからリビングの中をくるりと見回した。物の少ないこざっぱりとした部屋。仁王は思いの外几帳面らしく、本やプリントなんかは机のうえにきちんと置かれている。全体的に黒を基調とした内装でシルバーラックにはオーディオとCD、本棚には漫画から文庫本まで色々と並べられていた。それらはジャンルから何からバラバラで、仁王の趣味嗜好を読み取るのはなかなか難しい。これからバイトが終わるまで、何をしていようか。料理は遅い時間に作った方が出来立てを食べさせられる、と考えて、とりあえず掃除機でもかけようと腰をあげた。
メールの通り夜中に帰って来た仁王は、私の顔と作っておいた料理をそれぞれ一瞥した後、なにも言わずタオルをもって風呂場へ向かった。反応に軽く期待していた私は顔を上げられず、遠くで聞こえるシャワーの音をただただ頭のなかでなぞるだけだった。大丈夫、いつものことだ、とどうしようもない言い訳を自分に念押しし、気を紛らそうとベッドに身を投げた。シーツからは仁王の香りがして、かえって虚しい気持ちが増す。しばらくした後、仁王がこちらに戻ってきた。そのままテレビをつけ、こちらを気にもとめず煙草を吸いだし、いつものように携帯を触り始める。
「ねえ」
「………ん?」
「食べないの?」
「もう食ってきた」
体が途端に重くなる。力が抜けて、そっか、とだけ小さく返した。仁王は携帯を触りながらチャンネルをくるくると変えていく。部屋の中は煙たい匂いですぐにいっぱいになり、とても息苦しい。真綿でじわじわと首を絞められるような、しつこくまとわりつく苦しさ。為す術もなく、またベッドに伏せてただ無言の時間をもて余す。テレビからはお笑い芸人の明るい声が響いている。場違いな笑い声が更に居心地を悪くするような気がした。テレビをつけるだけつけて全く見る気がないのか、仁王は手元の携帯にだけ集中している。
「明日何か用事ある?」
そう私がたずねても、仁王はうんともすんとも言わず、ただ首をかしげるだけだった。ちらりともこちらを振り返ったりしない。普通の彼氏彼女ならば、また違った付き合いができるかもしれない。ただいまと微笑んで、私の夜ご飯を美味しいと全部食べてくれるような、穏やかな付き合いが。なんでこうまでして私はこの人と一緒にいるのだろうと、情けない惨めな気持ちが顔をだす。一緒にいる意味があるのかもわからない。それでも好きなのだけれど、それがまた馬鹿すぎて、自分が嫌になる。
そのとき、テレビの音に紛れて、小さく水の跳ねる音がした。普段なら聞き逃しそうなものだった。キッチン、は水も出していないし、仁王が飲み物を溢したようでもない。きょろきょろと見渡して、ようやく音の元を見つけ出した。
「あっ…」
あの黄色い魚が、水槽のすぐ横の床でのたうちまわっていた。自ら飛び出したのだろうか、尾をびちびちと叩きつけて、苦しげにもがいている。
仁王がこちらの様子に気づいた。くわえていた煙草を灰皿に押し付け、ソファから立ち上がり目を細めながら近づいてくる。遠目からだと魚が落ちているのだとはわからなかったんだろう。焦っている私とは裏腹に仁王はひどく落ち着いていた。非常にゆったりとした動きで水槽のそばにしゃがみこむと、あの小さな黄色い魚を軽く手で摘まみ上げ、臆することなくゴミ袋の中へとそれを放った。黄色い魚が、するりとゴミ袋の奥に消えていく。
「え、なに、してるの」
「何って、弱ってたじゃろ」
「まだ生きて、」
「じきに死ぬって」
仁王が手を洗いながら答える。どんな顔をしているのか見ることはできない。私はそら恐ろしくなって、一足先にベッドに潜り込んだ。布団を被って目を瞑り、先ほどの光景を頭の片隅に追いやろうとする。水槽は部屋の端で沈黙していた。
「なあ」
仁王の重みでベッドが軋む。テレビも部屋の明かりも消えた部屋ではあまりにお互いに所在なく、相手が何を切り出すかただただ待つしかない。仁王の手が私の髪を優しく掬い、くるくると弄ぶ。「セックスせん?」。私は死にたくてたまらなくなった。