彼を初めて知ったのは、入学式の日でした。
グローバル化が進んでいるという昨今の日本ですが、今まで私の身の周りにそういった人がいなかったためか、実感するようなこともほとんど起こらず、案外、国際化なんて都市伝説なんじゃないかな、とずっと思うほど、縁遠い生活をしてきました。街を歩けば外国の人に出会うこともあるけれど、あの人達は旅行や観光で来ているだけなのかもと、ぼんやり考えるだけでした。それが、中等部の入学式で、大きく変わることとなりました。今でも鮮明に思い出せますが、彼を初めて見かけたその時、私はある種の感動を覚えたくらい、衝撃を受けたのです。
ジャッカル桑原くんというブラジル人ハーフのその男の子は、日本語がかなり流暢であるらしく、そしてとてもよく気が利く良い人なのだと噂でしばしば耳にしていました。私は彼とは違うクラスだったので本人についてはよく知らなかったのですが、その噂を聞くたびに、一度でいいからお話をしてみたいなあと思うのでした。ただ彼もテニス部ということもあり、非常に目立つ存在のためなかなか知り合うことすらできませんでした。そして接点がないまま二年が過ぎ、立海生になって三回目を迎えた春。とうとう転機は訪れたのです。あの桑原くんと同じクラス、しかも同じ生物委員になったのです。春先の暖かい風が頬を掠める日でした。委員会決めをするホームルームの時間に、私と桑原くんはそれぞれじゃんけんに負け続けた結果、誰も希望者がいなかった生物委員に割り当てられたのでした。生物委員の主な仕事は、クラスで飼っているカメのお世話をすることだったので、私と桑原くんは一週間交代でカメに餌をあげることを決めました。そのとき初めて桑原くんと会話ができた私は、大層舞い上がっていたことでしょう。
桑原くんとは委員会の集まりのときなどに必然的に行動を共にすることが多かったので、少しずつですが会話も増えていきました。彼の会話の中にはテニス部の人達がたびたび登場してきます。そしてテニス部の人達の話をするときの桑原くんの優しい顔といったらありません。苦労人というポジションを担う彼ですが、とても楽しげに話をするのです。私はそのたび、ああ、いいなあ、羨ましいなあと桑原くんを見つめるのでした。テニス部に詳しいことが羨ましいのではなく、彼の純粋な部分を、とてもいいと思ったのです。私は桑原くんのきらきらとしたまっさらな心に、徐々に惹かれていくのを感じました。彼が笑うと私も嬉しく、次第に何かしてあげられたらと、物思いに耽ることが多くなっていきました。
立海テニス部は言わずと知れた強豪だったので、練習も生半可なものではないということは周知の事実でした。私は自分が頑張ってと言える立場ではない、そんなことを言うなんておこがましいと思っていたので、桑原くんにそういう類の言葉をかけることはあまりありませんでした。その代わりといってはなんですが、桑原くんが当番の日であっても、放課後は必ず私がカメのお世話をする、という役を買って出たのでした。お世話といっても、水槽の掃除や餌やりがメインで内容的にはちっとも辛くなかったので、問題はありません。むしろ彼が部活に集中できるのなら、私は万々歳なのでした。桑原くんも最初のうちは申し訳ないと断っていましたが、私が色々な理由をつけるので、渋々ですが了承してくれるようになりました。ありがとうと桑原くんが呟いた言葉は、何よりも私を嬉しくさせるのでした。
「あれ、ジャッカルは?」
突然耳に飛び込んできた言葉にハッとして振り返ると、教室の入り口、すぐそばに、桑原くんのダブルスパートナーの丸井ブン太くんが立っていました。目の覚めるような赤い髪がとても印象的で、窓から射し込む日差しに、よく映えています。ユニフォームを着ているところを見ると、もう既に部活は始まっているようでした。教室には他に誰もいないので、さっきの言葉はきっと私に発せられたものでしょう。丸井くんとお話するのはもちろんこれが初めてです。
「ジャッカル見なかった?」
「あ、ううん、見てないよ」
「おっかしーな、どこ行ったんだ」
あちー、と言いながら丸井くんは教室の中に入ってきました。夏の炎天下に晒された彼の腕は日に焼けて少し赤くなっていました。きっと帰る頃にはひりひりとしてしまうに違いありません。たとえ夏休みが始まっても、彼ら部活動生には休みはほとんどないのです。教室は自習生のためにクーラーをつけることができるのですが、それを知っていたであろう丸井くんは、何よりも先に、まっすぐリモコンを押しに行きます。額の汗をユニフォームの裾で拭いながら、心から気持ちよさそうな顔をして風を浴びました。私はあげている最中だった餌の粒を、慌てて水槽の中のカメに向かってさらさらと落としました。さっき綺麗にしたばかりの水槽に、カメが顔を出し始めます。
「もしかして生物委員?」
「はい?」
「ジャッカルと一緒じゃね」
丸井くんがこちらを見て言います。会話したことのない初対面の私になぜそんなことを聞くのか不思議でなりませんでしたが、とりあえず「うん」とだけ答えました。すると丸井くんは途端ににやりと口の端を持ち上げ、私を品定めするかのようにじろじろと見てきました。見知った人から同じことをされても戸惑ってしまうのに、丸井くんにされたら尚の事焦ってしまいます。
「そっかそっかあんたが生物委員かあ」
「え、えっと」
「まあ、これからもジャッカルをよろしくな」
「はあ…」
「あいつ本当にいい奴だからさ」
丸井くんが「いい奴だからさ」の、さの部分を言い終えた丁度そのとき、教室のドアが勢いよく開きました。私と丸井くんは、自然とそうなってしまうように、揃って入り口に視線を送ります。そこには、ユニフォーム姿の桑原くんが立っていました。予想していなかった人の登場に、思わずどきっと体が反応します。丸井くんが「どこ行ってたんだよ」と呆れ顔でぐんぐん詰め寄ると、「音楽室に忘れてたの思い出してさ、」と、持っていた教科書を見せました。恐らく置き勉をしに教室へ来たのでしょう。私がふたりの様子をぼーっと見ていると、桑原くんもこちらに気づきました。
「あ、今日も代わりにやってくれてたのか。悪い」
「う、ううん」
「いつもありがとうな」
「そんな、全然大したことしてないよ」
桑原くんにお礼をもらえるだけで、私はとても幸せでした。嬉しくてつい笑みをこぼしてしまいます。あたたかい気持ちが胸の奥の部分からとくとくと流れ出して、私の体を満たしていきます。この現象に名前をつけるのならば、まさにこれこそが幸せというものでした。私と桑原くんが話している横で、静かにしていた丸井くんが、そっと声をかけてきます。
「…じゃあジャッカル、俺、先に戻るわ」
「俺を探しに来たんじゃねぇのか?」
「いや、邪魔しちゃ悪いと思ってな」
丸井くんが、なにやら含んだ笑いを口元に浮かべました。これは、良い雰囲気というものをあまり感じません。言うなれば彼の表情は悪戯っ子のそれそのもので、少々の企みを表しているからです。
「幸村くん達には言っとくから、頑張れよ。チャンスだぜ!」
「えっ」
「え?」
桑原くんの顔が、さっと赤く染まります。丸井くんがじゃーなーと手を振って出て行った後、私達の間に、少しの沈黙が流れました。桑原くんが額に手を当ててなにか思案しているので、私も雰囲気的に何もすることができず、ひたすら自分の足先を眺めて、桑原くんがなにか言うのを待ちました。桑原くんとふたりっきりになり、全身が燃えてしまいそうなほど緊張してしまうのです。クーラーがきいているのに私は汗がびっしょりで、桑原くんも、それはきっと同じでした。
「なんか、ごめんな」
今まで見たことない桑原くんの表情に、鼓動がばくばくと強まってきました。しんとする空気に対して、私の体の内側は元気よく躍動しています。ぎゅるぎゅると温かい血が体中を駆け巡り、しっかりとした意識が保てません。彼は少し置いて、言い始めました。
「俺の口から珍しく女子の名前がでた!って言って、最近騒いでてさ」
「………」
「全然悪い意味とかじゃなくて、その、委員代わってもらったりしてるから、いい子なんだぜっていう、話を、アイツの前でしちまって」
「そう、なんだ」
胸から、ぐっと熱いものがこみあげます。なにか、とても綺麗で神聖なものが、堰を切ったようにどんどん溢れてくるのを感じます。私は今、人生の運をほとんど使い切ってしまったのではないかと思うほど、全身が喜びで打ち震えていました。恥ずかしそうに視線をそらす桑原くんの耳は、赤みがかっていて、触れるとあたたかそうです。今なら、丸井くんが言っていたことの意味も、なんとなくわかります。
「…ごめんな、ほんと」
「ううん、別に、気にしてないよ」
桑原くんが申し訳なさそうに顔を伏せます。アイツの誤解といておかないとな、と、ぽつりと呟いたのを、私の耳はしっかりキャッチをしました。今まで、自分はこういったことはちゃんと言葉にできないタイプだと思っていましたが、なりふり構ってられなくなったのか、自然と、心に隠していたものが口をついてぽろぽろと出てきます。
「私、誤解とか勘違いされてても、全然嫌じゃないよ」
「えっ」
「その、桑原くんは、嫌かもしれないけど」
「え、いや、俺も嬉しい!……あっ」
視線が、かちりと合わさります。私の瞳に映る桑原くんも、また同じように、こちらを瞳で捉えています。日が傾く中、だんだんと橙色に染められる彼の瞳は、今まで見た誰のものよりも綺麗な色をしていました。ひっそりとした教室の中は表面上ではクーラーの音が聞こえるだけでしたが、確かに、ふたつの鼓動も大きく響いているのでした。