ぱくりと、その人差し指を口に含めば、観月さんはこれでもかというくらい、大きく目を見開いた。
観月さんが、私の手をはたき落とす。そしてすぐさま、指は私の口から引き抜かれる。その間2秒ともかかっていない。観月さんは近くにあったティッシュで自分の人差し指を拭き、遠慮なんてかけらもなく除菌スプレーを指に振り掛ける。そして、「何をするんですか」と軽く怒気を込めながら、私に視線を飛ばしてきた。こうなることはなんとなく分かっていたものの、やはり目の当たりにするとちょっと悲しい。指を拭くのは全然大丈夫だけど、除菌されるのはあんまりだ。
「観月さんの指が綺麗で、つい」
「意味がわかりません」
「愛でる意味も込めて…」
「余計に理解しかねます」
さりげなく溜め息を吐いて、観月さんはベッドから移動する。ひとり分の重さから開放されたマットは鈍く軋み、私だけを取り残した。ごめんなさい、と彼の背中に向かって告げたものの、振り返ることなく、そのまま勉強机で本を読み始める。寮の一室であるにもかかわらず、ロココ調っぽいチェストや本棚が並んでいるせいか、観月さんの部屋はどことなく外国の雰囲気があった。
くるりと、観月さんが椅子から半身だけこちらへ向ける。相変わらずその眉は訝しげに顰められていて、これから苦言を述べられてしまうことなんてそこらへんの小学生でも理解できる。私はベッドの上で正座をした。
「だいたい、指を咥えるなんてどうかしているんじゃないですか?」
「す、すみません」
「手も口も雑菌の温床なんですよ?そもそも…」
注意する時の観月さんは、知識を披露する時とそう大差ないくらい饒舌だ。心なしか、楽しんでそうな気さえする。確かに私が悪いんだけど、そうぺらぺらと言われても納得できないことがひとつだけあった。
「でも、観月さんキスしてくれたことあるもん」
「なっ、そ、それとこれとは話が別です」
「ええ、別じゃないよ!」
「話をすり替えるんじゃありません!」
私のむりやりな言葉に観月さんは眉を更につりあげた。怒っているくせに、頬がりんごみたいに赤くなっているせいで全然怖くない。むしろかわいい。またひとつ溜め息をつき、観月さんは指先で前髪を絡ませた。黒い髪の間で、その整った指がより際立っている。キスはまだなんとかセーフだけど、指を咥えられるのはアウトらしい。そりゃそうか。
「ごめんなさい」
「まったく、ケダモノかと思いましたよ」
「け、けだもの!?」
「愛でたくて口に含むなんて、動物とそう変わりませんから」
ほら、もう遅くなりますからそろそろお帰りなさい。観月さんは犬にでもやるように、しっしっと追い払う仕草を私に向ける。それを見ると、もうここから離れるほかなかった。だってもうこれ以上何か悪いように思われたくないし、私も自分があほって気づいているから。
実家住まいの私は、毎週土曜日に観月さんのお部屋に遊びに行くのが習慣になっていた。付き合っているわけだから、キスも本当にごく稀にしてくれるのだけど(恐らく年に2回あるくらい)、観月さんは基本的にあまり人に触れられるのを好まない。もちろんエッチなんて一切しないし、そういう素振りも見せない。私はそれがすごく寂しい。私だって観月さんに触れたり触れられたりしたい。指を咥えたのはちょっとやり過ぎたなとは思うけれど、ケダモノって言うのはひどい気がする。これって普通女子が言う側なんじゃないかな、とも思うものの、私と観月さんだったら明らかに向こうが貞操を守りそうな雰囲気だ。目の前で頬を弛ませながら、携帯とにらみ合いっこをする裕太が心底羨ましいと思う。美味しそうなケーキを食べつつ、リア充もやらかしているとは、なんて男なんだろう。
「いいなー…」
「はい?」
「裕太、彼女と幸せそうで、羨ましい」
「えっ、先輩も観月さんと仲良いじゃないですか」
何気なく言われたことでも、今は深く刺さる。ショートケーキは裕太の手によって半分食べられていて、断面の苺がそっとこっちを覗いている。幸せの香りというものは、きっと裕太から漂ってくるようなもののことを言うんだろう。だって頭の上にお花が飛んでるもの。観月さんや赤澤くんたちが、裕太を可愛がりたがるのも無理はない。
家に帰る前に寮の中をぷらぷらしていたら、絶賛リア充中の裕太が食堂にいた。どうやらメールの相手は噂の可愛い彼女のようで、なにやらにやにやして携帯を握りしめている。彼女ができてからというもの、裕太はぐんぐん戦績を伸ばしてきているらしい。観月さんが以前そう言っていた。部室の壁に、売上ノルマみたく色々なグラフが貼られているのを私は見たことがある。
「ねえ裕太、私と観月さんってラブラブに見える?」
「ぶっ。え、ラブラブ、ですか?」
「うん」
「ええと、まあ、そうだと思いますけど」
私の問いに、裕太は少し戸惑いながら答える。こういう話題の時、必ずと言っていいくらい毎回裕太は口ごもった。彼女ができてもう半年以上は経過しているはずだけど、まだまだシャイボーイなところはかわらない。裕太が、一口食います?と、ケーキをのせた皿をそっとこちらに押してきた。端の方を少しだけ切って食べる。
「ていうか、なんでそう思うんですか?」
「え?」
「その、ラブラブじゃないとか」
「え、うーん…。なんでだろ」
今度は私が迷う番だった。確かに、仲は悪くないのにどうしてそう思ってしまうのか。顎に手を添えて少し考えてみる。裕太が、じいっとこちらを見つめてくる。きっと私の悩み相談というよりも、観月さんの生態について若干の興味があるんだろう。
「溢れ出しそうな愛情表現とかが、観月さんから見えないせい、だから?」
「ぶふっ!」
私の答えを聞いた裕太は、また吹き出した。観月さんにそれを求めるのは酷ですよ、と、笑われる。私も同感だ。
観月さんとああいうことがあってから、1週間ほど経った。その間に観月さんと連絡はとっていたけれど、顔は合わせていない。元々たくさん会うような人ではないし、クラスも違う。意識してどちらかが出向かなければ会う機会は少なかった。そして私は、観月さんにどういう顔して会えばいいのか分からず、ただひとりもやもやしていた。裕太みたいに彼女とイチャイチャすることだけが付き合うってことだとは思わないけど、それでもやっぱり羨ましい。観月さん、私もバカップルしたいです。でもそれは、私が言ってし始めてもらうんじゃなくて、観月さんから自発的にしてくれたら、いちばんいいのに。
毎週土曜日は、遊びに行く日ではあるけど、観月さんにときどき夜ご飯を作る日でもあった。ルドルフの近くにあるスーパーに寄り、寮の台所を借りて観月さんのお部屋まで出来上がった料理を持っていくという。観月さんもそれをわかっているから、その予定があるときは何も食べずに部屋で待っているのだと、赤澤くんが教えてくれた。そして今日は土曜日だ。つい、いつもの癖で、寮へ行く前にスーパーに寄ってしまう。観月さん食べてくれるかな、と少しだけ不安になるものの、案外何食わぬ顔で食べてくれそうな予感もした。観月さんが、長い睫毛を伏せながら、料理を唇まで運んでいく、あのゆったりとした光景を思い返す。
ありがとうございましたー、という声を背に受けながら、店の出入り口を抜ける。日は既に傾き、空も茜色に変わりつつあった。少し涼しい風が道路から吹き、時々、帰宅途中の子供たちとすれ違う。スーパーから寮までは5分ほどの道程だ。ほんのちょっと坂道もあるけれど、どうってことはない。お店の中で寮生のルドルフの子たちも何人か見かけたけど、当然観月さんはいなかった。食材の入った袋を抱え、寮までの道を歩く。夏がそろそろ終わり、秋の入り口が見えそうな季節だった。日はまだ高いけれど、だんだんと紫外線も弱くなってきている。
赤く染まる道路に、私の影が伸びる。どこかのチャイムの音が遠くで響いている。食材の入った袋は思いの外ずっしりしていて、時々持つ手をかえないとじんと痺れてしまうほどだった。赤ん坊を抱えるように下から支えると、幾分か楽になった。
何度も通ったことある道でも、季節の変わり目はまた違った装いがある。道に沿うようにできている住宅の流れの途中途中に、新しい花が咲き始めていた。風が吹く。花は揺れ、髪も額からさらわれた。
広がる髪を手で押さえていると、向こうから、観月さんらしき人が歩いてくるのが見えた。見間違いかと思ったが、あの姿は、絶対観月さんだ。
少し勾配のある坂の上から、こっちへ来ている。
気づいた私の歩幅は小さくなるけれど、彼は何も変わらずそのままこちらへ向かい、どんどんその距離は縮んでいった。観月さんの肩越しで、緩やかに夕日が沈んでいく。逆光の中でも微かに表情が分かる。どこか優しい顔。私は、対照的に困惑していた。
「み、観月さん、なんで?」
「迎えにきたんですよ」
何時にいくとか、そもそも今日は来ることなんていってないのに、どうしてわかったんだろうか。これもデータの力なのかな。きっと今の私は、すごく間抜けな顔をしているはずだ。
「観月さん、エスパーみたい」
「んふっ、そうでしょう」
「…その、こないだは、ごめんなさい」
「さあ、なんのことだか」
ふ、とこぼすように観月さんは微笑んだ。久しぶりの観月さんは、やっぱり絵画の中の天使みたい。綺麗だ。背景の夕焼けが、後光のようにその髪を包み込む。風に乗ってほのかにいい匂いがした。観月さんは、さりげなく、私が手に持っていた袋を代わりに持つ。そして空いている左手で、私の手を取った。いわゆる恋人繋ぎというあれだ。観月さんから手を繋いでくれるなんて本当に珍しい。どうしたんだろう。私の手を優しく握り、口元にはいつもの笑みを浮かべている。夢なのかもしれない、と思った。
「これって、現実なの?」
「何を寝ぼけたことを言っているんですか」
「だって、観月さんが、こんな」
「ほら、行きますよ」
予想外の展開に、私は動揺が止まらない。車道側を歩く観月さんが、指を絡ませて呟く。
「僕の指を愛でるなら、これからはこうしてくださいね」
観月さんと触れている部分が、とてもあたたかい。うん、と小さく答えれば、「先日は、僕も言い過ぎました」と返してくる。観月さんが優しい。なんだかすごく優しい。繋いでる手から柔らかい鼓動が伝わってくる。なんで、なんでかな。すごく幸せな気分だ。
「…観月さん、キスしたい」
「え、あっ、あなたって人はまったく…!」
呆れたように怒っても、観月さんは手を離さない。