梅雨が明けても、まだ湿った雰囲気はしつこく尾を引いている。本格的な夏がすぐそこまで迫っているせいか、夜もすっかり熱を帯びてきていた。コンクリートの人工的な町並みに囲まれて、鬱蒼とした空気が部屋を満たす。自分の借りているアパートは、他の建物に比べても少し背が低いようで、ほとんどの時間が影で覆われている。ベランダの向こうに並ぶのは、ただの住宅街だ。どこを見つめ返しても変化のない、ただのつまらない景色が長く続いていて、日が落ちれば真っ黒に塗りつぶされたそれらに、ぽつりぽつりと灯りが浮かんでくる。



夜に外を歩いてみると、季節の変わり目の独特な匂いを感じることができる。なぜ夜の方がより分かりやすいのかなんて、うまく言葉に表せないけれど、きっと視覚が曖昧になるせいで匂いを感じ取りやすいんだろう、と思う。バイト終わり、帰り道を通るたびに、昨日とは違う風が髪を揺らす。蒸し暑い空気が道路から流れてきて、街路樹の葉は落ち着きなく踊る。真っ暗な中、爛々と光るコンビニは刺さるほど白く眩しい。

明日は嬉しいことに全休だった。バイトもないうえ、課題も全て済ませている。足取りが思わず軽くなってしまうほど気が楽で仕方ない。大学の授業は、取りようによってはどんな時期でも休みを組み込むことができるから、自分の性に合っていて丁度良かった。家まで続く長い帰り道も、今は全く気にならない。部屋の掃除でも念入りにしてみようかと、カバンを握りながらなんとなく考える。



少しの商品を買って、コンビニを後にする。冷房が強く効いている店内から外へ出ると、途端に温い空気が全身を這うように包んだ。明るい中から暗い夜道へ進んだせいか、目が眩んで周りのものの輪郭もぼんやりとしてしまう。時間はそろそろ日付を越えるくらいまで遅くなっていた。ポケットの中の携帯に手を伸ばす。つるりとした冷たい感触が、指先に当たる。暇なとき、携帯を無意識に開いてしまうのがついつい癖になってしまっていた。メニュー画面、メール受信確認。目当ての人物から連絡はない。それは自分にとってすっかり当たり前のこととなっていたけれど、思いの外がっくりときてしまい、知らず知らずのうちに溜め息が漏れた。分かっていて期待してしまうのも、自分の悪い癖だと思う。

携帯をポケットに落とし、再び夜道へ進む。少し前に通り雨でも降ったのか、地面のところどころに水溜りができていた。黒い道にそれらがぽつぽつと照らされて、漆みたいに艶々と浮き上がる。向かいの歩道には浴衣を着たカップルが歩いていた。何か祭りでもあっただろうかと考えるものの、よく思い出せない。



アパートに着き、明かりもそぞろな階段を上っていく。誘蛾灯の周りに僅かばかりの虫が集まっていた。先ほど買ったばかりのアイスが溶け始めていないか気になって、少し急いで部屋へ向かった。人気のない白いアパートの廊下はどこか気味が悪く、例えるならホラー映画に登場する何かのシーンのようだ。部屋の前へ行き、扉に鍵を差し入れ、右へ回す。回したものの、いつもと違う軽い感触。なにも引っかかることなくするりと半周する。音もろくにたたなかった。

鍵が開いている、と思うより先に、指先の血管が、きゅっと縮まった。掛け忘れてしまったかと血の気が引いて、恐る恐る、扉に手をかける。


もし、誰かが忍び込んでいたら、と尻込みしていたものの、扉の隙間から仁王の靴が顔を覗かせた時点で、強張っていた力が急速に抜けていった。部屋の電気はひとつもついていない。けれど、鍵はきっと仁王が開けてしまったんだろう。


「た、ただいまー」


部屋の奥へ、声を投げかける。返事はない。とりあえず扉を後ろ手に閉めて、再び部屋へ視線を戻した。ほとんど暗がりだが、微かに明かりが見えるような気がする。短い廊下を抜けて、リビングへ入った。部屋には誰もいない。光っていたのはノートパソコンの画面だった。それは薄く開いたまま、無造作に床に置かれている。仁王はというと、閉め切った窓の向こうの、狭いベランダにいた。ベランダの手すりに体を預けながら、煙草を吸っているようだった。

窓を開ける。カラカラと音が鳴るものの、その背中は振り返らない。


「鍵開いてたから、びっくりした」
「………」
「いつ帰ってきたの?」
「…さっき」

背中をこちらに向けたまま、私の言葉に適当に答える。携帯で何かをやっているらしく、指先がしきりに動いている。仕草から見るに、恐らくメールだ。

「ここのところ、帰ってこなかったから、今日来ると思ってなかったよ」
「………」
「連絡とかさ、ちゃんとしてほしいんだけど」


仁王のメールをうつ手は、依然として変わらない。私の言葉なんて本当にどうでもいいのか、会話をする気も全くないのか、ひどく投げやりな態度だった。返事をする代わりに、煙を細く口元から吐いた。先から落ちる灰も、仁王の意識の外のようだった。手すりの縁の部分で、灰皿にでもそうするかのように、何気なく煙草の先をたたいている。おかげでベランダの足元には、僅かに黒いカスが散っていた。


勝手に来ておいて、なんて男だと思う。窓から部屋へ戻り、さっき買ったものをテーブルに置く。アイスは冷蔵庫に入れて、カバンは床に放る。このままベランダの窓の鍵を閉めてしまえば、面白いんじゃないだろうか。さすがに行動まではできないものの、その背中に向かって何か言いたくて仕方なかった。今の雰囲気だと部屋の電気はとてもつけられず、大人しく、テレビだけに電源を入れた。1週間ぶりに顔を出したと思ったら、この有様。一体何をしに来たんだろう。


私も負けじと、テレビを見ながら携帯を触る。相変わらず、仁王からメールが送られてきた形跡などもなく、腹がたつより、悔しい思いが大きかった。そして何より悲しい。仮にも付き合っているのだというのなら、今のような付き合い方はすぐにやめてほしいのだけれど、改善してくれる見込みなんて欠片も感じられなかった。付き合い始めて、そろそろ2年が経とうとしている。そうだというのに、どうしてこんなになってしまっているのか。


煙草を吸い終えたらしく、仁王が窓を開けて部屋へ戻ってきた。そのままベッドに腰を下ろし、足を投げ出す。煙草の乾いた匂いが一気に濃くなり、私の肺はちくちくと湿り気を増す。仁王の目は閉じられていて、今何を考えているのか読み取ることはできない。機嫌を伺うように、そっと声をかける。

「ねえ、仁王」
「…なん」
「明日講義は?」
「別に、ない」

必要最低限の言葉でしか返してこないけれど、それでもやはり、会いに来てくれたというだけで、私の胸は情けなくも嬉しさで震えてしまう。

「あ、そういえばさっき外でね」
「………」
「浴衣の人見てさ、」
「…ん」
「今日、祭りとかあったのかな?」

仁王が、薄っすらと目を開ける。睫毛が数を確かめるように、上下する。それは、私を捉えるのではなく、テレビの時刻の方に向けられていた。細く、焦点を絞っている。日付は7月7日。ほのかな明かりの中で冴える仁王の顔は、唇から何から整っていて、同じ空間にいられるのが不思議なくらい、透き通っている。色の抜けた髪は、小さな光でも簡単に拾って、流れるように伝う。

「夏祭りとか、行きたいって思ったんだけど、どうかな」

声に余裕がなくなってしまった。さっきまで、ほんの少し前まではとっちめてやりたいなんて思っていたのに、思っていたのにこれだ。こんな自分が嫌で、仁王の顔を見ることもできない。


ここで初めて、ちゃんと仁王が私に顔を向ける。未だ細められている目に、私が映っている。ほとんど薄明かりの中で見る仁王は、少し大人びていて、更にその色白さが強調されていた。何を考えているのか推し測ることも難しい、無表情。小さく形の綺麗な唇が動く。それはスローモーションみたいにゆっくりと私の目に焼き付き、網膜の上で手をこまねいている。


「…別に、友達とでも行けばええじゃろ」
「あ、そうだよね、うん」


私に対しての言葉は静かなものだった。ごめん、と力なく答えて、私は俯くしかない。分かっていても期待をしてしまうのは、自分の悪い癖だ。瞼の裏がじわじわと熱くなるのをただ抑え、何も零れないように唇を結ぶ。少しして、仁王の携帯が鳴ると、そのままベッドから立ち上がった。私の存在なんてなかったみたいに、目の前をあっさりすり抜けていってしまう。顔を上げると、扉から消えていく仁王の後ろ姿が見えた。



コンクリートの人工的な町並みに囲まれて、鬱蒼とした空気が部屋を満たす。ベランダの向こうに並ぶのは、ただの住宅街だ。どこを見つめ返しても変化のない、ただのつまらない景色が長く続いていて、日が落ちれば真っ黒に塗りつぶされたそれらに、ぽつりぽつりと灯りが浮かんでくる。ベランダから、下の道へ目を向けると、どこかへ行く仁王の姿があった。


空は重たい雲に覆われていて、星ひとつ見当たらない。今日はどうやら七夕らしい。先ほど、テレビで小さく特集が組まれていたのを、頭の隅で思い出す。厚く塗られた向こうに星がでているなんて、ここからでは信じられなかった。思えば、私は天の川というものを見たことがない。



仁王がしていたように、ベランダの手すりに体を預ける。煙草の匂いはほとんど薄れ、足元に黒いカスだけが散っている。

きっと、私達がさよならをする日も、そう遠くはないはずだ。