毎日毎日、繰り返される流れ作業みたいに、学校までの道程を行く。代わり映えのない風景がずっと並んでいて、退屈という言葉がまさにぴったりだ。早朝の住宅街にはほとんど誰も歩いておらず、ローファーの靴底が擦れるかたい音だけ妙に響く。その音は意外に耳触りがいい。最近はだんだんと肌寒くなってきていて、今日のように風が強い日などは、特にそうだった。かえたばかりの冬服は夏服と比べてスカートがしっかりとし、どこか重たく体を包む。



千石の頭はどこにいても見つけやすい、という話を振ったら、目元を緩くにじませて、照れくさそうに笑われた。いつもへらへらした顔をしているけれど、目の前でそうされるとなんだかむず痒くて、そっと視線を窓の外へ向ける。

「俺より、亜久津のほうが目立つと思うけどなあ」

暇を潰すように、千石は占いの雑誌を適当に開いている。ひとつの机を共有して向かい合っていると、お互いの膝同士が時々当たりそうだ。窓の向こうから、テニスボールの音や野球部員の掛け声が聞こえてくる。ただ距離があるだけなのに、存在する世界が違うみたく、その音ははるか遠くで地を撫でている。

「亜久津は違う意味で目立ってるよね」
「はは、それ言えてる。前にあいつを街で見かけた時、どこのヤンキー漫画かと思ったもん」

放課後の教室はすごく居心地がいい。それなりに暖かいし、誰も邪魔はしてこない。時間はまだ17時を指しており、廊下の先に生徒達がまばらに残っていた。放課後の学校では、女子の声は隙間なくよく通る。輪を作って噂話にでも花を咲かせているのだろう。

「千石もじゅーぶん派手だよ」
「そう?」
「全体集会の時とかすぐ目に入る」
「えー、それってなんか期待しちゃうなあ」
「はいはい」

千石が雑誌のページを流すようにぱらぱらと指で弾く。きっとすっかり見飽きているのに、手持ち無沙汰だから机に広げているだけだ。この教室からは、テニスコート自体を見ることはできない。恐らく向こうで檀くん達が練習をしているはず。千石も時々は顔を出しているらしく、下校時にその場面に居合わせることもあって、先輩らしく後輩達を指導しているようだった。


今日は千石と日直の当番だった。そのせいか、皆より遅くまで残ることになって、なんとなく雑談まで交わしてしまっている。休み時間の合間とかに会話をすることは少なくないものの、放課後を、こんな風に過ごすことになるとは思わなかった。同じ学年の中でいえば、千石は多分いちばん話しやすい男子なんじゃないかと思う。人当たりもいいしなにより気遣いができる。ただ先行する印象のせいで、損をしているきらいはあった。かく言う私もその中のひとりだ。千石といえば女好き、女好きといえば千石と、切っても切れない関係みたく、その巡り巡るイメージがしっかり頭に染み付いていた。



校門を出て、いつもの帰り道を歩く。日も傾いてきたら冬服のみではちょっと肌寒いくらいで、時々感じる外の冷たい空気に、思わず腕をさすってしまう。空はすっかり暗さを帯びて、端の方でオレンジの雲がちぎれるように消えていく。時間は18時過ぎ。結構長く話をしていたみたいだ。千石が、当たり前みたいな顔して私の横にささっと並ぶ。近い。こんな見た目もその他も目立つような人間と、傍にいるところを誰かに見られるのはあんまりよろしくない気がして、3歩ほど距離を置く。帰りまで一緒になるのも初めてだ。

「千石の家、どっちだっけ」
「ああ、俺送ってくよー」
「え?」
「不審者とか多いし、危ないからね」

割りと本気で嫌な顔をしてみせたのだけれど、全部分かっててこういうことを口に出してくるから、ますますタチが悪い。千石はどこにだしても恥ずかしくないくらいの女好きで、そんな男とずっと一緒にいるなんてのは、誰がどう見たってまずい状況だ。だけど、なぜだか悪い気は全然しなかった。下心があるのかないのかよくわからない顔でこちらに向き直り、空気を和ませるように手の甲で私の肩をトンと軽く叩いてくる。とっさにそうしたことができるのも、慣れというものをさりげなく裏打ちしているのだ。普段男子にそんなところを触られることがない人間にとって、その行動はやや心臓によくない。

「そんなに警戒しないでさ、ね?」
「…千石だからなあ」
「ええ、俺のイメージひどくない?」
「あはは、ごめん」

千石の仕草や喋りは女の子のために全部用意されているようにスムーズで、軽く私の中に入ってくる。頭では、このままじゃ色々と近過ぎるんじゃないかって分かってるけど、千石と話すとついリアクションが自然と出てきてしまう。少しだけ高い目線を降ろして、また笑いかけてきた。柄にもなく、体がドキッと反応する。

「ていうか、一緒に帰るの初めてじゃない?」
「そうだね」
「なんか嬉しいなあ。ラッキーて感じ!」
「…何人の子に言ってるんだか」

ちくりと嫌味を言っても、千石は嫌な顔ひとつせず、ただにっこりと笑みを浮かべるだけ。そして、ねえねえそういえばさあ、と流れるように話題を明るい方へ寄せていく。教頭の被ってるヅラだとか、南くんに彼女できたとか、こないだテニス部でカラオケに行った話とか、どれくらい引き出しがあるんだろって思うくらい次から次に話題が飛び出してくる。何気に頭がいい気までしてきた。

「でねえ、俺そこで東方に言ったんだよ」
「うんうん」
「そしたらさ、お前にだけは言われたくねえ!って怒られちゃって」
「そりゃ千石はねえ、仕方ないかも」

つられるように、頬が緩んでしまった。千石は、俺ってそんなにだめだめかなあと少しだけ背中を丸めて、腕で顔を隠し大げさに泣くふりをしてみせる。わざとらしいのに、千石がすると、ぷっと吹き出すのも仕方ないくらい笑えてくる。誰かと帰ると時間が経つのも早く、いつのまにか家のすぐ近くまで来てしまっていた。見慣れている近所の公園が向かい側に見えて、足を止める。

「あ、えと、私ここまででいいよ」
「そう?」
「うん、ありがとう」

住宅街ともなれば、街灯の数はそれなりに減っていく。沿うように並ぶ家々から漏れ出る明かりが、暗い足元に道を浮かび上がらせる。どこからか金木犀の香りが漂ってきた。このにおいを嗅ぐたび、息をするみたくひとりでに懐かしさが湧き起こってくる。千石がすぐ横であのさ、と口を開いた。珍しくへらりとした笑みは口元にない。

「なに?」
「また明日も、俺と帰ってほしいんだけど」

甘ったるい風が鼻先を掠める。千石は、真面目そうに表情を作って、まっすぐこちらに体を向けた。奥底で心臓が脈を打ち始めて、やんわりと、足の先から空気が変わっていくのが分かった。

「ていうか、明日だけじゃなくて、これから先も帰りたいなって思っちゃったり」

心臓のあたりが変にざわざわして、足も竦んでしまう。口をきゅっと結んでいる千石は、ちょっと大人びている。私の勘違いでなければ、これって、もしかしてもしかしなくとも、告白という類のやつ、なのではないだろうか。うまく反応を取ることができず、千石の胸元まで視線を下ろした。

「…帰るぐらいなら、別にいいよ」
「ほんと!?」
「う、うん」
「やったー!ラッキー!」

あんまりにも嬉しそうに喜ばれるものだから、さっきまで堪えていたものが全部、隙をついたように唇からふわっと溢れてしまう。気の抜けた私の顔を見て、千石はますます目を細めた。心臓だけが不用心に鳴り響いて、私を内側から揺らす。激しく揺らして、頭がじんと痺れた。あれ、なんか、嬉しいかも。そう思う一方で、どこか頭の半分は水を浴びせられたように静かになっていた。なぜなら相手はあの千石。本気にして痛い目を見るのはこっちかもしれない。



それからというもの、私達は一緒に帰ることが多くなって、いつも千石に家まで送り届けられることになっていった。毎日毎日、ベルトコンベアに乗せられるように、ただつまらない時間を繰り返し送っていたはずが、今ではいちばん心浮き立つようになり始めている。他の人に見られないように、皆と帰る時間をずらして校舎隅の2階非常口で待ちあわせをする。まるでなにかの漫画の世界。漫画の中の男の子達でも遅れてしまえば悪態をつくけれど、千石はそんな素振りを一切見せず、来ないんじゃないかって不安だったよと、いじらしい文句を言う。あんなに千石と近づくのはまずいと思っていたのに、向こうが階段飛ばしで私の中に入ってくるからか、びっくりするくらいとんとん拍子にお互いの仲が変化していく。一線を引いたとしても、千石は何食わぬ顔でそれを飛び越えてしまう。

「なまえちゃん、寒いでしょ。手繋ぐ?」
「ばか、何言ってんの」
「わーー、照れてる!」
「照れてないから」

心の中にすんなりと居着かれることは、意外といいものだと知ってしまった。先週よりずっと、昨日よりずっと、距離が短くなっている気がする。さりげなくさりげなく、千石は私の指先に触れてくる。日直をした日から10日も数えれば、あっという間に手を繋ぐようになってしまった。千石の手は熱くて、自分の手よりひと回り以上も大きく、がっしりしている。初めてちゃんと触れた他人の肌に、戸惑いは隠せない。人肌というものは中毒性があるらしく、千石と家の前で別れてから床につくまでずっと、何もないはずの手を閉じたり開いたりして、その感触を反芻してしまうこともあった。



それは一緒に帰り始めてから3週間を過ぎた頃。隣を歩く千石がすっかり当たり前になって、お互い手を繋ぐことになんの抵抗もなくなった時だった。

「俺、来週掃除当番だから、当分一緒には帰れないや」

夕焼けがうっすらと彼方で霞んでいく空。引き伸ばしたように続くふたつの影。千石が、冗談めかして言った。

「あ、でも、当番終わったらまた帰ろうねえ」
「…うん」
「それを糧に、頑張るからさ!」

千石の大きな手に指を這わす。サイズが違うせいで、すっぽりと覆われている。何でもないような顔で、何でもなく答えられているか少し不安に思う。それは関係を転じる合図だった。千石が、家の近所の公園の前まで着いたところで、ちょっとこっちに来てと、誘導をする。誘われるまま公園の中に入り、千石が、端っこのタコ山を指差した。

「あの土管の中で話さない?」
「え、うん」

大の大人がぎりぎり入れるくらいの幅をもった土管に、体を丸めて進んでいく。中は思った以上に真っ暗で、コンクリートのひんやりとした感覚がスカートをこえて、お尻に伝う。足を曲げなければとても窮屈で仕方ない。足元の砂を外に追いやって、ようやくふたり腰を落ち着けた。

「ふふ、なんか近くて恥ずかしいや」
「…そっちがここに入ろうって言ったんじゃん」

千石の言う通り、ぴったりと座っているせいでお互いの距離はほんの僅かにしか空いていなかった。改めて言われると、なんとも形容し難い羞恥心がもくもくと膨れ上がってくる。私の手の上にそっと自分の手を重ねてきて、千石はまた満面の笑みを浮かべる。寒くなるにつれ、その手の温かさはより一層増すようだった。暗く、ほとんど密室といっても差し支えない。うまく身動きの取れない空間で、自由なのは上半身だけだ。千石のふたつの目が私を貫いて、動けなくなる。これはまずい、というより、分かっていて拒まなかった、という方がふさわしい。


唇に、そっと触れられる。落とされた千石の唇は、指先よりも冷めていた。しっとりとした感触があって、次に、リップクリームのミントの香りがした。千石のキスは、優しく、啄むように触れるを繰り返す。そして、だんだんと私の唇を開かせて、するりと舌を入れてきた。熱い。私は初めてのことに内心パニックになって、無我夢中で、千石の舌を受け入れた。私の舌はすっかり怯えて喉の奥で縮こまり、されるがままになっている。何をしていいかわからず、ただじっと体勢を保つままだ。



掃除当番、といっても特に大したものではなく、放課後ただ決められた場所の掃除をするだけのことだった。自分のクラスの担当は理科実験室で、当番となった班が月曜日から金曜日まで掃除をする。たった5日間一緒に帰らないくらい、と、最初は思っていたけれど、予想以上に千石のいない帰りはつまらなかった。以前はなんとも感じていなかった道も、こんなに長かったのかと思うほど。誰かの反応がある、誰かがすぐそばにいる、というのは、思いの外影響力が大きかったようだ。月曜日にひとりで帰り、次の日の朝、開口一番千石は待ち構えていたようにたずねてきた。

「俺がいなくて寂しかった?」

悔しいが、実に的を射ている問いだった。けれどそのまま正直に答えるのも癪だったから、なんにも思わなかったと、素知らぬ顔で嘘をつく。机の中から1限の教科書をとりだし、机の上に並べる。教室の喧騒に紛れ、私達の声は響かない。私の前の席のイスを寄せて、向かい合わせに千石は座った。眉をしかめて拗ねたような顔で私を見る。

「俺は寂しかったのになあ」
「はいはい」
「あ、ねえ、ちょっと 」
「ん?」

指先でこつこつと、私の気を引くように机の表面を小さく叩く。何を言われるんだろうかと、少しだけ上体を前のめりにさせて、向かいの千石に耳を近づけた。教室の隅、何人かがこっちを見ている。この状態もあまり人に見られて気持ちのいいものではないから、できることなら早く済ませてほしい。囁くような千石の声が耳をなぞる。息がかかってくすぐったい。

「…こないだのって初ちゅー?」
「!」

思わずのけぞって、千石の顔をまじまじと見てしまう。私が眉を激しく寄せたせいか、千石は怒られると思ったようで、殴られないようにさっと身を捩った。
 
「ちょっと、千石!」
「もしそうなら嬉しいなあって」
「…はあ、もう恥ずかしいからやめて」
「うう、そんな顔しないで」

ごめんね、と目の前で困ったように手を合わせられる。そしてタイミングよく、私達の間に割って入る始業のチャイム。それを聞いて千石はすかさず席から立ち上がり、私の頭にぽんと手を軽く乗せて、離れていく。その一連の流れはまるでセットのように自然だった。どこのドラマの主人公だってくらい表情もうまいこと作っている。何度も近いって言っているというのに、教室でこんな勘違いされそうなこと。


千石が私に堂々と絡んできたのは朝のその一件だけで、それ以外は前と変わらず、普通のクラスメート同士としてお互い同じ教室にいるだけだった。時々、こっち見てるんじゃないかって思うこともあったけれど、あのキスからますます学校で顔を合わせるのが辛くなって、避けるようにほとんどの時間を過ごすようになる。どうせ来週からは一緒に帰る羽目になるのだし、なんてことはない。ただ、千石が他の女子と会話をしているところを目にする度、うまく言い表せないけれど、頭の先から足まで一気に苛立ちが加速するような、そんな気持ちが体で滾ることも多くなった。嫉妬と言われたら、そうとしか答えられない。



早いもので、もう金曜日を迎えることになった、その日。千石に、これで来週からは一緒に帰れるね、と言われていたその日だった。私は教室に英語のプリントを忘れてしまったのを思い出して、家へ帰る途中から、学校に引き返したところだった。すれ違う生徒もほとんど少なくなってきて、昇降口に戻った時にはほとんどの生徒の外靴は見当たらなかった。おそらく部活動生とか、なにかの委員とかそういうもので残っている人がちらほら校内で見かけられた。

幸いまだ家に辿り着くには少し距離がある道で、早めに気づいてよかったというところだろう。急いで靴を履き替えて、階段を登る。人気の減った校内に、沈む夕日の光が満ちていく。窓から入るそれは、廊下に薄くグラデーションを敷いていた。またどこからか聞こえてくるボールの音に、部活動生の声。3年3組の教室は、学年職員室側の廊下から向かったほうが早い。先生達に注意されてしまったのか、この階に生徒の姿はほぼなかった。



学校に戻るときに少し急いでしまったから、息を整えるようにゆっくり歩く。もうすぐそこまで教室が見えている。しっかりと窓も扉も閉められていて、やはりここにも誰もいないと思っていた。扉に手をのばし、指が触れかけたその時。

扉についている細いガラス部分からそれは見えた。1枚隔てたその向こう、教室の中で。千石が誰か女の子を抱きしめている。見間違いようのないあのオレンジの髪が、誰かに被さるようにして、背を屈めている。



足が動く。
声を出すよりも何よりも先に、後退りするしかない。体は正直に、私の足を走らせた。とにかく離れなければと、体だけが強い意思を持っていて、心はただそれを追うだけだった。走る。走って見えないところへ、ずっと遠くへと反射的に廊下をかけた。誰かに急かされているわけでもないはずが、どうしても焦ることはとめられない。校舎を飛び出て、住宅街の道に入る。いつもと変わらない風景。ただただ家が並ぶだけで、何も面白みのかけらもない、見慣れた道。そこまで来たところで、視界がじんわりと急に広くなる。


千石。千石はあの子と帰るのだろうか。前の私みたいに。



甘ったるい風が髪を揺らす。何の匂いかなんて、考えるまでもなく体に染み付いている。小さな街路樹の一角に、金木犀が生えていた。緑をかき分けて、かわいらしい色をした花が咲いている。少し握ってしまうだけで、それは土壁みたいにぽろぽろと脆く崩れた。小さな枯葉色の花びらが掌にこびりつき、一層匂いが深くなる。甘い。地面に落ちて広がったそれを、踏みつける。コンクリートの土と混ざり合い、汚く色がくすんだ。その色を見て、なぜだかざあまみろという思いしか浮かばなかった。擦って、踏みつけて、花を汚す。大嫌い。大嫌いだ。大嫌いだ。